姉妹と鬼(下)

 少女は他の妖怪変化を見たことがなかったが、母から自分たちの他にもいることは知っていた。しかし、それでも、何とも最悪な状況なのだろうと、自分の運の無さを嘆いた。そして、母の言葉が走馬灯のように思い出された。


「えぇか? この国でいっちゃん危険な妖怪変化はな、鬼や。


 一本ないし二本、もっとぎょーさん角を持った者もおるが、えぇか? 


 鬼に会ったら逃げることや。鬼は一時の気分で生きとる。気まぐれに生かし、気まぐれに殺し、気まぐれに喰いはる。


 会ったら息が切れて死ぬまで逃げぇや。


 その方がえぇ。鬼に殺されはるよりは、幸せや。


 鬼は畏怖べき者であり、恐るべき日本の神やからな。


 特に、朱色の二本の角を生やした鬼には気ぃ付けぇや。


 あれはもう、化物を超えた化物やさかい」


 少女は母が最も畏怖の念を抱く相手を前に、小刻みに震える自分の足の振動が妹に伝わってしまうのではないかと思っていた。

 握っている手で震えているのは解っていたが、それは妹が震えているのか、それとも自分が震えているのかさえも認知できないほどに頭が混乱していた。妹は少女に小声で話しかけてきた。


「あ、姉上……あの……でぼちんにある角は――」


「しっ! あれは、鬼や。しかも、目の前におんのは、母上が言っとった日本で最も恐ろしい、化物を超えた化物や」


「おぬしら人間ではないな?」


 鬼はそう言うと深く息を吸い込んだ。ここは自分が何とかしなくてはいけない。


「なるほど、狐か。しかも異国から来た者達か。わしの山に何用で来た?」


 しかし、管狐では絶対に対抗などできない。ましてや、自分の今の力ではどうすることもできない。


「おい! わしの言葉が耳に入らんのか小娘? 殺すぞ?」


 全身で覇気を感じさせるこの鬼は、八重歯というには鋭い歯を剥き出しにしてこちらを見ていた。


「す、すみません。ウチら……あの……人間に――」


「聞こえん」


「え?」


「二度は言わん」


「な、何どす?」


「死ね!」


 鬼はその声だけで台風のような強風を起こした。そして鬼の両目が紫色になった瞬間、心の臓が締め付けられる激しい痛みを感じ、少女はその場で倒れ、のた打ち回った。


「きゃあぁぁぁ! 痛いよぉぉぉぉ! やめてぇぇぇぇぇ!」


 鬼は刀にも似た鋭い眼つきで少女を見ていた。そして妹は少女を守るように覆いかぶさった。


「かんにんしてぇ! 鬼さん! きずつない! 鬼さん! かんにんしてぇ! ウチら人間に追われてるんや! すぐこの山出てくから! ウチから姉上を取らないでおくれやす! ほんに! かんにんしておくれやす!」


 そう何度も何度も、声が枯れるのではないかという大声で叫んだ。ぼたぼたと落ちてくる妹の涙が顔に当たる度に、死にたくない、妹を残して死にたくない。そう強く願った。

 それからすぐに心の臓の痛みは嘘のように消え、妹は少女に抱きついた。


「姉上ぇぇぇぇー!」


 少女が見ている世界が揺らめき始め、次第にそれは頬を伝い温かさを感じさせた。そして、妹を力いっぱい抱き締めて叫んだ。


「うわあぁぁぁぁぁ――」


 このまま鬼に殺される。そう思えば思うほど、様々な思い出や感情が心を乱して涙を流させた。


「かんにんなぁ! かんにんなぁ! きばれんウチで、ほんにかんにんなぁ! 守れへんウチでかんにんなぁ!」


「姉上ぇぇ! 生きとってほんに良かったぁぁぁ!」


 抱き合いながら泣き出した二人を、鬼は先程と変わらぬ殺意を持った表情で見ていた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁ! 五月蠅い!」


