★中道夢野と家族の話

 志望校から送られてきた資料を読み込んで、ユメノはため息をつく。「どうしよっかなぁ、これ」と呟いた。

 受験料、授業料、その他諸経費。とてもじゃないが、今の収入ではまかなえない。もう数年くらい貯金をしなければ安定した生活も送れない。




☮☮☮




 気晴らしに散歩に出かけたユメノは、大通りで菊花に声をかけられた。「なんか浮かない顔してるねぇ」「お腹でも空いたんじゃないかい?」「ちょうどお昼にしようと思ってたんだ、ユメノちゃんもおいで」と、口を挟む暇もなくとんとん拍子に話が進んでいく。

「あ、あの、菊花ちゃん」

「いいからいいから。メンチカツ食べるだろ?」

「あ、抗えない魅力……」

 百菊肉店の2階に、百瀬家の住まいはある。気付けばユメノは居間に通され、百瀬家の子供たちと昼食を囲んでいた。


「どーぞ」

「いただきます……」


 どうしてこうなったんだろうと思いながらも、ユメノはメンチカツにかぶりつく。外はサクッサク、中はジューシーだ。肉の味が強くて満足感がある。「美味しい」と言うと、菊花は「そうだろ」とうなづいた。

「タイラもよく来るんだよ」

「そうなの?」

「来るというか、連れて来られるというか」

「百瀬さんに?」

 そういえば百瀬の姿がない。菊花に尋ねると、彼女の夫は配達に行っているらしい。


「お姉ちゃん、イチくんのことしってるの?」

 百瀬家の子どもたちもタイラを『イチくん』と呼んでいるらしい。ただそんなことを聞かれても、ユメノは返答に困る。知っていることは間違いないけれど、どういう関係かは自分たちにもわかっていなかった。「この子はタイラの仲間だよ」と代わりに菊花が答える。そっか仲間か、とユメノは密かに安堵した。


「百瀬さんとタイラは仲がいいよね」

「まあね。ああいうのは、タイプが違うほど意外にも仲良くなったりするからね」

「確かに……」


 茶碗を持って、白米を頬張る。美味しい。なんてことはないスーパーで買った米だと言っていたので、菊花の主婦力の結晶だろうか。

「ところで、ユメノちゃんはなーんであんなにしょぼくれてたんだい」

「しょぼくれてないよー。あたしいつも元気」

 苦笑した菊花が、「おかわりいる?」と手を出してくる。ユメノは首を横に振って、「お茶碗洗うね」と立ち上がった。そんなユメノの腕を、菊花が掴んだ。

「菊花ちゃん占いしたげよう」「菊花ちゃん占い??」「清楚で綺麗な肉屋の奥様に悩みを相談すると、幸運が訪れるでしょう……だってさ」「清楚で綺麗な肉屋の奥様なんて知り合いにいないなぁ」

 菊花が不満そうに「なんだい、目の前にいるじゃないか」と嘆いたので、ユメノは思わず笑ってしまった。


 座り直して、ユメノは菊花を見る。

「菊花ちゃんはさ、困った時……お金とか色々……頼る人、いる?」

「そりゃあ、家族だね」

「家族かぁ」

 ある程度予想できた話とはいえ、今のユメノにとっては眩しすぎた。「そうだよね」と笑おうとしたのに上手く笑えない。

 そんなユメノを見て、菊花は優しく肩を抱いた。

「でも私にとって、これはちょっと順序が逆でね」

「逆?」

「うん。何ていうのかな……。『家族だから頼る』じゃなくて、『こういう時頼れるから家族』っていう感じかな、私にとっては」

「こういう時、頼れるから家族……」

 はいプリン食べな、と菊花はユメノにスプーンを握らせる。至れり尽くせりすぎる。よくここに連れてこられるという、タイラのことを考えた。きっと渋い顔をしているんだろうな。それでも拒絶できない、そんな顔が目に浮かぶようだった。


「家族ってさ、曖昧な関係じゃないの。定義づけられないものでしょう。必ずしも血が繋がっているわけじゃないし、一緒に住んでる必要もない。でしょ」

「うん」

「私なんか親と仲良くなかったしさ、ずっと家族ってなんだろうと思っていたわけ。今の旦那に拾われて、可愛い子どもができてさ。私、この人たちの家族になれてるかなって」


 スプーンを握り締めて、ユメノはうつむく。

“私、この人たちの家族になれてるかな”と、その気持ちがユメノにも痛いほどわかった。誰に聞くわけにもいかないその問いが、自分の中で黒々と広がっていく感覚も。

 でもね、と菊花が続ける。

「ある日ふと、思ったの。『この人たちが困った時、相談相手に私を選んでくれたら嬉しいな』『私が困った時に相談するなら、きっとこの人たちなんだろうな』って。その時ね、初めて私……“ああ、この人たちが私の家族なんだなぁ”とか思ったわけよ」

「そういうもん、かなぁ」

「ユメノちゃんにとって必ずしもそうではないかもしれないけど、私はね。家族って、他の関係にはない独特の“甘え”があると思うんだよね。甘えがあるから家族、というか。甘えてほしい、甘えたい、と思えるから家族……というか」

