199407①

 1994年7月、鹿児島に降り注ぐ陽光は射すような痛みを伴っていた。ドイツから帰国した宮原は、その痛みに懐かしさを感じて目を細めた。半年前に負った大怪我が嘘のように、その身には活力があふれていた。


「変わらないな、この日射しは」


 毎年シーズンが終わると宮原は故郷である鹿児島へと帰国する。帰省の際は家族や友人、自身が経営するサッカースクールの生徒達、母校の後輩達との触れ合いで英気を養うのが通例であった。


 しかし今回、宮原は帰国して真っ先に母校鹿児島実践の恩師である松下を訪ねた。


「お久しぶりです、監督。インハイ前のお忙しい中お時間頂きましてありがとうございます」

「変わらんな、お前も。ドーハは残念だったな……足はもういいのか?」

「ええ。色々ありましたが、今は大丈夫です」

「そうか。あの試合の後からしばらくは儂の方にもマスコミから問い合わせがあってな。お前がどこにいるかとか色々聞かれたもんだが……今までずっとドイツにいたのか?」

「はい。下手に日本にいても騒がれるだけかと思ったんで、向こうで手術もリハビリも済ませてきました」

「そうか……大変だったな……しかし、また元気な顔が見れてなによりだ。で、今日はどうした? 急に会いたいなんて珍しいじゃないか」


 宮原はこの年のシーズンからセリエAのジェノアでプレイする三神が現れるまで、欧州で活躍する唯一の日本人サッカー選手であった。当然その注目は大きく、ドーハの悲劇で姿を消すまで、彼の活躍をテレビで見ないほどであった。

 知名度や人気を踏まえるとCMやテレビにひっぱりだことなりそうであったが、宮原はそのような仕事をほとんど行っていなかった。


 その理由を簡潔に述べれば、彼は忙しすぎたのだ。


 宮原の持つ実業家としての顔。サッカー選手と平行して進むには異色の道は、日本を出て以来さらに大きく、複雑になっていたのだ。


 実業家宮原のメイン業務は彼の率いるプライベート・エクイティ・ファンド――バブルが弾ける前に手にした1000億超の個人資産を基に設立された通称『さつまファンド』の舵取りである。

 エクイティ・ファンドは短期売買で利益を求めるヘッジファンドとは異なり、中長期的な投資を行うことで対象企業を能動的に成長させたり、経営再建に絡むことで利益を得ることを目的とするファンドである。


 宮原は後に伸びる企業を既に知っている。これは投資の世界において圧倒的なアドバンテージであった。


 1994年のソートバンクの店頭公開に絡み、同年に設立された米国アマンドへの投資といった国境、規模に囚われない経済活動により、宮原の資産は数千億を優に超えるものとなっている。


 膨張した資産の大部分は更なる投資活動へと向けられているが、同時に宮原は故郷である鹿児島、九州を振興するための投資も進めていた。

 地元の有力企業への出資に始まり、鹿児島の第二地銀である南九州銀行の買収、スポーツ振興を目的とした財団法人の設立、果ては個人的な事情によるものであったが学校法人すら所有していた。


 宮原には数えきれないほどの肩書きがつき、まさしく鹿児島の名士中の名士と呼んでも差し支えないほどの影響力を持った人間となっていたのである。

 世界トップクラスに多忙な人間であるため、律儀に松下に顔を見せに来るが、そっれはいつも突然であった。ただ顔を見せることが彼にとっていかに困難なことかを理解していた松下は、ふらりと現れる宮原をいつも快く笑顔で迎え、時間を割いてきた。


 その宮原がこの日は事前に神妙な声色でアポイントを取ってきた。

 何かあるのかと松下が多少身構えても仕方がなかったのかもしれない。





 大怪我を負って以来、リハビリ中心の生活を送りながら、宮原は今後の人生について考えていた。


 幼き頃からの努力の結果、プロサッカー選手になることができた。ブンデスという欧州の舞台に立ち、国際的な評価を得ることもできた。

 その評価がW杯予選での危険なタックルを呼び込んだとも言えるが、自分の歩んできた道への後悔は微塵もなかった。


 かつて求めた「サッカー選手としての自分の限界」は知ることができたと思う。実業家としても莫大な成功を収めることができた。幼き頃に定めた二つの目標を成し遂げ、次に何を目指すべきか?


 宮原の心に浮かんだのは二つの想いであった。かつて己が死の瞬間まで望んだこと、ドーハの地で感じたこと。

 その二つの想いを一つに集約し、実行していく力が自分にはあるはずだ。彼はそう考え動き出すことを決意する。

 鹿児島にNクラブを誕生させ、その活動を通して日本サッカーを強くしていくことを。


 その第一歩が恩師松下への協力依頼であった。鹿児島サッカー界の重鎮を動かすことが、己の新たな目標につながることを宮原は確信していた。


「監督、実は俺シャルケやめてきました」

「なんだと!?」

「そして鹿児島にNリーグのチームを作りたいと思ってます。今日はそのために監督にご協力いただきたいと思いお伺いいたしました」

「いやはや……シャルケをやめたことだけでも驚きだが、それに加えてNリーグか……もちろんできる限りの協力はするが、お前一人でも十分なんじゃないか?」


 松下は暗に宮原の鹿児島経済界での影響力を示唆する。


「確かに俺個人、あるいはうちのグループ会社を使えばサッカークラブを作ることは難しいことじゃありません。けど、俺は鹿児島や九州を盛り上げていきたい。Nクラブをその起爆剤とするには全てを俺がやってしまうのはまずいんです。それじゃ『俺のクラブ』であって『鹿児島のクラブ』にはなりません。鹿児島に住む人達の象徴となるような存在、地域を精神的に盛り上げ、愛郷心に揺さぶりをかけるような存在にするはいろんな人たちにご支援いただく必要がある。そのために先生のご協力が必要なんです。どうかお力をお貸しください」


 そう言うと宮原は頭を深く下げた。松下は教え子の成長を感じ、感慨を覚えていた。

 不思議な少年。それが宮原に対する最初の印象であった。入学した時から全中を制したその実力はずば抜けたものであり、技術的に松沢が教えるものはほとんどなかった。

 確かな実力と全国的な名声を持った少年は、状況としては天狗になってもおかしくなかったが、彼にはそんな要素は微塵もなかった。


 入学当初から鹿実の殺人的な練習量に食らいつき、挨拶の声は誰よりも大きく、雑用も自ら進んで受け持った。学業面でも高校三年間成績トップを守り続けた。

 いつしか松沢は知った。この少年は己のやるべきことを常に把握し、その一つ一つに全力を投じているだけなのだ、と。


 己のやるべきことをきちんと理解している人間など社会人でも少ない。そんな宮原の姿勢を、松沢は相手が十代であろうと尊敬に値すると考えるようになった。

 その宮原が、己の力が必要だと言い、頭を下げている。


 松下の中で、答えは決まっていた。


 その後、宮原は鹿児島県知事や鹿児島市長、県サッカー協会や鹿児島銀行といった地元有力企業等を訪問し、支援の約束を取り付けていくこととなる。

 関係者からの好意的な反応には、鹿児島サッカー界唯一の選手権優勝監督による支援も大きく影響を与えていた。

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