199607①

 マイアミは暑い夏を迎えていた。SC鹿児島の運営するスポーツビュッフェSCKに設置された大型ビジョンには、どこまでも透き通るような蒼い空に浮かぶ白い雲が映され、マイアミの日差しの強さ、空気の熱さを伝えていた。


 28年ぶりの五輪本選出場。アトランタ五輪グループリーグ第一戦であるブラジル戦。現地時間18時半のキックオフを控え、早朝にも関わらず店内は熱い熱気に包まれていた。


 この日、SC鹿児島から五輪代表に選出された藤堂兄弟と窪、鹿児島出身の中園や城を応援しようと、SC鹿児島は経営するスポーツビュッフェSCK全店で観戦企画が開催されてていた。

 通常料金から破格の4割引という値段設定にも釣られた人々により、店内は盛況を迎えている。


 特別に設けられた関係者席にはSC鹿児島の選手達だけではなく、藤堂兄弟の両親や中園の母親といった鹿児島出身の選手達の肉親も集っていた。彼らをもてなしつつ、宮原は今回の企画の成功を確信していた、





 今回の観戦企画はスポーツビュッフェSCKという事業単体で判断すると大幅な赤字である。いかに原価率の低い飲食事業とはいえ、値段を4割も引けば客が入れば入るだけ赤字が増えていく。

 しかし、この企画の価値はこの企画単体の収益ではなかった。


 宮原は店内隅に陣取る集団に目をやった。鹿児島出身選手達の肉親から試合後にコメントをもらうために集まったマスコミの面々である。

 地元だけではなく全国から集まった彼らの報道によって、選手達に限らずSC鹿児島、スポーツビュッフェSCKの名も全国に報道される可能性が高い。


 この日の一時的な赤字は将来への投資である。その宣伝効果を計算すれば、大きな収益をクラブにもたらすこととなるのである。


 また、スポーツ観戦の文化普及という観点もある。本来であれば98年、02年のW杯を通して普及されていく不特定多数の人間との観戦文化を、マスコミを利用して普及させようと考えたのである。


 ここで大切なのはスポーツ観戦=スポーツビュッフェSCKというイメージを浸透させることである。日本において『発祥の地』というのは一つのブランドである。

 ブランドは目に見えるものではなく、その価値の評価も難しいものであるが、この日確立させるブランドイメージが、今後の事業運営において大きな武器となることを宮原は期待していた。


 大型ビジョンに映る選手達のアップ映像の中、宮原は見知った男に目を向ける。男に聞こえないことを認識しつつも言葉をかける。


「俺も色々頑張ったんだから、これぐらいの見返りはいいでしょ? あとは先輩と選手達の頑張り次第だ。勝ってくださいよ」









 深夜、五輪代表監督である西野は目を覚ました。


「0-8か……」


 額に流れる冷たい汗を拭うと、西野は深い溜息をついた。


 ブラジル代表という圧倒的な巨人との闘いを目前に控え、西野を始めとしたスタッフ達は懸命の準備を進めていた。

 可能な限りのビデオを取り寄せ、有料で公開されていたブラジル代表の練習にスカウティングスタッフが足を運ぶ。少しでも勝てる可能性を模索し、苦闘していた。


 今回の五輪に臨むブラジル代表は「世界最強軍団」と呼ばれている。名将サガロに率いられた世界最高峰の選手達。


 GKジダ、DFのゼ・マリア、アウダイール、ロナウド、ロベウト・カルロス、MFアマラウ、フラジオ・コンセイソン、ジュニーニョ・バウリスタ、リパウド、FWベベト、サビオというスターティングメンバーにはA代表に選抜された選手だけではなく、94年W杯優勝メンバーまでが含まれている。

 後に怪物と呼ばれるロナウジーニョですらレギュラーではなくベンチに座るほどの豪華布陣であり、直前に開催された「世界選抜」との試合では「世界選抜」を一蹴。


 ブラジルは本気であった。


 94年のW杯優勝時、決勝戦直後のインタビューでブラジル代表FWロナーリオが「次はオリンピックで金メダルを取ることが目標だ」と宣言するほどブラジルは求めていたのだ。金色に輝くメダルを。

 数々の世界大会を制覇してきたブラジルに残されたラストピースに必勝態勢で挑むブラジル。


 まぎれもない優勝候補筆頭であった。





 選手達は絶望するかもしれない。下手をすれば試合開始前に諦める者すら出るかもしれない。西野は悩みながらもスカウティングビデオを選手達に見せた。


 彼らは軽口をたたくこともなく、終始無言であった。世界を知るといったレベルではなく、世界最高の実力と相見えなければならないという現実は、彼らにとって想像すら難しいレベルの話であった。


 しかし、ブラジル代表とて無敵ではない。西野達は懸命に見つけたブラジル守備陣の穴を伝えた。数少ないブラジルの失点シーンをビデオにまとめ、彼らの先入観を壊そうと試みる。


