199607⑤

 西野の怒声が飛んだ。


「みんなが頑張ってるのに、なんでお前はそういうことを言うんだ!」


 その言葉を成人すらしていない若者が無言で受け止める。


 ナイジェリア戦のハーフタイム。


 ロッカールームに引き上げてきた仲田は、左サイドでプレイする路木にもっと押し上げてくれないとサッカーにならないと不満をぶつけていた。

 困ったのは路木だった。試合前、路木は「ブラジル戦同様、自陣でボールを奪うことを考えるように」と指示を受けていたからである。


 監督の指示に従い、自分なりにその仕事をこなしているという認識でいた路木にとって、仲田の言葉はすんなり頷けるものではなかった。


 自分の意見をぶつける仲田と困惑する路木。二人のやりとりを聞きつけた西野には放置するという選択肢はなかった。監督の指示に対する選手による明確な反逆。


 西野が怒りを爆発させる。


 それは西野が監督となって初めてのことであった。


 五輪本大会という大舞台のハーフタイムに起きた異常事態。この瞬間こそ、日本五輪代表が完全に崩壊した瞬間であった。


 それが史実である。









 ブラジルを破った日本は勢いに乗った。


 続くナイジェリア戦はブラジルから中1日という強行軍。


 西野をはじめとするスタッフ達は勝利の歓喜にひたる時間もなく、すぐさま選手達の疲労をとることに思考を切り替え、選手達のケアを図りながらナイジェリア戦を迎えた。


 当時のアフリカのチームといえば、高い身体能力に頼った荒削りなサッカーが定番。しかし、アトランタ五輪のナイジェリアは、それまでの常識を覆すようなチームであった。

 個々の潜在能力が高いうえ、チームとしても隙がない。アフリカに対するイメージを変えなければならないほど組織的なチームであり、強敵であった。


 ナイジェリアの布陣は4-4-2。2トップにカヌーとアモカチ。中盤を構成するのはオリセー、アムニケ、ババンギタ、オコチャ。DF陣は左からオバラク、 オケチュク、ウエスト、ババヤロ。GKにドス。


 マスコミの報道は綺羅星のような攻撃陣に注目が集まっていたが、ナイジェリアの強さのベースは守備陣にあった。


 オーナーエイジ枠で参加したCBのオケチュクは対人プレイに強いだけでなく、高いテクニックも兼備。そのオケチュクと中央でコンビを組むウエストは抜群のスピードと身体能力を誇る。

 ババヤロ、オバラクの両翼は一定の守備力と高い攻撃性能を持っており、日本攻撃陣がこの鉄壁の守備陣をいかに切り崩すかが焦点であった。





 オーランド州にあるシトラウスボウル・スタジアムで迎えたナイジェリア戦。


 日本は3-5-2の布陣。2トップは城、中園、トップ下に仲田。ドイスボランチに伊東、服部、左WBに路木、右WBに白井。3バックは左から松田、井原、田中。GKに川口というメンバー。

 ブラジル戦で尋常でない運動量を強いられた両サイドをフレッシュな選手に代え、本選出場を賭けた一戦に挑んだ。


 序盤に流れを掴んだのは日本。2分、右サイドから仲田がミドルシュートを放つ。15分には中園が左サイドから切り込み、際どい場面を作りだす。


 19分、日本は決定的な場面を迎える。仲田のスルーパスを受けた城が抜け出し、GKとの1対1を迎えるもここは相手GKのファインセーブに阻まれてしまう。あと一歩という場面が続きつつも、試合の主導権は日本が握っているように見えた。


 しかし、30分を過ぎたころから少しずつ流れがナイジェリアに戻り始める。


 ナイジェリアの圧力が増し、日本守備陣はじりじりと後退しはじめ、日本は2トップと中盤、守備陣の距離があきはじめる。

 盛り返したナイジェリアがその実力を発揮し、試合は一進一退の様相を見せながらもスコアレスで前半を終えることとなり、事件が起きる。





 仲田と路木が言い争い、それを見た西野が仲田の肩に手をかけながら言う。


「お前の言うことももっともだが、他の選手を見てみろ。ブラジル戦の疲労の影響で満足に身体が動かないんだ。こんな状態で攻めに出たら間違いなく大量失点につながるだろう。ここは我慢だ。我慢して勝ち点1取れればほぼ間違いなく決勝トーナメントに進めるはずだ」


 一進一退の状況ながらも、多くの選手はナイジェリアの身体能力に驚愕を覚えていた。疲労の影響か、城の足はつり、守備陣の消耗は激しい。

 そんな中、後半は攻めるべきだと考えた仲田は異端であり、チーム全体が見えていなかったのかもしれない。


 しかし、仲田には根拠があった。45分を終え、仲田も驚愕を覚えていた。もっとも彼が驚愕を受けたのはナイジェリアの強さにではない。その弱さであった。


 仲田がその人生で最も衝撃を受けた試合。U-17世界大会前の練習試合の相手こそがナイジェリアであった。

 圧倒的なまでの身体能力の違いに衝撃を受け、何をしても歯がたたないと感じた相手は「仲田主観」で言えばほとんど伸びていなかった。

 絶望的なほどの「差」を感じた相手は、この五輪の場において「十分手の届く存在」になっていたのである。


 仲田と同じように感じた選手は他にもいた。仲田と共にU-17世界大会に出場した松田である。松田もまたカヌーをマークしつつ、彼らの停滞を感じていた。

 ブラジル相手ならともかく、相手がナイジェリアであればラインを押し上げることも可能だ、と。


 しかし、この二人は少数派であった。二人にとって練習試合を含めれば4度目の対戦となるナイイジェリアも、他の選手達にとっては初めての相手。

 多くの選手達は相手の身体能力の高さに驚愕し、追いつめられていた。


 同じ相手と対戦しながらも、彼らが感じる感触は劇的なまでにかけ離れたものであった。


 選手間に生まれるギャップ――そのことを西野は知っていた。


 五輪に臨む西野を様々な方面からサポートしてきた後輩――宮原から言われた言葉。


『ナイジェリアとハンガリーなら攻めてもいいかもしれない』

『アフリカ勢って身体能力に頼ってる奴も多いから意外に伸びてなかったりしますよ』


 相手の方が格上なのは明白であるとした上で、『世界を知る仲田や世界を目指す中園ならば攻めを望む気持ちも生まれるのではないか』と。


 後輩の言葉を思いだしながら、西野は決断する。





「だが、守備一辺倒にするつもりはない。窪、拓海後半から行くぞ! 窪を前に残してカウンターを狙う。窪、ゾノ、仲田で攻めつつ、拓海は状況を見ながら上がれ! 無理はするな。ただし隙ができたら一気にいけ! 勝ちたいのは俺も一緒だ! お前らがどこまで世界に通じるか知りたいのもな! だが、それ以上にこのチームで決勝トーナメントに上がりたい! しんどいが、みんなふんばってくれ!」


 西野の言葉を受け、選手達の瞳に火が灯った。


 史実と異なる西野の決断。日本五輪代表が一つにまとまった瞬間であった。

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