★大人だって遊びたい
ユウキは学校に、ユメノはアルバイト先に、それぞれ駆け出していくのを見送り、都はコーヒーを飲む。珍しくというかノゾムも出かけており、カウンターに座っているのは都と実結だけだ。
やがてカツトシまでも、「そろそろ買い出ししてくるわねー」とエプロンを脱ぎ始める。
「ミユも! ミユもいく!」
「えっ……」
はしゃぐ愛娘を見て、都は「ママ、寂しいわ」と呟いた。実結は少し迷って、「じゃあいかない……」と言い出す。慌てて都が「大丈夫! ママ全然寂しくない!」と励ませば、結局実結もカツトシと買い物に行ってしまった。
ぽつねんと一人残された都は、コーヒーを飲み干して「やっぱりママ、ちょっと寂しい」と独りごちた。
不意に階段を降りてくる足音が聞こえ、振り向く。頭をかきながら、タイラが降りてくるところだった。
「カツトシはいないのか」
「みんないないわ」
ふうん、と言いながらタイラは都の隣に座る。
「君は仕事じゃないの」
「今日はお休み。……柊さんの息子さん、命日らしくて」
「そうか」
カウンターに肘をつき、タイラはぼうっとどこかを見ていた。その視線を追いかけてみたけれど、これといって珍しいものはない。
「タイラ、」と呼びかける。何か飲み物でも用意しましょうか、と提案したかったのだがその前に彼の方が口を開いた。
「銀行でも襲いに行かないか、ボニー」
唐突に聞き慣れない言葉が出てきて、都は戸惑う。しかしそれが遠回しなデートの誘い文句だと思い当たった時、思わず破顔してしまった。
「構わないけれど、蜂の巣になるのは御免よクライド」
「もちろんだ」
立ち上がったタイラが都の方に腕を伸ばしながら「俺がいるのにそんな心配するなんて、失礼だぞ」と笑う。都も立ち上がり、彼の手を取った。
☮☮☮
「君、本気で『俺たちに明日はない』をラブストーリーだと?」
酒場の鍵を閉めながら、タイラが眉をひそめた。「違うの?」と都は目を丸くする。
「…………少なくとも俺は、あれをラブストーリーだと言って見せられたら腹が立つけどな」
「でもあなたは誘い文句に使ったでしょう」
首を傾げる都に、「なるほど」とタイラは腕を組む。ぽかんとした都が、「納得していないなら『なるほど』と言わなくてもいいのに」と呟いた。タイラはムッとした様子で都を見る。
「あの映画はノンフィクションだ。それ以上でもそれ以下でもない。俺が君を誘ったことに、それ以上の意味はないのと同じだ」
彼の言葉を飲みこんで、都は「なるほど」とうなづいた。タイラがくすくす笑って、「納得していないなら『なるほど』と言わなくてもいいんだぞ」と煽る。都は驚いて、先程の自分の言葉が彼には同様に聞こえたのだと気づいた。
「ノンフィクションにだって主題はあるわ」
「そうか? たとえば君が今、いい男と出会って恋をしたとしよう。それなりに特筆すべきいい思いをして、だからといってそれで君の人生の主題は恋愛になるのか?」
「それが一生モノの恋で、私はこのために生まれてきたのだと思えれば私の人生のジャンルは恋愛になるのかもしれないわ」
「そんなことはありえないだろ。人間が何かひとつのためだけに生まれてくることはないからな」
「そうかしら……」
「もし本当にジャンル分けするとしたら、誰の人生もコメディだ」
ちらりと横目でタイラを見て、「あなたはロマンチストね」と都は微笑む。吹き出して噎せたタイラが「それを君が言うか?」と肩を竦めた。
何とはなしに本屋へ入り、新刊の並んだ棚を眺める。
「これからどこへ行こうか」
「そうね、ただ歩いているだけで私は楽しいけれど」
「そんなことを言うと、街の端まで君を連れ回すぞ」
「楽しそうね」
聞き覚えのある作家の本を手に取って、都はふとタイラの顔を見る。
「どうして笑っているの?」
