★雪が溶けたら何になる(壱)

 駅にて待ち合わせた本橋が、「いやぁー、本当にいいんですか。家族ぐるみのご旅行に本橋もついて行ってしまって」と朗らかに笑う。それを迎えたタイラが、「いいんだ。むしろお前が主役みたいなもんだよ」と肩をすくめた。

「えへへ、お言葉に甘えお供しちゃいまーす。温泉楽しみですなぁ」

 ちらちらと本橋を気にしている様子の美雨が、しかし声をかけないままで自分の髪を整える。


「また母が無茶なことを言ったのでしょうが、このような機会を与えていただき嬉しく思います」とほっそりした美しいが微笑んだ。


 動きを止めたノゾムと本橋が、自然と顔を見合わせてアイコンタクトで意思疎通を図る。『今までとりあえず触れてこなかったですけど、アレって……』『声を聞いて確信しましたが、あれは……』と2人が難しい顔をしている横で「ショーくん久しぶり!」とユメノがぶんぶん手を振った。

「えー、気使ってたオレらがバカみたいじゃないすか……」

「てか美少女すぎでは? 本橋、女としての自信なくしますよぅ……」

 ユウキも章に向かって控えめに手を振って、「元気でしたか?」と聞く。「元気でしたよ、ユウキくん。君の方が色々と大変でしたね。その節は大変ご迷惑をおかけしました」と章は頭を下げた。

「べつに、ぼくはダイジョウブです。どうしてダイジョウブなんだろうっておもうぐらいです」

「そうですか……」

 君も難儀ですね、と章は苦笑する。


 バシッ、と手を叩いたタイラが「いいかお前ら、よく聞け」と宣言した。

「目的地の旅館までは、電車を2本乗り換えたのちローカル線の鉄道に乗らなければならない。絶対に遅れるな、特にお前だよ美雨」

「はぁ……生き急いでる男って嫌ですわ。旅というのはもっとのんびり情緒的にするものではなくて?」

「言ってろ。電車は少なくとも20分に一度ぐらい来るが、鉄道は2,3時間に1本のレベルだと思え。お前がはぐれても俺たちは先に行くから。お前だけ、存在するかどうかもわからないタクシーを拾って合流しろよ」

 ぐっ、と言葉に詰まった様子の美雨が「えーん、タイラにいじめられましたわ」とユメノに縋る。「言い方キツいよ」とユメノは眉をひそめ、タイラが信じられないという顔をした。

「お前はいつだってそうだ。いい歳して」

「えーん、ユメノちゃぁん」

「もうタイラ! 最初から喧嘩しないでよ!」

「なんで俺が悪いんだよ」

 まあまあ、とノゾムがタイラの腕をつかむ。「時間が押すのが嫌なら早く行きましょうよ」と宥めた。章も苦笑して、「すみません、うちの母が」と謝る。

 髪をかき上げたタイラが、「行くぞ」と言って背中を見せた。「わあ、先が思いやられますねえ」と本橋が言い、「これは思っていたよりも……大変かもしれないわね……?」と都は目を白黒させる。

「別に大丈夫よ」なんてカツトシが平然と言った。「先生やユメノちゃんたちがいれば、あいつの機嫌がこれ以上悪くなることはないから」と。




☮☮☮




 改札で止められた美雨が「これどうやって通るんです?」と首をかしげ、「切符ぐらい買っておけ」とタイラが怒鳴る。その横で「僕もわかんない。実は電車乗るの初めて」と言い出したカツトシを「あたしと一緒に切符買おうね」とユメノが連れていった。

 ため息をついたタイラが「よし。カツトシのことは頼むぞ」とユメノに言い、それからユウキの手を掴んで美雨を切符売り場に引きずっていく。不意に振り向いて章を見た。

「お前は電車に乗ったことは?」

「ありませんが、調べては来ましたよ。S〇icaスイカを購入してきましたし、チャージもばっちりです」

「……お前は本当に、美雨こいつ由良あいつの息子なのか? 俺は今結構感動してるよ」

 それから冷めた顔で美雨を見て、「お前は恥ずかしくないのか?」と尋ねる。美雨は唇を尖らせ目をそらした。



 美雨があまりにも寄り道しようとするので、電車を乗り換えるころにはタイラの右手にはユウキの手が、左手には美雨の手が握られていた。『今世紀最大の不服』という顔で美雨はその手を振りほどこうとしている。

 タイラは少し疲れた顔で、人数を数え始めた。全員揃っていることを確認し、「何とかここまで来たな」と頷く。

 最初のうちは楽しんでいた実結も、今では飽きた様子で外を眺めていた。そんな実結を抱いて、都も『何とかここまで』と一息つく。そんな都を見て、タイラは「疲れたろ。実結ちゃんは俺が抱いてるから」と都が何か言う暇もなく実結を抱き上げた。

「でも、あなたの方が疲れてるんじゃ」

「俺を誰だと思ってるんだ? 疲れてるわけないだろ」

 それからノゾムを呼んで、「ユウキのことを見てろ」と預ける。「ぼく、一人でダイジョウブですよ」とユウキは膨れ面したが、「まあオレの方が足元おぼつかないんで、ユウキに引っ張ってもらうのは妥当っすね」とノゾムがユウキの機嫌を取った。しかたないですね! とユウキは得意げな顔をする。


