第8話はじめての表参道

土曜日の午前十時。

この一週間、東京都内は毎日のように、真夏の焼けつく日差しが街を焦がしつづけていた。今日も、朝から気温三十五度をこえる猛暑日。外を出歩くのが危険なくらいだが、ここJR山手線の車内は、強力な冷房のおかげで天国のように心地がよかった。

「外に出たくないなあ〜」

車両の扉口に立っていた田中ことみは、ひとりでつぶやきながら、ペットボトルから冷えた麦茶をひとくち飲んだ。

「つぎは、渋谷、渋谷。お出口は右側です。東京メトロ、東横線、埼京線はお乗りかえです」

車内にアナウンスが流れる。ゆっくり速度を落として、電車がホームにとまった。ドアがひらいたとたん、サウナのような熱気に襲われて、ことみは思わずあえいだ。

「うわ、天国から地獄。この暑さ、ほんと耐えられない!」

うだるような湿気と、ホームの屋根のあいだから差してくる光線が、引きこもりで弱ったことみの肌を直撃する。まさしく炎熱地獄だ。

「トホホ。だから外出はいやなのよ。一年中ずっと冬ならいいのにな」

ことみはグチをこぼしながら電車をおりた。ジーンズのポケットから冷感シートをとりだして、ふき出る汗をぬぐった。顔を左右に動かして出口をさがすと、進行方向と逆の後ろのほう、ホームの端に乗客が群れているのが見えた。

「あ、あそこだ」

ことみは人の流れに混ざってホームを進み、一階へとつづく階段をおりていった。

改札口を出ると、目のまえに、名物のハチ公の銅像と、玉電の緑色の車両が見える。待ち合わせスポットとして有名なこともあり、せまい一画におおぜいの若者やサラリーマンがひしめいていた。

「はじめて見るわ、忠犬ハチ公。どんだけ田舎ものなのよ、あたし」ことみはブツブツつぶやきながら、ハチ公前の人混みを横目に、地下への大きな階段をおりていった。

通路にある案内パネルに、東京メトロの路線名が表示されている。ことみはそれを目あてに進もうとしたが、いまいちよく理解できていなかった。

地下の大通路は、土曜日ということで、平日にくらべれば人は少ない。とはいえ、ここは大都会の拠点駅。出勤にむかうサラリーマンやOLの数はふつうの駅の比ではないのだが、地元の高円寺からほとんど出ないことみには、そんな事情がわかるはずもなかった。

「なんなのよ、このアリンコの巣みたいな迷路は。あ〜あ、あのイケメンのせいでこんな思いして。あたしったらバカみたい」と、またグチをこぼしながら、ことみはペットボトルから麦茶を飲んだ。渋谷駅の地下には東京の主要な路線がほとんどあつまっているので、地下道は巨大で長く、入り組んでいる。にわか都会人の引きこもりオタク女子にとって、ここはまさに未知のダンジョンそのものだ。

そう、ことみはいま、バイト先のCDショップで出会った高城ダニエル健二が経営する、表参道のアパレルショップへむかう途中なのである。

数日前に二人で高円寺のカフェに行ったあと、高城からラインで地図がおくられてきた。そこには表参道駅から店までの道順が示されていた。

ショップの名前は〈ゾーン〉。

ことみは最初、とつぜんの誘いにのり気ではなかった。彼とはまだ知りあったばかり。それも、偶然のできごとで出会っただけの男なのだ。しかも、相手はもっとも苦手とするリア充の超イケメン。できることなら、早めのリタイアでキャラクターチェンジしたかった。つまり引き返してやめるということ。けれど、正直いっていまさら帰るのもなんだろうという気もある。

強引にラインを交換したうえ、すごいいきおいで距離を縮めてくる高城に、ことみは戸惑うばかり。彼がいったいなにを考えているのか、その真意がさっぱりわからない。

ただ、そんな気持ちとはうらはらに、自分のなかでわずかな好奇心がふくらむのも事実だった。ふだんなら興味もないはずなのに、あの高城という男にはついつい心がゆれてしまうのだ。誘惑に負けるなと自分をいましめるのだけれど、どうにも気持ちがいうことをきかない。なので今日は、あきらめにも似た境地で、思いきって出かけてきたのだった。

というわけで、話は戻る。

右も左も分からない地下道の中で、ことみはしばらくウロウロしながら、人混みにまぎれて歩いていた。そのとき、ハッと思って足を止めた。

「あれ?」いやな予感がして、ジーンズのポケットからスマホをとり出した。きのうの夜にネットで調べた、山手線から銀座線への道順をもう一度確認する。「ぎゃっ、なにこれ!地下じゃなくて地上三階じゃん。ちよっと〜なにやってんのよ」

〈ハチ公〉というブランドに気を取られて、改札口を間違えてしまったのだ。こりゃヤバい、とパニックになったことみは、あわてて今きたルートを引き返すことにした。JR中央改札口前を通って銀座線乗り場までなんとかたどりついたころには、息がきれ、Tシャツが汗でぬれていた。

「もう〜いや。あたしだって東京都民なのに、なんでこうなるの」今日は朝からグチばかりだ。これで何度めだろう。

なにはともあれ、ことみは改札口にスイカのカードをかざして、銀座線のホームにたどり着くことができた。


表参道駅へは、渋谷からひと駅で着いた。地下鉄のホームへおりると、改札口を出て、ラインで説明のあったA2出口をさがした。が、ここでまたつまずいた。

「やだ。ぜんっぜん、わかんない」

銀座線に乗るのなんて生まれてはじめてだし、表参道駅なんて見たことも聞いたこともない。おのぼりさん状態のことみは、駅の構内を迷子のようにウロウロした。しかたなく、駅員をさがしてたずねることにした。

「ああ、A2ですね。通路をあちらのほうへ歩いていけば、右側に表示がありますよ」

駅員さんの親切な対応で、ようやく出口にたどりついた。ことみは長いエスカレーターで上へ運ばれながら、あたしはいったいどうなるの、と考えていた。

A2出口から地上に出た。強烈な太陽光にさらされて、ことみは思わず目をしばたたかせた。しばしその場に立ち止まって、あたりを見まわした。

「ちょっと…これって現実なの?」ことみは目の前にひろがる景色を見て、目をぐるんぐるん回した。「バーチャルシティか!こんなの攻略しなきゃいけないわけ。やばい、脱出できなかったらどうしよう〜」

理解できない状況はすべてゲームの世界と考える。それが彼女の思考なのだ。だが、そんなへ理屈をあざ笑うかのように、見なれぬ街は現実そのもの。幻でもなんでもない。

モダンな建築デザインのビル。目にもあざやかな外観のブランドショップ。流行の洋服を着て歩く人々。これは完全に場ちがいなところに来てしまったと、気がひけて泣きそうになった。