「いや別に。本当に、君といると調子が狂うなと思っただけだ」
都がショックを受けている間に、タイラが素早く都の手から本を奪った。しげしげと見て、「ああこの作家、新作出したのか」とパラパラ中身をめくる。
「……私も、」
「ん?」
「私も、あなたといると自分が自分じゃないみたいだと思うことがある。やりにくいと……思うことも……時々……」
最後だけ言葉を濁して、都は本を奪い返し棚にしまった。顎に手を当てて怪訝そうな顔をしていたタイラが、「俺が買うんだよ」と言って棚に戻された本をまた手に取る。
「読み終わったら君に貸してやる」
それから2人で本屋の中を歩き、棚に並ぶ本のタイトルを見て時々手を伸ばしたりした。
本屋さんに来ると、と都は目を細める。
「こんなにたくさんの本があって、世界にはもっとたくさんの本があって、死ぬまでに読み切れないってことが悲しくて、だけどすごくワクワクするの」
それを見たタイラがふっと笑い、「子どもみたいだ」と呟いた。目を閉じて「俺は嫌になったけどな」と囁くように言う。
「“時間が足りない”と思って生きるのは嫌になるだろ。おちおち本も買えやしない」
「そこは、“おちおち死んでもいられない”の間違いでしょう?」
「……そ、れは……そうか……」
じゃあ、と都ははにかんで本を何冊も抱えた。先程からタイラが気にして見ていた本ばかりだ。そんなに持ってどうする、とタイラが困惑する。「私が買うの」と都は肩を竦めた。
「読み終わったら、あなたに貸してあげるわ」
そう言ってまた本に手を伸ばす。その腕を、タイラが掴んだ。「そんなにあっても無駄だ、また買いに来ればいい」と言いながら本を戻していく。それから2、3冊を残し都を会計に連れて行った。
購入した本を手提げの紙袋に入れてもらって、本屋を出る。
「怒ってる?」
「困ってるんだ」
「なぜ」
「なぜだかわからないから困ってるんだ。俺は理由がわかることについては困らない」
きょとんとしている都を、タイラがしかめ面のまま「君は」と睨んだ。
「煽り癖があるだろ。わざとなのか天然なのかわからねえが」
「ええっと、さっきのは少しだけ……煽り、ました」
「この女…………」
グッと何かこらえた様子のタイラが、あらぬ方向を指さす。「ゲームだ」と言ったタイラは確かにゲームセンターを指している。
「やるぞ、そろそろ黙らせてやる」
「よくわからないけれど、私は何があっても黙らないと思う。あなたは私に黙ってほしいの?」
それには答えず、タイラは都を引っ張っていった。慣れない喧騒の中で、都は少し身を縮ませる。
人の目を避けるようにタイラと距離を詰めれば、彼の着ているジャケットのファーが頬をくすぐった。都の腕を掴むタイラの手が大きくて、容易に逃げられないと感じる。逃げたいわけではないけれど、ほんの少し抵抗してみた。あっさりとタイラは都を離して、目を見る。
嫌になったか、と言われた気がした。声は聞こえないけれど、確かに。
都はゆるく首を振って、「初めて来た」と呟いた。
「ゲーセンに?」
「ええ。私が子供の頃にもあったのかしら」
「あっただろ。よく思い出してみろ、絶対に君が見ていた風景の中にもあったぞ」
そうだろうか。そうかもしれない。都は子どもの頃から周囲がよく見えていないところがあった。自分以外の全てが風景だと思いこんでいる子どもだったのだ。
いつまでも首を捻っている都を、タイラはずっと見ていた。「ガキの頃のことなんか覚えてないか」と目を細めるので、「あんまり……」と答える。
「ふうん、じゃあ君のゲーセンデビューということで」
「楽しいの?」
「わからない。何度か来たことはあるが、俺もそんなに興味がなかった」
どうしてここへ来たがったのだろう。
