199607③

 日本のロッカールームはどこか夢見心地のような高揚感に包まれていた。直前に行われた試合で、『世界選抜』すら圧倒した王国ブラジルに、前半を無失点で終えたという事実はそれだけで快挙とも呼べるものであった。

 日本のサッカー関係者ですら予想していなかった健闘に、日本の選手達はかつてない充実感と、自分達もできるという手応えを感じていた。


「なんだ、俺達でもやれるじゃんか」


 そんな軽口すら聞こえるロッカールームの雰囲気を引きしめたのは主将と監督であった。


「ブラジルはここからさらにペースをあげてくる。さらにしんどい状況になるだろうが……気を抜くんじゃないぞ」

「井原の言う通りだ。前半は前からのプレスも効いてた。守備陣の健闘もあった。川口のファインセーブも飛び出した。慢心することなく後半もこれを続けていこう。ブラジルとて同じ人間だ。必ず、必ずチャンスが生まれるはずだ。その一瞬を掴みとれ! 勝つぞ!」


 井原がチームをまとめ、西野が後半の策を伝え始める。日本はいささかの油断もなく、勝利への明確な意思を持って後半を迎えることとなる。





 しかし、ブラジルの本気は彼らの想定を超えていた。


 後半開始30秒。ロベウト・カルロスからのクロスをベベトが頭で合わせると、その15秒後にはあわやのラストパスがベベトの足元に入りかける。

 2分、左CKをファーポスト際に走り込んできたジュニーニョが頭で合わせる。


 ブラジルは開始早々からその世界一の個人技を出し惜しみせず、津波のような攻撃を仕掛けてきた。

 日本の選手達は死に物狂いで追いすがるが、追いついたと思った瞬間に更にそのスピードは増していく。

 選手達は後半開始前に井原の言った言葉を反芻しつつ、「ここまで上がるのか」と軽口を叩いていた自分達を後悔し始めていた。





 10分を過ぎた頃にはブラジルのDFは二人しか残っていない状況であった。

 両SBは前半より20mほどポジションを上げ、SBというよりウイングと呼ぶべきポジションをとっている。


 ブラジルの左SB――ロベウト・カルロスに対応していたのは藤堂明弘。

 セリエAの強豪インテルでプレイするロベウト・カルロスは『悪魔の左足』を持つ超攻撃的SBとして世界にその名を轟かせていた。

 既にA代表の経験を持ち、セリエAでも30メートル以上のロングシュートを何本も叩きこんでいる怪物への個別対策は日本にとって必須のものであった。


 事前の綿密な分析と打ち合わせによって明弘が徹底していたのは2点。

 左足でのシュートを防ぐべく中に追い込むこと、スピードに乗ってオーバーラップさせないよう簡単にボールを持たせないポジショニングを徹底すること。


 明弘は攻撃参加を自重し、ロベウト・カルロス対策に専念していた。それでもロベウト・カルロスを完璧に抑えきることはできず、後半開始早々に決定的なチャンスを招いてしまっており、明弘はこの試合中自分が攻撃に参加できる機会は一切ないだろうとすら思い始めていた。

 それほどブラジルの個の力は凄かった。


 前半45分間で3本しかなかった枠内シュートは、後半15分で5本を超えていた。波状攻撃を繰り返しつつ、最後の最後で決めきれないブラジルがまず動く。

 19分、ロナウジーニョ――PSVアイトフォーフェンからバルセロナへの移籍が決まった『怪物』ストライカーが投入される。


 更に圧力の増したブラジル攻撃陣の中央突破を日本がぎりぎりのところで凌ぎ続けていた22分。酔っぱらったブラジルのファンがグランドに乱入。


 試合は一時中断となったが、偶然生まれた空白の瞬間も日本の選手達の集中力が途切れることはなかった。日本の選手達は諦めることなく、虎視眈々とその牙を突きたてる瞬間を狙い続けていた。

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