「でもさぁ、甘えてばっかじゃ嫌われちゃうよ」

「そりゃあ、ずっと甘えっぱなしで自分のことしか考えてなけりゃ、愛想もつかされるけど」

 夢中になって聞いているユメノの頬をつついて、「プリン食べなよ」と菊花は肩をすくめた。ユメノは慌ててプリンを掬って食べる。甘くて懐かしい味がした。


「だから甘える代わりに、大事にするんだよ。家族は家族を、大事にするんだよ」


 スプーンを置いて、ユメノは菊花の言葉を反芻する。それから、突然立ち上がった。

「ありがと、菊花ちゃん! ごちそうさまでした!」

 菊花はにっこり笑い、「頑張ってね」と手を振ってくれた。




☮☮☮




 帰って来るなりユメノは、どこか緊張した顔で立っていた。「どーしたの、ユメノちゃん」とカツトシが声をかけると、「なんでもないよ」と唇をなめる。

 それから、真っ直ぐに都のもとに歩いてきた。

「先生……ちょっと、話が」

 そう言われて、都も何だか緊張してしまう。小さくうなづいて、二人で2階へ上がった。


「ユメちゃん、話って……学校のこと?」

「うん」


 やたら大きな鏡を背にして、二人で膝を抱える。ユメノは少しうつむいていた。

「あたし、学校には行きたいと思うんだけど」

「そうよね」

「やっぱり、受験料とか授業料とか……あたしの稼ぎじゃ全然足りなくて」

「そう……」

 都はその後のユメノの言葉を待つ。想定内の話だった。むしろ、ある程度予測を立てて準備もしていた。彼女が何を言おうと笑顔で『もちろん』と言えるように待つ。


「だからね、あたし……親に話をしに行こうと思うんだ。先生、ついて来てくれる?」

「もちろん! ………………えっ」


 驚いて聞き返すが、やはりユメノの返答は『実の両親に相談に行きたい』というもので間違いないようだった。都は勘違いしていた己を恥じながら、「それでいいの?」と尋ねる。不思議そうな表情で、「なんで」と言った。

「ううん……ユメちゃんがそうしたいのなら、もちろん協力するけれど」

「本当? あたし……ひとりだと勇気出なくて」

 ユメノは嬉しそうに、「ありがと!」と抱きついてくる。それを受け止めながら、都は少し複雑な思いでユメノの髪を撫でた。




☮☮☮




 事の顛末を聞いたタイラは、笑いをかみ殺すためにうつむいて、しかし堪えられない様子で「くっ」と喉を鳴らす。

「そりゃあユメノらしいと言えばらしいが」

「てっきり、お金のことは頼ってくれるものと思っていたからびっくりして……」

 タイラは腕を組み、回転いすの上で足を組んだ。「いい機会だ、頼るところは多いほどいい」と目を細める。そうだけど、と都は口ごもってしまった。


「で、ユメノの実家に行くわけか」

「そのことなんだけど」

「うん?」

「あなたも……行きますよね」

「は?」


 固まったタイラに怯むことなく、都は「、あなたも行くんですよね?」と念押しする。タイラはぽかんと口を開いていた。

「何で俺が?」

「だって、ユメちゃんとは私よりも長い付き合いだし……実質監督者というか」

「そんなものになった覚えはない。あんたが快諾した話だろ、俺には関係ないぞ」

 ムッとして、都はタイラを見る。


「関係ないということはないでしょう。ユメノちゃんの今後がかかっているんですよ」

「ユメノの今後がかかっているのなら尚更俺は呼ぶな。そもそもユメノだって、俺に来てほしくないから君に話を通したんだろ」

「違います。同性だから話しやすかっただけで、あなたにも来てもらいたがっていますよ……たぶん」

「勝手なことを言うなよ」


 それでも引こうとしない都を見て、タイラは小さくため息をついた。「本音で話そう」と言って、椅子の上で胡坐をかく。

「この数年……捜索願すら出していないらしいユメノの両親については、俺にも思うところはあった。だからこそ、会わないほうがいい。俺だってユメノの親と喧嘩したくはないからな」

「私も、彼女の両親とはあまり会いたくないという思いがあります」

「まあ君とは相性が悪そうなエピソードではある……」

「相性云々の話ではなく、私は……あの子の両親を羨ましく思っている」

 羨ましい? と、タイラは眉をひそめた。都としては、バツが悪そうにうなづくしかない。


「羨ましいわ。どれだけ近くにいてどれだけ仲を深めようと、困った時にユメノちゃんが頼るのは本当のご両親なのね」


 一瞬きょとんとしたタイラが、ふっと目を細めた。「そりゃあそうだ、君は親じゃないんだぞ」と呟く。

「こんな気持ちで彼女のご両親に会っても、きっと余計なことを言ってしまう」

「じゃあ断ればよかったんだ」

「ユメノちゃんがせっかく勇気を出してくれたのに、水を差すようなことできないわ」

 そこでタイラはちょっと黙った。もう少し押せば承諾してくれそうな気配がある。都は空咳を一つして、言った。


「ユメノちゃんのおうち、少し遠いみたい。車が必要だけど、私には免許がない」

「……運転手としてついて行くだけだぞ」


 彼自身が言ったとおり、恐らくユメノの両親に“思うところがある”のだろう。タイラは仕方なさそうに肩をすくめた。




☮☮☮




「タイラも来るの!?」と、ユメノが目を丸くする。タイラは頭をかきながら、「運転手ですけど、何か」とぶつぶつ言った。


「てか2人とも……ユウキの授業参観の時と同じ服じゃん」

「お前、そういうの思ってても言うなよな」

「ちゃんとした服が、これしかなくて」


 早く乗れよ、とタイラは面倒そうに促す。「今回も若松さんに借りたの?」と都が尋ねると、タイラは緩く頭を振って「あの人は派手な車しか持ってないからな、今回はレンタカーだ。真っ赤なオープンカーで行ってビビらせるわけにいかないだろ」と答えた。