都が尋ねる前に、「何かやりたいものは?」と言われる。そう言われても、何ひとつわからないのだ。どれも騒がしくて、全て同じように見える。祭りでひとりはぐれてしまった時の心細さと、人酔いの気持ち悪さを感じるばかりだった。
見かねた様子のタイラが、「懐かしいな、あれ」と言いながら都の手を引く。連れていかれたのは、穴から次々飛び出てくるワニをハンマーで叩くゲームだ。確かに、これなら見たことがある。
「やるの?」
「やります」
「そう……」
あなたがそう言うのならそうするけれど、と都は少し不満そうにしてしまう。そんな都を後目に、タイラは小銭を投入した。
こんな子どものゲームにとため息をつきながらハンマーを握ると、隣のタイラが存外真剣な顔をしていることに気がついた。思わず笑ってしまって、『この人にやらせたらきっと台が壊れてしまうわ』と胸の内で思う。
出てくるワニを叩くだけだが、いい運動になったし楽しかった。タイラもやりたがったけれど、「私はあれがやりたいわ」と言ってすぐその場から引き離す。タイラは「え? 次、俺の番じゃない? 俺の番じゃないのかな? ワニ叩くの得意だよ、俺」と言いながらもついてきてくれた。最後にこのゲームをやったのは一体いつのことなのか聞いたところ、小学生の頃らしい。当時の感覚でやられては、本当にゲーム台が壊れてしまうに違いなかった。都は彼をなだめながら、太鼓の形を模したゲームの前に連れていく。
有り体に言って、タイラはそこまでゲームが得意ではなかった。下手というわけでもなく、ただあまり経験がないという拙さを感じた。格闘ゲームだけはやり込みの圧を感じたが、それ以外のゲームは正直都と同じレベルだ。2人は大抵のゲームでいい勝負だったが、なぜか不思議といつもタイラの方が僅差で勝った。
こうなってくると都も悔しい。なんせいつも、もう少しのところで負けるのだ。まったくの運でしか決まらないゲームだって、当然のようにタイラが勝つ。
どうやら都たちの空気感は周囲から浮いていたようで、そのうちゲームをやっていると「奥さん頑張れ」だとか「あの旦那大人げねーな、負けてやればいいのに」だとか野次が飛ぶようになってきた。それに対し、タイラは「うるせえ誰が旦那だ。勝負事に大人げないもクソもあるか」と言い返す。ブーイングが起こった。
凄いな、とぼんやり都は思う。彼はどんな人ともすぐ“対等”という立ち位置まで関係を持っていく。何に対しても物怖じしない彼がいて、周囲も初見では彼を危険視したりはしない。このようにしている限り、彼と世界の関係は良好だった。だからこそ――――だからこそ、それら全てを簡単に敵に回せる彼がこわい。これは脅威としてではなく、心配だという意味で。
今度はあれ、と言われてシューティングゲームをプレイする。なかなか迫力のある映像で、ゾンビが襲ってきた。都は必死に引き金をひく。「いけー」「下手じゃん旦那」と後ろから声が聞こえた。隣でタイラが「うるせえうるせえ」と怒鳴る。
終わってみれば、僅差で都のスコアの方が上だ。思わず両手を上げて、「やった」と喜んでしまう。おめでとうと拍手まで聞こえた。
タイラはと言えば目を丸くして、「もういっかい……練習する……」と言い出したので「ダメよ、後ろがつかえてるもの」と彼の腕を引く。それに、と都は腰に手を当てた。
「このゲームは私が勝ったんだから」
驚愕、という顔をタイラはする。「いいぞいいぞ」とはやし立てる声。「奥さん、いい女だなー。そんな旦那ほっといて、オレと遊ぼうよー」と絡んできた男に、タイラが「彼女はいま俺と遊んでるんだ。口説くなら終わってからにしろ」と睨む。それからムッとした様子で、「次だ」と言った。
エアホッケーに小銭を投入すると、パックが飛び出してくる。それを何度か打ち合って、都はちょっと強めに返した。それをまたタイラが強く返してくる。当然のように打ち返そうとすると、パックが都のマレットに弾かれて飛んだ。勢いを殺しきれなかったのか、当たった角度が良くなかったのか。
