「食編」

【No. 053】俺がおまえの飯の面倒を一生みてやる

 朝日のオレンジが眩しい光に変わるころ、俺は窓際の茶色い布を被せた50cm四方くらいのブロックに歩きよる。

『おはよう』

 高齢の女性のような声がその中から聞こえてきた。祖母に似た声だ。

「おはよう」

 俺は声をかけながらブロックの布をはがす。中からは太い針金でできたケージが姿を表す。ケージの中には全身が灰色で尻尾が紅色の大きな鳥がいて、やっときたかという顔をしている。正面には20cmx30cmの扉が付いており、俺はロックを外し扉を開けた。

 そいつはケージの扉の上側をくちばしで咥えると足を使って器用に出てくる。扉の上まで移動すると翼と足を同時に伸ばして伸びをすると落ち着いて羽繕いを始める。ぐずぐずしていると、急かす様な目つきでこちらを見てくるので、俺はいつもの様に水と餌を交換するのだ。布のカバーをかけている間は色々と喋っているが、俺の顔を見ると押し黙り、『ぴぃ』とか、『ぎゃっ』とか鳥の鳴き声しか出さなくなる。

「おいで」

 俺は、声をかけて手刀の形にした右手を奴の前に突き出した。嘴で俺の手を押しやり乗ろうとしない。『きゅうう』とひと鳴きして水と餌の交換を待っている。

「なあ、もういい加減慣れろよな」

 思わず、文句の一つも言ってみるが、当鳥とうにんは知らん顔だ。


 こいつの世話をする様になってもう三月みつきは経つ。同じ敷地に暮らす祖父じいさんが具合悪くて入院することになった。それで、二階の書庫の端で飼っていた鸚哥いんこの面倒を頼まれたのだ。共に面倒を見ていた祖母もとうに去り、祖父が一人で面倒を見ていた。

 大学の授業にも出ずフラフラしていた俺に面倒を押し付けたわけだ。朝の水と餌の交換、夜のケージの掃除、聞いただけでも面倒なこと、請け負うつもりなどさらさらなかった。だが、文筆業を生業としていた祖父の書庫に入れると聞いて一も二も無く引き受けた。書庫に入れる人間は限られていた。祖母と歴代の書生たち。それこそ、小説家を目指していても、いい加減な俺などこんな理由わけがなければ許可ゆるしが出ろうわけもなかった。


 祖父が鸚哥いんこを飼っている事は聞き知っていたが、それまで見た事はなかった。初めてこいつに会った時には、『ぎゃっ』と声を上げ、ケージの中に閉じこもり出てこなかった。夜のケージの掃除は鸚哥いんこが出てこないので困った。その黒く曲がった猛禽の様な大きな嘴が怖くて中には手を突っ込めない。どうしようかと思っていたら、奴の方が怖がってケージの端にうずくまるので掃除には結局困らなかった。


 俺は、別にこいつと仲良くするつもりもなかったので、水と餌を替えるとさっさとケージのそばに置いてある椅子に腰掛け本を読む様になった。毎日、朝と夜の数時間、時には一日中ケージの前で本を読んでいると、二週間ほどした頃にはケージから出てくるようになった。

 あとで聞いたのだが、祖父も朝と晩に椅子に腰掛け本を読んでいたそうだ。時には本を片手に奴に話しかけたり、読み聞かせたりしていたそうだ。

 その頃には俺もすっかりここで過ごす時間が気に入って、こいつに何かと声をかけるようになっていた。祖父に聞いて、お気に入りの胡桃やアーモンドを持っていくようにしたら、そのうち手から受け取るようになった。こうなると、現金なもので俺もこいつを可愛いと思うようになっていった。

 考えてみれば、こいつはもう三十年近くもこの場所にいて、構ってくれるのは祖父を始め数人の人間だけ、ほとんどの時間は一羽ひとりで過ごしていたのだ。そこに見たことのない人間が現れたのだから怖くて当たり前だったんだ。


 二月ふたつきもすると警戒心を解いて、俺の前でも羽繕いをしたり、窓の外から聞こえて来る鳥の鳴き真似をしたりするようになった。しかし、俺が話しかけても喋ってくれない。それでも話しかけていた。そのうち、頭を掻いて欲しがっていることが仕草で判るようになった。初めて頭を掻けた時には嬉しかったなぁ。思ったよりモフッとしてゴリゴリ感もあり独特の感触だった。

 嬉しくて、祖父に報告したら祖父じじいのやつ、嬉しそうに鸚哥と会話する話をしやがる。そうだよ、俺はまだあいつに返事をもらったことがない。


 ゆっくりすぎていく時間、椅子に座り本を読む、時に声を出して語り聞かせるように感情を込めて読んでみる。金色の虹彩に気ぜわしげに大小を繰り返す黒い瞳は、いつも俺の様子を首を傾げ見ていた。


 祖父の具合がいよいよ悪くなってきた。見舞いに行っては鸚哥のことを話してやると、嬉しそうにあいつの名を呟き頷く。鸚哥のことばかりだったけど、祖父とこんなに話をした事はなかった。


 とうとうその日が来て、全てが終わった後、書庫のあいつの世話をしに行った。

 思ったより落ち込んだ気持ちのまま、あいつの世話をしていた。俺は祖父が嫌いだったんだ。子供の頃書いた小説を無視されて以来嫌いになった。きっと何か理由が有ったんだろう、今はそう思う。

「なあ、じいさん逝っちまったよ。

 最後はおまえに会いたがっていたな。

 おまえの面倒を見ていた人たちはみんな旅立っちまったよ」

 あいつは、ケージのいつもの場所から俺の顔を見上げていた。いつもなら羽繕いを始めるのに、その日は違っていた。俺の顔をずっと見ていたんだ。そして、片足を上げた。俺は思わず手を出した。するとそのまま手に乗って来る。その重みを感じていると、急に目頭が滲んできた。涙がケージの底に敷いてある新聞紙を濡らしぽとりと音を立てた。悲しかったのか、乗ってくれたのが嬉しかったのかわからない。きっと感情が高ぶっていたんだろう。

 それ以上涙を流す事はなく、椅子に腰掛け鸚哥の頭を撫で続けた。大型鸚哥は寿命が長いと聞いた。まだ二十年以上あるらしい。こいつの面倒はだれが見るんだろう。

「なあ。

 おまえのご飯はだれが面倒見てくれるんだろうな?」

 いつものように話しかけていた。

『ごはんください』

 驚いた。鸚哥が俺の顔をみて返事をした。今まで一度も俺の前では言葉を発した事はなかったのに。その言葉で俺は決心した。

「わかった。

 俺がおまえの飯の面倒を一生みてやる」

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