2.致死量の猛毒

 板張りの閑静な道場にて、袴姿の男女二人が竹刀で打ち合っている。わずかに紫がかった色味の黒髪を靡かせ、二人は舞うような足裁きによる剣戟を披露していた。


「そこまで!」


 女性が声を張り上げ、男性の動きがピタリと止まる。そして一切の呼吸を乱すことなく、二人は竹刀を床に置いて正座した。その居住まいは美しく、伸ばされた背筋には気品が漂う。


「ライよ、随分と剣の腕を上げましたね」


 二人は母と息子の関係だった。また剣術の師匠でもある母に褒められ、ライと呼ばれた青年は床に額が付きそうな勢いで頭を下げる。


「ありがとうございます! これからも鍛錬を怠らず、剣の道に勇往邁進する所存です!」


「いえ、これ以上はおよしなさい」


「何故ですか⁉ オレを見離さないでください!」


「口調を正す」


「……失礼しました。わ、私は母上の期待に応えられなかったのでしょうか?」


「そうではありません。道場で鍛えられる剣の技量には限界があります。これ以上の高みを目指すのであれば、外の世界で強者と戦う必要があるでしょう」


 外の世界、という魅力的な言葉を聞き逃さず、ライの耳がピクリと動く。紫の領地から出たことがない彼にとって、自然と期待が高まるのを抑えきれない。


「貴方は今年でいくつになりますか?」


「十五歳になります」


「では、成人の証を立てるため、紫継承の儀を行いましょう。今から貴方に大きく二つの試練を授けます。心して聞きなさい」


「はい! お願いします!」


 待ちに待った紫継承の儀。どこまで自分の腕が通用するのかという不安と、外の世界が見れるという年相応の好奇心が鬩ぎ合う。ここで浮かれては再び叱責されるため、ゆっくり母が話し始めるのを待つ。


「一つ目。黒い軍勢に囚われた紅の姫君を救出すること」


「それは紫の使命と関係あってのことでしょうか?」


「無論。紅の血を途絶えさせてはいけません。世界の管理者として紫の使命を全うしなさい」


「承知しました!」


 この世界には紅、青、草原、砂漠、そして紫という五つの国が存在する。それぞれが開拓した土地で暮らしていたところ、突如として黒い軍勢が現れた。


 黒い軍勢は瞬く間に砂漠の国を制圧し、破竹の勢いで紅との戦争にも勝利した。このままでは他の国も滅ぼされ、世界の調和が乱されてしまうため、紫が黒と各国との均衡を保つ必要がある。


「二つ目。旅の中で生涯の伴侶を見つけ出すこと」


 続けて母が提示した条件は、どういうわけか紫の使命との関連性が見えない。ライは慎重に言葉を選びながら質問をした。


「……それも紫の使命と関係が?」


「無論。むしろ二つ目の方が重要です。良い機会ですから打ち明けましょう。私は貴方の母ではありません」


 張り詰めた道場内の空気が、より一層と重くなる。目の前の母親は至って真面目な表情をしており、冗談を言うような性格ではないが、それでも確認せずにはいられなかった。


「は? ……すみません。私の聞き間違いでしょうか?」


「すぐには呑み込めないでしょう。以前、紫の一族には代々受け継がれる使命があるのは話しましたね?」


「はい。世界に残された伝承を守るため、影ながら民族間の諍いを沈静化させることです」


 紫の使命は世界を管理し、文化を保存することにある。何か問題が発生すれば颯爽と駆けつけ、根本的な解決を図ろうと暗躍してきた。


「左様。その使命を果たすには善悪を超越する必要があるため、紫の一族にはある呪術がかけられています。それは産まれてくる幼子が全て男児だということです」


「…………おかしくありませんか? 確か色の因子は女性からしか遺伝しないはずでは? 現に紫には母上という女性がいらっしゃいます」


「左様。ゆえに、もしも産まれてくる幼子が全て男児であった場合、その時点で一子相伝である紫家は滅亡してしまうことでしょう」


 この世界は紅、青、緑、黄、紫という五色からなる民族で分けられる。各色には体に刻まれた独特の記があり、それらの因子は女性からしか遺伝しない。


「話が矛盾しています。それでは呪術をかけることに何の意味もありません」


「ええ、ですから母上は女ではなく、元は男なのです」


「……まだ事情を把握できていないのですが、私にも父上がいらしたのですか?」


「他色の民族の中には、身体の一部を武器化する能力があることは知っていますね?」


「はい。書庫の文献で拝読しました」


 それぞれ各色の因子には、特殊能力が備わっている可能性がある。もしも能力が目覚めれば戦力として絶大な力を得るが、必ずしも発現するわけではないため、各色は民族の血を濃く保とうとする。


