☆出会わなければよかった彼らの話




「パンツ見えたけど」


 ガムのくっついた壁に背中を預けて、タイラは目の前の女にそう声をかけてみる。女は髪に絡むつむじ風をうっとおしげに見た後で、「なんで見たの?」と返してきた。変な女、と思いながらタイラは

「そこにパンツがあったから」

 と、答えた。


 ほんの数十分前、平和一タイラワイチは連敗続きの就職活動の合間に、コンビニエンスストアでサンドイッチを買った。煙草は3本しかなかったが、金がないので今日は買わなかった。

 欠伸をしながら、当時住んでいた共同住宅の屋上でぼんやりサンドイッチの包装を破いたその時である。

 女が、入ってきた。

 どうやらタイラの存在に気付かなかった様子で、女は真っ直ぐに屋上の端まで歩いて行き、そこからじっと下を眺め始める。サンドイッチを頬張りながら、タイラはその場にしゃがみこんだ。それから風に揺れるスカートの奥に、目を凝らす。


(……お、黒)


 だからというわけではないが、タイラはその女に声をかけてみたのだ。


 女はどこか呆れ果てたような顔をして、「何でもいいけど、人が死のうとしているところでサンドイッチなんか食べてないでよ」とため息をつく。

「おにぎりならいい?」

「大体、なんでこんなところで食事をする必要があるの」

「必要、って言われたらアレだけど、俺ここのマンション住んでるんだよな」

「あ……」

 驚いたように口元に手をあてて、「そう」となんとか女は言った。「ここ、人住んでるんだ」と、小声でつぶやく。タイラは手をベドベトにしながらサンドイッチを食べ終え、「君みたいなのがここで死ぬから、家賃が安い」とだけ答えた。女が納得したようにうなづく。


「何で死ぬんだよ」

「あんた暇なの?」

「暇だね。で、何で死ぬんだよ」


 女は澄んだ目でタイラを見て、「もしかして私のこと助けようと思ってる?」と肩をすくめた。タイラは煙草を咥えながら、「さっぱり思ってない。その発想はなかった」と目を細める。鼻で笑った女が、ちょっと近づいて「彼氏殺されたの」と答えた。


「カレシ?」

「そう。彼氏殺されちゃったの。もう戻ってこないから、死のうと思って」


 ふうん、と言いながらタイラは首を回す。骨が鳴った。途中で動きを止めて、「じゃあ俺が彼氏になろうか」とまるで名案のように言ってみる。「絶対ないから」と女は言い捨てた。「そう?」と言って、タイラは笑う。

 それから、「じゃあどうぞ」と促しておいた。


「どうぞって?」

「いいよ、飛び降りて。ここから何人飛び降りたら、家賃がタダになるかな」

「……ならないんじゃない? そんな価値のない建物、壊しちゃった方がいいもん」


 瞬きをしたタイラが、表情を失くして立ち上がる。女に近づき、そっと手を差し出した。疲れたような顔の女は、黙ってそれを見る。たとえ暴力を振るわれようと、この場で女として消費されようと、もう心底どうでもいいという顔だ。


「殺してやろうか」


 そう言ったタイラは、その場にそぐわないほどの明るい表情だった。女がわずかに目を丸くする。


「何を」

「君が殺したいものすべて」

「あんた、頭おかしいの?」

「理不尽だろ、君は死ぬほど絶望しているのに。そうまでさせた奴を絶望させてやりたくはないか。殺そうよ、死ぬ気でさ。どうせ捨てる人生だろ」


 しばらく茫然としていた女が、取り繕うように笑って見せて、「あんたもここで人生捨てる気だったの?」と尋ねた。タイラは「あはは」と本当に可笑しそうに破顔して、「あれば捨てられたんだけどね」と答える。

 女が、どこか泣き出しそうな顔をした。しかしいつまでも泣き出さないので、タイラはそれが笑顔なのだとようやく気付く。

「俺と一緒に行こうよ」と、目を細めてタイラが言った。屈託のない表情をして、女を見る。やがて女は、迷いのない様子でタイラの手を取った。


「君の名前は」

「ドナでいい? 飼ってたミニブタの名前なの」

「いいセンスだ」

「あんたは」

「タイラ」

「本名?」

「そうだよ。俺、ペットって飼ったことないんだ」




@@@




 ドナは手をタイラのジャケットに擦り付けながら、「あんたのせいで手がベトベト」と文句を言う。「だからってジャケットにつけることないじゃんか」とタイラは身をかわした。