 で、とタイラは美雨をちらりと見てようやく手を離した。

「お前はあそこの女子女子した空間で面倒を見てもらえ」とユメノとカツトシ、本橋の方を指さす。「お前もいい歳だから馴染めるかわからんが」と肩をすくめた。

 こちらに気付いたユメノが手招きをする。カツトシは少し複雑な顔をし、本橋は何を考えているかわからない顔でにっこり笑った。

「い、いきなりハードルが高いのですわ。全員顔がいい……」

「お前がそれを言うのか」

  躊躇いながらおずおずと歩み寄る美雨を、ユメノが明るく迎える。美雨は感激した様子で、「可愛い。全員うちに飾りたい」と言い出した。


 そんな美雨の様子を見てかなり後悔した様子のタイラの隣に、章が立つ。「今日はありがとうございます、タイラさん」とにこにこ笑っている。

「それにしても、母からどんな我儘を言われたんです?」

「お前と同じ手口だよ」

「身に覚えがありませんねえ」

 張り付いたような笑顔に辟易としたタイラは、章の右頬をつねった。されるがままの章の顔が苦笑へと変わるころ、ようやく手を離して「まあ俺も悪くないと思ったんだ」とだけタイラは言う。

「お前はよかったのか」

「もちろんです。僕は本当にありがたいと思っているんですよ?」

「それはまあ……。そうじゃなくてな、」

「はい」

「イブもいるのに、その格好でよかったのか? もっとマシな変装なかったの?」

 章は初めてきょとんとした様子で、自分の着ている服をしげしげと見た。ふわりとスカートを揺らし、首をかしげる。

「何かおかしかったですか? 我ながら、良い出来だと思っていたのですが」

「……お前がいいならいいんだよ」

 もうすっかり寝落ちる寸前という面持ちの実結が、タイラの腕の中で「かわいいねえ、おひめさまなの?」とつぶやいて目を閉じた。




☮☮☮




 何とか汽車まで乗り込み、静かな山奥へと進んでいく。「SLなんて初めて乗りましたよ」とノゾムが少しだけ目を輝かせて外を見た。「SL! かっこいいです!」とユウキもはしゃいだ。

「景色が綺麗ね」

「季節がなぁ……春や秋ならもっと見どころがあっただろうが」

「でも、綺麗よ。ほら少し雪が残ってる。降ったのかしら」

 そう必死に訴える都に、タイラはふっと笑って「ああ、そう」などと可笑しそうに言う。「君は時々子どもみたいだよな」と。顔を真っ赤にした都が、もうすっかり黙ってただ外を見ていた。


 汽車を降りると確かに、旅館のものらしきバスが待っていた。総勢10名でバスに乗り込み、旅館へと向かう。

 そうして長い旅路はひとまず幕を下ろし、旅館が見えたころタイラが「何とか着いたな……帰りのことは考えたくない」と疲れ切った顔でコメントを残した。


 バスから降りたユウキとユメノが一目散に走っていく。「走るな!」と怒鳴ったタイラも実結を抱いたまま後ろからついて行った。

「元気ですわねえ、子どもたちは。正直に言って、とりあえず休憩させていただきたいですわ」

「お母さん、どうしてそうなったか胸に手を当てて考えてみてくださいね」

 そんなことを話しながら美雨と章も歩いていく。その後ろから、都と本橋、ノゾムとカツトシが続いた。

「本橋ちゃんさんは今日休みなんすか?」

「そうでーす。本橋の溜まりに溜まった有給休暇が火を噴くというものですよぉ」

「お巡りさんってなかなかお休みも取れないわけ?」

「まあ、本橋の場合は休んだってやることもありませんからね! ほんと、これが今年最初で最後の旅行ですよー」

「いきなり誘ったみたいだけれど、来てくれてありがとう。楽しみましょうね」

「はい! もうめちゃくちゃ楽しみにしてきました!」

 ふとノゾムは本橋をじろじろ見て、『前から思ってたけど、このメンツでも一切気後れしてないこのお巡りさんは一体何者なんだろう』と思う。正直に言えばノゾムはすでにこのメンバーの顔触れに引いている。


 旅館の女将が出迎えて、荷物を全て部屋へ運んでくれた。部屋は2つ取られており、当然のように男女で分かれることになった。もちろん、見た目的な問題ではなく生物学的性別で分かれた。


 夕飯の時間までは自由に過ごしていいと言うので、とりあえず温泉を見に行くことに決まった。すでに時刻は16時過ぎ。夕方と言って差し支えない時刻だ。夕飯の前に湯に浸かっておかなければ食後の疲労感と睡魔で脱落するものは幾人か出てくるものと思われた。

 どうやら旅館初体験らしいカツトシとユウキが、部屋に入ってからずっと落ち着きなく隅々まで面白いものを探している。「落ち着け、お里が知れる」と穏やかにタイラは諭した。

「見ろ、ぼっちゃんのこの堂々たる風格。もはやこいつの部屋にしか見えない」

「こじんまりとした素敵な和室ですね」

「なんか言ってる」

 そういうこと言うなよ、とタイラが眉をひそめれば、「何のことですか」と章はきょとんとした。頭をかいたタイラは「まあいいや」と肩をすくめる。

「お前ら、温泉に入るんだろ。早く支度しろよ。浴衣着ねえのか?」

「ユカタ! 僕、ユカタ着たい!」

 部屋のクローゼットにかかっていた浴衣を一式持ち出して、各々袖を通し始めた。手際よく自分の帯を締めたタイラが、ユウキの着付けを手伝う。「お前、デカくなったなぁ。子ども用だと丈がちょっと足りないんだが……」と言いながら大人用を手に取るが、それだと明らかに長すぎるようで「まあ裾踏んで転ぶよりは短い方がいいな」と勝手に納得して子ども用の浴衣を着せた。

