(3)「だから、覚えておいてね」
思いがけず、サラはあたしの家に長く留まった。
一週間が経っても出ていく様子がないのだ。それどころかいつの間にか近所の少女たちと仲良くなって、数人で水浴びに出かけているほどだ。
まさか本当にこのまま居着くつもりかと、あたしはやや心配になった。貴族の少女が行方不明となれば、家出をされた家族のほうは今頃てんやわんやだろうに。
あたしと一緒になって葦の籠を編んでいるサラの表情は楽しそうだったが、手は当たり前のようにぼろぼろになっている。
一週間前までは食器以上に重いものを持ったこともなさそうだったのに、本当に良いのだろうか。見ていてあまりに痛そうだったので、近くに住んでいる占い師に軟膏を売って貰ったくらいだ。
元々は貴族に雇われていたという噂もある占い師の軟膏は、嗅いだことのないツンとした匂いがした。
「ねえ、エマ」
作業が一段落ついて、陽がくれる前にと二人で川に入っているときだった。
「わたし、帰るわ」
今は暑い時期だから良いけれど、これから寒くなったらだんだん辛くなってくるなと、ぼんやりと考えていた。そんなあたしの耳に、サラの声はするりと入り込んだ。
あたしは、サラの言葉に一瞬反応できなかった。
無言でサラを見返すあたしの前で、着たままの服がぴたりと肌にはりつくのをそのまま、少女がもう一度口を開く。
「明日、帰る」
そう、サラは宣言した。
ぽたぽたと、長い髪から水が滴って、落ちた。
「……ぁ、」
一つ、二つ、三つ呼吸して、ようやくあたしは何を言われたのか理解した。あんなにいつ帰る気かと心配になっていたのに、帰ると言われた瞬間あたしはどうしようもなく寂しくなった。
けれどあたしは、その感傷を隠して頷いた。
「そう、判った」
あたしの反応を最初から知っていたかのように、サラがふいと顔を逸らす。そのままぱしゃりと水の中に倒れ込むものだから、あたしは慌ててサラを引っ張り上げるはめになった。
「ちょっと、危ない!」
「あははっ」
楽しそうに笑ったサラが、逆にあたしを引っ張ってくる。川の中というのもあって、踏ん張りそこねたあたしはあっさりと引き倒された。
川は腰ほどまでの深さで、流れはごく緩やかだ。あたしがほどなく立ち上がると、ほとんど同時にサラも立ち上がった。
「もう、サラ……」
「わたしのお母さまね、二週間前に亡くなったの!」
唐突に、誰かに宣言でもするように、高らかにサラはそう言った。
「二年前に一番上のお兄さまが、半年前にお姉さまが、三ヶ月前に妹が、二ヶ月前に弟二人が、一ヶ月前にお兄さまとお姉さまが一人ずつ!」
一息にそこまで言って、ふと何かを思い出したように。蝋燭の火を吹き消しでもするように。
「一週間前に、最後のお兄さまが亡くなったわ」
「……」
何と返して良いのか判らず黙り込んだあたしに構わず、川の中でくるりと回る。舞台で踊ってでもいるようだった。
舞台の上で、少女はひとり踊る。まとわりつく水も、服も気にせずに。
くるり、くるり。
少女は言った。宣言した。あたしと同じ、けれどあたしとは全く違う顔で。
あたしと同じ顔で、
あたしと同じ声で、
あたしとは似ても似つかない、所作と、態度で。指の先にすら、神経の行き届いた動きで。
まるで舞台で演じる幼い女優のような、多くの誰かに聞かせるための声で。
サラは、宣誓を口にする。
「わたし、女王になるの」
あたしは思い出した。一ヶ月前、国王が崩御された。
後継者は、いまだに決まっていない。
「女王になるのよ」
ぽつりと、どうでもいいことのように、それでいて泣きそうな声でサラは言った。泣きそうな声で、頼りない声で、それでもきっぱりと。
それから表情を消して、何かを追いかけるみたいに遠い眼をして呟く。
「わたくしは」
小さく、乞うように。
小さく、願うように。
これが最後だというように。
「わたくし以外の誰かになりたかったわ」
「サラ――」
何を言って良いのか判らなかった。
何を言えば良いのか判らなくて、何も言えなくて、あたしはサラを抱きしめた。くるりくるり、動きにくいはずの川の中でひとり踊り続ける少女の動きを止めるように。
サラのワンピースが、水を追いかけるようにあたしたちの足に巻きついた。
「きっと、二度と会えないわね」
「……そうね」
サラが微笑んだから、あたしも微笑んだ。
鏡写しのようにそっくりな少女だった。いつの間にか、知らない間に、一緒にいることに違和感を覚えなくなっていた。
けれど、歩む運命はあまりに違う。
「サラって、わたしの本当の名前なの。きっと、女王になったら違う名前を名乗ることになるわ」
呪いを受けないように、王は本当の名前を捨てるのが慣例だと聞いたことがある。
「だから、覚えておいてね」
もちろん、と頷いたあたしに、サラはほっとしたように笑って体を離した。二人で川を上がって、改めて向き直る。
堂々と、サラは口にした。堂々と、顎を上げて、足を震わせながら。
舞台に上がったばかりの、新米の女優のように。
「わたくしは、女王になるのよ」
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