「ねえ、あんた歳いくつ?」

「23」

「あれ、歳上だ。私、21」

「カレシといつから付き合ってたんだ」

「うーん、5年ぐらい前から。学校の先生だったの」

「教師と? よく5年も続いたな」


 本気だったもん、とドナは空を見上げる。聞き流して、「どうして死んだんだ」とタイラは尋ねた。ドナが顔をしかめて、「ぶつけられたの」と答える。


「何を? 豆腐の角?」

「車。豆腐の角で人が死ぬとでも?」

「事故かよ。やる気が失せてきたな」

「事故かもね。たまたま彼を轢いた男がその前に彼と言い争っていたからと言って、故意に轢いたとは限らないもんね」

「……事故になったのか?」

「そいつ、おうちが大きかったから」


 立ち止まったタイラが、顔をしかめた。

「それって、金持ちってこと? じゃなかったら、その筋の人ってこと?」

 同じく立ち止まったドナは、小首をかしげて見せる。

「うーん、どちらかというと後者かな」

「ってことは俺たち、ヤーさんに喧嘩売ろうとしてる?」

「そうかも」

「ちなみに君のカレシ轢いたやつってさ」

「刑務所じゃない? 事故でも、人殺してるんだし」

「そうなると俺たちのやることは、かなり八つ当たり・・・・・に近いことになるんじゃないか」

「やらない?」

「やる」


 深呼吸をしたドナが、「やっぱり頭おかしい」と言い放つ。タイラはちょっと笑って、「いや君も大概だぞ」と返した。

 軽く目を閉じたドナが深くため息をつく。


「あんた、強いの?」

「そんなには強くないよ」


 呆れた顔のドナがさっさと歩いて行ってしまう。

 へらへら笑って、タイラは彼女について歩いた。「君は強いの?」と問えば、ドナは不機嫌そうに「強いわけないじゃん」と吐き捨てる。喉を鳴らして笑ったタイラに、何で笑っていられるのかわからない、という顔でドナは目をそらした。


「俺、強くないけど目からビーム出るよ」


 言いながらタイラは両手で自分の目を指さした。「スーパーマン?」とドナが首をかしげる。朗らかに笑ったタイラが、「かっこいいよね」と言いながら伸びをした。ドナはうつむいて、「あんた似合わないよ」と呟く。


「今、笑ったよな?」

「やめてよ」




@@@




 がっしりとした門の横で、タイラは子供のようにジャンプしながら中を覗こうとしている。やめなさいよ、とドナが嘆いた。

「ここかぁ?」

「そうよ。私、彼が死んでからこの門の前に毎日花を供えてたの」

「なんて無意味な……」


 ほんと、と疲れたようにドナは笑う。「ほんと、箸にも棒にも掛からないような扱いだったけど。だって何かしてやりたかったから」と初めて消え入りそうな声を出した。

 それから震える手を無感動に見て、ドナは「本当にやるの?」と尋ねる。答えないまま、タイラが瞬きをした。


「死んじゃうかもよ」とドナはからかってみる。

「殺してみろよ」とタイラは悪戯っぽく返した。


 少し驚いたようなドナに「やらない?」とタイラは目を細めた。少し迷っていたが、しかしきっぱりとドナは応える。


「やる」


 喉を鳴らしたタイラが、「でもちょっと待ってね」と言いながらジャケットを脱いだ。「このスーツ高かったんだよね」と、肩をすくめる。

 ドナは彼の手からジャケットを奪い取り、何も言わずにパンプスで踏みつけて力の限り破いた。胸ポケットが破れて取れかけた。

「あー! あああああーーー!」

「行くよ」

「マジかよ、俺、新しいの買う金ないよ」

 知ったことか、という顔をドナはする。「大体、カチコミにスーツ着てくるやついないから。バーカ」と言い捨てて、門を押した。


 必死に門を押すドナの後ろで、タイラは文句を言いながら胸ポケットに入っていた煙草を回収している。ついでに1本口に咥えて、火をつけた。

 そしてようやく気を取り直したのか、びくともしない門に辟易とするドナに加勢する。どこか軋む音はするが、どうやら錠がかかっているようだ。開きはしない。

 苛立ったように、タイラが至近距離から門を蹴り上げた。ベコ、と何か凹む音がする。また、タイラが蹴った。甲高い音がして、ドナは耳をふさぐ。

 門が、開いた。


 ドナは「嘘でしょ」と呟いて、いきなり開けた視界に戸惑う。




@@@




 土埃が舞う中で、硬い表情のままこちらを見ている男たちがいた。その中でジャージ姿の男が、ハッとしてこちらに駆け寄ってくる。タイラは「いいなぁ、ジャージ出勤」などと嘯いた。

