1965~

 二度目の人生が始まった日から数日後。父が35年ローンで建てた城の小さな庭で、宮原はサッカーボールを椅子代わりに使いながら、これからの人生をいかに過ごすかを考えていた。


(何がなんだかわからんが、二度目の人生。今度こそプロに挑戦することが最大の目標だな。経済的にも成功したいけど、バブルにのっかれば儲ける方法なんていくらでもある。勉強もなんとかなるだろうし、夢に向かってどんだけ上手くなれるかが最大の問題だな)


 若かりし両親と触れ合い、鏡に映った自分の姿を見て、彼は己の置かれた状況をおぼろげに理解していた。

 思いがけず始まったやり直しの人生。ひょっとしたら自分は夢を見ているだけなのかもしれない。そんな気持ちもある。けれど、だからこそ、思いきりやりたいことをやりたい。


(以前の人生でサッカーを始めたのは小六。今の俺は三歳。このアドバンテージはでかい)


 プロサッカー選手になることこそ諦めた宮原であったが、ジュニア年代を中心に地域のクラブチームで指導者としての経験を長年積んできた。

 教え子達に徹底的に磨かせた個人技術、身体の成長に合わせたフィジカル強化、豊富な指導方法は頭の中に入っている。


 もちろん年齢によって行えること、行うべきことは異なる。特にフィジカル面は身体の成長と相談しながら行う必要がある。

 幼いうちは体幹トレーニングやストレッチ程度に留め、神経系の成長期である小学生までの間は徹底的に個人技術を磨く。


 努力の価値を知る三歳児は、その手にある豊富な時間を全く無駄にする気はなかった。この時代においては未だ確立されていない科学的な見地から、彼は己の才能を徹底的に伸ばすことだけに全ての時間を費やすことを決意していた。


(世界で戦うには絶対的な個の力が必要。俺の才能でどこまでいけるのか、妥協なんてできない。限界の限界まで挑戦してやる!)





 サッカーはボールさえあればどんな場所でも楽しむことができる。日中は近所の友達とサッカーを楽しみ、家に帰れば庭でボールを蹴った。日が暮れれば家の中でも触り続けた。いかなる時、いかなる場所でも彼はボールと共に在った。


 宮原は小学校入学と同時に地元の清水小サッカー少年団に入団。小学生離れした個人技と戦術眼を評価され、飛び級を重ねて低学年から試合に出場した。

 宮原の加入で一躍強豪となった清水小は鹿児島県代表として全日本少年サッカー大会に出場し、五年生・六年生時は二年連続で得点王を獲得。

 

 その後進んだ清水中学には、宮原と共に全国を制覇した清水小サッカー少年団の面々に加え、宮原と共にプレイしたいと鹿児島市内の有望選手達が清水中学に集まり、清水中学もまた鹿児島県内の強豪として飛躍した。


 共にプレイした河原勇は言う。


「あいつは本当に何でもできた。ドリブル、パス、シュートに守備まで1番でした。あいつのテクニックが飛び抜けていることはもちろん知ってましたけど。それ以上にサッカーに関する知識、戦術論が桁違いに凄くて……監督も宮原の言うことなら間違いないって感じで。夏が終わった頃には1年なのにチームの方針、戦術、トレーニング方法とか全部決めるようになっていました」


 出る杭は叩かれる。特別扱いをされる1年に不満を持つ者はいなかったのかと聞かれた河原は「確かに最初は反発する奴もいました。けど、あいつの発案した練習はボール使いまくりで楽しいのに体力はつくし、上手くなる。何よりも勝てるんです……気づけばみんな前よりサッカーが好きになって、勝ちたいって意思も強くなって……反発する奴なんて誰もいませんでした。まぁ、清水小から一緒にやってた奴らなんかは怪しい宗教の教祖みたいに崇め奉ってましたけどね」と笑顔で語った。


 宮原は卓越した個人技、屈強なフィジカル、経験則による戦術眼をもってGKを除いたあらゆるポジションを務め、チームの中心選手として活躍した。


 戦術『宮原』と呼ばれた清水中学。

 点が欲しい時には宮原がトップを務め、中盤を制したい場合はボランチ、守り抜きたい時はスイーパーに入る。全てを宮原が背負うという明らかに歪で、狂気すら帯びたその戦術を持って清水中は全国でも躍進。2年時に全中ベスト4、3年時に全中優勝を飾った。

 一人であらゆるポジション、期待、羨望、不安を背負い、乗り越えたことは彼に飛躍的な成長をもたらすこととなった。


 全国有数のプレイヤーとして評価された宮原には全国各地の強豪校から多数のオファーが届いたが、宮原は当時全国的に強豪校と認められつつあった鹿児島実践高校普通科への進学を選択。名将松下監督の下で1年からボランチとしてレギュラーを獲得すると、高校サッカー界のスターとしてもその名を轟かせることとなる。


 サッカーの名門鹿児島実践の名を確立させた高校時代であるが、この三年は「清水三羽鴉」擁する静岡県代表清水西との激戦の歴史となった。

 インハイ、選手権で両校は何度も激突し、2年時、3年時は両校が決勝戦の舞台を独占。宮原は高校サッカー最大のタイトルである高校選手権において、2年時に準優勝、主将を務めた3年時に鹿児島勢初の優勝の栄冠を得ている。


 監督の松下は語る。


「あいつは本当に不思議な奴だね。技術的にも精神的にも教えたものは特にないんだよ。むしろ私の方が教えてもらったような気がするな。高校生で自分なりの筋を持っていた。よく同年代と話しているような気がしたね。卒業後もちょくちょく顔を見せるけど、あいつとサッカーの話をするといつまでも話していたくなる。間違いなく最高の教え子だけど、たいして教えた記憶がないからな……どう言えばいいのか……共に過ごした最高のサッカー選手、そんな存在です」


 高校サッカー界最高の選手とも呼ばれた宮原には、3年になった時点で実業団から多数のオファーが殺到していたが、宮原がそれらを断り、和瀬田大学政治経済学部へ進学し、名門早稲田大学蹴球部へ入部することを選択。

 宮原は関東大学リーグで1年目から活躍し、日本代表にも選抜された。サッカー選手としてエリート街道を歩む中、彼は新たな一面――実業家としての顔を見せ始める。


 バブルの出現と終焉を知る宮原は、かつて都市銀行役員として培った経験、知識をフルに活用し、少数の協力者と共に一定の資金を準備すると、目立たないように仕手筋株中心に資産を増やし、その後は不動産転売を中心に荒稼ぎした。

 宮原は大学生活4年間で1000億を優に超える資産を作り上げたが、大学を卒業する1987年3月をもって保有していた全ての不動産を売却し、世間を驚かせた。


 サッカー界だけでなく、実業界からも卒業後の進路を注目された宮原であったが、日本代表で知己を得たブンデスでのプレイ経験もある奥田の紹介で、ドイツで複数のクラブの入団テストを受け、2部ではあるものの、『勝者の青』と呼ばれるかつての強豪シャルケに入団。


 自国以外の外国人枠は2名という現代とは比較にならないほどの競争環境の中、レギュラーを獲得した宮原はシャルケの1部昇格に貢献。風見以来のブンデス所属の選手として注目を集め、ブラジルでプロとなった三神と共に日本サッカー界の象徴として一躍その名を知られることとなる。


 三神や宮原の海外での活躍から盛り上がったサッカー人気は、1993年5月のNリーグ(Nippon Soccer League)開幕で爆発的な盛り上がりを見せ、日本全体がサッカーに狂乱した。


 そしてこの年の10月、日本サッカーの命運を分けた1戦が訪れた。

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