 再び強風が吹き荒れ、二人は涙を流しながら口を紡ごうとしたが、咽りをとめることはできなかった。鬼は二人を見て顔を歪ませ頭を掻き、大きな石に胡坐をかいた。


「おぬしらの話を聞かせい」


 少女は恐る恐る鬼に返事をした。


「何のことですぅ?」


「何故ゆえに人間に追われておる? おぬしらの母は何処に行ったのじゃ? おぬしらはあの女狐の子であろう? この間まで都にいた女狐の」


「母上を知ってはりますの?」


「まぁな。殺し合うほど仲が、というやつじゃ。おぬしらの匂いはあ奴と一緒じゃからな。して? 母は何処にいる? また人間の男でもたぶらかしておるのか?」


 警戒すべきなのだろうかと悩んでいても仕方がない。はっきりと言えば、鬼は感情の起伏が激しいのだ。理にかなった行動などするはずもない。今は落ち着いているこの状態から如何にして逃げるかを考えるべきだ。だから、少しでも生きられる望みがあるのなら、鬼と話をしてどう逃げるか考える時間を稼ぎたい。


「母上は……死にはりました……」


 少女は母のことを思って鬼から視線を逸らしてしまった。


「あの女狐が……死んだ……だと!?」


 鬼は今しがたの恐ろしさを纏った表情が崩れ、とても、とても信じられない、化かされているのではないかという顔をしていた。


「戯けたことをぬかすな! あの女狐が死ぬわけがない! このわしと互角に戦えるほどの異国の狐が……人間如きにその魂を奪われるなど、ありえん!」


「嘘やない! 母上は死んだんや!」


 妹が泣きながら鬼に向かってそのように言った瞬間に殺されると思ったが、鬼は何かを考え込んでいるように顎に手を置いて


「母のことを話せ」


 っと小声で言ったが少女には聞こえなかった。


「あの? 何をどす?」


「二度は言わん」


 そう言った鬼に妹は


「じゃあ他の言い方で言って」


 っと口にした。鬼は面食らっているようだったが、頭を掻きながら口を開いた。


「面倒じゃが……おぬしらの母の、最期を話せ。あの女狐は、本当に死んだのか?」


 少女は鬼に母の最期を語り始めた。


「討伐軍とか言いはる退魔のもんに……ぎょーさんな人間が、母上を……最後はウチらを守りはるために……ウチらを狙った二つの矢が刺さり、最後は長刀で切り付けられ……最後は、石になりはった……」


「それは真のことなのか?」


「はい」


「して? 何故ゆえわしの山に入ったのだ?」


「ウチらは、この山の先にある日本の妖狐の里へ行こうと……母上が、自分が死にはった時には、妖狐に助けを求めろって……」


「そうか」


 鬼はそう言うと天を仰ぎ、着物の裾から赤いひょうたんを出し勢いよく飲み始めた。飲み物が喉を通る音が山中に響いているのではないかと思うほど大きな音がしていた。鬼は飲むのをやめると雄たけびを上げ、裾で口を拭いてひょうたんを少女に投げてきた。


「ぬしも飲め。一口でも良い。ただ、口に含み、喉を通せ。妹御も、だ」


 二人は一口ずつひょうたんの中身を口に含み喉に通した。喉が焼けるのではないかというほどの熱さを感じ、これが酒であることを認識させるには十分だった。

 少女は嫌な顔をしないように努めたが、妹は喉を通した酒を吐き戻す勢いで嗚咽した。少女はすぐに鬼を見たが、彼女は怒っている様子もなく、ただただ、二人を、穏やかな顔で見つめていた。そして


「早くわしの山から出ていけ。そのひょうたんはぬしらにやる。餞別だ」


 そう言うと鬼は後ろ姿を見せ、肩肘を付いて寝転んでしまった。少女は妹の手を握り、駆け足でその場を去ろうとした。しかし、妹は鬼に向かって


「ほな、さいなら」


 っと言った。しかし、鬼は何も答えず見向きもしなかった。


「はよ行くで!」


 少女は妹の手を強く握り、今までで一番早く駆けた。そんな気がした。そして、そのまま再び山を出ようとした。

 しかし、ようやく麓が見えてきた。その時だった。


「見つけたぞ!」


 声がした方を向けば、そこにいたのは討伐軍の男衆だった。山の麓の傍で二人を待ち構えていた彼ら、その数およそ五十を超えていた。少女は咄嗟に裾から管を取り出して


「守っておくれやす!」


 三匹の黒い管狐は男衆に飛び掛かった。少女は毒を撒き散らすようにと念じ、それに呼応した管狐達は煙のようになり男衆の周りを駆け抜けた。

 苦しみ悶える人間達を尻目に、妹の手をさらに強く握った少女は走り出した。絶対にもう振り返ることはしない。そう誓った。

 もうすぐ山を出ることができる。あともう少し、木々を駆け抜けたその先には平坦な道が続いている。その道をひたすらに真っ直ぐ進めば日本の妖狐の里へ行ける。そう思った矢先だった。