あたし、いったい何をしにきたの。ことみは帰りたくなった。とはいえ、彼女はもともと根がまじめで、人との約束はきっちり守るたちだった。このまま帰ったら失礼だし、やっぱり行くしかないか。そう思ってトボトボと歩き出した。

ラインの説明では、目のまえの大通りぞいにしばらく歩いていくと、〈表参道ヒルズ〉の手前に高城のショップがあるらしい。

「表参道ヒルズってなんだっけ?」ことみは素朴な疑問を声に出した。テレビで聞いたおぼえはある。たしか、大きな商業施設みたいなものじゃなかったっけ。

それから五分ほど、きれいなデザインのビルが並ぶあたりを通りすぎていくと…

あった。〈ゾーン〉。

なにこれ!ことみはびっくりして、大きい目をさらに見ひらいた。店の前面は、すべて青いガラス張り。ショーウィンドウには、ひとめで素敵なデザインとわかる洋服を着た、何体ものマネキンが立っている。高そうだ…それが第一印象だった。ことみはショップの前に立ったまま動けなかった。

「あのイケメン、こんな店を持ってるわけ?どれだけ金持ちなのよ」とあっけにとられながら、この店に入ることを考えて恐怖をおぼえてしまった。

自分の姿を見おろした。ピンクのTシャツと、ごくありふれたジーンズ。地元の靴屋で買ったノーブランドのスニーカー。髪の毛は、伸ばし放題のぼさぼさの茶色いロングヘアーを、ツインテールに結っただけ。

どうみてもダサダサじゃん。こんな格好で店に入ったら、浮くなんてものじゃない。気がめいるよ、やっぱり帰ろうかなあ…

「ことみさん!」

自分を呼ぶ声に、ことみはハッとしてふりかえった。店の入り口にあのイケメンが立っていた。まえに会ったときとはちがい、高価そうなライトブルーのスーツに身をかためている。その姿はまぶしくて、ただでさえ見ばえのするルックスが輪をかけてオーラをはなっていた。

「来てくれたんだね」と言って、高城は笑顔をみせた。「また会えてうれしいよ。迷わなかった?」

「あ、ええ、大丈夫です」ことみは小声で返事をした。

「さあ、そんなところに立ってないで、中に入って。ここは僕の店だから遠慮しないでね」

いや、遠慮しちゃうでしょ、簡単に言わないでよ、とことみは思わずグチをこぼしそうになった。

そんな思いも知らず、高城はショップの自動ドアをあけて店に入っていく。

「これが僕の店。どう?」高城は店内を見まわしてことみに紹介した。「自慢じゃないけれど、うちの服はこれでもけっこう人気なんだよ。センスのいい女子に評判で、売れゆきも好調なんだ」

じゅうぶん自慢じゃない、とことみは思ったが、口に出しはしなかった。

「美波くん!」と高城は声をあげて、店内の棚で商品を整理していた、モデルのようなルックスの女性を呼んだ。

「はい、社長」と彼女はこたえた。

社長。この若さですごいな、というのがことみの素直な感想だった。

「こちらが田中ことみさん。僕の友だちですよ」と言って、高城はことみを女性に紹介した。

え、ちょっと、あたしはすでに友だちになっているの…?ことみは胸の内でブツブツつぶやいた。

「美波くんは店長。僕のショップをまかせているんだよ。すごく有能な女性でね。彼女のおかげで僕も安心していられるんだ」

「社長、やめてください。初対面の人の前で恥ずかしいですよ」と照れる姿は、見とれるほど美しい。

ことみは自分とはちがう世界を見る思いで、ますます気がひけてしまった。それにしてもイケメンったら、あたしのこと " ことみさん " なんて呼んで。まだ知りあって何日もたってないのに、ほんとなれなれしい男よね。

人生はじめての異性体験。ことみは、彼との距離があっというまに縮んでいくことに、かつてない奇妙な感覚をおぼえていた。

極端な人見知りのせいで、これまで初対面の人間とは簡単に仲良くなることはなかった。気をゆるせるのは杉本晴夫だけ。自分からコミュニケーションをとることが絶望的に苦手なので、人間関係がひろがることはまずない。それなのにこの高城という人物は、赤の他人という壁を楽々とこえて、こっちのテリトリーにどんどん入りこんでくる。その大胆さにことみは面くらって、いまだに戸惑いがかくせないのだ。

この人はあたしに、なぜこんなに興味をもつのだろう。もしかして、からかわれてるのかな。わからない。理解できない。でも、こんなに親身に接してくれる彼にどこか惹かれる自分がいることに、彼女はまだ気づいていなかった。

「ことみさん。今日はね、僕がデザインした服を君に着てもらいたいんだよ」と高城は言った。

もの思いにふけっていたことみは、その言葉でわれにかえった。高城の言ったことの意味がわからない。いまなんて?

「ことみさんは顔のパーツがととのっいるから、僕の見立てではぜったい見ばえがすると思うんだよね」

え〜っ、なに言ってるのこの人。あたしの顔を部品みたいに言わないでよ。それに、こんなにきれいで高そうな服をあたしに着せるって、いったい…

「美波くん。ことみさんの眼はね、とっても可愛いらしいんだよ。ほら」と言うなり、高城は眼鏡に手をかけてはずしてしまった。

ちょっとちょっと、あたしの眼鏡返して。それは身体の一部なのに。心であわてふためいたものの、口をパクパクさせるのがせいいっぱい。小心者の限界だった。

「あっ、ほんとですね社長。外人さんみたい」と言って、女性はことみの顔をのぞきこんだ。「それに、お顔がとても小さいわ」

二人にジロジロ見られ、自分が商品になったような気がして、ことみは顔を赤らめた。

「うちの服を着て、ヘアメイクをととのえれば、見ちがえるように可愛いらしくなると思うんだよね」と高城は言った。

「ことみさん、ちょっとこっちにきて」と言うと、高城はことみに手をさしのべて、棚の上の高いところに飾られたマネキンのところへつれていく。そして、自慢げに指さした。

「これ、今年の売り上げナンバーワン商品。僕がつくったんだ。どう?」

ことみは、彼がデザインしたというその服をじっと見あげていた。

ひゃあ〜、なにこれ !ことみは思わずうなった。

マネキンが着ているのは、ノースリーブで薄いピンクの夏用ジャケットと、アイボリー色が涼しげな流行のワイドパンツだ。

ジャケットには、〈ヴィスコースリネン〉と呼ばれる、流行最先端のレーヨン素材が使われている。ウェストの絞りが女性らしくフェミニンなシルエットを描いており、襟(えり)とポケットのふちに、可愛い模様の細かいフリルがあしらわれている。

ワイドパンツは、夏らしい薄手の生地でできており、風通しがよくて軽やかな仕上がりだ。縦にプリーツ(ひだ、折り目)が走る、文字どおりプリーツパンツと呼ばれるこのスタイルは、去年あたりからおしゃれな女性の間で大人気なのだ。