 車に乗り込むと、「後ろの席でもシートベルトしろ」と端的に注意される。普段はこんなこと言わないのにと思ったが、タイラは至極真面目な顔だ。ちょっと空気がピリついている。

「飯食ったのか」

「ううん……食べてない」

「途中でコンビニ寄るから」

「うん」

 ありがとう、という声は車のエンジンにかき消された。


 コンビニで買ったおにぎりを食べていると、隣に座っていた都がユメノの手を握った。「大丈夫よ、ユメちゃん。絶対に大丈夫だからね」と繰り返し言う。バックミラーからちらりと見たタイラが、眉をひそめて「先生」と口をはさんだ。

「君の方が緊張しているように見えるぞ」

「えっ……」

 もうそれから都は何も言わなくなった。ただ手を握り続けているだけだ。タイラの言うとおり、都の方が緊張しているように見える。こんなことを頼んでしまって申し訳ない気持ちになった。

 何か音楽を流してほしいな、ラジオでもいいけど、とユメノは思う。都がどう思っているかはわからないが、少なくともタイラはそのようなことに頓着するタイプではない。というか、『ちょっと気まずいから音楽でも流すか』という発想がタイラにはない。

 ユメノはおにぎりを食べ終えて、座席に身を預けた。ぼんやりと車窓の外を見る。


 見慣れた風景から、知らない風景になっていって、何だか見たことのある景色をいくつも挟んで、やっぱり知っている景色になる。

 吐き気がした。


 正真を追いかけたときは、バイクに振り落とされないよう必死だったからよく見ていなかった。見れば見るほどに記憶がよみがえってきて嫌になる。何だか嫌な汗が出てきた。

 道案内をしながら、ふとした瞬間に真逆の道を教えそうになる。自分の意に反して、口が勝手に動きそうになるのだ。そんなつもりはないのに、と目を閉じて正しい道を教える。いつの間にか、都の手を強く握りしめているのはユメノの方だった。


 ここだよ、とユメノは呟く。「たぶんここの駐車場停めて大丈夫。うちは車1台しか持ってないはずだから」と続けた。

 停車させたタイラが、シートベルトを外してドアを開ける。後部座席のドアも開けてくれた。

「なんだ、お前。いいとこのお嬢様か? デカい家じゃないか」

「……田舎だからだよ」

 足が重い。「大丈夫?」と都に聞かれた。

 そんなことよりもまた手を握ってほしい。自分の手が震えていると自分で気づきたくなかった。


「ユメちゃん」

「うん」

「今日はやめて、今度にしようか」

「……うん」


 いきなり振り向いたタイラが、「悪い、インターホン押した。ダッシュするか?」と目を丸くした。何が悲しくて実家にピンポンダッシュを仕掛けなければいけないのか。ユメノは顔を青くしてあたふたする。

「ユメちゃんは車に戻ってていいのよ」と都も慌てて言った。ユメノはどうすればいいかわからず、言われたとおりに車に戻ろうとする。玄関のドアが開く音がしたので、足早にその場を去った。


 車のドアを開けようとしたが、そういえば鍵はタイラが持っているんだったと思い出す。ユメノはその場で頭を抱えながらしゃがみ込んだ。

「あ~~~ああ~~~ほんとサイアク。あたしがついて来てって言ったのにこんなんだもん」

 嫌になる、嫌になる、嫌になる。

 話せると思った。あのころとは違うから。それがこんなザマです、びっくりです。


 ユメノの両親は、昔から厳しかった。父は会社員で、そこそこの立場だったのだろう。休日だって家にいない人だった。母も仕事をしていて、それなのに自分だけが家を任せられることに不満があるようだった。対してユメノは幼いころから不器用で、どんなこともできるようになるのが他の子より遅かった。

 時折ヒステリックなほどに母はユメノを叱りつけた。父もそんな母に辟易としながらも、『お母さんの言っていることは正しいんだからちゃんと聞きなさい』と言うだけだった。

 小学生のころ、ちょうど2学期の修了式がクリスマスになったことがある。ユメノはワクワクして家に帰った。翌日からの冬休みと、何よりクリスマスという行事に浮足立っていた。しかし学校から持たされた成績表を見て、母はこう言った。

『何なの、この成績は。ありえない、ありえません。わからないところは聞きなさいって言ったでしょう。どこがわからないの、言ってみなさい』

 どこと言われても、それがわかっていればそんなにひどい成績にはなっていない。結局ユメノは泣きながら日付が変わるまで勉強をさせられた。クリスマスの日に。自分が悪いのだと思いながら。

 そうこうしているうちにユメノは中学生になり、周囲はみんな反抗期を迎えていた。ほとんどの同級生が、親の愛情を笠に着て甘ったれる年頃だった。そんな友人たちを見てユメノは、端的に言えば

 あんな風に甘えて我儘ばかり言うことが、自分の当然の権利だと思っている同世代の子たちがいる。なのに自分は、誰に甘えることもできずに生きている。愛されていないとわかっていたからだ。あるいは、それも1つの甘えだったのかもしれない。

 喧嘩だってしたし、真面目じゃない子たちとも関係を持った。家に帰らなくなり、もちろん勉強なんかまったくしなかった。そんなユメノに対して母はヒステリーのように怒鳴りつけた。父はただ困った様子で、それを見ているだけだった。

 3年間そのように過ごして落ち着いてみれば、そんな暮らしはあまりにもユメノに合わなかった。喧嘩も楽しくなかったし、無理して覚えた酒や煙草は世界で一番不味かった。

 高校に行ったら、やり直そうと思っていた。すでに母からは勘当に近いことを言い捨てられていたし、両親がユメノの人生を何とかしてくれるとは期待していなかった。だからといって自分から捨てる必要はないのだと、ユメノはもう一度制服を手に取った。