 西野自身勝率は1割あればよいと思っていた。毎晩大敗する悪夢に苦しめられた。しかし、彼は諦めていなかった。

 数こそ少ないが、彼を信じ、助けてくれる人々のために。遙か遠い母国で懸命に背中を押してくれるサポーター達にために。


 西野は微かな光明を手繰り寄せようと、懸命にもがいていた。





 西野の五輪への道は苦境であった。非協力的な協会とマスコミの報道。これらに苦しめられた西野であったが、後輩である宮原の働きによってその影響は軽減されつつあった。


 Nリーグクラブの社長としてリーグの理事を務め、豊富な人脈を誇る宮原は、積極的に西野とサッカー協会の間に入り、両者の溝を埋めようと健闘した。


 例えばオーバーエイジ。


 五輪本選が近づくにつれ、国内ではオーバーエイジを使うべきだという声が増えつつあった。

 西野自身、選手間の連携の問題を考えて導入に消極的ではあったが、協会はこの問題に対して西野の希望によるものであると対処したのある。


 しかし、事実は異なる。オーバーエイジに関しては五輪代表発足の際、協会との取り決めの中で導入しないという約束が成されており、協会の意向を酌んだものであったのだ。


 宮原は言った。


「いいじゃないですか、先輩。協会が先輩の意向を酌むってことなんですから、それを利用しましょう。守備の連携が気になるんでしょうけど、こいつなら連携も大丈夫でしょ? というかこいつなら攻撃陣と守備陣の軋轢もまとめて解決できますよ」


 西野は宮原の忠言に従い、一つの決定を行う。その決断が中園の主将という重責からの解放、攻撃陣と守備陣の意思統一へとつながることとなるのである。





 その日、始めて五輪代表の守備陣にスポットが当たった。


 オーバーエイジの導入を決めた西野が発表した「アジアの壁」井原昌巳の五輪参加はスポーツ紙の一面を飾り、その後、攻撃陣に偏った報道は鳴りをひそめることとなる。


 中園に替わり、主将の任に就いた井原は語った。


「選手それぞれがそれぞれの目標を持って試合に臨むのは当たり前。ですが、プロとしてピッチ上でベストを尽くすのも当たり前。チームメイトにはベストを尽くすための準備を全力でお願いしたい」


 圧倒的な実績を誇る日本最高のCBは瞬く間にチームをまとめ、不協和音を消し去ることに成功する。





 井原の五輪参加発表によって偏りの崩れた報道体制に宮原は更に追い打ちをかける。


 ネット社会黎明期のこの時代、情報発信の主流はあくまでテレビや新聞であった。

 情報はマスコミを通じてコントロールされ、マスコミの発信内容こそが世論であるという風潮。この社会的問題に穴を開けるべく、宮原が利用したのがインターネットであった。


 西野に対しては先に挙げたオーバーエイジの問題だけではなく、その戦術に関しても批判が発生していた。


 攻撃陣の発言ばかりを取り上げるマスコミは、意図的に「もっと攻撃的に行きたい」という趣旨の発言ばかりを取り上げ、いつしか「西野は守備的」というレッテルが貼られていた。

 サッカーのことをよく知らない記者達の適当な主張が正論かのように蔓延していく世論に歯止めをかけたのは宮原の個人HPであった。


 SC鹿児島の公式HPの開設と共に作られた個人HPで、宮原は鹿児島の試合の寸評やサッカー界に対する所見を綴った。

 海外で活躍した元サッカー選手でありながら、実業家としても活躍する宮原の知名度は高く、その影響力は極めて大きなものがあった。


 宮原は自身のHPでこう書き記した。


「『西野監督の戦術は守備的である。自陣に引き籠っていては勝てるものも勝てない。だから攻撃的にいくべきである』。こんなことを主張する人が最近多いですね(笑)。今までサッカーなんて見たこともなく、流れにのっかって書いてみたって人に多いみたいですけど(笑)野球とサッカーの区別ついてますか? サッカーは攻撃も守備も全て一つの流れの中にあるんですよ(笑)。攻撃的に行けと主張する人達に聞きたい。ブラジル代表の実力を本当に理解してますか? 勇猛と無謀の違いとか分からないですよね(笑)。僅かな勝機でも、全力で勝利を掴もうとする姿勢を『守備的』の一言で済ませることなんて誰にもできない、と自分は思うんです」


 宮原のこの記事がアップされた後、表面上は西野の戦術を叩く記事は減ることとなった。


 これらの宮原の動きによって、協会やマスコミといった正史において五輪代表を苦しめた様々な悪要因は少なくとも軽減されることとなる。


 憂いを断った若き英雄達の世界最高への挑戦はどのような結末を迎えるのか?

 決戦は間もなく。火蓋を切ろうとしていた。





 なお、宮原の記事で4個も使われた『(笑)』が正史よりいささか早く普及するという副次的な効果があったことをここに記す。

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