「な、なんだテメエ」

 一歩、タイラが前に進む。相手のテリトリーに入った。


 もう一人、多少は身なりの整った男がタイラに近づく。

「勝手に人んち入っちゃダメでしょう、お兄さん。門、開いてた?」

「うん!」

 なぜか元気よく返事をして、タイラは愛想よく笑顔を見せた。男たちは困ったように顔を見合わせ、ジャージの男が「とりあえず帰んな。警察呼ぶぞ」と脅す。「呼ばないで」とタイラが言った。「じゃあ出てけよ」と男は眉をひそめる。


「出て行かない。まだ遊び足りない」

「ここは遊園地じゃねーぞ」

「大体、いつからあんたらはガキひとりすら自分たちで対処できなくなったの?」


 瞬間、身なりを整えた男が腕を引いた。助走をつけて、タイラに殴りかかる。タイラはそれを、片手で受け止めた。

 男たちの表情が変わる。否、見る目・・・が変わったと言うべきか。ジャージの男が、素早くタイラの足元を崩そうと引っかけた。が、タイラはわざと男の方に倒れこみ、膝で押さえ込んだ。何の躊躇もなく、首を絞める。

「テメエ!」

 先ほどまでそう言葉遣いも乱れていなかった方の男が、そう叫びながらタイラを殴ろうとした。タイラはそれを避け、男の頭に手を伸ばし思い切り頭突きをする。男が倒れた後で、タイラも自分の額を撫でながら「いってえ」と笑った。


 ドナは敷地内に入れず、ただ棒立ちでその様子を見ていた。屋敷から数人が出てきて、タイラのことを指さし何か怒っている。


 恐らく、「何だてめえは」と叫んだのだろう。タイラはやはり額をさすりながら、「しいて言えば、就活生です」と答えた。

「何の恨みがあってここに来た」

「何の恨みもねえや」

「じゃあ何だ? 死にに来たのか」

「違うって。俺、どんなに人を殴りたくなっても、弱い者いじめはしない主義なんだよ。だからさ、」


 歩いて行きながら、タイラは冷めた目で言った。「サンドバッグを探しに来たんだ」と。

 相手が、明らかに気圧されている。いくつも修羅場をくぐってきたような顔の男たちが、まだ二十歳もそこそこの若い男を前に動くことをためらっている。ある種絵画的ともいえるその光景に、ドナは思わず喉を鳴らした。


 歩くタイラが、落ちていた木の枝を踏みつける。小さな音がして、それを合図としたかのように相手方が動き出した。タイラも、ちょっと目を細めて駆け出す。


 軽く跳んで、真正面の男の顔に膝を入れた。そのまま足を伸ばし、横の男のちょうど鼻のあたりにも蹴りを入れる。誰かの体の上に着地して、素早く身を屈める。その上を人の足が通過して、タイラは反転した。

 空を切った誰かの足を掴み、相手を転ばせる。転んだ相手の上を通って、前進した。

 まだ、誰も武器などは持っていない。ここまでは、誰もが数の差だけで優位に立てると思っていた。


 男がタイラの服を掴む。その頭をタイラが掴んで、放り投げた。投げるとき、首が奇妙な方向に曲がったように見えた。ドナは立ち尽くして、吐きそうになる。

 タイラだって何度も殴られているが、しかし彼は決して止まらない。殴り倒された先に記念碑のような石があれば、それを持ち上げて人の頭を殴った。果物を絞ったような勢いで、血が噴き出た。