飛んだパックはあらぬ方向へ風を切り、壁にぶつかる。
都とタイラは目を見合わせて、同じように苦笑した。
☮☮☮
「誰にも当たらなくてよかった。恥ずかしかったわね……」
「まったくだ。ガキの遊びに熱くなりすぎたな」
「……誰かに当たってたらどうしてた?」
「そりゃあ、正座して反省の意を示させていただいてたよ。いい歳こいて」
都は噴き出してしまう。それを見たタイラが眉をひそめて、「君も隣で正座だぞ」と言った。何度もうなづいて、「それはもう、もちろんです」と答える。
ここはゲームセンターの休憩所のようだった。ドリンクの自動販売機と長椅子、スタンド灰皿がある。長椅子に腰かけながら、都は温かいミルクティを。タイラはブラックのコーヒーを飲んでいた。
ふう、と息を吐いて都は自分の頬を両手で押さえる。それでも笑ってしまうのを隠し切れず、タイラが怪訝そうに見てきた。「あのね」と都は口を開く。
「あのね、とっても楽しかったの」
「よかったな」
「私はゲームなんて苦手だし、騒がしくて人がたくさんいるところも苦手。“こんなところ、あなたに誘われたからって来るんじゃなかった”と思った」
「そうか」
「でも楽しかったの。これは一体どうしたことだろうとずっと考えていたところです」
まだ温もりの残るペットボトルを握りしめて、都は目を伏せた。タイラがそんな都を見下ろして「どうしてだかわかったか? 今後の参考にするから教えてくれ」と言ってくる。都は顔を上げて、照れ笑いを浮かべた。
「“あなたとだから”っていう答えしか、なかった」
瞬きをしたタイラが、目を丸くしてじっと都を見る。都も彼の目を見た。
光が弾けるような短い時間の中で、都はちょっと焦る。タイラが何も言わないからだ。
「えっと、私はいま何かおかしなことを言ったでしょうか」と恐る恐る聞いてみる。タイラは険しい顔をして、「まずい」と呟いた。それから胸の辺りを押さえる。
「比喩でも何でもなく脈が乱れた。キツい」
「えっ、嫌だ。嘘でしょう? 大丈夫?」
「心臓が止まったら君のせいだぞ、今日は調子が良かったのに」
「それは……タイラ……もちろんそうなのだけど、私のせいだということはわかっているのだけど、とにかくちゃんと息をして」
慌てて、都はタイラの胸に耳を寄せた。心音を確認する。タイラは天を仰いで、「この女は俺を殺す気か……?」と呟いた。
ため息をついたタイラが、都を引きはがして「冗談だ、そう簡単に死んでたまるか」と肩をすくめる。
「本当? 顔色が悪いように見えるけど」
「絶好調なんだが。失礼極まりないな」
言葉に詰まって、都は口を閉ざした。座り直し、ジトッとした目で「あなたは」とタイラを見る。
「どうしてゲームセンターに来たがったの?」
「ああ、嫌がらせだ」
あっさりと答えるタイラに、都は「ええっ」と憤慨した。「君が嫌いだろうと思ったから来た。言ったろ、黙らせてやるって」なんて飄々と言う。
「……黙らないけれど」
「案の定だな」
「せっかくあなたと話ができるのに、黙るなんてもったいないことできないわ」
「話ならいくらでもできるだ、ろ……」
ハッとした様子で空咳をして、タイラは不機嫌そうな顔をした。「あなたは私に黙ってほしいの?」と都はもう一度尋ねる。目を細めたタイラが、「そうだな」と言いながら都の頬に触れた。そのまま頬を優しくつまむ。
「黙っていてくれ。君の声は耳障りだ」
都はぽかんとして、その言葉を咀嚼する。額面通りに受け取れば、嫌悪だ。しかし彼の表情にそういった色はない。からかわれたのだろう、とは思う。だけれどわざわざ進んで誤解を受けるような表現をした意味がわからない。わからないけれど、腹は立つ。
