3.レーテンシー

 鼻孔を突き刺す磯の匂い。喉の渇きに耐え切れず瞼を開けると、快晴である空の青さが目に染みた。


「こ、ここは……?」


 寝起きでボヤけた思考のまま、慌てて周囲を見回す。どうやら砂浜に打ち上げられたらしく、穏やかで雄大な海が広がっている。カモメが呑気に鳴いていた。


 ……などと自然に浸っている場合ではない。紫の末裔であるライは、己の身に起こった重大な変化を確認した。やはり、本来そこにあるはずの、下が、無い。その代わりと言わんばかりに、二つの対なる膨らみが胸部に出来ていた。


 とりあえず、恐る恐る揉んでみる。無言で揉む。柔らかい。そのまま無心で胸を揉み揉みし続けた結果、不思議と精神が落ち着いてきた。



 次第に澄んでいく思考で、これまでの記憶を整理する。紫から家出したライは元来の生真面目な性格が災いし、試練のため嫌々ながらも黒い軍勢の拠点に潜入した。そして捕らわれの紅の姫を攫ったところで敵に気づかれ、黒い軍勢から逃走しながらも戦闘に移行した。


 特に黒刀を持った剣士が相当な手練れであり、ライは紫の能力である身体の武器化を行使することでしか戦況を打破できなかった。そして守護神の紫電という名の刀を引き抜いた瞬間、空から落雷が直撃して足場の崖ごと海へ滑り落ちた。


「……まぁ、命には代えられないか…………」


 一時的に取り乱すも、前から覚悟していたことである。男から女の体になったライは、今の状況を受け入れるしかなかった。


「それより! 紅の姫は⁉」


 当初の試練を思い出す。死んでしまっては元も子も無いが、不幸中の幸いにも彼女は同じ砂浜に打ち上げられていた。


 ライは急いで駆け寄り、彼女の意識を確認する。心臓は動いているものの、大量の海水を呑んだのか呼吸が希薄だ。すぐ海水を吐き出させる必要があるが、異性の、しかも姫という身分である彼女の唇を見て、ライは暫し逡巡した。


「今は女同士だ。許せ。えーい、ままよ!」


 これは人命救助だと自分に言い聞かせ、ライは的確な人工呼吸を行う。唇を重ねて息を吹き込んだ後、胸を按摩して肺を刺激する。この動作を何回か行ったところ、ようやく紅の姫が海水を吐き出した。


「がはっ! ゴホッ!」


「良かった。息を吹き返したか」


「え……? ……うひゃあ!」


 九死に一生を得た紅の姫は瞼を開け、寝ぼけ眼のままライの存在を視認する。


「安心しろ。暫くの間ここは安全だ。少し休め」


 紅の姫には一旦、心を落ち着かせる時間が必要だ。彼女を一人にさせようと離れるついでに、ライはもう一つ重要である刀を探す。


「紫電! どこだ⁉」


 紫電とは紫の守護神、もといライの身体の一部を武器化した刀の名だ。海の中で落としてしまったのなら絶望的だが、元は自分の半身だけあって存在を感じ取ることができる。近くにいるはずなので森の茂みを探そうとした時、不意に野太い声に呼び止められた。


「ここにいるぞ」


「何奴っ⁉」


 不審な男が現れ、ライは咄嗟に警戒するも刀が無い。まるで最初からいたかのように、目の前の男は淡々と話し始めた。


「落ち着けライ。我が紫電だ」


「……紫電は刀のはず。何故、人間の姿に?」


「未だライが紫を継承し切れていない弊害だ。今の我は刀として常に実態を保てぬゆえ、いざという時に備え普段は半実体化することで力を温存せねばならぬ」


「人間の姿でいる方が余計な燃料を食いそうだが?」


「我の存在は主人であるライにしか認識できぬ。ゆえに、あくまでも人間の姿を象っているのは、ライの我に対する想像によるものだ」


 確かに刀だけ宙にフヨフヨと浮き、言葉を話す姿は滑稽だ。とはいえ、まだまだ腑に落ちない点はある。紫電から情報を聞き出そうとしていたところ、おずおずと紅の姫が話に介入してきた。