 傍に植わっていた木が揺れる。ドナのすぐ横の塀を、何かが撃ちぬいた。


「撃つな! 一人を相手に撃つな! 誰に当たるかわからん!」


 そう、怒声が響く。もう男たちは、次々とその手にナイフや鈍器を持って平和一という青年を潰そうとしていた。

 青年――――だろうか。もうドナにも、その男が何者なのかわからなくなっていた。否、最初から知らないのだ。それでも彼が人間なのかさえ、今ではわからなくなっている。

 今は3人がかりで押さえつけられたタイラが、何度も何度も殴りつけられていた。


「一体何回殴ればこいつは倒れるんだ?」と、そのうちの一人が叫ぶ。うつむいたタイラが、何か声を発した。

 聞こえなかったけれど、その唇は『俺が知りてえよ』と動いた気がした。


 初めて、ようやく、ドナは歩きだす。地獄絵図だと思ったが、地獄よりなお悪い。なんせドナはまだ生きている。

 弾が飛び、刃物が飛ぶ。全て平和一という存在を排そうとした動きだ。


(なに、あいつ。“サンドバッグを探してる”とか嘘ばっかり)


 なぜだか、ドナはひどく落ち着いていた。もう、震えたりはしていない。怖くなかった。本当だ。死にたいからとか、そういうことじゃなくて。ただ、思い出したのだ。


 この世界で一番に恐れていたことは、愛する人がいなくなることだった。


 それが事実起こってしまった今、ドナに恐れるべきことは何もない。だから、わかる。平和一という男が、わかる。

 タイラは守るものがない男だった。生きる意味を持たない男だった。それ故に恐れるものがなく、だから漠然と退屈を持て余していた。

 同じく何も持たないドナには、わかった。“恐れるべきことがない”というのは、本当に、想像しているよりずっと、とてつもなく途方もなく、人生をつまらなくするものだった。


 タイラは男たちを振り払い、目の前の相手に噛みついた。比喩でなく、実際にそうした。それから腹を殴り、沈んだ相手に興味を失くしてまた違う相手に移る。鮮やかで、綺麗だ。目の前の敵をただ殴るためだけに無駄を省いたその動きは、それだけだから、シンプルで綺麗だ。


(この男は、ただ自分の限界を誰かに決めてほしいだけなんだ。はた迷惑なやつ。それがわかるまでに、一体どれだけの人間が犠牲になるんだろう)


 ふと、喧騒に混じらないままの若い男――――少年と呼ぶべき歳だろうか、その子供がへたり込んで涙を流しているのが見えた。それは、仲間を蹂躙される悔しさだとか、絶望の涙などではなかった。

 まるで、海の波に翻弄されて呼吸もできず暗い海底を見た時のようで。まるで、人間には手に負えない山火事を見てそこに美しさを見出した時のようで。それはどこか熱を帯びていた。


 たぶんヒーローというものは、善いことをする人のことじゃなくて、悪意のない破壊を為す人のことなのだと思う。


 ぶつかってきた男に押し倒されて、ドナは目を回した。男はひどく怒って、「何だこの女、見世物じゃねえんだぞ」と鼻息荒くがなる。ドナが口を開こうとすると、何か固いもので殴られた。頬を2回。

 痛かった。顔の形が変わってしまったかもしれない。もう、何を食べても咀嚼できないかもしれない。そんなことを考えるくらいには、痛かった。

 何とか起き上がると、傍に銃が落ちている。銃など撃ったことはないが、トリガーを引いてみる。引ききらない。撃てない。


 なぜだろう、もう笑ってしまいたくなった。ふと、いつの間にか横に立っていたタイラがドナの手から拳銃を取る。それからゆっくりと動かして見せ、最後に構えて誰かを撃った。ドナの目の前で、人を撃った。


 タイラはそれをドナに手渡す。『使い方は覚えたか』というように、首をかしげた。ドナは受け取って、小さくうなづく。

 そうは言っても、と思いながらドナはタイラのやったように拳銃を動かしてみた。タイラは簡単そうにやっていたけれど、素人にこんなことができるはずはない。試しに、先ほどドナを殴った男に向かって構える。


 銃声が鳴った。手元が大きく狂ったが、それでも狙っていた男が、血を噴き出して倒れた。


 驚いた。というより、呆れた。こんなに簡単に、銃が撃てるなんて。世界はどこか肝心なところで、間違ってしまっているように思う。


 もう一度、今度は顔も知らない縁もゆかりもない男を狙ってみる。撃った時、やはり手の中で銃が暴れてまったく別人に当たった。

 今度こそ、ドナは笑ってしまう。可笑しすぎる。こんなのは、本当に、可笑しすぎる。

 あーあ。


「あーあ、天国に行けなくなっちゃった」


 ぽつりと、そう口から零れた。

 途端に鼻の奥が熱くなる。引きつった頬に涙が伝った。笑っている。泣いている。笑っていなきゃいけない気がして、笑いながら、泣いている。

 天国に行けなくなっちゃったよ、ごめんなさい、先生。でも、私。


 ――――どこかで懐かしい声が聞こえる。悲しい曲調。

 唯一、私に生きていていいと言ってくれたあの人。先生。大きな手。将来の話をたくさんした。彼は本気だっただろうか。本当に私を愛していただろうか。二人で話した未来の、そのうちのどこまでが実現できただろうか。彼がいなくなった今、もう何もかもがわからない。