「えー、イヤですよ。はずかしいです!」

「大丈夫だよ。やんちゃな幕末志士とかも短めの着物着てるから、漫画とかで」

「バクマツシシ……?」

「かっこいいかっこいい」

 腑に落ちない顔のユウキの頭をなでて、タイラはちょっと笑う。「写真撮っていい?」と言われたユウキは「イヤです!」と断固拒否した。

 そんなタイラの前に歩いてきたカツトシが、「僕もやって」と胸を張る。「それが人にものを頼む態度か?」と眉をひそめたタイラに、「やったら僕の写真撮っていいわよ」とカツトシは言って、それに噴き出したタイラが結局着付けてやった。


「さて、お前らは一人で着られたか?」とタイラはノゾムと章を振り返る。「着られるに決まってるじゃないですか」なんてムッとするノゾムを尻目に、章がわざわざ綺麗に締めていた帯をほどいて「お願いします」とタイラの前に立った。信じられない顔でノゾムはそれを見る。

 章は嬉しそうに着付けてもらっている。ノゾムもヤケになって帯をほどき、「別に自分でできましたけど、せっかくなら人にやってもらった方が綺麗なんで」と列に並んだ。




☮☮☮





 大きな露天風呂に感嘆の息を漏らして、ノゾムは「ここまで大きい温泉は初めてっす」と呟く。その横で章がタイラの背中を凝視して、同じように感嘆の息を漏らした。「毎日あの人とお湯に浸かれるなんて、さすがに嫉妬を禁じえません……」と言う章に、ドン引きしながらノゾムは「何勘違いなさっているか知りませんけど、普通一緒に風呂なんか入りませんからね」と誤解を解く。

 タイラはと言えば、けらけら笑いながらユウキの頭を洗ってやっていた。というか、シャンプーで泡立てたユウキの髪で遊んでいた。「もー! やめてください!」とユウキは怒っている。旅館自体がほとんど貸し切り状態のため、その場にも他の宿泊客などはいない。だからといってあまり騒がしくするのはどうなのだろうと思っていた矢先に、体を洗い終えたカツトシが嬉々として温泉に飛び込んだ。それにはさすがにタイラもぎょっとしたらしく、「馬鹿、温泉はそういうんじゃねえよ。お前は風呂で飛び込みするのか?」と叱る。

「熱い! ねえこんなに熱いってどうして誰も教えてくれなかったの!?」

「温度ぐらい確認してから入れよ……」

 カツトシはぎゅっと目をつむって「うー……あつい……」と言いながらも大人しく膝を抱えた。しばらくすると目を開けて、「慣れてきた。風が気持ちいいかも」と言い始める。


「タイラさん、お背中流しましょうか」

「いや、いらない」


 すげなく断られた章は「そうでしょうね」と肩をすくめた。何を思ったかタイラは、そんな章の肩を掴んだ。そのまま少年を後ろ向きに座らせ、手ぬぐいで背中をこすり始める。「ぼっちゃん、力加減はいかがです?」と完全に悪ふざけの声色でタイラは尋ねる。章は真顔で震えながら「どうされたんですタイラさん今日はファンサがすごい」と口走った。

 洗身を終えて温泉に浸かり、一息つく。ぼんやりと遠くを見て、ノゾムは「壮観っすね」と呟いた。

「まあでも……見ごろは秋ですかねえ……」

「秋だろうなぁ……」

 少し熱めの温泉と冬の温度が心地いい。「僕はこの季節でよかったと思いますよ、寒い日に入る温泉こそ醍醐味と言うものです」と章は言った。「お前はいくつなんだよ」とタイラが苦笑しながら突っ込む。

 小さな岩に腰かけたユウキが汗を拭った。膝小僧が水面から顔を出している。その横でカツトシも膝を抱えたまま「なんかやっぱり結構気持ちいいかもー」とため息をついた。


 ふとタイラを見て、章が息をのむ。

「タイラさんがうとうとしていらっしゃる……。やはりカメラを持ってくればよかった」

「本当に持ってきていたら、オレらはぼっちゃまへの今後の対応を考えさせていただきましたけどね」

 眉をひそめたカツトシがタイラの肩を揺すって「あんた風呂で寝たら死ぬわよ」と言った。タイラは目をこすりながら「飛び込みするような奴に言われたくはないけどな」と返す。


「そろそろ出るか。ユウキ、お前さっきから大人しいな……。あれ、のぼせてない?」

「あつい……」

「早く言えよ」




☮☮☮




 一方女湯では、温泉で感慨に浸るのもそこそこに美雨がこう言い出した。

「さて、では男湯となりを覗いてみましょうか」と。呆気にとられる都とユメノを尻目に「なるほどそうか」と本橋が立ち上がる。

「ちょ、ちょっと何言ってるの???」

「あら……こういうのって、様式美と言うのではなくて?」

「全然違うよ!」

 美雨は不思議そうな顔をして、「ジャパニーズカルチャー的にやっておかなければならない儀式なのだと思っていましたが」と言う。

「あちらも私たちを覗いているのでしょう」

「覗いてないよ! たぶん! ゼッタイ!」

「えー……、こんなに良質な果実が揃っているのに覗きもしないなんて逆に失礼ではありません? あの人たち、本当にタマついているんですの? 章は育ちがいいので別として」

「いやほんと何言ってるの。犯罪だから」

 ねえちょっと本橋ちゃんおまわりさんからも何とか言ってよ、と振り向いたユメノは絶句した。本橋は持ち前の運動能力を駆使して衝立の上から覗こうとしている。思わず「お巡りさあああああん」と叫んでしまった。


「タイラだけ! タイラしか見ないのでこれは厳密に言えば犯罪ではありませんね?」

「犯罪だよ!!」


 頭を抱えたユメノが「もうやだこの人たち。先生助けて」と言いながら振り向けば、都は完全にこちらに背を向けていた。「わあ……ミユちゃんと一緒に見ざる聞かざるして温泉をエンジョイしてる……」と軽く絶望する。