 そんな時だった、林田正真と出会ったのは。


 正真との事件が起こった時、一番怖かったのは母の反応だった。ここまで来てまだユメノは、両親に――――母に、これ以上失望されたくなかったのだ。しかし時すでに遅しというか、案の定両親はユメノを責めた。ユメノの方から正真を誘ったのだと信じて疑わない様子だったし、いずれにせよユメノのやったことは過剰防衛だった。

 話も聞いてもらえなかったのだ。ユメノだって上手く喋れなかった。

 ただ、怖かっただけ。必要以上に暴力的になるのは、怖かっただけなんだ。いつだって、そう。


 結局ユメノは逃げた。友人らからは同情と嫌悪の入り混じった目で見られて、両親からは存在を持てあまされて。

 逃げてばっかり。今もそうだ。自分で言い出したことなのに逃げだして、車の陰に隠れている。


(こんなんじゃ、いけないよね)


 本当は、ユメノはすごく臆病で。10回立ち上がりたいと思ったら、1回くらいしか立ち上がれない。それでも100回同じことを考えれば、10回立ち上がれる。たくさんたくさん考えれば、もっと立ち上がれる。

 そうだ散々考えた。考えて考えて都にお願いした。100回分ぐらい考えたからたぶん10回は立ち上がれる。

 よし、とわざわざ声に出して、ユメノはこぶしを握った。自分が生まれ育った家を見る。そんなに大きくない。この辺では、本当に中の中という感じだ。たぶん、家庭自体がそう。今思えばそんなもの。

 勢いだ。立ち上がったらその後は勢い。あとは何とかなる。


 勝手に玄関から入った。鍵はかかっていなかった。音をたてないように進む。

 客間から声が聞こえてきて、思わず扉に耳を寄せた。タイミングぐらいは確認させてほしい。


「事前に何の連絡もなく押しかけてしまって、申し訳ありませんね」


 タイラの声だ。あいつ、マジでこういう時腹立つぐらいちゃんとしてる。

「いえ」と男の声が聞こえた。ユメノはすっと目を閉じてそれをじっと聞く。父の声だ。

 真面目で事なかれ主義の父。「ユメノがお世話になっている下宿先のご主人と、奥様でしたっけ?」と穏やかに言っている。母の声はしない。その代わりに都が「そうです」と力強く答えた。

 そういうことになったのか。タイラと都も今日のためにそれなりの打ち合わせをしてきたのかもしれない。

「ユメノがご迷惑をおかけして」

「あんなに可愛い子が近くにいれば、何してたって癒されますよ」

 タイラが、そんなことを言った。

 うわぁ。うわぁ、あの男マジで。人のいないところでそういう恥ずかしいこと言うんだから。


「それで、今日はどういった?」と父が首を傾げる。

「近くまで来たものでご挨拶です」とタイラは答えた。背中を向けているので、表情が見えない。

 タイラが、普段のユメノの様子を話す。ポジティブキャンペーンかと思うほど高く買われていた。それを聞きユメノは1人で赤くなる。当惑した顔の父が、「そんなそんな」「本当にあの子の話ですか?」「買い被りすぎですよ」とちょっとのけぞった。


「いいえ、ユメノちゃんはとっても頑張っています。見せて差し上げたいくらいです」

 そう言ったのは、都だ。なぜだろう、その声には少し刺があるようだった。

「ユメノちゃんは今、美容師になるという目標を持って毎日勉強を頑張っています。今日はそのことを、ご両親に知っていただきたく伺いました」


 肩をすくめたタイラが、都の耳に顔を寄せて「今日は挨拶だけして帰ろうって言ったろ」と諌める。が、都の表情を見て些か驚いたように「えっ、怒ってる?」と尋ねた。都はそれには答えず、ただ真っ直ぐにユメノの両親を見ている。

 ずっと無言を貫いていた母が、「金の無心ですか」と呟いた。そんなことだろうと思いましたよ、とも。

「おい、そんな言い方は」と父が鼻白む。母はまったく表情を変えず「夢だとか将来の展望だとか、そういうものをちらつかせるのは大体金の無心でしょう。あなたは黙っていて」と言い捨てた。

「もちろん、夢野は私どもの娘ですので。簡単に切り捨てたりしません。ですが、それにしたって通すべき筋があるでしょう。本人はどこなんです? まさかあなた方に頭を下げさせるつもりですか。人様にご迷惑をおかけしないようあんなに口を酸っぱくして言ったのに」


 思わず、ユメノはその場で膝を抱える。

 そうだった。そういう人だった。ここ数年、想像した通り記憶していた通りの声色だ。昔は、『そんなにあたしのことが気に入らないならほっといてよ』と言って拒絶した。そうしなければ自分を守れなかった。だけどいつだって、この人の言うことは正しい。正しいから、こわい。

 やっぱりそうなるよね。ちゃんと自分で挨拶しよう。今までのこと、ちゃんと謝ろう。


「お言葉ですが」


 戸を開けかけたユメノの耳に、そんな都の澄んだ声が飛び込んだ。

「子供が親に甘えるために通さなければならない筋とは何なのか、私にはわかりません。ご教示いただけますか」


 時間が止まったような気がした。

 ユメノの母は目を剥いて、都のことを見ていた。タイラはといえばうつむいて――――あれはたぶん、笑っている。

「親子でも、礼儀はあるでしょう」と母は目尻を上げた。

「“礼儀”とは、どちらか一方がわきまえるものではなくお互いがお互いに敬意をもって接するものと存じております。先ほどから、お母様とお父様の言動にユメノちゃんへの敬意は感じられません。それを彼女にだけ求めるというのは少々礼儀に欠けているのでは?」と都は温度の感じられない声で言う。

