199512

 1995年12月3日より開催された天皇杯。

 天皇杯は戦前より続く日本最大のオープントーナメントであり、Nリーグ及びナビスコカップと含め、国内3大タイトルと呼ばれる。

 この年の出場チームは32チームで、SC鹿児島は九州地区代表として参加していた。


 Nリーグ14チームと各地区を勝ち抜いてきた代表18チーム。SC鹿児島は初戦で関西代表の駒沢大学を3-0で破るとベルマン平塚、ビクトリー川崎とNリーグクラブを立て続けに撃破。

 惜しくも準決勝で名古屋グランパレスに0-1と惜敗したが、その名古屋が今大会を制覇。NFL所属チームとして初めてベスト4に入り、次年度からのBリーグ参入クラブとしての実力を十分に発揮した。


 準決勝の舞台となった国立競技場には、快挙を期待する多数のサポーターが鹿児島から終結。株式会社SCKの旅行代理店部門は立ち上げ1周年に記録的な売り上げを達成したが、交通機関や宿泊施設の手配で殺人的な業務量となったのは裏話である。


 この大会が現役最後の試合となった宮原は、国立の舞台で語った。


「熱い応援をくださった皆さん、一緒にプレイしてくれた選手達、裏で支えてくれたSCKのスタッフのみんな、本当にありがとうございました。本日をもって自分は現役を退きます。これからも鹿児島を盛り上げ、鹿児島を通じて日本を盛り上げることに全力を尽くします。そのためには自分だけの力では足りません。これからも皆さんのご支援が必要です。皆さんのお力があれば、必ず再び皆さんをこの舞台にお連れします。そして次回こそ勝利をお届けします。それができる選手達です。これからもSC鹿児島をよろしくお願いします!」


 この日一番の歓声が国立競技場を包み込み、宮原の引退を彩った。 





 選手達がオフに入る中、宮原は社長兼GMとして監督であるスキベやコーチ達、一部の選手やフロントスタッフを交えて来季の新戦力の確認を行っていた。

 1999年からのJ2発足が発表されたこともあり、選手層の充実が必要という認識で動いてきた結果、来年度の加入選手は5人。


 宮原はサッカーでも経営でも情報の共有を重要視する。運営法人である株式会社SCKでは、参加可能な社員は全員出席して週に1回のミーティングを実施している。

 これは情報、問題点、目標値等を共有化し、組織としての一体感を醸成させることが目的であり、まだまだ小さな企業であるからこそ実行可能な方法であった。


 この日の会合の趣旨は、新規に加入する選手のプレイを確認し、共有化することであり、参加できない者達には個別にビデオで見るよう指示が出されていた。





 来年度のSC鹿児島の新加入選手。まず新卒は2人。


 地元鹿児島実践高校から加入する平田智行。スピード溢れる突破力が魅力の期待のストライカーである。

 SC鹿児島には宮原を始め、藤堂、前田といった鹿実出身者が多く、鹿児島以外からもオファーがあったが、松下監督からの薦めもあってSC鹿児島加入となった。

 鹿実はこの年の選手権への出場が決まっており、年末年始のの活躍も期待される選手である。


 2人目は妙神 智和。柏ソレイユユース出身者であるが、高3になった時点ではそれほど注目を集めていた選手ではなく、宮原たっての希望で柏に仁義をきってアプローチを行い、獲得に至った選手である。

 高校時代の大半はリベロとしてプレイ。秋からボランチにコンバートされ、豊富な運動量、先を読んだ適切な守備対応によって評価急上昇中の選手である。


 他クラブから移籍してくる日本人は2人。


 まずはNFLである東京ガスより獲得の藤山竜司。鹿実出身で藤堂や新田、横浜フェルプスの中園の同期にあたり、共に高校選手権で準優勝した実績を持つ。

 東京ガスに入部してからは、左サイドバックやサイドハーフ、ボランチ、センターバックと様々なポジションをこなしてきたユーティリティー性が魅力である。


 そして横浜フェルプスより藤堂明弘。既に鹿児島に所属する藤堂拓海の弟である。

 明弘は1994年に横浜加入。初年度こそ出場機会はなかったが、2年目である95年には主力として活躍。

 横浜フェルプスとしても期待の若手を簡単には手放せないということで交渉は難航したが、規定よりかなり多めの移籍金を支払うことで合意。

 ボランチが本職であるが、中盤のあらゆるポジションをこなすことができ、豊富な運動量やバランス感覚に優れたポジショニングだけでなく、時おり見せるドリブル突破も魅力的な選手である。


 ここからは外国人選手。今回の獲得は一つの特徴があった。加入選手の国籍はいずれも旧東ドイツであり、この国を狙ったのは2つの理由があった。


 1つは宮原のコネクション。ブンデスでプレイし、現地で得たサッカー、経済活動をとおした人脈が活用しやすかった。

 2つ目は経済面。1991年に東西ドイツが統一して数年、今でも東西の経済格差は大きく、東ドイツの選手にとって日本の給与水準は大きな魅力であった。

 この年の12月に出されたボスマン判決の影響によって欧州クラブの給与水準が高騰するのはこれからであり、その後の推移を知る宮原は優れた選手を獲得する最後のチャンスと認識し、その考えに沿った活動を行っていた。


 選手として加入する選手が2名、ユースにも若干名を留学生として受け入れることになっていた。


 選手の1人目はブンデスリーガ2部のカールツァイス・イェーナより獲得したベルンスト・シュナイダー。日本はもちろんドイツでも無名の選手ではあるが、鹿児島はシュナイダーのために数度の視察を行い、宮原自身がドイツへと乗り込み契約をまとめあげた人物である。

 抜群のボールコントロール、高い戦術理解度、キック精度を持ち、鋭く正確なクロスが武器の右サイドハーフであるが、左右サイドバック、トップ下、ボランチ、ウイングまでこなすことのできるユーティリティプレーヤーである。


 2人目がブンデスリーガ1部のディナモ・ドレスデンユースを出たばかりのエンス・エレミース。177cm76kgの強靭な体格は1対1で無類の強さを見せ、無尽蔵なスタミナも売り物である。

 守備的MFが本職であるが、DF・MF全般を器用にこなすオールラウンダーでもある。


 これらの新戦力をどのようにSC鹿児島に組み込んでいくのか、その日は様々な意見が飛び交った。

 不安はあっても確かな希望もある。ドキドキとワクワクが交錯する時間を、SCKの面々はこの日真剣に楽しんでいた。

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