 ようやくこちらを見てくれた都が、困ったように眉を八の字にして「ダメよ」とだけ控えめに叱った。光の速さで戻ってきた本橋が、「やだなぁ、冗談に決まってますよぉ。都さんに嫌われるのは、さすがの本橋もキツイのだ!」と汗をかく。美雨も肩をすくめて、「まあ美しいものならここにも両手に余るほどありますからね」と諦めたようだった。

 温泉につかり、今度こそ景色を見て感慨深くため息をつく。ふとユメノが両隣の都と美雨を見、それから自分の胸を見た。「格差じゃん……」と呟く。そんなユメノの肩に手を置いた本橋が、「ユメノちゃんはまだ育つ可能性があるだけいいですよ」と言った。

「どうなさったのです、イブさん。もしよろしければ毎日揉んで差し上げましょうか? ある程度サイズアップしますよ」

「えっ? あ、遠慮させていただきます」

 何か励ましの言葉を言わなければならないと思ったのか、都が顔を赤らめながら小さな声で「私は、実結が生まれて少し大きくなった」と呟いた。「元に戻らなかったんですの?」と美雨が尋ねる。

「ええ。何だか元々、母乳の出が多かったみたいで」

「それはそれで大変だったでしょう」

 ユメノと本橋は顔を見合わせて、『これって聞いていい話?』『さあ……』とアイコンタクトで会話した。


「ミユ、あついからもうでたいなぁ」と言う実結をつれて都が上がる。「あたしも出よう」と言い出したユメノにつられて、本橋と美雨も温泉を後にした。

「ここに滞在する間は温泉も入り放題ですからね。また来ましょう」

「帰るころには皮膚がしわしわになるほど入ったろ!」




☮☮☮




 風呂上がりに鉢合わせた章と本橋は軽く会釈をして、「ご無沙汰しております」「いえいえ、元気そうで何よりです」と挨拶をする。それから何とも言えない沈黙の見つめ合いを経て、「そんなことよりも」と2人でスッとカメラを構えた。その先には喫煙所。浴衣姿のタイラがいる。

 部屋で帯を締め直すつもりなのか、幾分無防備に過ぎる浴衣の着こなし。濡れた髪を後ろに撫でつけてタイラは煙草を咥える。

 連写が止まらない。こちらに気付いたタイラが不機嫌そうに眉をひそめる。その口が、『何撮ってんだよ』と動いた。

 煙草を灰皿にこすりつけ、タイラはこちらに歩いてきた。あっと言う暇もなく章の手からカメラを奪う。「消さないでいただきたい! そちらの画像の鑑賞でしばらく僕は生きていきますので」と訴えれば、タイラは『何言ってるんだこいつ』という顔ですっとカメラを章と本橋に向けた。そのまま2,3回フラッシュをたいて満足そうにカメラを章に返した。「盗撮はやめろよ」と言って去って行ってしまう。

「何だったんでしょう、今の」と本橋が訝しげな顔をする。章は写真を確認して、一度だけ小さく息を吐いた。それから自分のカメラの画像を本橋に見せながら、「タイラさんが撮った僕らの写真、本橋さんも欲しくはないですか」と尋ねる。

「あの人、章くんと本橋の写真を? まあ、でも、欲しくないと言ったら嘘になる……」

「連絡先を教えていただけたらお送りしますよ」

「ほんとですか! 章くん、LI〇Eラインやってますか?」

 もちろんです、と涼しい顔をして章は携帯電話を取り出した。内心では『こんなに上手くいくものだろうか』と戸惑いながら、である。




☮☮☮





 部屋に戻って、美雨は伸びをする。浴衣がはだけてあられもない姿になったが、本人は全く気にしていないようだ。慌てた都が無言で美雨の腕を下ろさせる。「まあ男性の目もありませんからねぇ」と本橋が苦笑した。

「いいお湯でしたわ。もう最近は肩がこっちゃって。誰です私に事務作業などやらせようと言い出したのは」と美雨は嘆く。「おっ」と口を開いたのはユメノだ。

「じゃあさ、美雨さま。マッサージしたげよっか? あたし得意なんだー」

「あら……ぜひお願いしますわ」

 どうやらユメノが近づいて来てくれて嬉しい様子の美雨が、顔をほころばせて言われるがままに横になった。そんな美雨をまたぐような形で、ユメノは膝をつく。「やっぱマッサージはお風呂上がりだよねー。痛かったら言ってね」と言いながら体重をかけた。

 数分後、美雨ははしたなく嬌声を上げる羽目になっていた。

「いやぁ、お客さん。凝ってますねえ!」

「ちょっ、まっ……あっ、んん……」

「えー? 痛い?」

「いたっ、くな……いい……っ」

 都がそっと実結の耳をふさぐ。「どーしたの、ママ」と言う実結に、「な、何でもないのよ。ちょっとお外を見ましょうか」と都は笑いかけた。

 さて、と汗を拭ったユメノが美雨から離れる。「本橋も! 本橋もお願いします!」と自らスライディングセットしてきた本橋を「はいよー」と抱きとめた。張り切っちゃうぞ、と浴衣の裾をまくる。本橋もかなり教育によろしくない声を上げながら堪能し始めた。