 ユメノは母と口喧嘩をして勝てたためしはないが、そんな母が黙らされているのを初めて見た。


 なぜだか母はキッとタイラを睨んで「それであなたは、夢野とはどういうご関係なんです」と尋ねる。「ここで俺か」とタイラは喉を鳴らした。

「あの子が何したかお聞きになりました? クラス委員だった男の子をね、誘惑して道端で」

「おい、やめないか」

「奥様も気を付けてくださいね、旦那さんだって誘惑されてるんじゃないですか? もしかしたらもう関係を持ってるかもしれませんよ。肩入れすればするほどあの子は危ないんだから」

「お二人に失礼だろう」

 父に諫められ、母は「黙っていてよあなたは」と睨んだ。「昔から私たちのことなんて興味なかったくせに、人前だといい父親ぶって。それならせめてずっと黙っていてよ」とまくしたてる。

 ユメノの目から見れば恒例の夫婦喧嘩だ。人前で言い争いをするのは珍しいけれど、そうでなければ幼いころより両親の笑顔よりよく見た光景だった。


 ――――不意に。

 都が、テーブルを叩いた。


 あまりにも唐突に空気が揺らいだので、ユメノまで心臓が縮む。テーブルを叩いたのが都だと知ってまた驚いた。恐る恐る隙間からのぞいたけれど、たぶんタイラもぎょっとしていた。


「いい加減にしなさい、さっきから誰の話をしているんです? こちらは、


 呆気にとられた様子のユメノの両親に、都は「どうしてあの子が来たがらなかったか、よくわかりました」と吐き捨てる。

「私とユメノちゃんの関係は、そう長いものではありません。だけどあの子が、どんなに優しくて思慮深くて素敵な子だか知っています。それなのに、私だってそれを知っているのに、なぜ実の両親であるあなたたちがそれを知らないんです?」

 言葉を失った様子の両親たちだったが、やがて母が顔を赤くし始めた。タイラは口を挟まない。いつもの、何だか考えているのかいないのかわからない顔で腕を組んでいるだけだ。


「ユメノちゃんが一番大変な時に、あなたたちは真っ先にあの子を突き放したんでしょう」

「頭を冷やす時間が必要だったのよ、あの子には」

? なぜ? 被害者でしょう、ユメノちゃんは」

「被害者と言いました? あなたたち、ちょっとあの子のことを誤解してるんじゃないですか」

「いいえ、誤解しているのはあなた方です。親が子どもを信じられないでどうするんですか」

「簡単に言わないでよ。子どもはすぐ嘘をつくわ」

「子どもが嘘をつくときは、もっと愛されたい時です」

「そうよ、そしてそれは際限がないのよ。愛したって優しくしたって、もっともっとって、たくさん嘘をつくわ。甘やかしすぎたらキリがない。ちょうどいいところで突っぱねて、厳しくしないと。あの子のためにならない」

「本当にあの子のことを思って厳しくしたんですか?」


 そうよ、と母は声を震わせる。都は瞬きをして、言った。

「私にはあなたが、中道夢野という女の子に嫉妬しているように見える」


 嫉妬、と母は愕然として呟く。「意味がわかりません、『嫉妬』ですか? 私が、娘に?」とうろたえた。都は毅然とした態度で、「私にはそう見えただけです」と言う。

「嫉妬だなんて、本当にわけがわからない。あなたちょっとおかしいんじゃないですか?」

「何にせよ遺伝なんてあてにならないとわかります。あの子はそんな風に人を馬鹿にしたりしません」

 ああ言えばこう言う、と母は苦い顔をした。「何よ、その目。私の何が気に入らないの」と金切り声を出す。いつものヒステリーだ。それに対して都は、「そうね。気に入らないわ、どうしても」と静かに言ってのけた。

「あんなに素敵な子の親でいることに、誇りを感じていないなんて。私があの子の母親になりたかったくらいです」


 うわ。うわぁ~~~~嘘じゃん、それあたしのこと言ってる?

 ユメノは引き戸の前でしばらく悶絶した。

 つうか今日褒め殺しすぎる。両親の罵倒と合わせて考えても、プラマイプラスでは? えー? えー、これ。もう今後の人生何度となくこの言葉を思い出して元気100倍だもん絶対。


(あたし、めっちゃ愛されてない? これ……前世どんな徳積んだらセンセーにあんだけ言ってもらえるんですか。あれ誰のこと言ってると思います? あたしのことなんですよ、奥さん)


「あなたに何がわかるの」という母の怒鳴り声で現実に引き戻される。母はすっかり顔を真っ赤にして、目に涙すらためていた。

「ねえあなた、子どもいる?」と母は都に尋ねる。「……ええ」とためらいがちに、都も答えた。


「じゃあなんでそんなに綺麗ごとばっかり言えるの? きっと手のかからないお子さんだったんでしょうね。

 夢野は違う。乳離れも他の子より遅くて、オムツもなかなか外せなかった。毎日毎日昼も夜も泣いてて、イヤイヤ期は激しくて、何にも言うこと聞かなかった。勉強だっていくらやってもできなかったし、男の子相手に喧嘩したりして。

 それもこれも全部、親のせい。みーんな、親のせいなんだから。親の育て方が悪いからってことになるの。わかる? それで厳しくすれば子どもが可哀想って。可哀想って何よ、可哀想って。私、その言葉が一番嫌い。安全圏にいながら簡単に人を非難できて便利よね、『可哀想』って言葉は」