トップとボトム、いずれも海外の高級ブランドにひけをとらないデザイナー高城の服は、まさしくおしゃれを絵に描いたような作品だ。

ことみはその服を目にして、ぼうっと見とれていた。こんな服を着るのってどんな人なんだろう。あたしなんかとはかけはなれた、センスのいい女の人なんだろうな。

「ことみさん。ちょっとこれを試着してみよう。君はピンク色が好きみたいだから」と言ってマネキンから服をはずすと、高城はジャケットをことみの上半身にかざした。「うん、イケるね。これなら似合うよ」

えっ、なにがイケてるの。そう思ったとたん、ことみの心臓があおって、汗がふき出してきた。

高城はさらに、商品棚からパンツのサイズ違いを手にとった。ほかから薄黄色のインナーウェアも選んで、ことみを試着室につれていく。

「あの〜ほんとにこれを着るんですか?」ことみは、高城におそるおそるたずねた。

「そんなに恥ずかしがらないで。君なら似合うから、大丈夫」と言って、高城は親指を立てた。「ここで着がえてね。試着がすんだら声をかけて」彼はカーテンをひいた。

気がつけば、表参道に着いてからまだ一時間もたっていない。事態がすごい早さで進んでいくことに、ことみは驚きを通りこして、すでに操り人形のようになっていた。

試着室の鏡のまえに立ったことみは、ため息をついてうなだれた。そのいっぽうで、生まれてはじめてこんなに素敵な服を身にまとうことに、心のなかの乙女の部分がときめいていたのも事実だった。

Tシャツとジーンズをぬいで折りたたみ、下着だけになった。身長155センチの半裸の全身をながめて、思わずため息をついた。ほんとさえない見た目よね、とことみは自己嫌悪におちいってしまった。

ベージュのワイドパンツをとりあげて、足をとおしてみる。腰まで引きあげて前のボタンをとめた。続いて黄色のインナーに首をとおしてみた。これが意外にむずかしくて、手間どったすえにやっと着ることができた。そしてピンクのジャケットをはおり、鏡を見た。その姿はまるで別人だった。ことみは目をむいた。うそ、これがあたし?

目にもあでやかな服を身にまとった自分の姿をみて、思わず顔が紅潮してきた。

なにこれ、めっちゃ可愛いじゃん。ものは試しよね〜ことみ。あんたもまんざらじゃないわ、えへへ…おっと、みとれてる場合じゃない。落ちつけあたし。

「あの、すみましたけど」

「よし、あけるよ」と高城が言って、カーテンをひいた。「おっ。いいじゃないか!ねえ美波くん、どう」

店長は近づいて、ことみの全身をながめた。「あら、とってもすてき。ことみさんてスタイルいいですね。腰が高くて、脚が長い。ティーンの雑誌モデルみたいですよ」

二人にほめられまくって、ことみは身の置き場に困ってしまった。ていうか、ティーンの雑誌モデルってなに、と頭をひねりながら、モジモジして視線をあちこちにさまよわせた。

「やっぱり、僕の見立てはまちがいじゃなかった。はじめて会ったときから、ことみさんはすごく可愛い人だと思ってたんだ」と言って、高城は生まれ変わったことみの姿にみとれていた。

「社長の人をみるセンスは抜群ですからね。あ〜あ、私も二十歳のころに戻りたいな」と店長はなつかしむように言う。

「美波くんは今でも若いし、可愛いよ。男にモテモテじゃないか」

このイケメン、女を見ればこうやって可愛いねって言ってるのよ。やっぱりナンパ野郎だ。その手にはのらないわよ…って、ちょっとまって。二十歳って、ひょっとしてあたしのこと?やだ、子供あつかいされてる。

「あのう、あたし二十六歳ですけど」ことみはあわてて訂正した。

「えっ、そうなんですか。こんなみずみずしいお肌で信じられない」美波は本気で驚いている。

「だろ」と高城。「ことみさんは心が清らかだから、透明感のある美しさがよけいにきわ立つんだよ」

ことみはこのうえなく恥ずかしかったけれど、ファッションのプロの二人に認められて、なんだか雲の上に浮かんだような気持ちになった。顔には出さないけれど、心の中ではとびあがっていたのだ。

" うひゃあ〜プリンセスキャラ、コンプリートしちゃった。どうしよう。完全にレベチじゃん "

妙にズレた反応ではあるが、かつて経験したことのない感覚を素直にあらわしていた。

「それじゃ、このままヘアサロンに行って、髪をアレンジしてもらおうか」高城はパンと手をたたいた。「美波くん、〈ウ"ォヤージュ〉の店長に連絡して、いまから行くのでヘアメイクの用意してもらうように言ってくれるかな」

「わかりました。スペシャル指名ですね」と店長がこたえた。

「ことみさん、足のサイズは?」と高城がたずねる。

「二十二センチですけど」

高城はショップの奥のほうへいくと、ゴソゴソとなにかをさがしている。そして、箱をひとつかかえて戻ってきた。

「これをはいて」と言って、箱のなかから明るいグレーの厚底サンダルをとり出す。ていねいに、左右をそろえて足もとに置いた。

服だけでなく、靴までも用意してくれるなんて。ことみはもうしわけなくて言葉が出なかった。しかたなく、言われたとおりにサンダルに足をとおした。

店長が「失礼します」と言って、両足のサンダルのストラップに手をかけて、パチンパチンとボタンをとめた。

「これでオーケー。美波くん、彼女の私服を袋に入れておいてくれ。ちょっと出かけてくるから」

「わかりました」と店長はこたえた。

「ことみさん、行こう」

「行くって、どこへですか?」ことの展開の早さに、ことみは圧倒されていた。

「ヘアサロン。君もいつも行ってるだろ」高城はことみの背中を押した。

「まあ、うちの実家が美容室なんで」

「え、そうなんだ。なら話は早いね」と言って、高城は店長に声をかける「〈ウ"ォヤージュ〉の担当だけど、シャロンに頼めた?」

「はい、社長。大丈夫だそうです」

「そうか、よかった。では行こう!」と言って、高城はことみをつれて店を出た。


〈ゾーン〉を出た二人は、目のまえを走る大通りの〈表参道〉を歩いていった。これからむかうヘアサロン〈ウ"ォヤージュ〉は、表参道をまっすぐ進んだところ、青山通りとの交差点近くにある。

