199605④

 一夜にして世界が変わることがある。


 激戦を終え、日本に帰国した彼を取り囲んだのは大量のシャッター音とフラッシュ、たくさんのインタビュアー達であった。

 選手達があらゆるメディアから取材を受ける中、チームを主将として引っ張り、本選出場をかけた試合で殊勲のゴールを上げた青年は、まさしく国民的スターとして持ち上げられることとなった。


 分刻みで行われるインタビュー、テレビCMに流れる自分の姿。鹿児島から出てきたどこか純粋さを残した陽気な青年を取り巻く環境は劇的に変革していくこととなる。


 有名になりたい。サッカーで成り上がりたい。


 幼くして父と別れ、懸命に自分達兄弟を育ててきてくれた母の姿を見てきた彼がそう願い、努力してきたことに誤ちはなかった。


 しかし、彼は知らなかった。


 何かを成し遂げ、新たなステージを踏み出す際に失われていくものがあることを。





 彼がかつて求め、手に入れた知名度という力は諸刃の刃であった。

 はじめこそ変わりゆく環境の中にある新たな出会い、刺激を楽しむことができた。しかし、その知名度が彼からプライベートの時間すら奪っていった。


 彼の周囲を彼自身よく知らない人達が取り囲むことが増えた。好意や嫉妬、打算といった様々な感情が入り乱れた空間が彼を中心に形成され、周囲に気を遣う性格である彼の心を激しく摩耗させた。


 彼がコンビニで買い物をした時のことである。

 支払いを済ませ、店を出る際に聞こえてきた「有名人もこういうの買うんだな」という店員の会話。


 彼の一挙手一投足はマスコミだけでなく、世間から常に注視されるようになっていた。





 彼は部屋に引き籠ることが多くなる。外に出歩くことでストレスを発散してきた彼にとっては苦渋の選択。しかし、自分の時間、素顔をさらせる場所を作るにはそれしか方法がなかった。


 それでもマスコミや世間は彼を追いかけ続け、行ってもいない夜の街に彼が現れたとゴシップがまかれる。誤解が周囲との軋轢を生んでいく。

 彼のマネジメント会社も彼を守ろうとしたが、スポーツマネジメントという言葉すら普及していないこの時代、彼を守り抜くには力も経験も足りなかった。


 彼は不器用である。


 誤解に対する弁解や申し開きは一切しない。彼自身が間違っていないと考え、それを認めてくれる人がいてくれれば、彼は自分の行動を貫いてしまう。


 横浜フェルプスが九州で試合を行った時のことである。


 彼は「私用がある」という理由で、チームで決められた集合時間を破り、一人帰京した。

 帰京した彼が参加したのは、赤十字の企画した両親を失った子供たちのために開かれた運動会であった。以前から赤十字の活動に参加していた彼は、彼を憧れの眼差しで見つめる子供たちからの招待を断るという選択肢を選べなかった。

 彼は疲れた様子も見せずに終始笑顔で参加し、たくさんの子供たちに夢を与え、幸せな思い出をプレゼントした。


 しかし、注視されるのは「規律を破った」という事実のみ。


 そこにいかなる理由があろうとマスコミや周囲は「調子に乗っている」というレッテルを張り、冷たい視線で取り囲む。


 彼自身にも問題はあったのかもしれない。しかし、五輪代表の象徴的スターに向けられるプレッシャーは静かに、確実に彼を蝕んでいた。





 そんな状況が少しずつ変わり始める。


 彼が夢を叶えるために旅立った故郷に生まれたチーム――SC鹿児島はNリーグ初年度ながらも躍進を続け、そこで活躍する若い選手達にマスコミの注目が移り始めたのである。

 その中には彼と高校時代を共にした戦友達がいた。同じチームでエースナンバーを背負っていた同級生、ダイナミックなプレイで果てしない可能性を感じさせる点取り屋もいた。

 彼らが注目を集めることで、状況が劇的に変わるわけではなくとも、少しずつ彼への視線は軽減されることとなった。


 また、過去を知る戦友が五輪代表のチームメイトとなったことも大きかった。

 主将としてチームを引っ張る重責を負った彼にとって、彼の内面をさらすことのできる人間が側にいてくれることは、奈落の底に沈みつつあった彼の心を掬いあげることとなった。


 そして戦友を通して知己を得た一人の人物。母校でも、サッカー選手としても先輩にあたるその人物は不思議なほど彼を理解し、不安を取り除いてくれた。


 彼には不安があった――自分の力は世界に、海外に通用するのか?


 世界が極めて遠い時代。自分の力を測ることすら難しい時代に彼は生きている。

 数少ない海外リーグの先達は様々な観点から今の彼を分析し、評価し、将来的な協力を約束してくれた。足りないものには指摘をくれ、彼に新たな夢を見つけるきっかけを与えてもくれた。


 淀んだ光をたたえつつあった彼の目には、新たな光が浮かびつつあった。





 事件はチュニジア遠征1試合目の翌日に起こる。


 監督である西野と主将である彼の2人が記者会見を行い、彼の主将の任が外されることが発表された。

 西野はこの1件は彼の不手際によるものではないことを強調し、立場を1選手に戻すことでプレッシャーを軽減し、本来の力を発揮させるものであると終始説明した。


 彼の表情にも不満は見えず、彼自身が西野に直訴し、両者が深く話し合った結果のものであると説明した。そしてこの決定がチームにプラスに働くことを結果で示すと宣言し、記者会見を終えた。


 その結果は翌日のチュニジアとの第2戦で早くも表れる。


 彼は縛られていた鎖から確かに解き放たれつつあった。心の変化はプレイに表れ、彼本来の切れ味鋭いドリブルがよりその鋭さを増す。

 2トップの一角としてプレイした彼は2ゴール1アシストを挙げ、チームの勝利に貢献する。


 試合後の記者会見で彼は語った。


「正直今まで自分の力が世界に通用するのか不安でたまらなかった。けど、決めた。信じます。俺達は強い。攻撃も守備もきっと世界に通用する。俺達を応援してくれる人達、支えてくれる人達のためにも勝利を掴みます。本当の意味で日の丸を背負う覚悟が、俺やっとできてきた気がします」


 確かな意思を瞳に浮かべながら、中園は解き放たれた獣のように笑った。

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