「パートナー編」

【No. 041】俺の半身

 軽くスロットルを開けて、キルスイッチを入れる。エンジンがストンと止まりあたりに静寂が戻ってきた。俺のバイクはノーマルだがそれでもかなりうるさい。いつもなら気にもならないが、今日はどこか違う。

 バイクのシートに寄りかかり、フルフェイスヘルメットのシールドを上げた。まだ冷たい春の風が心地よい。ヘルメットを脱ぐと深呼吸をする。見慣れた風景も今日はどこか違う、いつもなら夕日に染まっている谷間たにあいが真昼の光に照らされているということだけではない。


 ここには、もう何度来ただろう。峠の見晴台。妻のお腹が大きくなる前には、タンデム二人乗りツーリングの帰りにここで休憩するのが習慣だった。それも、これが最後になるのだろう。もうすぐ生まれる子のために妻にはバイクを降りてくれと懇願された。あんなに一緒にツーリングに行ったのに、変わるものだ。それに、引越し先にはバイクを停める場所がない。こんなモンスターバイクをマンションの狭い自転車置き場には置けない。といって、半身パートナーを目に届かないところに置くなんて考えられない。辛いが、手放すことに決めた。


 バイクのタンクを手のひらで軽く叩く。ほとんど空のタンクはポコンと軽い音がした。思えば此奴こいつは、初めての給料でローンを組んで手に入れて以来十年の付き合いになる。1000ccのバイクこいつにまたがり初めてエンジンに火を入れた時には感動したなあ。体に伝わる振動とアイドリングの排気音ですら腹の底に響き、魂を熱くするものがあった。俺はいつのまにか、この十年に思いを馳せていた。


 あれは、真冬だった。出張に新幹線を使わずバイクこいつで東京から大阪まで高速で移動した。ほぼ八時間かかり、着いた頃には躰の芯からすっかり冷え切っていた。出張先の大学の仮眠室?のガンガンと燃えるガスストーブの前のソファに倒れこんで気がついたら三十分以上経っていた。体はすっかりあったまっていたが、あれは完全に低体温症になっていたと思う。今思うと危なかった。そんな事(真冬にバイクで600Km移動なんて)なんて、なんでしたんだろう。決まっている。此奴こいつに乗るのが楽しかった。とにかく乗っていたかったんだ。

 深夜の山道をガソリンが切れることを恐れながら走った事もあった。桜の山道を巡った事もあった。夏の渋滞で蒸し焼きになりそうになった事もあった。苦しい事も楽しい事もいい思い出だ。


 妻との出会いもバイクが縁だった。会議に遅刻しそうになり焦って会社の前にバイクを止めた時、場所が悪かった。出口から走り出た彼女がぶつかって来て、またがったまま立ちゴケした。

「うあぁ。バイクが、バイクが」と慌ててる俺を尻餅をついたままで彼女は唖然として眺めていたそうだ。「あの時は、尻餅を着いた私を放ったまま、なんて奴って⁈、思ったわ」と何度言われた事だろう。でも、すぐに気がついて助け起こしたから、今の人生があるとも言える。

 まあ、ぶつかって来た彼女も負い目があったから、お詫びの食事の誘いに乗ってくれたんだけどね。それから、二人と一台でいろんなところにタンデムでツーリングに行った。

 日帰り、初めての泊りがけ……。


 俺はしんみりとした気持ちでバイクこいつを見つめる。此奴こいつにはずっと乗り続けると、素朴に信じていたのに。きっと、俺は家族で乗れる車を手に入れるだろう。そして、渋滞をすり抜ける事もなく、おとなしく並んで退屈な時間を過ごすようになる。運転は単なる移動になり、トキメキもなくなるんだろう。

 スロットルを開けてレッドゾーン寸前に、ギアを蹴上げてセカンドに上げる。クラッチを繋ぐともう時速100kmに迫っている。ほんの数秒のことだ。体にかかる激しい加速、跳ね上がる鼓動。山道をバイクと一体になりながら駆け抜けていく。どれも、なににも代えがたい快感だった。

 今は諦めよう。身重の妻の願いと身に背負う重荷は此奴こいつでは運べない。

 だが、いずれまた……


 気がつくと景色は夕刻の光に染まり始めていた。

 俺はヘルメットを被ると、此奴こいつでたどる最後の家路に向け走り出す。今は、この数時間だけは、俺は此奴こいつとの時間を楽しもう。丁寧に此奴こいつとの時間を過ごそう。ギア操作、クラッチ、ブレーキング、バイクと一体化したハンドリング、もう還らない時間を惜しむように。そして、バイクこいつは、最後の走りツーリングに笑って送り出してくれた妻が待っている家に送り届けてくれる。

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