「ことみさんのその服、ここの風景によく似合ってるね」二人で並んで歩いていると、高城がうれしそうに言った。「ほんとに可愛いな」

「え、そんな…みんなセンスのいい人ばかりなんで恥ずかしいですよ」と言ってことみはうつむいた。

「なに言ってるんだ。そのへんにいる女の子にくらべたら、ことみさんは抜群に素敵だよ。もっと自信もって」と言って、高城はことみの肩をたたいた。

ほんと、この人なれなれしい。どうせ女たらしにきまってる。ことみは頭のなかで思っていた。と同時に、ほめられてうれしい気持ちがわいてきたことも否定できない。

あ〜もう、この人といると頭がクラクラする。ふりまわされてばっかり。

そんなことみの頭の中は、今日ここにやってきてからの漫画みたいなできごとに、回路が完全にショートしてしまっていた。

やがて二人は、表参道と青山通りの交差点の手前まできた。ヘアサロン〈ウ"ォヤージュ〉は、通りぞいのオープンカフェのとなりにあった。植物のツタがからまる階段の上に、店の入り口が見える。

高城とことみが階段をのぼっていると、店から派手なルックスの女性客が出てきた。その女性をみたことみは、一瞬足をとめて見とれてしまった。

可愛い!美形!ゴージャス!センスのかたまりだ。サングラスをひっかけたヘアスタイルがめっちゃカッコいい。

ことみの実家は美容室なので、女性の髪型にはあるていどの知識はある。でも、いつも目にするお客さんのヘアカットとはぜんぜんちがう。まあ、高円寺と表参道じゃレベルが違いすぎだからね、と渋々ながら納得した。

その女性の髪は、大人っぽく、透明感のあるカラーリングが人気の「ミルクティーアッシュ」。いわゆる「抜け感」を出したスタイルが特徴的だ。抜け感のことを説明すると長くなるので、無造作や自然体といった感じでイメージしておこう。

服の上下は、デニム素材の肩出し「ベアトップ」と、ベージュカラーがさわやかな「ワークパンツ」の短パン。足元には、高級ブランド〈ジミーチュウ〉の最新作で、ラメが光るヒールタイプのグリッターサンダルを合わせている。露出したお腹のへそにはピアスが飾られて、これがまた憎いほどにキュートだ。

頭のてっぺんから足のつま先まで、その女性の最高級のコーディネートは、夏の日差しに完璧にマッチしていた。

この人モデルさんかなあ、ことみがそう思っていると、なんとその女性が高城に話しかけてきた。

「あら、健二くん。今日はシャロンに会いにきたの?」と女性がたずねた。

「おっ、サラ。今日はこの人のヘアアレンジを頼みにきたんだ」と言ってことみをみた。「紹介するよ。こちらは田中ことみさん。ことみさん、サラはファッションモデル。僕の高校の同級生だよ」

「よろしく」と言って、その女性はことみの全身をながめた。モデル目線でじっくり観察している。

「こんにちわ…」と口にしたあいさつは、ほとんど消え入りそう。目のまえの彼女が放つ美人オーラに圧倒されて、ことみはその場でかたまってしまった。

「おい、サラ。ことみさんはシャイなんだから、あまりジロジロみつめるなよ」と言って、高城は元クラスメイトに笑いかけた。

なによ。あたしのこと笑いものにして、さぞかし楽しいでしょうね。ことみは頭のなかでいじけた。高校の同級生とか言って、どうせまわりは美人ばっかりなんでしょ。ふん!

「ああ、ごめんごめん」サラというそのモデルは言った。「可愛いから、仕事柄ついチェックしちゃった。でも、いつも健二くんのまわりにいる女の子たちとは、雰囲気がちがうよね」

「あたりまえだろ。ルックスばかり気にしてるギャルモデルとは、ことみさんはモノがちがうんだよ」と高城は言った。

「はあ〜、それってあたしのことじゃん!」彼女がきつい口調で言った。

「あ、いやいや。サラは教養もあって育ちもいいし…」高城は両手をふっておだてている。

「ば〜か、冗談よ。あいかわらずあんたは人がいいわね。まっ、そこが健二くんのいいとこなんだけど」

「なんだよ、もう。おまえただでさえ怖いんだから、もう少しソフトにしないと彼氏できないぞ」

「よけいなお世話。あんたこそ、もう若くないんだから彼女つくりなさいよ。えらび放題でしょ。じゃ、またね〜」と言ってサラは去っていった。

「ごめんごめん。待たせてしまった」と高城は言った。「さ、入ろう」

入り口のドアを開けると、広い空間が目にとびこんできた。

店内は、白を基調としたインテリアでまとめてある。床は白黒のパターンチェック。洗髪台とカットチェア、ドレッサーと鏡は、クロムメッキ仕上げのようだ。

順番待ちの客用のソファーは、マンダリンオレンジの本革製。マガジンラックに女性誌が何冊か入っている。コーヒーマシンが置いてあって、客が自由に飲めるらしい。

いまは五人の女性客がヘアメイク中で、待ち客は三人。表参道で大人気の店なので、つねに予約は満杯。客がとぎれることがない。

モデルや芸能人も通う〈ウ"ォヤージュ〉は、ブロガーやインスタグラマーから口コミで一般女性にも名前が広がるなど、いま大人気の高級ヘアサロンなのである。

「ダニエルだけど、シャロンはいる?」高城はスタッフの若い女性にたずねた。

「はい。ただいま呼んでまいります」ミディアムロングの髪を後ろでまとめたスタッフの女性が、軽く頭をさげて答える。「コーヒーはなにをお持ちしましょうか」

「カプチーノを二つお願いします。砂糖入りで」

「承知しました。そちらのソファーでお待ちくださいませ」

「ありがとう」と高城は言って、ことみと一緒に三人の女性客のむかい側に腰をおろした。

ことみは店内を見まわして、インテリアの美しさに感心した。

ひゃあ、うちとはえらい違い。〈フローラ〉も高円寺で一番人気の店だけど、天と地の差ね。世のなか不公平だわ。写メ撮ってお母さんにみせてやろうっと。ま、お金がかかるからどうせ関係ないけど。

ことみはブツブツひとりごとをつぶやいて、〈ヴォヤージュ〉の店内をスマホにおさめていった。

「どうぞ、お召しあがりください」女性スタッフが、カプチーノをトレイにのせてやってきた。

高城は二人ぶんのカップを手にとって、ガラス天板のテーブルにのせた。

「ことみさん、どうぞ」と高城は言った。

「はい。ごちそうさまです」

「タダなんだから礼はいらないよ。あはは」と言って高城は笑った。笑顔がいちいちさわやかだ。

五分ほど待つと、見るからに外国人と思われる、大人びた女性があらわれた。

「ハーイ、ダニエル!ソーリーフォーウェイティン」とその女性が英語で言った。

やっぱり外国人だ、とことみは思った。それにしても、見た目のセクシーさがハンパではない。青い瞳の大きな眼。脚が長くてスタイル抜群。〈シャネル〉のノースリーブワンピースがきまってる。おしゃれに縁がないあたしでも、シャネルのロゴくらいは知っている。このひと何歳なんだろう。