「ユメノちゃーん、これだけで十分食べていけますよぉ」

「うーん。美容師って軽くマッサージみたいなのするじゃん? その勉強してたらなんか楽しくなっちゃって、全身できるようになっちゃったんだよねー」

「アレですよねえ。ユメノちゃんも結構ストイックというか」

 本橋への過分なサービスも終わり、ユメノは都を振り返る。「せーんせ」と言えば、都はぎくっとしてちょっと後ずさった。

「私は疲れていないから……」

「子育て中のママはみんな凝ってるよ」

 遠慮せずに、と言いながらユメノは都の腕をつかむ。勢い余って、そのまま組み敷いてしまった。「あ、ごめん」と素早く謝ってユメノは都の肩を優しくなでる。


「本当に疲れてないのよ、ユメノちゃん」

「それでもやらせて。あたし、せんせーにいっつもありがとうって思ってるんだよ」


 都はもう一切抵抗せずに、されるがままになっていた。何とか声を抑えようと耐えている。

 その横で美雨と本橋が「肩が……軽い……!」「明らかにマッサージチェアなんかより優秀ですよ」と感激していた。

 こらえられず声を出した都を見て、実結がおずおずと「ママのこといじめてる?」とユメノに尋ねる。「いじめてないよ」とユメノは驚いたように答えた。

 マッサージが終わったころ、都は呆然と起き上がって「気持ちよかった……」と呟いた。味を占めた様子のユメノが、「よーし、次は男子組の部屋に乗り込むかー」と言い出す。


 止める暇もなく飛び出していったユメノを見て、本橋は「いいんですかねアレ。さすがに男性陣の方が色んな意味でダメージ大きいのでは」と腕を組んだ。美雨が瞬きをして、「ユメノちゃんなら許されるのではありません? 知りませんが」と肩をすくめた。




☮☮☮




 夕食は宴会会場のようなところに通され、都とノゾムだけが上座と下座の概念を気にして席を譲り続けた。「タイラの姿が見えないのだけど」と訝しげな顔をする都に、ユメノがすっと目をそらす。

「タイラ……寝ちゃったんだよね」

「えっ」

「珍しいから置いてきちゃった。起こすの可哀想だし……」

 伸びをしたカツトシが、「まあ温泉入ってる時から眠そうだったしね」とため息交じりに言った。「でもきっとお腹がすくわ」と都は立ち上がりかける。そんな都の肩を抱きよせて、「いいじゃありませんの、あんな男」と美雨が言ってのけた。

「あの小うるさい男がいない間に親睦を深めましょうよ」

「でも……」

 そんなことを言っているうちに料理が運ばれてきて、仕方なく都も座り直す。とりあえず乾杯だけでもしてからタイラを呼びに行くことにした。「あ!」と何か指さしながらユメノが声を上げる。「ここ、カラオケあるよ!」とはしゃいだ。

「カラオケですって!?」といきなり美雨が身を乗り出す。「お母さん、食事中ですよ」と章がたしなめた。


 勝手に食べ始めたカツトシが、「これ美味しい! どうやって作ってるのかしら」と目を丸くする。都は戸惑いながら「乾杯とかしないのかしら」と呟いた。「これがマジの無礼講ってやつですね」と言ってノゾムも箸を持って「いただきます」と食べ始める。つられてユウキと実結も「いただきます」と元気に食事に手を付けた。

「じゃ、じゃあ私はタイラを呼んで来るわ」

「本橋が呼んできますよ。都さんはミユちゃんを見ていなければならないでしょう?」

「ありがとう、本橋ちゃん」

 このメンバーの中で本当に本橋イブの存在はありがたい、と都はうっかり感激してしまった。




 部屋の前で本橋は、一応ノックをし耳を澄ませてみる。反応がないので、わざと大きな音を立てて「失礼しまーす」と入っていった。と、暗い部屋の中でぼんやりとどこかを見ているタイラがいた。

 起きてたのか、と思いながら本橋はそんなタイラの隣に座る。

「どうしてあいつらは俺を置いていったの?」

「きっと寝かせてあげたかったんですよぉ、タイラのこと」

「あいつら、どこにいるの?」

「ご飯食べてます。行きましょ、タイラも」

 億劫そうに立ち上がったタイラを引っ張って、本橋は部屋を出た。「何だかすごく美味しそうでしたよー。食べられちゃってないといいですねー」と笑いかければ、ようやくタイラは薄い笑みを見せて「そうだな」と言う。


「イブ」

「はい」

「色々と、世話になったな」

「これぐらい、どうってことないですよ。……それとも、林田正真くんのことですか?」

「それもそうだ。加えて、ユウキが攫われた時も車を貸してくれたろ」

「なんだぁ、そんなこと。本橋は何もしてないですよ」


 タイラは立ち止まって、「あれは本当に、ありがたかったんだ」と囁いた。本橋も1,2歩先で立ち止まり、タイラを振り返った。「それくらい朝飯前です。本橋は警官である前に皆さんの友人のつもりですし」と言う。それからふっと目を伏せて、「皆さんの友人である前に、あなたに憧れる者です」と言葉を重ねた。

「言ったでしょう、『何かあったら助ける』って。全然借りなんか返せてませんけど、あなたの守りたいものを本橋も守りたいな」

「……イブ、」

「だけどね、タイラ。少しは大人になったつもりの、あの日の小娘の言葉を聞いてくれるのなら。ちょっと無理をしすぎですよ、あなたはやっぱり」

 何だか少し泣きそうな本橋はうつむいて、「えへへ」と笑ったふりをする。それから勢いよく顔を上げて、タイラの目を見た。


「ユウキくんを助けようとするあなたの姿は、あの日わたしが憧れたあなたそのものだった。だけどわたしだってもう子どもではないから、全部わかってしまったんですよ。あなた、そうやって無理をするたびヒビが入ってる。このままじゃいつか壊れちゃうんだ」

「気のせいだろう。壊れるようなものが、そもそも俺にはない」


 自分の頬をつねってニコッと笑顔を作って見せ、「ねえタイラ」と本橋は肩をすぼめる。

「それでも、大好きな人がそうやって疲れていくのを見るの、かなしいよ」とおどけて言った。


 困ったように目を細めて本橋はタイラに背中を向ける。「今はみんながいるんだし、ちょっとくらいやり方を考えてもいいんじゃないかって言いたかっただけです」と言って歩いて行ってしまった。タイラはそれをぼうっと見て、頭をかく。何も言わずについて行った。