「黙りません」と都は膨れっ面をした。
「そうだろうな」とタイラは言って手を離す。
それから立ち上がって、「そろそろ行くか」とタイラは言った。ムッとしたまま、仕方なく都も彼に倣う。
ゲームセンターから出る前に、都はUFOキャッチャーを見た。やわらかそうなテディベアが鎮座している。簡単そう、と思う。
「ちょっと待って」
そうタイラに声をかけて、都は財布を出した。小銭を入れてアームを動かす。なかなか重心を掴み切れず、持ち上がらない。「結構難しいのね」と小首をかしげれば、後ろで見ていたタイラが前に出てくる。
「このクマが欲しいのか?」
「ええ」
待ってろ、とタイラはUFOキャッチャーに100円玉を投入した。色々な角度から見て、アームを動かす。ぬいぐるみは宙に浮き――――落ちた。タイラは『はぁ?』という顔をして、目を瞬かせた。
「アーム弱すぎだろ!」
「惜しい……」
「ムカつくな」
「まだやってくれるの?」
都の声など聞こえていないようで、タイラは千円札を両替しに行く。
結局三度目の挑戦でテディベアを手に入れることができた。タイラにとってそれは敗北であったらしく、「3回も……」と言って呆然としている。ぬいぐるみを手に取って、都は「ありがとう」と笑った。
「実結が喜ぶわ」
「……ああ。ミユちゃんがな。なるほど」
言葉とは裏腹に少し不満そうな顔をタイラはする。それから「行くぞ」と言って歩いて行ってしまった。
☮☮☮
冷えた手を守るように、都は袖を少し伸ばす。「寒くなったわね」と肩をすくめた。タイラは何も言わずに頷いた。
「君、行きたいところとかやりたいこととかないのか? 飯でも食おうか」
抱いたぬいぐるみを見つめながら、「行きたいところは……あるにはあるのだけど」と呟く。タイラが首をかしげた。
☮☮☮
すっかり暗くなってしまった外をちらりと見ながら、都はタイラに駆け寄る。
「お待たせしました。ごめんなさい、時間がかかってしまって」
タイラはテディベアを膝に乗せ、頬杖をついていた。ため息をついて目を閉じる。「君なぁ……」と呟いた。
「こういう時に“行きたい場所”として役所はねえと思うぞ、役所は」
「でも、行かなきゃと思っていたから……」
ここは役所の待合室だ。都はある程度の達成感を得て手続きを終えたところだったが、その間タイラをここで待たせてしまった。タイラは「俺、必要だったか?」と言いながらテディベアの腕を小さく振る。何度も頷いて、「あなたがいると思ったから来たんです。心強かった」と拳を握って見せた。
多少気をよくしたようで、タイラは「で?」とクマのぬいぐるみをふわふわと動かす。
「どうにかなりそうか」
「そうね……」
都は腕を組んで目を伏せた。
『実結を学校に通わせるためにどうすればいいか』
今後避けては通れない、重要な問題だった。実結はまだ4歳ではあるが、あと2年も経てば就学しなければならない。
隔たる壁はいくつもあった。まず、都たちは現在どこにも住所を置いていない。監禁されている間に元いた住所地の住民票は消除されたらしく、宙ぶらりんのままここまで来た。どうにかして住民票を復活させるか、どこかに新しく住所を置くか。
前々からタイラとは話し合いを重ねており、『交際していた男の暴力がひどかったので、娘を連れてしばらくの間隠れていた』というシナリオで新住所を取得するというのが2人で考えた作戦であった。
そしてもう一つの問題。その新しい住所というものをどこへ置くかということである。何か住居が必要ではあったが――――現在住処としている酒場は“友坂優吾と友坂勇気”の親子が住民票を置いているのだ。あの建物は集合住宅ではないため、同じ住所にしてしまうと関係性を勘繰られてしまう可能性がある。いくらでも言い訳のできることではあったが、“誰かの目に留まる”ということ自体をできれば避けたかった。
