(2)「でもわたし、何も知らなかったのね」

 少女はサラと名乗った。仕方なくこちらも名乗ると、ころころと笑う。

 あたしなら絶対にしない表情だ、と思った。同じ顔をしているのに、こんなにも違う。

 顔つきも、動作の一つ一つも。


「よろしく、エマ! 素敵な名前ね」


 一夜明けた、朝のことだった。昨夜は一通り探索して気が済んだらしい少女がさっさと床に入ってしまったから、まともな挨拶をする機会もなかったのだ。

 狭いベッドで二人並ぶなんて随分と久しぶりのことだったからか、あまり深く眠れなかったし体があちこち痛い。それはサラも同じはずなのだけれど、彼女は元気なものだった。

 固い木の箱を幾つか並べただけのベッドは、サラからすれば初めて見るものだったに違いない。けれど彼女はそれよりも、あたしと一緒にベッドに入ることが楽しくて仕方ないようだった。始終くすくす笑って、気づいたときにはぐっすりと眠りこんでいたのだ。

 真っ白なネグリジェをまとっている少女に、ふうと嘆息する。

 少女はいくらかの着替えを持ち込んでいた。本当にこの家に転がり込むつもりらしい。


「エマは働いているの?」

 歳はお互いに十五。けれど家の様子から一人暮らしのようだと察したのか、サラがそう問うてきた。

 隠すことでもないから、軽く答える。

「うん、日雇いの仕事をいくつか……。あとは、学校に行きたい子向けに塾の真似事を」

 あたしも亡くなった母に教わっていただけで正式な教育を受けたわけではないから、本当に真似事でしかないけれど。

「学校?」

 ことりと首を傾げるサラに頷く。

「お金のある子は学費を払えば良いけれど、そうじゃない子は試験を受けなくちゃいけないの」

 おそらく彼女は学校に通ったことがないだろう。学校ではなく家庭教師に学んだ人間のはずだ。

 そう踏んで説明すると、彼女はへえと眼を見開いた。やはり知らなかったらしい。

「今日も働くの?」

「今日は十五時から塾よ」

 陽の傾きからして、朝日が出て三時間といった頃合いだ。正確な時間は時計を見なければ判らないから、早めに行って広場の時計台を確認しなくてはいけない。

「じゃあ、その前に出かけましょう。街を見たいわ」

 良いことを思いついたというように、ほとんど断定の口調でサラが言った。

 その勢いに圧されて、あたしは思わず頷いてしまう。しまった、と思ったときには遅かった。

「そうと決まれば、善は急げよ。さあ、行きましょう」

「待って、待って」

 まだ露店もやっていないだろうし、出かける前に家事も済ませなければ。慌てて止めると、サラが判りやすく不満げな顔をする。

「まずは朝食を食べましょう」

「そうね……」

 渋々頷いてくれたことにほっとして、あたしは着替えを差し出した。

 昨日サラが広げていたあたしのワンピースだ。古びてくすんだ緑になってしまっているけれど、定期的に洗っているから問題ないだろう。

「これは室内着?」

「いいえ、外出着よ。中でも着るけれど」

 言わなくてはいけないことを思い出して、あたしはサラに言った。

「この辺りでは、あんまり綺麗な格好をしていると狙われる。頭巾も危ないわ」

 頭巾を被っているなんて、貴族かよほどの金持ちだと言い触らしているようなものだ。普段から何気なく身に着けているならば、自覚していないかも知れないけれど。

 幸い、サラは不思議そうな顔をしながらも素直に頷いてくれた。


 着替えてから、二人でパンを食べた。

 あたしにとっては普通のパンだったけれど、サラにとっては食べ物であるかも怪しげなものだったのだろう。未知のものを口に入れる表情で、それでもサラは何も文句を言わなかった。