「紫も例外ではありません。この刀を見なさい」


「それは母上の名刀“紫煙”ではありませんか。まさか、母上の体から創り出したのですか?」


「左様。これは私の陰茎を武器化したものです」


 道場内の空気が重くなるどころか、一度は凍りついて爆破した。意味が解らない。これは本当に現実なのか? 眩暈に襲われながらも、かろうじて言葉を捻り出す。


「はぁ? すみません、ますます頭が混乱してきたのですが……?」


「つまり、己の陰茎を武器化することで女体化し、安定して紫の因子を受け継ぐことが可能になるのです」


「勘弁してください母上! どうかご容赦を! 実の息子に慈悲を与えてください!」


 床を粉砕する勢いで土下座する。死んだ方が良いとさえ思える鍛錬も、常に監督される品行と教養も、母と一族のため自己を犠牲にして努力してきた。だが、こればかりは男として譲るわけにはいかない!


「なりません。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと聞きます。また可愛い子には旅させろとも言います。貴方も厳しい試練を乗り越え、殿方との自由恋愛に励みなさい。そのために女性としての所作も教育しました」


「嫌です! 第一、男である私が同性に興味を抱くはずがありません!」


「そればかりは守護神に任せるしかありませんね」


「守護神……? どういうことでしょうか?」


「貴方の旅を支える相棒です。詳しく知りたければ、この文献を読みなさい」


 ライは学ぶことが大好きである。守護神という言葉に興味を持ってしまい、何も警戒すること無く母から本を受け取り読む。しかし、本に書かれていたのは文字ではなく、肌色の割合が多い女性の絵だった。


「…………こ、これは知らない女性の裸です! 何を考えているのですか⁉」


 紫の一族は母と息子の二人だけ。紫の領地から出たことのないライは、母親以外で女性の体を見たことがない。絵とはいえ生まれて初めて女性の裸を見たことで、脳へ一筋の刺激的な電流が迸った。


(我を呼んだか?)


「うわぁ! どこからともなく、謎の声が聞こえます!」


(狼狽えるな小僧。己の矮小な器が知れるぞ)


 脳内に響く謎の声。自分の身に何が起こっているのか解らないで取り乱していると、下半身の中心部分から異様な熱を感じる。


「どういうことですか母上⁉ こ、股間が破裂しそうなくらい膨れ上がって、しかも偉そうに語りかけます!」


「安心なさい。それは貴方が健全である証拠です。性への目覚めにより、封印されていた守護神が目覚めたのです。俗世を離れ、鍛錬に集中させた甲斐がありましたね」


「仰る意味が解りません! 元の大きさに戻してください!」


(実の母親に処理を要求するとは、よもや次代の紫は覇の強者であったか。矮小な器と言ったことは撤回しよう)


「この守護神は何を言ってるんだッ⁉」


 無意識の内に荒々しい口調となってしまうが、そんなことに気を遣っていられるほど精神的な余裕は無い。こんな物を刀にするなんて馬鹿げている。いくら頭を掻き毟ろうとも想像すらできないのに、肝心の母は的外れなことしか言ってくれない。


「世の男性の下半身に別の意志が宿ることは不思議ではありません。ですが、母には息子が包茎にならないよう、皮を剥いておくことくらいしかできないのです。許しなさい」


「もう何も聞きたくありません! 家出します! 探さないでください!」


 紫の使命も何もかもを投げ出し、ライは生まれて初めて母から反抗する。だが時既に遅し。今この段階から試練は始まっていた。


 ライは道場から飛び出し、ろくに準備もしないで刀を二本だけ腰に差したまま、紫の領域である霊峰を駆け下りる。どうすれば運命から逃れられるのか? 走ったところで答えは見つからない。


(我を抜けば楽になれるぞ?)


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」


 股間からの思わぬ返答に気が狂いそうになる。とりあえず今は頭を空っぽにして落ち着きたいため、謎の声を認識しないよう走ることだけに専念したい。


 ライの悲痛な叫びは誰にも届くことなく、山の中で弱々しく木霊する。


「ご武運を祈ります、私の愛する息子よ。いえ、次に会う時は娘ですね」


 母はライが走り去った道の行く末を、遠い目で見守った。

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