「姉上!」


 妹の声で少女は自分の左手、その全ての指から真っ赤な血が流れ出し、痛みが全身を駆け抜けていたのにようやく気が付いた。


「きゃあぁぁぁぁ!」


 感覚を失いかけるほどの痛みに涙を流しながら少女は振り返らない誓いを破り、後ろを見てしまった。

 管狐は討伐軍の男衆を数人程度地面に転げ回させただけで殺すことができず、首と胴体を刀で切り離されて死んでいた。


 自分の左指で作った、母と一緒に最後に作った管狐を殺された少女は強く握っていた妹の手を放した。そして


「はよ逃げぇ!」


 っと言って妹を急かした。しかし、背後から聞こえてくるのは涙声をした妹だった。


「嫌やぁ! 姉上死ぬ気やぁ! 姉上が死ぬなら、ウチも一緒に死ぬぅ! 姉上もいーひんくなったら、ウチはどないしたらえぇのぉ!」


「きずいこと言いなさんな! はよ行くんや!」


「姉上ぇぇ!」


 少女は一人男衆に向かって走り出した。服を破り捨て裸になったその姿は、男衆に近づくたびに前のめりになり、健康的だった身体の線はさらに細くなり、やがて手だったものは脚へと変わり、フワフワとした雪原のような真っ白い体毛が全身を覆い、鼻は骨格を変え伸び、一本の尻尾が生えた子狐の姿へと変貌した。


「ここは通さへん!」


「姉上ぇ!」


「はよ逃げぇやぁ! 絶対に振り返ったらあかんでぇ! 生きて! 生きておくれやぁぁぁぁぁぁ!」


 男衆目掛け全速力で駆ける子狐は、死ぬことを恐れ震え、左脚を少し引きずりながらも歯を食いしばり、妹と一緒に生きることができなかった弱い自分に、母との約束を、何よりも、最後まで見届け、守り通すことができなかったことを悔やみ、涙を流した。


「殺せぇぇぇぇぇ!」


 男衆の叫びが山に木霊し、三十を優に超す矢が放たれた。


 その時だった。


 突如として山が震え、地が裂けた。子狐は急いで立ち止まり、裂けた地面の隙間から何かの、全身の毛が総立ちするほどの悪寒を感じた。


「姉上ぇ! 危ない!」


 子狐が天を仰げば、先程放たれた矢がもう地上に降り注ごうとしていた。


「母上、今行かはるさかい……」


「姉上ぇぇぇぇ!」


 妹の声が木霊した時、避けた地面から先程出会った美しい鬼が姿を現し、降り注いできた矢を砂塵のような粉塵にし、それは風に流されて消えてしまった。今、一体どうやって物を粉塵に変えたのか?


「鬼さん……どうしてぇ?」


「妹御の所へ行け」


「何で鬼さん? 何で助けてくれはるの?」


「わしの……わしの友の娘じゃからな」


 鬼の言葉は小声で、逆に男衆が鬼の出現に騒いでいて子狐には聞こえなかった。


「え? 今何て言いはりました?」


「二度は言わんと言ったはずだ――糞! よくよく考えれば今これは二度目だったな」


 子狐は振り返って自分を見る鬼の表情に違和感を覚えた。畏怖べき存在、恐るべき神である鬼が、優しい目をしていたのだ。


 討伐軍は突如現れた鬼に動揺を隠せないでいた。


「何だあの鬼は!?」


「えらいべっぴんだな」


 口々にする声を聞いた陣営の真ん中辺りにいた追い手の隊長、彼の近くにいた一人の男が顔色を変え呟いた。


「朱色の二本の角……美しい……鬼……まさか!?」


 追い手隊長は男に聞いた。


「何だ? 知っているのか?」


「覇王だ……」


「覇王? 女の鬼なのに覇王って何でだ?」


「早く逃げろ! 殺される! 皆殺しにされるぞ!」


 男は陣営の間を掛けて逃げようとしたが、隊長は彼を引き留めた。


「おい! 何で逃げるんだ? 数なら俺達の方が――」


「離せ! 離せしてくれぇ!」


「おい! 知ってることを話せ!」


「奴は! 奴は! 目で殺す!」


 男がそう言った時だった。前衛から討伐軍が次々に倒れ始め粉塵となっていった、そして


「嘘だろ……こんなとんでもねぇ化物が――」


 この国にいるのか?


