199310

 『ドーハの悲劇』と呼ばれるその一戦は、2つの喪失を日本にもたらした。


 日本が初のW杯出場を掴みかけたアジア地区最終予選最終節。最後のワンプレイであった。

 試合終了間際、ロスタイムに被弾した一撃が日本サッカーの悲願を粉々にしたことは、サッカー関係者に留まらず日本国民の記憶に深く刻み込まれている。





 1993年10月、最終予選に参加したチームはサウジアラビア、韓国、イラン、イラク、北朝鮮、日本の6チーム。前年ダイナスティカップで初のタイトルを戴冠し、アジアNO.1ボランチと称せられる宮原率いる日本代表は有力なW杯出場候補であった。


 日本の初戦は韓国。下馬評は日本優位であったが上位2か国しか出場できないアジア予選。一戦たりとも負けは許されず、そもそも歴史的な背景、過去の実績からも日本になど負けられないという気持ちで臨んだ韓国に対し、中盤の力量で上回る日本は終始優勢に進める。


 宮原が中盤の底でフィルターをかけ、Nリーグ覇者ビクトリー川崎の看板選手である三神やアモスが韓国ゴールを脅かす。

 ブラジルから帰化し、ビクトリーの絶対的司令塔として君臨するアモスは規律を嫌い自由を望む。監督にすら平気で歯向かう気性の男を、宮原は右に左に走らせゲームをコントロールした。

 その様はまさしく日本代表のキングであった。


 後半35分、スコアは2-0。日本の勝利を誰もが認め始めた時間帯に、悲劇は突如降りかかる。


 宮原がボールを受けた瞬間であった。何かを決意した相手選手がボールに遅れてスライディングを敢行。

 スパイクを上に向け、明らかにボールではないものを狙ったその凶行は、チームの要であり魂、代表の象徴そのものをピッチから退場させ、日本代表の面々に計り知れない動揺を与えた。

 韓国戦はなんとか逃げ切ったものの、その後坂道を転がり落ちるかのように失態を重ねた日本代表は2戦で1敗1分け。


 今回もW杯は無理だという声が増え始めた中、日本代表を救ったのは、悲劇のエースであった。


 医者に止められ、家族に止められた。それでも彼はケガを押し、ベンチにその身を置いた。

 ボールを持ってまず探したその姿はピッチにはない。しかし、彼の心は確かにピッチに在り、ピッチ横にいる彼が視界に入ると仲間達は奮い立った。


 蘇った日本は勝利を重ね、勝ち点5(当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0)を獲得し、グループ1位で迎えた最終戦。

 北朝鮮を除いた5チームが勝ち点差1の中にある混沌とした状況であったが、勝利すればW杯出場、引き分けでも他チームの結果次第で出場できるという条件下でのゲームであった。

 本来療養すべき男はベンチから、ただひたすらに仲間達の勝利を願っていた。


「ドーハの悲劇なんて一回で十分だ。勝ってくれ、頼む!」


 周りに聞こえない小さな声で、しかし仲間達の心に届いて欲しいというその願いは、無残に敗れることとなる。


 後半ロスタイム。日本が2-1でイラクをリード。イラクがコーナーキックを得て、最後の攻撃を仕掛けようとしていた。どこかで見た光景に、宮原は思わず立ち上がった。


 声が枯れても構わない、そんな気持ちで仲間を鼓舞する宮原。


 その声に押されたかのように、イラクの最後の攻撃を日本は止めた。

 イランFWのヘディングをGKが掻き出し、ボールがはじき出される。宮原が拳を握った瞬間、ボールが描くはずだった軌跡上に突っ込んできた相手選手。身体ごとネットに雪崩れ込む。


 細部は異なっていた。しかし、崩れ落ちる選手達の姿は、かつて見た光景であった。

 呆然とした表情の宮原の手から松葉づえが転げ落ち、痛みの消えぬ右足を抑えながら、彼はその身を芝生の上に横たえた。


 この日、宮原は日本代表の引退を発表。日本の悲願が散った日、日本代表は時代を牽引してきた象徴を失った。


 その後数か月間、「悲劇の英雄」として惜しまれた男は、表舞台からその姿を消した。

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