5-2.波に飲まれる前に

 海を出発して一日が経っても、まだ青の国へは着きそうにない。


「遠いな……」


「海は広いさー」


 ミズは底無しの体力があるらしく、夜の間も寝ずに筏の操縦をしていた。また楽観的な態度にライは苛立つも、こんなに働かれては文句の一つも言えない。


「それは知ってるんだけど、これって風が無いよね」


「凪の海域に入ったか。どうするつもりだ?」


 エンジの言う通り、だらしなく帆は垂れ下がっていた。漕いで進めないこともないが、それでは非常に労力と時間がかかってしまう。積んできた水と食料には限りがあるため、何らかの対策が必要になる。


「風に頼らずとも、この筏には推進力が備わってるさー」


 何の変哲も無い筏に、未知なる装置が付けられている。まさかの技術に興味津々なエンジは目を輝かせた。


「え、どこ?」

「この俺っちだぁ!」


 そう叫ぶや否やミズは海に入り、ばた足で筏を動かした。確かに人力とは思えないほど速度は上がったが、それと反比例するようにエンジの感情は冷え切っていく。


「船酔いしてきた……」


 酔い止めの効果が切れたらしい。筏の上で力無く寝転ぶエンジを引き寄せ、ライは優しく介抱する。


「薬を飲め」


「どうしてライは平気なの?」


「重い刀を十全に扱うには、柳のように強かな芯のある体幹が必要だ」


 辛い修行の日々に感謝していると、蝶々の姿になった紫電が苦言を呈す。


「そういえばライよ。前々から言おうと思っていたのだが、口調のくだけ具合が目に余るぞ。母上殿に品が無いと注意されなかったのか?」


 確かに、言葉使いに関しては母上に厳しく躾けられた。だが、それも女体化に適応するための指導だとしたら、もはや律儀に守っているのも馬鹿らしい。


 要は、紫の子孫さえ残せればいいわけだ。ライにしては珍しく、甘えた声音でエンジに問いかける。


「エンジ殿は丁寧な言葉使いの方が好ましいでしょうか?」


「……まぁ、その場に応じて使い分けてるし、ぼくはライがライらしいと思う口調の方が好きだよ」


「流石は将来の婿殿。器が大きい」


 空気を読んだエンジの柔らかい両頬を、ライは微笑みながら軽く摘まむ。一切の抵抗を示さない彼を見て、紫電は二人の行く末を案じる。


「年相応とはいえ、親の庇護下から離れ自由意思が芽生えたか……。婿殿よ、あまり花嫁を甘やかさないでくれ。紫の女は礼儀正しく気品に満ちるべきだ」


「いや、ライはぼくが知ってる女性の中でも奥ゆかしい方だよ?」


「紅の女は化物か」


 おそらく紫の女性らしさが、刀の力を最大限に引き出す鍵となるのだろう。紫電の趣味嗜好に合わせてたら頭がおかしくなる。


 その後も小言を聞き流していると、ライは筏が遅くなったことに気づいた。


「おい、また進まなくなったぞ?」


 後ろを振り返る。だが、そこでばた足しているはずの、ミズの姿が無い。


「……どこへ消えた?」


「分からない」


 全方位は海に囲まれている。隠れる場所は無く、何かの悪戯とも思えない。


「待って! 海面が赤く染まってる!」


 エンジが指した方向は、さっきまでミズがばた足をしていた場所だ。そこだけ赤くなっているということは、もはや考えられる可能性は一つしかない。


「海獣に食われた?」


 陸上と同じように、海にも肉食の獣が存在する。流れ出た血の量からして手遅れかもしれないが、それでも仲間を見捨てることはできない。


「救出する」


「え、どうやっでえええええええええーーーーーーーーぇぇッッ!!」


 ライは服を脱ぎ捨て、全裸になっていた。女性の裸を間近で見てしまったエンジは、強い脳への刺激で悲鳴を上げる。


「服を持っていてくれ。泳いで仕留める」


「よすのだ、ライ!」


 まさに海へ飛び込もうとした直前、間一髪で紫電が呼び止めた。


「言われずとも雷撃は使わん。まさか海水で錆びるのに怖気づいたわけでもあるまい?」


「笑止! 不完全でも我は紫の刀! たかが塩水ごときで錆はしない! そうではなく、刀自体が帯電しておるのだ! このまま海に入れば貴様も感電死するぞ!」


「ならば一発、空に放出しておくか?」


「やめておけ。今の我は絶倫の自信がある。理由は言わずとも察したな?」


 くだらなすぎてライは頭が痛くなる。力を溜めるのは難しいと思っていたが、意外と楽に使いこなせるんじゃないか?


「ライ! いいから服を着て! 海獣が現れるよ!」


 エンジの声で我に返ったライは、急いで服を着る。海獣の方から海上に現れるとは好都合だ。少しでも近づこうものなら斬り捨てる。


 そう思って厳戒態勢を敷いていたが、巨大な蛇のような姿をした海獣は、一向に捕食の様子を見せない。ずっと筏の上にいる獲物を睨んでいる。


「……何故、攻めて来ない?」


 訝しがるライの耳に、聞き覚えのある音が届く。静寂な海の中で、その音は次第に大きくなっていった。


「この気配……波が来るぞ! 捕まれ!」


 後方から、またも大波が筏を襲う。どうやら海獣はこれを待っていたらしく、海中へと姿を消した。筏を操作できるミズはいない。絶体絶命の危機。


 しかし、出発時とは状況が異なる。あの時は前方から波が迫ってきたが、今度の波は後方から迫り来る。ならば波を超える必要は無い。波に乗ってしまえばいい。



 そう判断したライは、ミズの見よう見真似で帆を操る。風の無い状況で波からは逃げ切れないが、波に沿って横に移動し続けることはできる。


 一か八かの賭けだ。もう波に呑まれる寸前であり、頭上には波の洞窟ができている。その光景を幻想的だと感じる暇も無く、やっと波の洞窟の出口が見えてきた。


 安堵するのも束の間、その出口に先程の海獣が口を開けて待ち構えている。


「邪魔だ! 道を開けろ!」


 予想外の出来事が立て続けに起きたことで、とうとうライは堪忍袋の緒が切れた。海より広い心も我慢の限界だ。


「紫電!」


 掛け声一つで守護神の刀を呼び出し、一太刀で巨大な海獣を真っ二つにした。海獣の肉片さえも飛び越え、ようやくライとエンジは落ち着く。


 だが、これも一時の安息なのだろう。なんとも海の旅は慌ただしい。途中で脱落したミズだけが心残りである。


「惜しい男を失ったな……」


「おっ、やっと凪の海域を抜けれたねー」


 感傷に浸っていると、死んだはずのミズが何事も無かったかのように筏へ戻ってきた。足はあるため、化けて出ているわけではない。


「……何故、生きている? 海獣に食われたのでは?」


 驚愕するライをよそに、あっけからんとミズは答えた。


「ん? ああ、よく知ってんな。潜ってたら海獣が何匹か筏を狙ってたからよぉ、見せしめに水中で撃退してやったさー。もしかして、逃げてたのが筏に来てた?」


 どうやら血溜まりは海獣のものだったらしい。何故、水中で不利な人間が海獣の群れに勝てるのだ? 疑問は尽きないまま、さらにエンジが問いかける。


「あの大波は? どうやって回避したの?」


「青の民の男が海で溺れるわけねぇだろ」


 またも根拠の無い自信だ。こっちが馬鹿らしくなってきて、もはや質問する気力さえ残っていない。


 ライとエンジは筏の上で項垂れた。

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