 っと隊長は最後まで言葉を発することなく、死ぬ間際見たのは、紫色に輝く目をした美しい鬼の女だった。


 討伐軍全員が一斉に倒れ、やがて粉塵へと変わり、一陣の風が吹くとそれは風と共に何処かへ去ってしまった。妹は子狐の元に駆け足で向かいながら叫んだ。


「姉上ぇぇぇぇぇ!」


 妹の声に振り向いた時には、少女の姿に戻っていたが、衣服を破り捨ててしまったため、彼女は生まれたままの姿だった。妹は少女に抱きつき涙を零しながら喚いたのだった。


「姉上ぇぇぇ! もうウチを一人にせんといてやぁ。もうウチには姉上しかおらへんもん!」


「ごめんやす。もう何も心配いーひんから。ウチはずっと一緒やさかい」


「姉上ぇぇぇぇ!」


 少女は鬼の視線に気が付き彼女を見た。鬼はやはり自分達を穏やかな菩薩にも似た表情で見つめ、そしてこう言った。


「おい! このままここで、わしと共に生きぬか?」


 少女は少しばかり考えた。このままこの鬼と一緒に過ごしても良いのではないかと思ったが、母の忠告を思い出した。そんな少女の考えとは裏腹に鬼は一人で話を続けた。


「わしには子がおらん。あやつの子なら、きっと強い女狐になるじゃろ。それならわしもこれから先の楽しみが増える。わしの元にいるのなら、その間はぬしたちを脅かす全ての者を殺そう。どうだ? 良い提案ではないか?」


 少女は妹と見つめ合った。妹の泣きじゃくった表情を見るのは、もうこれで終わりにしたい。そして、鬼が言っていることも理解した。いつか、自分たちが成長した時には、殺し合いをしたいのだということを。


「どうだ? 二度は言わんぞ」


 少女は視線を妹に移し瞳を見て微笑んだ。そして、また鬼の方を見て口を開いた。


「おおきに鬼さん。でもウチら、妖狐に世話になるわ。ほんに、おおきに」


「そうか。まぁ、どうせわしは絶対に死ぬことなどない。いつか、ぬしらが九つの尻尾になったら逢いに来い。その時は、殺し合いなどせず、ぬしらの母の話をしてやろう」


「おおきに、鬼さん。楽しみにしとるわ」


「とりあえず、服を着ろ」


 鬼は裾から取り出した虎柄の掌ほどの大きさの巾着袋から真新しい子供が着れる着物を取り出して少女に渡し


「では、また逢えたら良いな」


 っと言って歩き出した。


「おおきに鬼さん! ほんに! おおきに!」


 少女の後に続いて妹も鬼に向かって叫んだ。


「おおきに! 姉上を守ってくれはって、ほんにおおきに!」


 鬼は振り返ることなく山の奥へと姿を消した。少女は妹の手を強く握り締め山を出た。


「行くで」


「うん! 姉上!」


「ずっと一緒やさかい。永遠に、ウチらは一緒や。ねぇねはずっと、一緒におるで」





 その後、妖狐の里に辿り着いた二人は無事に保護され、穏やかな日々を過ごした。長く続くことはなかったが――。


 また、姉妹はいつ再会しても良いようにと、鬼からもらったひょうたんには、あの時飲んだ物と同じ濃さの酒を注ぎ続け、いつも口切りいっぱいまで入れていた。

 二人は鬼のことを忘れることは決してなかった。そして、鬼も二人のことを忘れること決してなかったのだった。




 九尾の狐の姉妹はその後どうなったのか?


 覇王と呼ばれた鬼は二人と再会したのか?


 それはまたいつか語られる異聞である。

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百鬼絢爛 異聞 「姉妹と鬼」 赤城 良 @10200319

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