どこかに部屋を借りるということも考えたが、職もツテもない都に住居スペースを貸し出す不動産屋など見当たらず。もし部屋を借りられたとしても手痛い出費であることは否めなかった。
『親戚がいるのなら、頼ってみたらどうだ』とタイラが言った。たとえばユメノやノゾムは、住民票上彼らの両親と共に住んでいることになっている。“住民票を置かせてもらう”というだけであれば家族ないし親族を頼れないのか、ということだ。
両親とは、実結を身篭ってから会っていない。ほとんど勘当されたようなものだった。未婚で、父親の名前も明かさず、ただ『産みたい』とだけ訴えた。理解を得られることはなく、堕胎のための金だけ握らされ、家から追い出されたのだ。
いつかはわかってくれると思っていたし、今がその時かもしれないとも思った。『孫は子どもより可愛い』と聞いたことがあったし、それならばぜひ実結を会わせたいと思ったのだ。
両親に話をする前に自分たちの状況を正確に把握しなければならないと、前々から役所に来ることを考えてはいたが――――なかなか気の進まない事柄であったことは確かだ。
「戸籍謄本を取ることができたわ」
「本籍、こっちだったのか?」
「ええ。本当に小さな頃はこっちの方に住んでいたから」
出してもらったばかりの書類を彼の目の前に出す。「そういうものをむやみやたらと他人に見せるんじゃない」とタイラは指摘した。それからちょっと目を滑らせて、「いい紙だな」と見当違いなコメントをする。
「何かわかったか?」
「ええ、そうね……」
目を伏せて、都は書類をめくった。瞬きをして、無意識に息を吸い込む。
「両親が亡くなっていたわ。2年くらい前に。同じ日に亡くなっているから、事故かもしれない」
タイラは表情を変えなかったが、「大丈夫か」とだけ尋ねてきた。「ええ」と都は頷く。
「実家に帰ってみるわ。知らない人が住んでいるかもしれないけれど、父と母が建てた家だったから親族の連絡先くらいわかるかもしれない。やることはたくさんあるけれど、今はとにかく色々と手続きをしてくれた人にお礼とお詫びをしなければならないから」
都に兄弟はいない。祖父母も亡くなっているので、一番近い親族と言えば父方の叔母だっただろうか。葬儀などを執り行ったとすれば、彼女の可能性が高い。
挨拶をしなければ。それから墓参りも。やることが増えてしまった、とため息をつきそうになって空咳をする。
「大丈夫か」
また、タイラがそう尋ねてきた。なぜ彼が二度も同じことを聞いてきたのかわからず、都はきょとんとする。大丈夫よ、と都は答えた。
「きっと何とかなるわ。実結が学校に行く歳になるまで、時間もあるし」
「……そうか」
それ以降は何も言わずに、タイラは出口を見る。帰ろうか、と彼は囁いた。
外を歩きながら、都は空を見た。もう、吐いた息が白くなる季節だったのかと少し驚く。
「今日、役所に来るべきじゃなかったわね。楽しかったのに、水を差すようなことになってしまった。ごめんなさい」
「その感覚は、俺にはわからないな」
「感覚?」
「楽しいことも嫌なことも、後に何かで払拭されるようなもんじゃない。楽しかったんならそれはそれだ」
「そう……ね。そうよね」
「どうせ夢も見られない俺だ。綺麗なもんを見たら、そのままで保存しておきたい。楽しいことがあったんなら、そこだけ切り取ってずっと持っておきたい。そうまでしても、すぐ忘れるんだけどな」
目を丸くして、それから都はふっと微笑んだ。「あなたはロマンチストね」と呟く。タイラが眉をひそめて、「今それを言うか?」と頭をかいた。
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