「はい、シャロン。いつもきれいだね。お店、あい変わらず忙しそうだな」と高城が言った。

「まあね。人気店の宿命よ。客が多いのも良し悪しだわね」とその女性が言った。

あれ、日本語しゃべってる。ていうことは、この人はハーフなのか。ことみは首をひねった。

「こちらが例のお嬢さん?」とシャロンという女性がたずねた。

「そうなんだ。田中ことみさんだよ。今日は、ぜひ君にお願いしたくてね。一般指名は受けないのはわかってるんだけど、わるいな」

「オーケー、リーブイットゥーミー」まかせて、とシャロンが親指を立てた。「ダニエルのオーダーなら問題ないわよ」

「ことみさん、彼女はシャロン。僕の母の知り合いのお嬢さんで、イギリス人とのハーフ。二十七歳だよ」

うそ、あたしの一個上なの!アンビリーバボー。たった一年差でこの色気、マジでへこむわ。ことみは高城の説明をきいてしょげた。今日はこのパターンばっかりだ。

「ね、大人っぽいだろ」高城がことみの思いを見すかしたように言う。「僕のほうが年上なのに、子供あつかいだからね。まいるよ」

「オーマイベイビー、ソーリーケンジ。ユーソーピュアボーイ」あら、ごめんなさいね、純情青年。「って、あなたさ、私のこと三十すぎのおばさんみたいに言わないでよね」とシャロンがふてくされて言う。

「あ、いや、そんな意味では」と高城は頭をかいた。

その彼の態度をみて、ことみは思った。この人って、大人の女性に対して極度に気弱なんじゃないの。でも、あたしの場合は童顔だから平気なのか。よけいなお世話よね。

「彼女、どんなヘアスタイルが似あうかな」と高城はシャロンにたずねた。

「そうね。アイワンダー、ウェイティンフォーセカンド」どうかしら、ちょっと待ってて。「顔が小さくて、眼が可愛いわ。二十六歳でしょ?ずいぶん若くみえるわね。それと、パーツが日本人ばなれしてる」と言って、シャロンはことみの顔にぐっと近づいた。「あなた、自分が思ってるよりすごくいい素材の持ち主よ。みがけば光る原石ってやつね」

「は、はあ…そうなんですか」と言って、ことみは思わずのけぞった。シャロンの迫力に圧倒されてしまったのだ。うわうわ、ハリウッド女優みたい。超絶美人だよ〜。

「オールライト!これは久しぶりに腕が鳴りそうね」

「お、めずらしく気合いが入ってるじゃないか。たのもしいねえ」ふだんセレブを相手にしているシャロンが息巻くのをみて、高城は自分のことのようにうれしくなった。

「ベビーフェイスだから、カラーリングは大人っぽくアッシュグレージュ。ハイライトを入れない清楚系がいいと思うわ。あなた、髪が茶色がかってるけど、ブリーチをしてるの?」シャロンがたずねた。

「いえ、これは生まれつきなんです」ことみは恥ずかしそうに答えた。

「オー、アイスィー」シャロンは手をアゴにあてて、ことみをじっくり観察した。毛先をつまんでチェックする。「地毛の質がいいのね。ずっとケアしてなかったんでしょうけど、ぜんぜん痛んでない。まるでティーンね。うらやましいわ。ところで知ってるかしら。日本人の髪には赤色が多く含まれてるのよ、ミズコトミ」

「そうなんですか?」シャロンの専門的な説明に、ことみはうなずくしかなかった。

「最近の美容師はね、アッシュ系、つまりくすんだ髪色をつくるとき、その赤みを消すカラー剤を使うの。私のおすすめは…あら、いけない。ついテクニカルな話になっちゃったわね。ソーリー」

「いえ、と、とんでもないです」

「オッケー、イメージはできた。はじめましょうか」シャロンは余裕の笑顔をみせた。

「たのむよ」と言って、高城はことみのほうを向いた。「ことみさん、シャロンにまかせておけば安心だよ。彼女のセンスは抜群だからね。芸能人やセレブみたいになれるかも」高城は声をはずませた。

「シッダンプリーズ、ミズコトミ」とシャロンは言って、ことみを奥の椅子にさそった。

あ〜どうしよう。胸がドキドキしてきた。まわりはみんなきれいな人ばっかりだし、恥ずかしいな。それにしてもイケメンのやつ、いったいどういうつもりなの。あたし、やっぱりもて遊ばれてるのかな。

「ハーイ、よろしくね」とシャロンは言って、ことみの首にケープをかけた。「あなたのヘア、とてもなめらかできれいだわ。私が変身させてあげる」

「よろしくお願いします…」と、ことみは恥ずかしそうに頭をさげた。

「ふふっ、シャイなのね。可愛いわ」シャロンはことみのほっぺたを人差し指でつつき、さっそくヘアスタイリングにとりかかる。

まず、ツインテールの結び目をほどいた。コーム(くし)でとかすと、ことみの髪の長さは腰まであった。

「ワオ!ずいぶん伸ばしたわね。最後に美容室へ行ったのはいつかしら」手を動かしながらシャロンがたずねた。

「え、え〜っと…う〜ん」ことみは口ごもる、

「おやおや、覚えてないほど前なのね。髪はあなたの分身よ。もっと大切にしてあげなくちゃ」と優しく語りかけるシャロンの表情は、まるで女神のよう。「そのサロンってどこなの?」

サロンねえ。ことみは悩んだ。〈フローラ〉はそんな感じじゃないけどな。客は地元のおばさんばっかりだし。でも、こんなすごい人にやってもらうんだから、正直に答えたい。そう思った。

「じつは実家が美容室なので、母に切ってもらってます」ことみは説明した。「ただ、小さい店で従業員もひとりだから、すごく忙しいんです。お客さんに迷惑かけちゃうし、娘のあたしはあと回しでいいかなって」理由になってないかな、とことみは思ったけれど、それは本当のことだった。

「あら、お母さまは美容師なのね。同業者の娘さんなんて、なんだかうれしいわ」シャロンは新しい発見を楽しんでいる。「でもね、ミズコトミ。そんな遠慮はしなくていいの。お母さまがいちばん願っているのは、娘のあなたがきれいになることなんだから」シャロンはことみに、温かく真剣なアドバイスをしてくれた。母親の気持ちまで考えて。

「はい。ありがとうございます」ことみもシャロンの顔を、しっかり正面から見た。「あたしって、はっきりものが言えなくていつも遠慮しちゃうんです。でも、これからはよろこんで甘えるようにします」

「ザッツグレイト。あなたの人生は、あなたが決めるの。つねに行動あるのみよ」と言って、シャロンはことみの肩をぽんぽんとたたいた。「あなたにも、これなら頑張れるっていう大好きなものがあるでしょ。それを突きつめるのよ。自分の殻をやぶるには、それがいちばんの近道だからね」