 宴会会場の襖を勢いよく開いた本橋が、「ちゃんとご飯は残ってますか!?」と叫ぶ。それに続いてタイラも、「何で俺を起こさねえんだよ」と声を荒げた。舌打ちした美雨が「早かったですわね」と迎える。どうやらカラオケ大会を始めていたようで、美雨はマイクを握りしめていた。

「誰がお前の西〇カナを聴きたいんだ? 誰が?」

「うるっさいですわね、みんな聴きたいに決まってますわよ」

 次あたしねー、とユメノが手を振る。「ちょっと待っててくださいます?」と美雨は慌てた。


 ぶつくさ言いながら、タイラは空いている席に座る。美味しい美味しいと食べているカツトシを見て、少し表情を和らげた。

「まあ、美味いな」

「僕の料理とどっちが?」

「めんどくせえこと言うなよ、美味いもん食ってる時によ」

「確かにぃ。僕には伸びしろがあるしぃ」

 タイラが即答したなかったことに少し不満げながらも、カツトシはパクパクと料理を口にする。「お前の飯が世界一美味いに決まってる」とタイラが小さな声で答えた。



「そういや、酒はないのか?」

「飲み物の存在忘れてましたね」

「ビールお注ぎしましょうか、タイラさん」


 今更にタイラの掛け声で乾杯などして、そこからは混沌が広がることとなった。なかなかマイクを離さない美雨からタイラがマイクを奪い案の定というか喧嘩を始め、それを見て本橋が腹を抱えて笑った。タイラが歌い始めれば美雨は「由良さんの方が上手だった」と言い出し、「うるっせえよ」とタイラが怒鳴る。

「点数で見れば俺の方が上だったんだが???」

「でも、誰に聞いても由良さんの方が上手と言うわ。大体、点数の話なんかしている時点で負けているのですわ。あなたって全てにおいてそうじゃありません?」

「何だ全てにおいて、って。言ってみろこの野郎。全部言ってみろクソが」

「じゃあ逆に聞きますけど、あなたが由良さんに勝っていたところってどこです?」

「け、」

「喧嘩以外で」

 眉をひそめたタイラが腕を組みながら考える。「いや冷静に考えて、大体は俺が勝ってないか? なあ、ノゾム」となぜかノゾムに振って、むせたノゾムが「知りませんよ。知るわけないじゃないですか」と睨んだ。

 そのまま悪化するかと思われたタイラと美雨の喧嘩だが、気づけば上機嫌に2人でデュエットソングなど歌っている。「仲がいいのね、あの2人は」と都が複雑な面持ちでそれを見た。

「仲がいいのは確かにその通りなのですが、今はたぶん誰とデュエットしているかわかってないと思いますよ。母もタイラさんもかなり酔っていますからね」

 そう静かに言って、章は温かいお茶を口にする。「次はあたしだってば!」とユメノが怒った。どうやら次はユメノとカツトシのデュエットらしい。その前はユウキと実結のデュエットだった。「この流れじゃオレとユキエさんが歌う羽目になりますね」としみじみノゾムが言う。

「そうしたら、僕と本橋さんが歌うことになりませんか?」

「それを前提とした話なんすけど」

 いいですよ、と本橋はガッツポーズをしてみせた。すすっと後ずさりした章が「僕はカラオケなどやったことがありませんので、遠慮させていただきます」と隅の方に丸まる。「何ですかぁ! 本橋だって歌いたいですぅ!」と本橋は泣きついた。どうやら彼女も相当酔っているようだ。

 引きずられるようにして連れていかれた章を見て、「じゃあ私とノンちゃんも何か……」と焦った顔で都が言い出す。ノゾムは思わずというように「えっ」と言って箸を落とした。

「あれはその、ちょっとあそこの2人をけしかけよっかなぁと思っただけで……えっとその……歌います?」

 そんな微妙な空気の都とノゾムの間に、タイラが顔を出す。「俺が歌ったの見てた?」と聞いてくるので、「ええ」「一応」と答えた。タイラはけたけた笑いながら寝転がり、「あーあ、腹いてえ」と言う。

「……この人、本気で酔っ払うと笑い上戸になりますよね」

「そうね」

 微笑みながら、都はタイラの髪をなでた。それに対して特に反応を返さずに、タイラはただくすぐったそうに笑っている。


「ちょっとそこぉ!! お酒が足りていないんじゃなくて!? わたくしがぁ、ほんとぉの無礼講というものをぉ! 見せて差し上げますわぁ!!」


 腰が引けた様子のノゾムが「うわやばい、目をつけられた」と言っているうちに美雨がノゾムのウーロン茶に焼酎を混ぜた。美雨は「がんばれっ、がんばれっ」と囃し立てる。「先輩たすけて」と縋るが、タイラは完全に寝息を立てていた。




☮☮☮




 眠ったユウキを腕に抱きながら、タイラは「どうしてこうなったんだ?」と目の前の光景を見る。酔ったノゾムがカツトシに絡んで嫌がられていた。タイラが起きたとき、タイラ自身の酔いはとうに醒めていたが、代わりにノゾムが潰れていた。十中八九というか美雨の仕業だが、なぜノゾムこいつも断れなかったのかと首をかしげる。

 宴会は、都と章の2人がかりで酔っ払いたちを抑え込んでお開きとなった。今は各自部屋へと戻っている。タイラはユウキを布団に寝かせて、そのまま冷蔵庫に入っていたビールを開けた。


