☆少年を見る者

 ため息をついて、最上はこめかみを押さえる。目の前には6歳くらいの子どもがいた。平和一タイラワイチというその子どもは、近ごろ最上の頭痛の種だ。

 最上は養護施設を営んでいる。例によってこの子どもも保護者がおらず、最上の施設にやってきたわけだが。


 それがこの子ども、喋りもしなければこちらの言うこともまったく聞かない。


 6歳。そろそろ物の分別もつくころだ。だというのに、この子どもは何があっても暴力に訴え、日々無理を通し続けている。最上以外の職員は全員音を上げ、この子どもと関わるくらいならば辞めると言いだしていた。

 それでも、投げ出すわけにはいかなかった。


「どうして、他の子を殴るのです」


 和一はこちらを見もせずに、窓の外に顔を向けている。言葉を理解してはいるはずだが、まったく意に介さない。


 両親があんなことになってしまっては心を閉ざすのも仕方がないとは思っていた。そもそもこの子どもは、父親からひどい虐待を受けていたと思われる。それにしては怯えた様子がないが、それでも自分以外の存在を許していないような空気は感じ取れた。

 膝を抱えて、和一は縮こまる。もう何も聞きたくない、というように。


 ここで諦めてしまえば、また今日も進歩なしだ。

 膝を折って、最上は子どもと目線を合わせる。その頬を撫でながら、「なぜ他の子を殴るんです?」ともう一度尋ねた。子どもは顔を上げる。久しぶりに目が合った。

「話をしてくれないと、わかりませんよ」

 医者によれば、子どもの知能に問題はないという。失語症も疑われたが、麻酔を打つ際にひどく嫌がって叫んだので『ただ他人とコミュニケーションを取るのを嫌がっているだけなのでは』と報告を受けた。

「話をすることは、とても大切なことなんですよ。和一……あなたが殴った子は、何かあなたの気に障るようなことをしたのですか? 何があったにせよ、殴ってしまえばあなたが悪いのです。でも、何か原因があるのならそれは解決しておくべきだと思っています。あなたが話してくれないと、何とも」

 子どもは何も言わない。本当に頑なに、口を閉ざしている。


 深く深くため息をついて、最上は子どもの肩を掴んだ。びくりと、子どもが震える。いいですか、と静かに迫った。

「あなたは、他の子よりも強い。みんな、あなたが怖いと泣いています。強いあなたが、弱い子をいじめてどうします。強いのなら、弱い子を守らなければなりません。いじめるのは弱い子でもできますが、“守る”という行為は強い人間しかできないからです。弱いものをいじめている限り、あなたも弱い」

 そっと、和一が目をそらす。ダメだったか、と最上は肩を落とした。その日は、そのまま話を終える。


 しかし次の日から、子どもの暴力性は幾分か収まった。これは最上としてもまったくの予想外というもので、『なるほど、あの子どもはこちらの話をそのままの意味で理解する能力があったのか』と驚いたものだった。




☮☮☮




 それは和一が、隣に住む幼い女の子を助けた日のことである。野犬に襲われていた少女を庇ったようで、この子どもは腕を怪我していた。それに包帯を巻いてやりながら、「泣かないのですか、強い子ですね」と最上は呟く。

「あの子を守ってあげたのですか? あなたに『ありがとう』と、お隣からお礼の品が届きましたよ」

 子どもはずっと難しい顔で、口をパクパクさせていた。それを不思議に思いながらも、最上は彼の目の前に小さな器を置く。「みんなには内緒ですよ」と言いながら切ったバナナとメレンゲを盛りつけた。「どうぞ、パフェです」と胸を張って出す。和一はそれを手づかみで食べ始めた。「フォークがあったんですがね」と最上は眉をひそめる。


「覚えていて。あなたには、誰かを守れる力があるのですよ……和一」


 目を細めて、「あなたの名前は素敵ですね」と続けた。

「人は誰も未熟ですが、誰かと支え合って初めて一人前になることができるのです。あなたの名前は、『足して一になる』という意味でしょうか。……そうですね、あなたが人を助けて、守って、支え合おうとするのなら、きっといつかあなたと足して一になる数字が表れて一緒になることができるでしょうね」

 手や口の周りをべたべたにしながら食べ終えた様子の和一は、やはりこちらを見て口をパクパクさせる。最上は食べたりないのかとそれを怪訝に見た。


「はなしをしたいな」


 度肝を抜かれて、思わず「はっ?」と聞き返してしまう。もう一度、「はなしをしたいな」と子どもはすらすら声に出した。


「お前……言葉を」

「いたいな、かわいいな、おなかがすいたな」


 喋り出すと止まらない様子で、子どもはそのまま続ける。

「ねむいな、いたいな、いきができないな、だれもたすけてくれないな、いたいな、おなかがすいたな。どうしてあのひとは、おれをなぐったんだろうな。

 おなかがいたいな、そとにいきたいな、しあわせになりたいな、おなかがすいたな。かあさんはどこにいったんだろう。

 かあさんすき、あなたのことすき、あのこのことすき、なかないでほしいな。あなたと、はなしがしたいな」

 表情を変えずにそう言い切った後で、子どもは瞬きをした。こちらの様子をうかがっている。


 最上は震えながら子どもに近づき、何とか抱きしめることができた。何か言うべきだろうと思ったが、子どもの真っ直ぐな問いには答えることができなかった。

 父親がなぜこの子を殴ったのかなど、答えられるはずもない。多くの場合子どもを殴る親に、さしたる理由などないのだ。そして母親がどこへ行ったのかも、言うべきではないと思った。いずれわかることだろうが、今はその時ではないと判断した。

 だから、その代わりに最上は子どもの背をさすった。


「あなたのお父さんは、弱いあなたをいじめたのですね。弱いものをいじめる人も弱いのです。あなたのお父さんは弱かった。あなたはきっと、お父さんよりも強くなれる。だから、許してあげなさい。あなたより弱い人のことなど、憎まなくていいのです。あなたの憤りは正当であれど、きっといつかあなたを追い詰めるでしょう。だからあなたは、自分より弱いもののことなど許してあげなさい」


 ぎゅっと抱きしめると、和一も最上の腕を掴みながらぽつりと呟く。


「もも、バナナよりおいしい」


 目を見開いて最上は、「お前まさか……お隣のお嬢さんのところで桃なんて高級品を食べさせてもらったんじゃないでしょうね?」と問いただした。子どもはきょとんとして、今更に知らないふりをする。存外この子は、頭のいい子供らしかった。

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