☆少女はまだ、心を言葉にする術を持たない
両親は忙しい人だし、家にいるお手伝いさんも大変せわしなく、この世界で暇をしているのは自分だけだと幼き日の都幸枝は思っていた。
世界は自分を置いて回り続け、自分がやるべきことなど何もない。誰もが“役割”というものを持っていて、しかし幸枝にはそれがない。否、ご飯を食べ勉強をし習い事をして夜は駄々をこねずに寝る。そういった、やるべきことは存在した。しかしそれを誰かに望まれたことはない。最低限生きるために、暇つぶしのように、10歳の幸枝はそのローテーションをこなしているだけだった。
静かな家の、殊更物音の聞こえない部屋。幸枝に用意された不相応なほど大きな部屋で、いつも暇を持て余していた。両親から買い与えられた服や勉強道具が、箱から出さないままで積み重なっている。
優しい両親。物にあふれた部屋。同年代の子たちの中で、だれよりも恵まれていた。
両親のすすめで習い事はたくさんしたけれど、3歳のころから続いているものといったらピアノくらいしかなかった。幸枝は飽きっぽい性分ではなかったけれど、どれも続ける理由がなかった。
ピアノは――――なぜ続けていたんだったか。楽しいものでもなかった。誰かのためでもなかった。ただ、惰性だったのか。暇つぶしだったのか。
ある時ピアノの発表会があって、幸枝は両親にその話をした。他の子たちの話を聞く限りは父か母が当然発表会には来るものと信じて疑わない様子だったので、ならば幸枝の家もそうなのではないかと思ったからだ。
「それは絶対に僕らが出席しなければならないものなのか」と父は言った。幸枝は、『必ずしもそうではないが、あなた方が出資した末の成果というものを発表する機会なので出席を推奨する』というようなことを自分なりの語彙で説明した。
「幸枝、心配しなくても君が頑張っていることは先生からのお手紙でよくわかっているよ」
「先生のお手紙では、わたしのピアノが下手なのか上手なのかまではわからないでしょう?」
「僕たちは君にピアニストになってほしいわけじゃない。下手でも上手でもいいんだよ。そんなことよりも、ピアノや他の習い事を一生懸命にやっていれば、その経験はきっと君の人生を豊かにするだろう。僕たちはそれで十分だと思ってる。もちろん、そういう場所で発表することも素晴らしい経験になるだろう。だから頑張っておいで」
父の話はいつも難しかった。よく理解することができず、理解できない事柄について駄々をこねる勇気を幸枝は持っていなかったし、理解できない事柄について反論したり深く聞き直したりする知性もこの時の幸枝は持ち合わせていなかった。
だから幸枝はその時も「はい、パパ」と言って黙った。
隣で母が、忙しそうに化粧をしながら「そう、発表会なの。新しいドレスを買わなきゃね。ママも行けないけど、進藤さんに写真を撮ってもらいましょう」と言った。進藤さん、とはお手伝いさんの中のひとりだ。主に幸枝の世話をしてくれている。
「ママ…………ドレスはたくさんあるわ」
「でも新しい方がいいでしょう。『そのドレス、前にも着ていたわね』って言われるのは恥ずかしいもの」
「着ていないドレスだってたくさんあるわ」
「どうして着ていないの? せっかく買ってあげたのに」
幸枝はまた黙って目を伏せた。わかっている。母は怒っているのではなく困惑しているのだ。この年頃の女の子であれば喜んで飛びつくようなものを十二分に買い与えられた。それなのに幸枝はそれらを開封すらしないまま積み重ねている。なぜなのか、母にも父にも理解できないのだろう。幸枝自身にも上手く説明できはしない。
「…………ごめんなさい、発表会はまだ着ていないドレスで行くわ」
そう言い残して、幸枝は逃げるようにその場を後にした。
幸枝の部屋の、未開封の小箱などをお手伝いさんたちはみんな開けて片付けたがった。それを止めたのは幸枝で、その小箱の中から新品の贈り物たちが顔を覗かせるのが嫌だったのだ。幸枝が使わなければ、手に取らなければ、存在意義をなくす物たち。それらが時折重荷に感じて、端へ追いやりたくなった。貰ったのだから使うのが義務であると主張しているようで、目に入れることも避けたかった。少なくとも小箱などから出さない限り、それらはただの箱であり袋であり、部屋の風景と同化していた。
仕方なくその中から衣服の入っているであろう袋を並べ、片っ端から開けた。ドレスなんてどれでもいい。母の選んだものだ。何を着ても恥ずかしいことはない。
昔から不思議に思っていることがある。母は飾られている服をよく褒めたけれど、いざ幸枝が着てみてもそこまで反応はよくなかった。恐らく、衣服は身につけている時よりも飾っている時の方が価値のあるものなのだろう。ならばなぜ幸枝に着せようとするのか。良い服を着ていないと恥ずかしいからだ。つまり衣服は、飾られている分には至上の美しさを誇るというのに、幸枝がそのままでは恥ずかしい存在であるせいでわざわざ価値を落として幸枝に着られているのである。服にしたらいい迷惑だ。
そんな空想とも妄想とも呼べないようなことをぼんやり考えながら、幸枝は1着のドレスを手に取った。「仕方がないのよ、ドレスさん」と幸枝はハッキリ口を開く。「わたしもがんばってお人形さんになるから、それならあなたもかざられているのと同じでしょう? きっと上手にやれるわ、わたしたち」と言って静かに瞬きをした。