「まだ飲むわけ?」

「いいか、カツトシ。強い酒を飲んだ後にわざと度数の低い酒で中和するってのは2日酔いに有効なんだ」

「いい加減にしなさいよね」


 喉を鳴らしてタイラは煙草を咥える。「ちょっと」と言うカツトシを「まあまあ」といさめて章が窓を開けた。


 目を細め、タイラは煙を吐く。

「ユウキ……」

「ユウキがどうしたわけ」

「何というか、これぐらいのガキってデカくなるってより急に体幹がしっかりするよな。この前までふにゃふにゃした猫抱いてるみたいだったのが、今日は丸太持ち上げたみたいだった」

「それ本当に人間の子どもについての話?」


 美味そうに煙草を吸って、タイラは軽く頭を揺らした。上機嫌に酔っているときの癖だ。ふうん、とカツトシは思いながら頬杖をつく。『ご機嫌なご様子なのでお聞きしておこうかしら』と口を開いた。

「あんた、都先生と何かあった?」

 タイラはきょとんとして、「なかったと言ったら嘘になる」と頷く。「具体的に言えば彼女は俺に薬を打ったし、」と言い出したので、「いやそんな事の初めについては聞いてない」と遮った。

「いつからいつの間に?」

「そうねえ、たぶんこの1,2か月くらいの間に」

 何か考えている様子のタイラは目をそらして、頭をかく。さらにカツトシは『ふうん』と腕を組んだ。思い当たる節はあるけれど話す気はない、ということか。

「なーんか、アレよねえ。都せんせ、様子がおかしいわよねえ」

 そんなことを言って鎌をかけてみれば、タイラは目を丸くして「お前もそう思うか?」なんて言う。狙いが外れたカツトシは、顔をしかめてしまった。

「この前もだな」と、タイラは真剣な顔で言う。

「何の話だったかはすっかり忘れてしまったが、途中で先生は『あなたは誰にでもこういうことを言うんでしょうね』なんて言って2階へ上がってしまった。彼女は何か怒っているのか? 機嫌を損ねた覚えは本当にないんだが」

 聞きながらカツトシはお茶を一口飲み、「その話の一番ダメなところは、あんたが何を言ったのか自分で覚えてないところよね」と片目をつぶった。「一番どうでもいいところだろ」とタイラが眉根を寄せる。


「ところでタイラさんは、都さんのことをどう思っていらっしゃるんですか?」

 唐突な章のキラーパスに、カツトシは心の中でグッジョブを贈りながら「そうよ、どうなのよ」と乗っかった。

 タイラは顔をしかめてしばらく考えている様子だったが、不意に面倒そうに答えた。

「据え膳だ」

 きょとんとしたカツトシが「据え膳って何?」と聞くも、ノゾムは「サイテーだよあんた」と激昂しているし、章はなぜか身もだえしている。

「タイラさん! 僕は! 僕もタイラさんのためにいつも御膳を整えて待っておりますが!」

「わざわざ青い実をそのまま食うほど飢えてはいない」

「ありがとうございます!」

 自分の胸に手を当てて「今日はファンサがすごいなぁ」と章は恍惚とした表情を見せた。正直恐怖すら覚えるので誰もツッコミたがらない。

「据え膳ねぇ」教えてくれないので自分で調べながらカツトシは呟いた。「じゃあ、いつ召し上がるわけ?」と意地悪く言ってみる。タイラワイチとしての模範解答など聞きたいわけではないのだ。

 タイラは、多少たじろいだ様子で頬杖をついた。

「あんたにとって先生が『いつ食べてもいいご馳走』なら、どうして今たいらげてしまわないのか不思議じゃない? 何か理由がおありなのかしら」

 さあごまかしてごらんなさいよ、とタイラの顔を見る。

 驚くべきことにタイラは自分の表情を隠すかのように口元に手を当て、無言で目をそらした。拍子抜けしたカツトシは、内心『もっと押してやろう』と準備していた手を引っ込めざるを得なくなってしまう。


「食うのが」とタイラはぶっきらぼうに口を開いた。「勿体ないからに決まってんだろ」と。


 思わず「貧乏性」と指さし、カツトシは笑ってしまう。いいんじゃないの、と思ってしまった。いいんじゃないの、そういうことならーーーーなんて。タイラは「うるせえよ」と煩わしげに手を振った。

「あーわかった。チキってんでしょ、あんた。そんなこと言ってチキってんだ絶対」

 ここぞとばかりにノゾムが指摘する。「お前、酔うとめんどくせえ絡み方するなぁ。妬いてんのか?」とタイラは辟易とした。

「お前はどうなんだ。彼女の一人や二人できたのか」

「先輩とは違うんで。『一人や二人』とかそういう不誠実なことはしないっすね」

「同時に、の話じゃねえんだよ」

 ノゾムは舌打ちをして、ちゃぶ台に突っ伏す。「彼女なんて作ったってしょうがないんですよねぇ」と呟いた。


「つうか誰も言わないからオレが言いますけど、オレら近辺の女性陣の顔面偏差値高すぎません? 圧がすごいんですけど」

「確かに皆さんお綺麗ですね」

「いや坊ちゃまの顔面偏差値も相当なものなので、正直ご同意いただいてもアレなんですが……」

 心底どうでもよさそうなタイラが、「人間は顔じゃないぞ」と言い、カツトシも「そうよ、失礼しちゃうわね」と憤慨する。「オレが言いたいのはですね」とノゾムは湯飲みに茶を淹れた。「あんなに可愛い女の子が近くにいるのに、わざわざ他で彼女を作ろうとするのって、全方位に対して失礼なんじゃないかって話なんですよ」と続ける。カツトシは腕を組んで「まあわからないでもないけど」と肩をすくめた。