「あ……あの、先程から誰と話されているのでしょうか……?」


「いえ、何でもありません。お気になさらず」


 ライは彼女へと向き直り、優しく微笑みかける。そして互いに砂浜の上で正座し、これからのことを話し合う。


「そういえば名乗るのが遅れました。私はライ。次代の紫となる男です」


「え、男性なのですか⁉」


「失敬、誤りました。こちらにも込み入った事情がありまして、今回は紅の姫を救出すべく馳せ参じた次第です」


「紫……。お、お噂はかねがね伺っています! 私の名はアカネ! この命、拾っていただいたこと、誠に、まっこと感謝いたします!」


 一国の姫ともあろう人物が、身分を顧みず頭を下げる。


「お顔を上げてください。私は紫の使命を果たしたまでのこと。これから姫君を仲間の下へ送り届けて任務は完了です。どこか仲間の居場所に心当たりはありますでしょうか?」


 頭を上げた姫は気まずそうか顔を見せてから、再度土下座して懇願した。


「わ、私の故郷である紅の国は、黒い軍勢により滅ぼされました。行く当てなどございません。あ、厚かましいお願いではありますが、どうか、どうか紅の民を助けるため力を貸していただけないでしょうか? お願いします!」


「残念ながら、それはできかねます。今回の私の任務は紅の姫を死なせないことであり、それ以上の民を救うことではありません。あくまでも紫の立場は中立であるため、どこかの国だけに加担することは禁じられています。心中お察しいたしますが、姫君は紅の血を途絶えさせぬよう、生き残った者としての使命に従事してください」


「……でしたら、ライ殿は未だ任務を果たせておりませぬ。私は紅の姫ではなく、ただの影武者です」


 それが事実なら驚愕だが、任務において母が偽りの情報を流すはずがない。


「……証拠はあるのですか?」

「勿論、ありますとも。私は……いえ、ぼくは男子です。本当の名前はエンジと申します」


 立て続けに信じ難い情報を打ち明けられ、ライは頭がクラッとする。


 男だと言い張るエンジは、艶やかに赤味がかった黒髪に、睫毛が長い二重で大きな瞳。そして透き通るような白い肌で、華奢な体の線。どこからどう見てもか弱い乙女にしか見えない。情報の真偽を確かめる必要がある。


「……でしたら…………服を脱いで見せてください」


「え? い……いや、それはちょっと、急には恥ずかしいと言うか……」


 恥じらう様子も可愛い。やはり女性で紅の姫に間違いないと確信した矢先、いきなりエンジは予想を上回る行動をとった。


「ぼ、ぼくも男です! その証拠をお見せしましょう!」


 そう決意したエンジは、紅の伝統衣装である巫女服の袴を、あろうことか目の前で脱いで見せた。ちゃんと付いている。自分ので見慣れているはずのライは、何故か体の中心が熱くなり鼻血を噴き出す。


「だ、大丈夫ですかッ⁉ お見苦しい物を見せてしまい、大変申し訳ございません!」


「……お気遣いなく。ただの貧血です。紫が煎じた薬を飲めば治りますので」


 心配するエンジをよそに、ライは己の身に起こった異変に戸惑う。何故、男性の裸を見て興奮した? 紫電を睨んでも、彼は何も言わない。ならば、この状況を逆手に取る。


 居住まいを正し、再度砂浜の上で正座する。ライの方から慎重に話し始めた。


「貴殿が男であることは認めます」


「なら共に紅の国を復興していただけるのですね⁉」


「ただし、条件があります」


「……はい。その条件とは何でしょう?」


 喜んでいたエンジが、今度は悲しそうになる。その喜怒哀楽の起伏が豊かな表情を見て、次はどのような反応を見せてくれるのかライは期待した。


「エンジよ。私の伴侶となっていただきたい」


「伴侶? というのは、恋人……のことですか?」


「子宝に恵まれましょう」


「って、え……えええぇッ⁉ どうしてぼくを⁉」


「傷物にされてはお嫁に行けません。ちゃんと責任を取ってください」


「御無体な⁉」


 エンジは頭を抱えて空を仰ぐ。確かに証拠を見せろと言われ、今度は責任を取れと言われるのは理不尽だが、ライが先述した理由は建前である。本音は女性にしか見えない男性と出会えたのだから、これを好機と捉え第二の試練も同時に達成してしまおう、という魂胆だった。


(はっはっは。我の主人は豪気よな)


 紫電の笑い声は無視する。今は人生を左右する大事な話の真っ最中だ。ライはエンジから視線を逸らさず、真っ直ぐに力強く見つめる。


「それで返事はいかがでしょう?」


「うぅ~~……ぼくも男です! 承知しました! 黒い軍勢を打倒し、紅の国が復興した暁には、ぼくをライさんの婿にしてください!」


「交渉成立です。不束者ではございますが、よろしくお願いします」


 これにて二人の相互関係が成り立った。冒険が始まる。

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