ピアノの発表会は小さなホールで行った。生徒の家族や身内しか見には来ない。幸枝はさして緊張もせず、出番になったら前に出ていき演奏をした。弾けない曲をやらされるわけでもないのだから、緊張などするはずもない。いつもと同じだ。
(パパの言う通り。わたしたちがちゃんとやっているってことは、先生がパパやママにお伝えくださっている)
それならこれは一体何のための発表会なのか。あの子たちの両親は一体何を見に来ているのか。わからなくて苦しい。わからないものは、苦しい。
そんなことを考えながらピアノを弾いているうちに、幸枝はひとつの解にたどり着いた。
あの子たちには、両親があの子たちを見に来たがるような何か大きな価値があり、そしてその価値が自分にはない。
一曲弾き終えて立ち上がり、深々とお辞儀をする。まばらに拍手が聞こえて、少し安心した。自分は上手くやったし、もう舞台袖へ引っ込んでいいと許されたのだ。
小走りで戻った幸枝を見て、先生が「誰より上手だったわよ」と囁いた。ありがとうございます先生、と幸枝はうなづく。「でも、」と下を向いた。
“僕たちは君にピアニストになってほしいわけじゃない。
下手でも上手でもいいんだよ”
「下手とか上手とか、どうでもいいことだから」
そう言って、幸枝はその場を離れた。
迎えに来てくれたお手伝いさんの車に揺られる。ぼんやりと空を見ると、まだ昼間だというのに薄く月のようなものが見えた。色が白く、どちらかといえば月のなり損ないのような。
「進藤さん」
「なんです?」
「わたし、ピアノやめたいわ」
「……お父さまとお母さまにお話しておきましょう」
「ありがとう」
後部座席で膝を抱え、ずっと空を見ていた。なり損ないの月は白く透けていて、頼りなく幸枝たちを追いかけている。
なんだか手が冷たかった。そうだピアノの鍵盤が冷たかったのだ。だからわたしはピアノをやめる。手が冷えてしまうから、そうだそういうことにしよう。誰に言い訳するのでもない、自分をどうにか納得させるために。
進藤さんと両親が話をしているのを、幸枝は部屋の外から聞いていた。
いつまでも冷たい手。吐いた息であたためる。あの山積みになった小箱の中には手袋もあっただろうか。わからない。開けたくない。
幸枝がピアノをやめたいと言ったことについて、父はただ「そうか」と言った。
「ピアノは長く持ったんだけどねえ。まあ、あの子も10歳だ。経験としては十分だろう、本人が嫌がっているものを無理やりやらせる方がよくない。でも、習い事は何かやった方がいいな。次は体を動かすものがいいかもしれない。何がやりたいか聞いてみてくれ」
「はい……しかし旦那様、もう少しお嬢さんとお話された方がいいのではないでしょうか」
「あの子は君たちに懐いているからな」
ふと母の声で、「私たちとは話したがらないし」と聞こえる。それからいきなり部屋のドアが開いた。あら、と母が幸枝の顔を覗き込んでくる。
「ここで何をしているの、ユキちゃん」
「ママ……」
ハッとして幸枝は立ち上がり、ドレスの埃をはらった。何でもない、と言いかけてやめる。「ママ、」と口を開いた。
「わたしはバレエもやったし合唱団に入ったこともあるし、絵画教室もピアノ教室も行ったわ」
「ええ、そうね。頑張っていたわね」
「でもバレエダンサーになるわけでも、ピアニストになるわけでもない。ママとパパは、わたしが大人になったら何をやってほしい?」
母は目を細めて、にっこりと笑う。幸枝の頬に触れ、「幸枝、あなたは」と囁いた。
「いいところにお嫁にいって、幸せになるのよ」
その時、はっきりとわかってしまった。両親は、幸枝自身に何も期待をしてはいなかった。
自室に戻った幸枝は、電気もつけないままでベッドに寝転んだ。よくわからない感傷だ。早く寝てしまいたいのに目が冴えている。仕方なく起き上がり、窓を開けた。
風が吹いている。幸枝の黒い髪をさらった。火照った頬に心地よく冷たい。
そんな幸枝の頬にあたたかいものが伝っていった。その理由が自分ではわからない。
優しい両親。理解があって、きっと自分は愛されているのだろう。確かに期待はされていないのかもしれないけれど、逆に言えば幸枝は何をしなさいと押し付けられたこともない。必要なものは何だって買い与えられ、部屋に積み上げられている。
自分はなんて恵まれているのか。誰かに分けてあげたいくらいだ。
愛されている。恵まれている。こんなに、こんなに。
「こんなに、わたしは何でも持っているのに」
誰かに分けてあげないと、わたしの中でいつかいっぱいになって、はちきれてしまう。
そんなことを思った。贈り物たちで部屋が埋め尽くされたとき、いらないものとして捨てられるのはドレスなのか自分なのか。手元にあった小さな箱を握りしめ、窓から投げ捨てようと振りかぶる。
できやしない、どうせそんなことは。
涙はもうすっかり止まっていた。自分がどうして泣いていたのかわからなかった。
ただ、窓の外に明るい月が見えた。昼間の、なり損ないみたいな月とは比べ物にならない立派な満月だった。
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