 頭をかいたノゾムが「ああもう、くだらないこと言ってないで寝ますよ」と強制的に電気を消し、暗闇の中でタイラの煙草の火だけがその場に赤く残った。



☮☮☮




 長い髪を括った美雨が、突然「恋バナを致しましょう」と言い出した夜更けすぎ。髪を乾かしていたユメノは、ドライヤーのスイッチを切って「いいね!」と目を輝かせた。

「あー、でもあたし今話せることないやぁ」

「林田なんちゃらくんとはその後いかがです」

「それ美雨サマが聞く? キッパリお別れしたので知りません」

 あら残念、と美雨は言う。どうやら本心らしいところがかなりタチの悪い話だ。「ちゃんとやっているといいんですけどねえ、林田くん」と本橋も目を細めた。


「それにしてもこの面子で恋バナですかぁ? 本橋にもネタがないでぇす」

 光の速さで美雨が「ないのですか?」と反応する。

「つまり、現在お付き合いしている方も好意を抱く対象もいないと?」

「ふぁ? めっちゃグイグイ来ますじゃないですかぁ。えーっと、それはその……」

 言いづらそうな本橋を尻目に、ユメノが「そういや本橋ちゃんはタイラのこと本気なん?」と口を出した。沈黙が辺りを包む。本橋はちょっと頬を赤らめて、空咳を一つした。


「本気かお遊びかと言われたら、本気のお遊びですよ」


 口をあんぐり開けた美雨が「なっ……」と声を震わせる。

「なんですって!? あ、あなた……よりにもよってまさか! あの、あの男に、好意めいた何かを向けていると仰る!?」

「声デカ……」

 白けた表情で目をそらした本橋が「そんなに驚くようなことですかねぇ」とぼやいた。

「だってあのおじさんだけはないでしょう。冷静によくお考えになって」

「いや別に、あの人とどうにかなってやろうというつもりは……」


 あたしもオススメしないなぁ、とユメノも言い出す。

「だってあいつ変なところ神経質だし、そのくせ連絡よこさずに外泊するし、最近はないけど昔はしょっちゅう女の子をとっかえひっかえして、ケンカになれば必ず女の子に携帯電話水没させられてたし」

 アレもコレもとタイラのネガティブキャンペーンをしながら、ユメノは「ねえ先生。先生からも言ってやってよ。いつもあいつに困らされてるもんね」と都に話を振る。完全に他人事だと思い実結に添い寝をしていた都は、驚いて肩を震わせた。


「えっ……」

「本橋ちゃんにさぁ、タイラはやめとけって言ってよ。あいつと一緒にいるのも大変じゃん?」

 都は目をぱちくりさせて、思わず起き上がり正座する。


「彼は……」と言ってうつむいた。「彼は、とっても素敵なひとだと思う」と浴衣の裾を掴む。


「私が今まで出会った誰よりも優しくて面白くて、思慮深い人だわ」


 耳の付け根が熱くなっていくのを感じた。だけど冗談でも彼が悪く言われているのが何となく嫌で、『ダメよ、そんな風に言っては』と笑うことすらできなくて、ただ馬鹿みたいに裸の言葉を並べていた。

「悪いところがあるとすれば……そうね、あのひとは……」

 ふと、目を伏せる。「少し偽悪的なところが、心配ね」と言った声が震えた。


 最近、自分がひどく面倒な女になっていることはわかっていた。わかってはいたけれど、どうしてなのか考えられなくてただうろたえている。特にタイラに対しては一段とひどくて、まるで彼との会話に正解があるかのように焦っては不意に彼を傷つけてしまうような日々だった。


「先生は優しいからそう言うけどさぁ」とユメノは茶請けの煎餅を食べながら言う。「あら、こんな時間に食べてはお肌に悪いですわよ」と美雨が指摘した。

「というかぁ」と口を出したのは本橋だ。


「本橋は、タイラと関係になりたいとはぜんっぜん思ってませんからねぇ?」


 ムッと膨れ面をして、本橋は腕を組む。「憧れは憧れです。確かに本橋はあの人のことが好きですし、昔はお嫁さんにしてくれないかなぁと思っていましたが……」と最後の方は小さくゴニョニョ言った。「とにかく! そういうんじゃありませんよぉ」と首を横に振る。

 あらそうですの、と嬉しそうに美雨が言った。「なーんだ、そーなんだ」とユメノもどこか安心した風に呟く。都はーーーー都は、ほっとしたような、だけどこの場で彼の評価が変わらなかったことにもやもやしているような、『やっぱり面倒な女だわ、わたし』と目を伏せた。


「あなた」と肩を叩かれて都は顔を上げる。


「あの男は偽悪などではなく、露悪でしてよ。履き違えないようになさい。悪を偽ることと悪を露わにすることでは、天と地ほども違います。あなたにはあの男が聖人に見えていらして?」


 とっさに、「違うの」と呟く。


 違うの。たとえば私は優しくなんかなくて、優しいのはいつだって彼の方なの。どうしてそれがみんなに伝わらないのか、不思議なくらいよ。

 聖人じゃないことくらいわかってる。誰だってそうはなれないもの。だけど、だけど彼はーーーー


「誰かのためなのよ。いつだって、誰かのためなの。良くも悪くも、そう。それが露悪だと言うのなら確かにそうかもしれないわ。彼はを恐れないのよ」


 ふっと目を細めた美雨は都の肩から手を離し、「さて寝ましょう、もう寝ましょう」と立ち上がった。「私、こんなに歩いたの久しぶりでもう疲れてしまいましたわ」とわざとらしく欠伸までする。

 ぽつんと残された都は、ただ頼りなさげな自分の膝小僧をじっと見つめていた。

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