大好きなもの、ね。あたしにはゲームしかないけど、趣味でやってるだけだしな。それを活かすとなると、やっぱりプロゲーマーになるしかないよね。なんか現実味ないな。

ことみはしばらく思案にくれていたが、そのあいだもシャロンのルーティンがつづいていく。

カットの順番で、あとになる髪は部位ごとにまとめ、クリップでとめてある。シャロンはことみの背後で、残った襟足(えりあし)のブロックから毛先にハサミを入れていった。

トップスタイリストである彼女のカットは、指先の動きがきわめて繊細でなめらか。髪の毛一本のミスも許さない、まさに芸術家の神わざである。目で見ることはできなくても、母親の仕事をながめて育ったことみには、そのすごさが気配でわかった。早い!そして、ハサミの鳴らす音はまるで楽器をかなでるようだ。シャロンにとって髪に触れるのは仕事でも作業でもなく、ひとつのアートなんだと、ことみは思った。そんな人に自分の髪を切ってもらうなんて、ほんとに夢のよう。そして、いまだにピンとはきていないけれど、高城がこんな店に連れてきてくれたことがうれしかった。

その後もシャロンは、髪を持ちあげたりハラハラとふり分けながら、イメージしたスタイルへとカットを進めていった。とにかく早い。流れるような手さばきである。

やがて、シャロンがハサミの手を止めた。

「アイ、ディディット!イッツパーフェクト」そう言って、鏡の中のことみを見た。「さあ、これでキュートに変身するわよ。楽しみにしてね」カットした毛を払うと、シャロンは髪全体を整えた。「オーケイ。それじゃカラーリングに移りましょ。あと一時間くらいかかるからがまんしてね」

「はい。よろしくお願いします」鏡にうつった姿に驚きながら、ことみは頭をぺこりと下げた。〈ゾーン〉の服と合わせたきらびやかな姿は、とても自分とは思えない。最後はどうなっちゃうの、と胸が高鳴った。

「社長、カラー剤はイルミナでよかったですね」スタッフの女の子がそう言って、道具をのせたワゴンを運んできた。「細かいオーダーがあれば指示をお願いします」

「いいのよ。ディスタイム、アイルテイクケアオブ、ハー」今回は私がやるから。シャロンはスタッフにそう言うと、カラー剤のチューブを手にとった。

「えっ、社長がされるんですか!」

女性スタッフがおどろいた表情をみせた。店内で仕事をしていた他のスタイリストも、アシスタントも、作業の手を止めてこちらを見た。シャロンがカラーリングの下準備をするところなど、彼らは一度も見たことがなかったからだ。しかも一般客を相手に…。彼らが驚くのも無理はなかった。なにしろ、彼女はセレブ御用達のトップスタイリストなのである。

「こら、よそ見するんじゃないの。みんな仕事に集中しなさい!」社員たちの注目をよそに、シャロンは手なれた調子で段取りを進めていく。そして言った。「作業しながら聞きなさい、みんな。カラーリングのゴールデンルール(大原則)は、素早く、リズミカルに、うぶ毛一本残さない。カラー剤の混合は塗る直前、混ぜムラは禁物よ。基本はつねにケミストリー、化学反応は時間との勝負だからね。そしてカウンセリングは細かく、作業のルーティンは大胆に。わかった?」

「了解で〜す!」と全員が声をあげる。

社員たちに教訓をたれると、シャロンは驚くほどの素早さで、ことみの長髪にカラー剤をのせていく。彼女のテクニックを見のがすまいと、スタッフ全員の目が集中する。彼らのほとんどが、シャロンのヘアスタイリングを噂でしか聞いたことがなかった。めったにお目にかかれないセレブ美容師の技術に、まさに興味津々なのである。

ヘアカラーのセッティングを終えると、シャロンはことみの肩に触れた。「ミズコトミ、染まるまで二、三十分待ってね。雑誌でも読む?」

「あ、いえ。携帯でゲームやってますから。えへへ」と、ことみは照れくさそうに言った。

「あら、そんな子供っぽいところまでみせちゃって。ガーリーキュートね。あなたって汚れてないから、好きよ」と言って、シャロンはまた肩をたたいた。

あ〜あ、やっぱりあたしって精神年齢低いのかなあと、ことみはちょっとだけすねてしまった。相手はたったひとつだけ年上なのに、まるで大人と子供。超美人と、外見に無頓着な二十六歳。めげるよね〜。それにしても、これすごくいい香り。なんていうカラー剤なんだろ。あとでお母さんに教えてあげよっと。

シャロンがはなれていくと、ことみはスマホを取りだした。いつもひまつぶしに遊んでいるRPGゲームのアプリをひらいて、ボリュームをミュートにした。

それから十五分ほど、ことみは戦士キャラの経験値を上げて、つぎつぎとステージをクリアし、敵のザコキャラを倒しまくっていた。

と、いきなりラインにコメントが入ってきた。高城からだった。

「ことみさん。シャロンの魔法で美人になっていく気分はどうだい。僕はすごく楽しみだよ」

あ〜また。この人ったら、歯の浮くようなセリフを平気で言うのよね。どうせあたしをオモチャにして楽しんでるんでしょ。ふん、そうはいかないわよイケメンめ。

正直なところ、ことみはいまだに高城の言動が理解できずにいた。なんの迷いもなく、親しげに迫ってくる彼の態度にめんくらってしまうのだ。恋なんてしたことのない二十六歳には、それは謎以外のなにものでもない。だがそんな彼女の戸惑いをものともせず、彼はあくまで誠実、そして紳士的に接してくる。なのでつい、こちらも浮かれてしまったりする。

「はい。なんだか不思議な感じです。あたしなんかが、こんなによくしてもらっていいんでしょうか」

「なに言ってるんだい。ことみさんはもともと素敵な女性なんだから、自信をもっていいんだよ」

もう、こればっかり。どこが素敵なのよ。ていうか、これまで何回会ったんだっけ。CDショップ、カフェ、そして今日…まだ三回じゃん。なのに、あたしのことぜんぶ知ってるみたいに言うし。やっぱり遊ばれてるのかな。

そんなふうに思っていると、さらにコメントが入ってきた。

「ヘアスタイリングが終わったら、二人で食事に行こう。きれいになったことみさんと一緒にすごしたいんだ」と、イケメンの甘い誘惑。

ことみの顔が、またカッと熱くなった。心が制御できない。ここのところおなじみとなった、システムダウン寸前の状態だ。このままじゃ電源が落ちちゃうよと、ことみは息をあえがせた。返事をできないでいると、高城からとどめのコメントがきた。

「終わったら写メ撮らせてくれないかな。待ち受けにするから。なんて、ことみさんに嫌がられちゃうかな」というメッセージのあとに、泣き顔のスタンプ。「じゃあ、待ってるから。可愛いくなって。ファイト」

「はい」ことみはあきらめの境地でコメントを返して、ラインを閉じた。それからしばらく、鏡に写る自分の姿をぼうっとみつめていた。

あの人にとって、あたしはどういう存在なの。というより、あなたは彼のことをどう思ってるの。

鏡の中の自分は、なにも答えない。そこにはいるのは、きれいな服を着て変身を待つ、あたしのようであたしではないもの。う〜ん、なんだかむずかしいな。こんなに悩まされたことって、今まで一度もないし…