 母は頭痛に耐えかねるような表情で目を閉じて、それからすぐに都を睨んだ。

「あなた本当に子どもを育てたことあるんですか? ご実家に預けたんじゃなくて? あなたお育ちがよさそうですもんね」

 すっと目を伏せた都が、「否定できません」と答える。ユメノはそっと膝で立ち上がった。


 引き戸を開く。視線が集まるのを感じた。ざっと見渡したけれど、タイラだけがこちらを見ていない。興味がないのではなく、知っているんだと思う、ユメノがここにいる理由を。

 静かに都の横に膝をつく。背筋を伸ばして、真っ直ぐに両親見た。ユメノ、と父の唇が動く。母は何も言わずにユメノを見ていた。なぜだか都は慌てふためいて、「ユメちゃん、車にいるはずじゃ」と顔を青くする。


「久しぶり。お父さん、……お母さん」


 すっと息を吸い込んで、「ご無沙汰しておりました、今まで何の連絡もせずごめんなさい」と床に手をついた。母は何とも言えない、複雑な表情をする。

 ここが正念場。気合いを入れなければ。ユメノは静かに喉を鳴らす。

「信じてもらえなかったのは、それだけの実績があるから。たくさん迷惑をかけたし、そう、嘘もたくさんついた。だから2人があたしを信じられなかったのは、あたしのせいだと思う。上手く説明もできなかったし。

 だけどあたしは本当に正真を誘ってない。あたしと正真はそういうことをしたわけじゃない。そこを2人に誤解されたままなのは、つらい」

 厳しい口調で母が「それを今更信じろって言うの? あれから私たちが周りからどんな目で見られたか。あなたはさっさと逃げたから知らないでしょうけど」と責めた。横で都が何か言いだしそうだったので、その前にユメノから「ごめんなさい」と言っておく。

「だけど違うものは違うとしか言えないし、逃げたことも、後悔してない」

 よかった、喋れる。ちゃんと喋れる。たぶん都に押された母を見て、幼いころの恐怖心が薄れたのだろう。


「お母さんの言うとおり、今日はお金の相談できました。でも、そうだね。順番が違ったね。『家族は甘えるもの』って言ったって、あたしたちきっとまだ家族じゃなかったもん」


 昔教わったような丁寧な仕草で、ユメノは立ち上がる。「だからこれは宣戦布告です」と言って両親を見た。

「あたしは絶対にあなたたちと家族になるから。そのために何回だって来るし、何年かけても絶対に家族になる。学校のこととか、もう関係ない。これは意地です。たぶんあたしは、頑固さじゃあなたたちに圧勝だと思う。覚悟しといてください、また来ます」

 それから都の腕を引っ張り、「行こ、先生」と促す。都は戸惑いながらも立ち上がった。部屋を出ようとした瞬間、「ユメノ」とタイラに声をかけられる。驚いて振り返れば、タイラは鍵を投げてくるところだった。

「悪かった。車の鍵、閉まってたな」

 鍵を受け取って、ユメノはまじまじとタイラを見る。直訳すると、『今度こそちゃんと車で待っていろ』だろう。ためらいながら、ユメノはうなづいて「ありがとう」と呟いた。都が不安そうに「タイラ」と呼びかける。タイラは手をひらひらと振って見せて、「名字で呼ぶ癖は直せって言ったろ、ハニー」と冗談ぽく指摘した。都はハッとして、「ええ、ごめんなさいあなた」と言い直す。

「楽しんでるだろ」とユメノはタイラを睨むと、彼は喉を鳴らして笑った。ユメノもちょっと笑う。そして今度こそ、都を引っ張って部屋を出た。




☮☮☮




 ユメノと都を見送った後で、タイラは一度瞬きをする。それから、出されたままで冷たくなっている緑茶を飲んだ。

「家内が……悪かった、な。普段はあんなに声を荒げるタイプじゃないんだ。気を悪くしたろうな、悪かった」

 また激昂しかけたユメノの母親を諫めるように、「話を聞こうという気もなくなったろうが、もう少し話をさせてもらえないか」と切り出す。不意に、先ほどまで黙っていた父親が「こちらこそお恥ずかしいところを見せました。あなたにも奥様にも、失礼なことを山ほど」と言って頭を下げた。「いいんだ、それについては俺も彼女も気にしていない」と肩をすくめる。


 タイラはもう1口緑茶を啜った。ため息交じりに腕を組む。柄にもなく言葉を選ぶ羽目になった。

「……子どもを育てるということは、大変だったか?」

 煙草を吸いたかったが人の家でそんなことを言い出せばもっとこじれるだろう。できれば早めに切り上げて、外で煙草を吸うしかない。そうだ帰りに3人で、蕎麦でも食っていくか。ユメノは嫌がるだろうか、お洒落なカフェなんてこの辺にはなさそうだ。

 そんなことを思いながら、タイラは「昔から“推して知る”ということができない性分でな。経験していないことはわからないんだ」と素直に言う。

「あんたはさっきこう言った。ユメノは何も言うことを聞かなかったし何もかも他の子より遅れていて、そのくせ喧嘩もしたし、それら全てが親のせいになってつらかったと。俺はそのことについて何も言うことはない。確かめるすべがないし、ユメノもそれについて言い訳をしなかった。