 私はあなたの言う通り、生きていていいのだと思う。だけど、それでも、私。


(あなたがいなくなったことの八つ当たりを、世界のどこかにしなければやっていられなかった)

 帰りたかったのは、あなたのところだけだったから。


 笑っているのか泣いているのかわからない大声を出すドナの前に、いつのまにかタイラが立っていた。ドナは何だか口が閉じられなくなって、よだれをたらしたまんま「終わった?」と尋ねる。タイラは何も言わず肩をすくめた。ここは、彼の限界ではなかったようだ。

 笑って、ドナは銃をいじる。


「楽しかった。こんなに楽しかったの、人生で初めて」

「よかったな」

「これ、見て。すっごくクール。銃ってこんなにクールだと思わなかった」

「そうだな」

「ねえ、いいの? 捕まったら死刑かもよ」

「ああ。いいよ」


 ふふ、と目を細めたドナは「楽しかったなぁ。あーあ、本当に楽しかった」としみじみ呟いた。それから銃を自分のこめかみにあて、

 引き金をひいた。




@@@




 自分の隣で血を流し倒れている女を見ながら、タイラは最後の煙草を咥える。ライターを落としたようだったので、そこらへんに落ちている人間からひとつ借りた。すぐに煙が立ち上る。


「楽しかった、か」


 まだ、彼女は息をしていた。頭の中はぐちゃぐちゃだろうが、脳味噌以外は生きようと足搔いている。タイラは彼女が握りしめている銃を無理やり剥ぎ取って、彼女の喉の柔らかいところにあてがった。左手で押さえて、ゼロ距離から彼女の喉に弾を撃ち込む。

 それからその銃を、自分の喉にもあてて引き金をひいた。


 何も起こらない。弾切れだった。


 タイラは何事もなかったかのように銃を放り投げ、立ち上がる。最後に女の顔を見た。

「おやすみ、ドナ。可哀想な仔牛ちゃん」

 そして門の前でくたびれたジャケットを拾い、羽織る。野次馬たちは組の人間に逆恨みされるのが怖いからか、控えめに中を覗き込んでいた。立ち去るタイラのことも、遠巻きに見ているだけだ。

 そこが元々組の拠点であったからか、その惨劇を眺めておきながらしばらく人は何もしなかった。救急などの通報があったのは、ずっと後のことだったという。


 それがこの街だった。誰もが他人事で、人は生きて死んで偽られて裏切られて時々は人を殺した。だから・・・、この街だった。




@@@




 疲れ果てたタイラが路地裏で寝ていると、体に不相応なほど大きい傘を持った少女が目の前に立った。

 痛みか、もしくは頭を強くぶつけたせいで幻でも見えるようになったかと目を凝らす。どうやら少女は実在のようだった。ついでに少女の傘が雫を弾いている様子を見るに、雨が降っているようだ。寒い寒いとは思っていたが。

 タイラは笑って、朦朧とする頭を何とか働かせる。


「男の臭いがするな。お前、ガキなのに抱かれてきたのか?」


 少女は無表情のまま、瞬きを一つした。もどかしい思いがして、タイラは手を伸ばす。

「次にそういう、死んでるみたいな目をしたやつにあったら、今度は幸せにしてみようって決めてたんだ。なあ、お前さ、幸せになりたくないか」

 小首をかしげた少女が、そっと近づいてタイラに傘を差し出した。「私には」と少女が口を開く。外見は華奢な少女そのものだが、声は綺麗なボーイソプラノに聞こえた。


「幸せになりたいのは、お兄さんの方に見えるよ」


 タイラは、

 一瞬だけ呼吸を忘れたような顔をして

 身勝手に、力任せに、少女を抱き寄せた。


「いいよ、お兄さん。幸せにしてあげる」


 腕の中で少女は、自分の名前を“真子マコ”と名乗った。


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