「ハーイ」シャロンが戻ってきた。「ユーガラビータイアード、ミズコトミ」お疲れさま、ことみ。

シャロンのはじけるような声に、ことみは物思いからさめた。

「ヘアカラーははじめてなのよね。退屈だったでしょ」と言いながら、彼女はカラー剤で濡れた髪に手を触れ、染まり具合をチェックした。「サウンズグッ」いい感じね。「それじゃ、シャンプーしましょ。ちょっと失礼するわね」シャロンはそばにあった移動式シャンプー台を近くに寄せ、ことみの頭を支えてカットチェアをリクライニングさせた。顔にタオルを優しくのせる。「お湯をかけるわよ。熱くないかしら」

「はい。大丈夫です」ことみは答えた。

ハリウッドセレブのヘアスタイリングを手がけるシャロンのシャンプーは、気持ちいいなんてものではなかった。シャワーの水流に対して、彼女の指の力は完全に同化していた。それは、まるで水鳥が川面(かわも)をそよぐかのよう。子供のときから母親の仕事をみてきたことみには、自分の髪に触れるシャロンの技術がどれほど高度なものか、なんとなく理解できた。

地肌や頭皮についた薬液を、ぬるま湯でしっかり落とす。毛染めムラが出ないよう、シャンプー剤と混ぜたお湯をもみこんで、髪の毛全体になじませていく。一般的なヘアサロンでは、最初に毛先のカラー剤をお湯に溶かしてから、その混合水を使ってこのプロセスをおこなう。ところが、シャロンのシャンプーにはそれがない。

髪の根元から毛先へと、表皮を守るキューティクルを包みこむように、シャロンの指が流れてはまたよせる。その動きは、満ち引きする優しい波のようにおだやかだ。なのに洗髪のスピードは、見た目よりずっと早い。これが彼女のすごいところだった。

ことみはカットチェアにもたれながら、夢見ごこちを味わっていた。タオルの下の顔は、完全にアニメの萌えキャラだ。ポワ〜ンとゆるんだ感じ。といっても、彼女の場合はふつうの女子とはひと味ちがう。

「なにこれ〜。動作環境が快適すぎる、えへへ。CPU5ギガヘルツ、メモリ20ギガのゲーミングPCって感じ。ありえない、まさにプロ仕様の限定ものですう。コントローラーの操作性能もマジ完璧じゃん。あ〜こんなノーストレスで〈ロアー〉やりたいなあ」

そう。ことみは感情に熱が入ると、すべてがゲーム用語に置きかえられてしまうのだ。

なにはともあれ、シャロンの高等テクニックには驚かされっぱなし。さすがはハリウッドセレブに指名される世界的美容師である。

「はい、お疲れさま」シャンプーとトリートメントを終えると、タオルで優しく髪を包む。シャロンは椅子をもとに戻して、ドライヤーでブローをはじめた。髪を乾かす手を動かしながら、ことみに話しかける。「ミズコトミ、これ、さっき私が使ったカラーシャンプーなんだけれどね。じつは、日本では手に入らないリミテッドなの」と言って、紫色のボトルをことみに見せた。「〈スワロー .05(ドットオーファイブ)〉。私が考案したブランドよ。毛先のキューティクル保護とカラー剤の安定や、ヘアー全体への色なじみといった、『乳化』のプロセスをシャンプーと一体化した製品なの。セールスポイントは、タイム&コストリダクション。つまり時短ね。ビジネスはタイムイズマニー、でしょ。自分で言うのもなんだけれど、かなりの意欲作だと思うわ。忙しいニューヨークの女性経営者や、単位時間で料金を払うハリウッドの映画プロデューサーむけに開発したの。ドゥユーワナ、チェキラウ」確かめてみたい?

「えっ、なんだかすごいですね。お母さんに見せてあげたいので、写メ撮ってもいいですか?」ボトルを受けとって、ことみはたずねた。「あっ、でもこれは海外限定だから、写真はまずいですよね」

「まあね。ほんとは企業トップシークレットなんだけれど、ディスイズ、アンイクセプション」これは例外よ。「お母さまは同業者だし、その娘さんでしょ。それに、あなたって不思議な魅力があるもの。とってもピュアだし、私はあなたが気に入ったの」

「え、そ、そんな…」ことみの顔が真っ赤になった。世界で活躍する、雲の上のような存在のシャロンに言われて、返す言葉がみつからなかった。

「ザッツイット!あなたのそういうところが好き。ふふ、ほんと可愛いわ」シャロンは笑みをうかべ、言葉を続けた。「だからね、私のカラーシャンプーをお母さまにプレゼントする。もし使ってみて気にいったら、業務用にオファーしてさしあげるわ。もちろん、特別料金でね。どうかしら」

「ええっ!」ことみは言葉につまり、目を見ひらいてシャロンの顔を凝視した。それから声をあげた。「気にいるに決まってます。でも、なんでそこまでしてくれるんですか。うちはただの街の美容室なのに」

「ノーノー、ミズコトミ。最近の美容室は、おしゃれや流行にこだわりすぎなのよ。もちろん、女性の美しさを演出するのはとても素敵なこと。デザインセンスは重要よ。でもね、髪のお手入れの本質って、ほんとは毎日の暮らしと健康だって私は思うの」そこまで言うと、シャロンはドライヤーのスイッチを切った。ブローの仕上がり具合をチェックすると、鏡ごしにことみをじっと見つめる。「私って、今でこそVIPの相手ばかりしているけれど、もともとは下町育ちなのよ。実家は、足立区竹の塚の〈ビーナスサロン〉。ダサい名前でしょ?そう、私の母もあなたのお母さまと同じ、街の美容室をやっているの」

「えっ、ほんとですか。びっくり。ぜったい高級一等地だと思ってたのに」シャロンと話を交わしているうちにだんだんと緊張の糸がほぐれてきたことに、ことみは気づいていなかった。

「あはは。ザッツヒラリーアス!」それウケる。「あなたってユニークな表現をするわね」そう言って、シャロンは高笑いをした。ふだん見せないトップスタイリストのそんな姿に、店内のスタッフから視線が集まる。シャロンはかまわず話を続けた。「母はよく言ってた。地元の常連さんたちと長年つきあっていくうちに、美容師じゃなくてお医者さんになっちゃったって。何十年も同じ人の髪をいじってれば、その人がどんな生活をして、今どういう体調なのか、だいたいわかってしまうってね。髪の毛も身体と同じで細胞の集まりだから、ベテランになると一本触るだけで何となく感じてしまうのよ。当然だと思うわ。