 そうなんだろうと思うだけだ。あんたたちにとって子育ては、他の誰よりつらいものだったんだろう」

 煙草が、吸いたいなぁと思う。ポケットを探ったがライターもなかった。わざわざ車のダッシュボードに置いてきたのだ。手遊びをして火をつけたりしないように。


「だが――――『子育てがつらかった』ということは、子どもの責任なのか? あんたたちの話を聞いていると、どうもすべての責任がユメノにあると思いたがっているように見えたが」


 ユメノの両親からは、不思議なほど反応がなかった。どうやら言葉を飲み込めていないようだ。理解するまで待とうかとも思ったが、理解してもこれだけでは不十分だと思い、切り口を変えた。

「ひとつ確認させろ。あんたたちは、自分が娘を愛していたと思うか?」と、静かに尋ねる。

 ムッとした様子の母親が、「そうじゃなかったら厳しくしないでしょう。あの子のことを思っていたから、ちゃんと教えたし習い事だってたくさんさせた」とかぶりを振った。「怒るなよ、責めてるわけじゃないんだ」とタイラは目を細める。

「今さっき会ったばかりで信じろというのも無茶な話だが、俺は本当にあんたたちを責めたいわけじゃないんだ。そんなことをしてもユメノの話が進展するわけでもなさそうだからな。

 ああ、言っておくがお宅の娘と関係はない。軽々しくそんなことを言うなよ、それだけは引っかかってたんだ。あんたらの娘だろ、よくわからんが女の子はそういうの気にするんじゃないか。俺もユメノからは必要以上に近づくなって怒られたこともあったよ」

 くつくつと喉を鳴らす。今では異性という括りからすっかり外れたのか、ユメノからベタベタくっついてくることも増えたが。


「子どもを愛せない親について、どう思う」


 こぶしを握り締めた母親が、「子どもを愛さない親なんていません。いるならそれは異常者です」と言い切った。「あんたは」とユメノの父に尋ねると、父親は唇をなめてしばらく考えたのちに「僕もそう思います」と妻の言葉に重ねる。

 いるよ、とタイラは笑った。「子どもを愛せない親はいるよ、それだけは断言できる」と。目を細めて、「俺はそれを、本当に哀れなことだと思っているんだ」と続けた。

「世間はいつまでも、『子どもを愛さない親はいない』と言い続けている。だが冷静になって考えてみろ。誰かが誰かを愛する、ということを周囲が勝手に決めつけられるものか。親だから、子だから、お互いを愛していて当然なんて幻想だ。子どもが生まれた瞬間に人は何か変わって、親になれるのか? 自分で選んだわけでもない親を、子どもは本当に敬意をもって信頼するべきなのか?

 あんたたちは呪われているよ。

 いいか、簡単な話だ。あんたたちに限らず、な。

『子どもを愛せない親はいる』『愛していても、愛し方のわからない親だっている』そしてそれについて少なくとも俺は、『他者から一方的に責められる義理はない』と思っている。

 わかるか? 呼吸をしてみろ、ゆっくりだ。人の不調は大体、酸欠か睡眠不足だ。あんたらひどい顔してるぞ、それは酸欠の顔だ。

 そして、これも簡単な話だよ。『親が子どもを愛せなかったこと、親の愛が正しく出力されなかったこと』この責任は、子どもにはない」


 そろそろ戻らなければ、ユメノも都も不安がるだろう。否、今頃は再度の突撃を検討しているに違いない。それはかなりまずい。

「ユメノはあんたらと『家族になる』と言っていたが、それはそれでお互い重荷になることもあるだろう。俺はそんな名前の付いた関係に興味がないんでな、必ずしもその過程が必要だとは思わない。ただ、ユメノのことは誤解なく見てやれ。なんてったって、あいつはうちのアイドルだ。あんたらも“娘として”なんて堅苦しいこと考えなければ、うっかり惚れちまうかもしれねえぞ」

 言いながら、タイラは立ち上がる。「お茶どーも」と肩を竦めた。


「安心しろ、俺たちはもうここには来ないだろう。あんたらがユメノを泣かせない限りな」


 ジャケットの皴を伸ばす。タイラがスーツを着るといつも、『まるで普通の人みたいだ』とかユメノやカツトシがからかった。声色や表情から、今更そのようなことを期待されているわけではないとわかってはいたが。

 瞬きをして、襟を直した。“普通の人”というものの定義は知らないが、普通じゃなくとも蕎麦ぐらい食える。今日のところはそれで構わないし、明日以降のことなど考えるに値しない。


 部屋を出るとき、ユメノの父親がぽつりとつぶやいた。

「なぜそこまで親身になってくださるんです。奥様も、」

 立ち止まってタイラは前髪をかき上げ、それを自分で崩すようにまたくしゃくしゃにする。伏し目がちに口を開いた。

「あの娘を愛してるからだ、そういう文脈だったろ」

 そう言って、もう一度頭をかく。言った瞬間に喉がひりつくような、不思議な違和感があった。舌に残るようなその感覚を、口付けるように転がす。


 羨ましい、とユメノの母が独り言ちた。それが一体誰に向けられたものなのか、タイラはわざわざ確認せずに部屋を出る。わからないものはわからないままで、恐らくタイラでない誰かがそれを読み解くのだろう。




