199407④
この日、久々に帰省した河原勇は鹿児島の実家に居た。Nリーグ有数の右ウイングの表情にはどこか疲れが垣間見えた。前日から続く『驚愕の連鎖』にいささか食傷気味であったためである。
第一報は昨夜。婚約者からの電話であった。スクープを取ったという彼女を祝福した側から、その内容に親友が絡んでいることを聞いた。
内容は教えてもらえず、「見てからのお楽しみ」と濁され、更についでのように転職を決めたと言ってきた。
寝耳に水の転職話まで「読めば分かる」と言われ、河原の頭の中は混乱の一文字に埋め尽くされたのである。
その夜は河原の人生において『最も新聞配達のおっちゃんを恋い焦がれて過ごした夜』として記憶されることとなった。そして、待ち望んだ紙面を見た彼の目に飛び込んできたのは、親友が海外クラブを退団し、鹿児島でNクラブを設立するという記事であった。
すぐさま真相を婚約者に聞こうと思って電話に手をかけたが、一瞬の逡巡と共に諦めた。渦中の親友がまもなく己の元を訪れることになっていたためである。
それなりに重たい情報が連鎖して襲い掛かってくる状況に、河原は若干ではなくだいぶ疲れていた。これ以上びっくりさせられたらしんどいな、とどこか達観したような心境となったのは仕方のないことだったかもしれない。
予定通りの時間に現れた親友は、最後に会った時からいささかも変わらない姿であった。強いて違いを探せば、上半身が若干厚みを増したように見えた程度である。
「よう、1stステージ優勝おめでとう」
「おう、サンキュー……ドーハは残念だったな」
「ま、仕方ないさ。あの後電話で話して以来か……全然連絡できなくてごめんな。リハビリやら仕事やらで立て込んでてな」
「リハビリは順調だったのか?」
「ああ。けどなかなかトレーニングに移れなくてな。おかげで上半身めちゃくちゃ鍛えちまったよ」
「どうりでな。厚みが増したよ。足の方は大丈夫なのか?」
「もちろん」
そう言って宮原は右足を上げた。その表情に陰りは見えなかった。
「見たんだろ? あの記事?」
「ああ、びっくりしたよ。恵美からは転職の話もされるしな。一体どういうことなんだ?」
「記事の通りだよ。俺はシャルケを退団して、鹿児島に新しいクラブを作る。恵美にも広報として参加してもらいたくて、昨日打診させてもらった。お前に話すのが遅れたのは申し訳ない。お前のことも先に恵美の許可をもらいたくてな」
「俺のこと? 恵美の許可ってどういうことだ?」
「勇、俺が作るNクラブに来てくれないか?」
宮原は語った。自身の志向するサッカーに自分が必要であると。
宮原は昔から3トップを好む。サイドを制するものがゲームを制するというのは基本的な考え方であり、ウイングには突破力だけでなく、高い得点力を求める。
中学時代、宮原に求められたそのスタイルを磨いてプロ選手となったのが河原であり、その宮原が作るクラブである。河原が求められるのはある意味必然であった。
プレイ面以外の要素もある。地域密着を目指していくには地元出身の象徴となる人間が必要であり、河原にその役割を望みたい、と言うのである。
これは宮原の特異な経歴による影響が大きい。バブル時代に荒稼ぎして莫大な資産を築いた宮原である。その活動にやましい部分はなく、故郷への還元を行ってきたものの、成功者に対する負の感情というものは確実に存在する。
地域に密着したクラブ運営を目指していく以上、それらの感情が足を引っ張る可能性は排除できない。
クラブを軌道に乗せるために自分を積極的に前に出すつもりではあるが、その加減を間違えばクラブにとってマイナスとなる可能もありえる。
自分以外にクラブの象徴として掲げることができる人物、その役目を河原に努めてもらいたい、と宮原は言った。
「恵美はなんて言ってた?」
「勇が決めたことを全力で支えるだけだってさ」
「そっか」
「そう。『私がサッカーで勇が決めたことに反対するわけないでしょ!』ってめちゃくちゃ怒られたよ」
いい女だよな、と言って宮原は笑った。
その笑顔は河原が何度も見てきたもの。自分を何度も後押ししてくれた、見慣れた笑顔であった。
小学生の時、初めて対戦した宮原に衝撃を受けた。
こいつと一緒にサッカーがしたい、という憧憬とも憧れとも呼べる感情に突き動かされ、たまたま祖父母の家が清水中校区であったことから親に頼み込んで祖父母の家から中学に通った。
高い技術、優れたサッカー理論を持った宮原から学んだことは数えきれない。
河原の長所を見出し、引き出してくれたのも宮原だった。誰よりも、本人よりも河原の左足を信じてくれた。
宮原のくれたパスをゴールに叩き込んだ時、駆け寄る宮原が浮かべる笑顔と『お前ならできると信じていた』という言葉。
その二つが河原のサッカー人生をどれほど後押ししてくれただろう。
宮原が助けてくれたのはサッカーだけに留まらない。
婚約者である鈴木のことは中学の頃から好きだった。正直一目ぼれであった。中学時代は彼女に好きな男がいること、その相手が自分の親友であることも知っていたから何もできなかった。
高校は別の高校になってしまったが、彼女が親友を諦めたことを聞き、デートに誘うため電話をかけては「親御さんが出たらどうしよう」とつながる前に消してしまう日々を過ごしていた。そんな自分を励まし、後押ししてくれた。想いが成就した時に最も喜んでくれたのがこの親友だった。
こいつの笑顔に何度後押しされてきたんだろう、そんな思いが河原の胸を埋める。押し出されたかのように自分の気持ちがこぼれてしまう。
「本当はさ、俺もお前と同じチームで戦いたかった。もちろんお前が下りてくるんじゃなく、俺がお前と戦えるところまで上るつもりだった。海外だって代表だってマジで狙ってた」
「ああ知ってるさ。システム上の問題とはいえ、代表にお前がいてくれたらって何度も思ったよ」
「本気でいつかお前を助けれるようになりたいってずっと思ってた……俺は今まで何度もお前に助けてもらってきたからな」
宮原に笑顔で「お前ならできる」と言われると、不思議と自分自身できると思ってしまう。どんなに辛い状況でも自分を信じさせてくれる力がその笑顔にはあった。
おそらくその笑顔を誰よりも見たからこそ、願ったのかもしれない。こいつを助けることができるような選手に、人間になりたい、と。
「代表だけじゃなく海外だって本気でお前が考えてたのは知ってる。そんなお前に九州リーグのクラブに来てくれなんて言うのは失礼極まりないと思う。Nリーグへの昇格だって絶対じゃない。お前と恵美の人生を狂わせる可能性だってある。それでも俺にはお前が必要だ。俺ともう一度一緒に闘ってくれないか?」
宮原が珍しくピントの外れたことを言ってるのを聞いて、河原は表情を崩した。
人生が狂う? とっくに狂ってるわ、いい方にな!
九州リーグでも、Nリーグでもお前ともう一度プレイできるんなら……それが俺にとっての最高のクラブだよ!
河原は無言のままに右手を差し出し、宮原の右手を掴んで言った。
「今度は俺がお前に言う番だな。Nリーグ? そんなもん絶対行けるに決まってるだろ。『お前ならできる』、誰よりも俺がそれを知ってる。やっとお前を助けれるんだ。いいぜ、一緒に鹿児島に日本一のクラブを作ろうぜ!」
河原の言葉に宮原が笑顔で応える。
「ああ。そうだな。行こうか相棒」
「おう、任せとけ。相棒」
泣きながら笑うその表情は、河原の初めて見る宮原の笑顔であった。
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