 狭い家に椅子が二つあるのは、母が生きていたころの名残だ。部屋に自分以外の誰かがいる、という感覚が久しぶりすぎて、あたしはどうにも落ち着かなかった。

 川に使い終わった食器と服を運んでまとめて洗う。サラの服はさすがにどうにもできないからそのままだ。川の水で洗ったりしたら、洗った分だけ汚れてしまう。

「水道は通っていないの?」

「何年も前の嵐でここら一帯が出なくなって、それっきり。飲み水なら井戸があるからそんなに困らないわ」

 それでも、年に何人かは病にかかって死んでいく。井戸の水から病に感染することがあるのだ。

「体が気持ち悪かったら、ここで体を拭くか、川に入ってね。ただし、必ず陽があるうちに。一人では絶対にだめよ」

 夜に出歩いたりしたら、殺されても攫われて売られても文句は言えないのだ。


 夜はどこかに隠れている物乞いたちが、昼になってちらほらと姿を見せ始める。行きは眼につかなかったけれど、帰りは何人か道にうずくまっていた。

「……あれは何?」

 きゅっとあたしの服の裾を掴んで、サラが問うてくる。彼らのような人々を見るのも初めてなのだろう。

「仕事がなかったり、仕事ができなかったりするひとたち。お金をあげたらつけられて家を知られて襲われることもあるから、眼を合わせてはだめ」

「でも、あれは子どもよ。足がないわ」

「子どもでどこかが欠けているのは、大半は親がやったのよ。どこからか親が見ているはずだから、一番近寄ってはいけない」

「そう……」

 地に額をつけて、拝むような姿勢で入れ物を差し出している老婆の前を、二人で足早に通り過ぎた。


 サラにとっては衝撃が大きすぎたのかも知れない。家に戻ってきたサラは、すっかり考え込んでしまっていた。

 何を言おうか迷って、ありきたりな慰めを口にする。

「たまに通りかかる行商がお金を恵むこともあるし、そうじゃなくたって教会があるわ。週に一度だけれど、炊き出しがある」

「教会? 国は宗教を禁止しているわ。宗教は政治を混乱させるから」

 決まりごとは決まりごとで、疑問の余地もない。そんな表情で口にするサラに、あたしは返した。

「政治なんて、物乞いたちには関係ない。――きっと、どこかに資金源があるのね。一見では判らないように、そこここを教会にしているわ」

 一食のパンを、一晩の宿を借りられるならば、物乞いたちには政治家だろうが宗教家だろうが関係ないのだ。

「あたしが知っているだけでも、この都に教会は二か所ある。国家のお膝元である王都ですら二か所もあるのよ。もしかしたら、もっとあるかも知れない。あたしは悪いことだとは思わないわ」

 互いの前に用意した井戸水を一口飲んで、あたしは続けた。

「政治は貧しい人たちを救ってはくれないけれど、宗教は貧しい人たちを救ってくれる。少なくとも、いまこの瞬間、明日まで生きられるだけの糧をくれるのよ」

「そうなの……」

 呆けたような口調で、サラはそう言った。明らかに上流階級の少女にこんなことを教えて良いのだろうかとちらりと思ったけれど、同時にサラならば大丈夫だろうという思いもあった。

 何故そんなことを思ったのか、自分でも不思議なのだけれど。

 サラの表情を見て、あたしは自分の考えが間違っていなかったのだと思った。呆然とした表情は何も考えていないわけではなくて、あたしの言葉を理解しようと、受け入れようとしているのが伝わってきたから。


 きっと、あたしと彼女が一緒に行動するのは数日にも満たないだろう。貴族の少女が家出をしてきたのなら、すぐに連れ戻されるか、貧しい生活が嫌になって自分で帰りたくなるはずだ。

 ならばその数日間、とことんサラに付き合おうと思った。どうせほんの短い間なのだから、その間くらいは少女に寄り添おうと。

 恵まれた境遇の、きっと恵まれていることにすら気づいていないだろう、けれど決して愚かなわけではないと判る少女にそう思うくらいには、あたしは既に彼女に好感を持ち始めていたのだった。

 知り合いから貰った茶葉で一息いれていたら、すぐに太陽が中天に差しかかる。あたしとサラはもう一杯ずつお茶を飲んで、再び家を出た。



 古びた広場の片隅で、あたしは塾を開いている。元々は母が行っていたことで、あたしはそれをそのまま引き継いだだけだ。

 特にお金を幾らと決めているわけではないし、お金を払わないまま学びにきている子もたくさんいる。それでも構わなかった。

 子どものうちの何人かは、こっそりと親に持たされたお金や食べ物を差し出してくる。それとは別に、近くの大人や、かつて母の教え子だったひとたちがお金や食べ物を渡しにきてくれることもある。

 あたしが地面を使って文字や数字を教えるのを、サラはやや離れた場所にある石に座りながら眺めていた。


「みんな、学ぶのが楽しいのね」

 帰り道、サラは独り言のようにそう言った。

「わたしよりずっと真剣に勉強しているわ」

「学ぶことは、自分を守ることにもなるからよ。文字が読めれば、わけが判らないまま契約書にサインをしてしまうことはなくなるわ。数字が判ればお金を騙し取られることもなくなる。社会は頭が良いひとの味方だから……」

「エマは凄いのね。深く物事を考えている」

 サラの言葉に、あたしは瞬いた。

「わたしと同じ歳のはずなのに、わたしよりずっと大人だわ」

「……お母さんの受け売りよ」

 あたしよりも何倍も教養があるだろうサラに言われて、あたしは慌ててそう言った。こんなにまっすぐに褒められることなんて滅多にないから、顔が熱い。

 あまりに当たり前に、日々を生きていた。そういえば、自分のしていることを他人に説明したのなんていつ以来だろう。

「わたしね、いろいろなことを勉強したわ。鳥の名前、花の育て方。お茶会の作法に、歌のお稽古。ピアノの弾き方。詩人の名前に、国の歴史に、他の国の言葉……」

 すらすらと並べられた台詞に、あたしはびっくりした。貴族の少女というのは、そんなにたくさんのことを学ばなければいけないのか。

 自分の生きている世界が特別だという自覚すら薄いだろう少女は、自分を憂うように言った。

「でもわたし、何も知らなかったのね」

「……サラ?」

 あたしの問いかけに、サラはふるふると首を振った。

 物乞いたちが哀れな声で小金を求める前を、二人で通り過ぎる。並んで歩く少女の足取りに迷いはなかった。

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