☮☮☮




 海老の天ぷらを頬張りながら、ユメノは「せんせえ」と小さな声で呼びかける。都はと言えば、先ほどから蕎麦に手を付けずうつむいていた。

「ね、せんせ。お蕎麦食べようよ。今日はありがとって、すっごい助かったよって、言ったでしょ」

 不意に都は両手で顔を覆い、呻く。「ごめんなさい……」と呟いた。


「本当に私、何と謝罪をすればいいか。ひどいことを言ったわ。こんな、人としても親としても未熟な女が。これでユメちゃんとご両親がもっとこじれたりしたら、私……」


 うーん、と咀嚼しながらユメノは肩をすくめる。「あれ以上こじれないよたぶん。行くとこまで行ったもん、中道家」と笑った。その発言に、なぜかタイラが噴き出す。

「何にせよ、今は蕎麦を食ったらどうだ。それとも君は自己嫌悪が趣味なの?」

 静かに箸を手にして、都は蕎麦を啜り始めた。「美味しい」と呟く。「な、美味いよな」とタイラが喉を鳴らした。

「いやぁー、なんか勢いで宣戦布告してきちゃったけどさ。何度も来るには遠いよねー、この街」とユメノは頬杖をつく。何か考えている顔で、タイラも「そうだな」と同意した。

「……お母さんたちと何話してたの、タイラ」

「埋めたんだよ、あんまり目に余る深さの穴はな」

「どゆこと?」

「大体、本来ならこういう役回りは俺じゃなく先生に期待されていたのでは」

 ごめんなさい……とまた都がしょげる。「蕎麦がのびるぞ」とタイラは指摘した。


 食後に大福アイスまで食べて、ユメノは伸びをする。都もちょっとは気を取り直したようで、きな粉のかかったバニラアイスを食べていた。そんなユメノと都を、タイラがぼんやり見ている。「食べたかった?」とユメノは尋ねたけれど、タイラははっきりとしない反応で「俺がか」と呟いた。

「まあ、あたしのアイスはもうないけど」

「お前のアイス、美味そうだったよな。……でも美味そうに見えたのは、お前が食ってたからだろうな」

「マジでどゆこと?」

 財布をもって立ち上がったタイラが、「近頃どこの店も禁煙だ」と嘆く。ユメノと都は顔を見合わせて、彼の背中に続いた。



 店を出たタイラは、「悪い、待ってて」と言いながら煙草を吸い始めた。どうやらレンタカーの中では吸わないようにしているらしい。変なところ真面目なのはいつものことだ。

 煙を吐いたタイラが、ユメノと都に『そこをどいてろ』と手振りで伝えてくる。それから煙草を口から離し、「車に戻ってていいんだぞ、煙いだろ」と眉をひそめた。

 ユメノはちょっと笑ってしまって、「ちょっとなら大丈夫だよ。ここにいたい気分なの」と答える。都も一緒にうなづいた。

 しばらく、タイラが煙草を吸っている姿を見ていた。無骨な彼の手の中で短くなっていく煙草は、嫌に白く見えた。


「……今日はほんとにありがと」


 躊躇いがちにユメノはそう囁く。タイラは肩を竦め、都は困ったような顔をした。「ユメちゃん」と都が口を開く。

「あのね、タイラとも話していたのだけど……学校のこととかお金のこととか、私たちでも力になれると思うの。ユメちゃんさえよければ」


 うん。そう。たぶん先生はそう言うと思ったし、タイラだって『その方が面倒はない』って言うかなと思ってた。だけど、


「だけど先生、それじゃダメだよ」


 そう穏やかに、ユメノは言う。遠慮してるとか、そういうんじゃないんだ。

「先生には実結ちゃんがいて、タイラにはユウキがいる。だからそういうのはさ、あの子たちに使ってあげなきゃダメだよ」

「でも…………ちょっとぐらい、」

「そうかもしれない。2人にとったら大したことじゃないのかもしれない。でも、あたしには家族がいるんだから、まずはそっちを頼らないと。ユウキや実結ちゃんは、ふたりしか頼れる人はいないんだよ」


 タイラが下を向いて煙を吐いた。都は「そう」と微笑みながらもどこか寂しそうな顔をする。だからユメノは、そんな都に思いきり抱きついた。

「でも家族って、どこにいくつあってもいいよね。大好きだよ、先生。ほんっとーに先生がいてくれてよかった! たくさん力湧いてきた! 本当に困ったときはたくさん甘えるから、せんせーもあたしのこと頼りにしてね」

 ぎゅうっと抱きしめて、そのまま都を押しながらタイラに突進した。タイラは「あぶねっ」と言いながら煙草を灰皿に押し付ける。何も言わずにユメノは、都とタイラに両手で抱きついていた。ユメノの髪を撫でながら、都が「ユメちゃんがそう言ってくれて、うれしい」と笑う。ユメノは照れくさくなって、パッと手を離した。


「じゃあ、あたし先に車乗ってるから」


 そう告げて、2人に背中を向けた。



 そんなユメノの背中を見送って、都はため息をつく。

「気を使わせてしまったわね、あんなこと言ったから」と呟けば、「そういうんじゃないだろう」とタイラは喉を鳴らす。

“私があの子の母親になりたかったくらいです”

 あの言葉をユメノが聞いていたのであれば、それは確かに都の本心ではあるが、だからこそ彼女の重荷になるのではないかと都は心配だった。

 タイラは不意に都の頭に手を置いた。


「あんたは傲慢だが、それでもあんたの言葉を聞いて救われたやつは確かにいたと思うぞ」

「え?」

「……もっと早くあんたに会っていれば、な」

「それは一体、どういう意味?」

「随分日が短くなったもんだ、もう暗い」


 見れば、空は綺麗な夕焼けだった。何となく圧倒されてそれを見ていると、タイラは何も言わずに車に戻っていく。「タイラ、待って。もう少し、話を」と言って追いかけたけれど、彼は立ち止まらない。

 ようやく追いついたころにはもう車の中で、ユメノが「遅いよ」と膨れ面をしていた。

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