コミュニケーションのとりかたも、都心の有名ヘアサロンとはまったく違う。言葉は悪いけれど、相手の生活にに食いこんでいくスタイルよ。

毎日々々何時間も、年齢もそれこそ三十代から八十代まで、顔なじみの女性たちが頼ってくるんだもの。会話だって生々しいわよね。たとえば…

「このあいだスーパーで腰が痛いってこぼしてたでしょ。その後どうなったの」「下の娘がまだ一歳半だからねえ、子育てと家事でへとへとなのよ。ろくに寝てられないわ」「う〜ん、どおりで髪が荒れてるわけね。今日はダブルトリートメントしましょ」

こんな感じ。それって、昔ながらのお医者さまと同じよね。新人にカウンセリングが重要だと私が口すっぱく言うのは、そういうことなの。髪はファッションとは別もの。ビーヘルスィー、ボウス、フィジカリー・エーン・メンタリーよ」心身ともに健康であれ。「そこまで達してはじめて、本当の美容師って呼べるんだと思う。だから、街の美容室をあなどっちゃだめ。私が思うに、お母さまはかなりの達人なはずよ。あなたをみれば、なんとなくわかる」シャロンはそこまで言って、ことみに片目をつぶってみせた。「さ、むずかしい話はこれでおわり。私ったら、つい長話しをしちゃったわ。あなたを見てて若いころを思い出したのかしら」

「いいえ。とっても素敵でした。うちのお母さんに聞かせてあげたいです」ことみは、ひとつだけ年上の美しいお姉さんを見あげて言った。

「そう。なら、よかったわ」

シャロンが美容師論を語るあいだ、ことみはひとことも聞きのがすまいと、じっと耳をかたむけていたのだ。華やかで近づきがたいセレブだと思っていた彼女が、じつは下町の美容室の娘だったなんて。それがすごく新鮮で、なんだかうれしかった。杉並区高円寺の名もない美容室で生まれ育ったことみと、シャロンはまったく同じ境遇だったのだ。一気に親近感がわいた。まあでも、現状は大ちがいだけどね、とも思ったが。

「オーケー、ディスコンプリーテッド!」これで完了。「お疲れさま、ミズコトミ」二時間のヘアスタイリングを終えたシャロンは、ことみのケープをはずして、最後にもう一度だけ毛先をととのえた。

「ありがとうございました。こんなに良くしてもらって、とてもしあわせです」ことみは瞳を輝かせ、シャロンにむかって深く頭を下げた。

「ユアウェルカム。あなたと会えてよかった。今日は初心にかえることができたからね。さ、健二を呼びましょ」と言ったシャロンだが、そこでなにかを思いついた。ことみにニヤッと笑いかけると、指三本をからめてサインを示した。「いいことを教えてあげる。ちょっとこっちに、ね」

「あ、はい。なんですか?」ことみは顔を近づけた。

「健二のことだけど、どうやらあなたに夢中みたいね。でも、私が思うに、あなたはそのことにまったく気づいていない。ちがう?」

ことみはビクッとして、身体を硬直させた。「な、なんのことですか。いえいえ、そんなの絶対ありえません。ていうか、あたしみたいなヒキコのオタがおこがましで、らぶ〜なんて、のたまえません」シャロンの言葉でパニックを起こしたことみは、話し方が完全にバグっている。

「ユー、ミスアンダースタンディング」勘違いしてるわよ。「健二はね、みだりに若い女性をつれて歩いたりしないの。見た目はゴージャスだけれど、異性にはとても慎重なのよ。というより、臆病と言ってもいいくらいね」

「そうなんですかあ。へえ〜」シャロンの話があまりに意外で、ことみは気のぬけた返事をした。

「これは秘密だけれど、じつは彼、若いときに婚約者と悲しい別れを経験したの。くわしいことは言えないけれど、その傷が大きすぎて、かれこれ七年間もシングルをつらぬいてる。ヒーワズ、ソーサッド」彼ってかわいそうなの。「それが、こんなに少女みたいに可愛いらしいお嬢さんと一緒だなんてね。あのうれしそうな顔ったらない。あんな笑顔を見たのは、もうずいぶん昔のことだわ。だからね、ミズコトミ…」と言うと、シャロンはことみの耳に顔を近づけた。

「え、なんでしょう」ことみも耳をそばだてる。

「健二のこと、これからは "ダニエル " ってミドルネームで呼んであげて。理由は聞かないで。とにかくそうして」シャロンはそう言うと、いたずらっぽい表情をみせた。「もし彼が喜んだら、ね…それは、あなたを好きだっていうことよ」

「……」予想もしていなかった話をきいて、ことみは言葉にならなかった。あのナンパなイケメンが?まわりは女の子だらけなんじゃないの。それにしても、彼を " ダニエル " って呼ぶなんて。ひゃあ〜、マジか。

「オーケー、ヒュウィゴー。深く考えないで、マイスウィーティー」と言いながらシャロンは手を上げて、待ち合い席の高城に声をかけた。「ヘイ!ハースタイリングイズ、ダン。カムヒア」

シャロンの声を聞いた高城が、はねるようにしてソファーから立ちあがると、早足でやってきた。

「うわあ!」と思わず声をあげた。「信じられないよ。ここまで変身するなんて」

「まあ、私の腕にかかればこんなものね。あがめよ、わが民!」

「おいおい。僕はしもべじゃないぞ」高城はクスクス笑いながらことみのほうを向いた。「お疲れさま、ことみさん。すごく素敵だよ。いや、それ以上だ。感激だなあ」

「ありがとうございます。あたしもうれしいです」ことみも笑顔をみせた。

「さすがだよ、シャロン。ほんとに感謝してる。お礼はかならずするから」

「ダズン、マラー」いいのよ。「それよりあなた、ミズコトミのこと大切にしなさい。こんなピュアな子なんて、今どきめったにいないわよと」言って、シャロンは高城の腕をたたいた。

「おい、なんだよ…」と言って、高城はことみのほうをチラリと見た。

「はいはい。私の出番はこれで終わり。あとは、二人でデートにでも行くことね」シャロンはそう言ってから、店の奥にむかって声をあげる。「ヘイ、ミズスミレ。ユアターン」

「はあ〜い。いま行きます!」

カーテンがひらいて、メイク道具をカートにのせた若い女の子がやってきた。

「こんにちわ、スミレです。今日はメイクを担当させていただきますので、よろしくお願いします!」

「あっ、はい。よろしくお願いします」元気のいい人だな、とことみは思った。自分より年下のようなので、今日はじめてほっとした。

「あとはまかせたわね」シャロンはまとめていた髪をほどいて、高城にあいさつをする。「じゃ、またね。ミズコトミのヘアスタイリングが必要なときは、必ず連絡して。この子の髪は私がやるから」

「ほんとか。サンキュー!」

シャロンが去っていく。ことみがおじぎをしながら見ていると、彼女が指を丸めて " オーケー " とサインを送っていた。


「あれ」を忘れないでね!


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