何をやっているのかもわからない日々
それから一週間、覚えることが多過ぎて何をやっているのかもわからない日々が続いた。
結局のところ、やらなければならないことは、その仕事をする時まで説明されてもさっぱり理解することなどできなかった。
やるべき事はあるのだろうけれど、何をしていいのかわからない。まあ、しなくていい余計な仕事をする必要はないか。
あの日から暫くして、新しく買っていた口紅を使い始めていた。
赤が強いのではと思ったのだけれど、店員の人に薦めらるまま買っていた。
流行りというものは一応押さえて置かなければと思って使い始めたのだ。
お金も無限に湧いてくるものでもないし、買ったのだから使わないと勿体無いなぁと思ったのも使い始めた理由だった。特に新しいなにかを始めようとか前向きな気持になったわけでもなく、ただの惰性だった。
仕事をすると言っても田舎で客の来ない窓口に座っているだけでやることなど無いように思えていた。
そんな暇な職場は静かなもので、隣の部署の会話が聞こえてくるのは良くあることだった。
あっちは賑やかで、笑い声が良く聞こえてくるのに比べ、こちらはあまり会話はない。
なので、後ろの席の先輩の独り言を黙って聞いていることが多い。わりと響くのだ。
パソコンに詳しくはないのだろう。
「あーなるほど」とかなんとか言っているのを聞いてもだれも反応しない。
そういう時、私はスマホを両手にもって画面に集中する。
先輩もときたま職場のパソコンでネット見てるんだから、文句を言われる筋合いはないはずだ。
SNSや漫画をみてると、暇な時間もすぐに去ってゆく。
「仕事中に携帯とか、この会社ももうすぐ潰れるかもね」
聞き覚えのある声に、はっと顔をあげた。そこには顔の知った女性が立っていた。
薄手のデニムジャケットにベージュのチュールスカートを合わせている。若作りしてんじゃねーよといいたくなるが、ピアスや腕時計に腕にかけたブランドバックには品があって、落ち着いているのが嫌みにしか見えない。
たぶん、そのジャケット良いですねなどと言おうものならどこそこのファストファッションの店の名前がでてきて「安かったのよ」とか言い始めるに決まっている。
もちろん気づかれにくい小物なんかはきっちりブランド物のはずだ。このほんのり香る香水もきっと高いのだろう。
「藤ねえ!? どうして?」
入り口が開いた様子はなかった。どこから入ってきたのだろう。
藤ねえは私の八つ上の従姉で小さい頃は、親戚の集まるお婆ちゃんの家でよく遊んでいた。
この会社に勤めていたらしいけれど、何年か前に寿退社していたはずだ。良いとこの旦那を捕まえていたと思う。ぷち玉の輿といってもいいのだろう。
「ちょっとね。面接? パートがほしいて頼まれたのよ」
藤ねえは昔からテキパキなんでもできる人だった。
産休だか、退社するだとか、いろいろ重なって人手が居なくなると、噂で聞いていた。
「暇人か」
つい言葉にしてしまった。藤ねえはなにがおかしいのかわからないけれど、ふふと笑った。
「そうね。暇なのよ。家にいても、つまらないから」
勝ち組の台詞だなあと思うけれど、あまり嫌みに聞こえないのは藤ねえだからだろうか。
「それで、いつからくるん?」
「たぶん来月からかな? 引き継ぎもあるし、少し前から来るかもしれないけれど」
それってタダ働きじゃないのと、おもったりもしたけれど、さすがに言わなかった。
こんな小さな街に本社を構えているけれど、工場があったり営業があったり、事務所があったり、一つの組織のなかにいろんな人が働いている。
よくサラリーマンなんか歯車の一つなんてドラマにでてきそうなもので、それを打ち破ったり、すごい仕事を成し遂げたりとか、そんなものはドラマの世界だけであって、現実は平々凡々とただなにもない生活と仕事をただこなしていく毎日しかないのだと、やはり仕事をしてみればそうだったのかと特に失望するでもなく、当たり前のことだと誰に言われるでもなくみんな受け入れている。そして働いている。
そうだよね。みんな働いているんだよね。
それが当たり前で、新しい生活になど特別なことなんて、何一つないんだ。
入り口の扉が開き人が入ってきた。でもお客さんではなかった。
どこかで見覚えがあるなと思ったら、あの酔っぱらいだったようなきがする。
「吉川さ、あ、藤恵さん?」
「藤代です」
藤ねえが、私が名前を嫌っているのを知ってて言ったでしょとその男性に詰めより、その弁明を聞いている。
後で知ったことだったけれど、二人は同期だったらしい。
詰まった名字は旧姓だったかなぁとか、名前間違えられて藤ねえは本気じゃなさそうでも、怒ってるなあなどと考えながら、その二人のやり取りを聞いていた。
「……で、まだ小説なんて書いてるの?」
その人は苦々しい表情をつくった。どうしたんだろうな。
「俺の人生の汚点の一つはお前にネット小説をかいているとばれたことだよ」
「へえ、小説書いているんですね」
つい、口に出してしまった。
明らかに機嫌を悪くしているようで、少し怖かった。
嫌そうな顔してたけど、私別に悪くないでしょ。
「そんないいもんじゃないよ」
私に向けられた声はびっくりするくらい優しかった。
たぶん、怒ってた。と思う。
けど、そういうのをそのまま人にぶつけるような人じゃないんだなあと感じた。
大人ってそう言うもんなのかもしれない。
「で、藤代はんはなにしてるんですか?」
わざわざ名前。やっぱり子供っぽいかもしれない。
見た感じ、顔もまあ子供っぽいかも知れない。年上に失礼かもしれないけど。
藤ねえは今度パートで雇われると説明した。
「まあ、そういうことだからよろしくね。めぐ、ちゃんと仕事しなさいよ!」
と言って藤ねえは帰っていった。いつもながら嵐のような人だなぁと思う。残された私と彼の空気はなんともいえない。「しーん」という言葉がぴったりではないか。
「知り合いなの? えっと……」
「階堂です」
「ああ、そうだったっけ。まあ、またよろしく頼むよ」
覚えていないんだろうなぁとおもいながら、スーツ姿のみた感じの近寄りがたさよりも、ちょっとは優しい人なのかもという印象だった。
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