☆大学編 冬
冬はあまり好きじゃない。
ぼんやり曇り空を見ながらタイラはため息をつく。白い息は普段よりも生きていることを明白にさせる。
学園祭からも何ら変わることなく、由良たちはタイラの部屋にいる。こいつらは自分の家にいるよりこっちにいる時間の方が長いのではないかと時々思う。
「やべえぞ、学祭が終わってから女の子に声かけられまくり。今までほとんど縁がなかった合コンとか呼ばれるしな」
そう、興奮気味に由良は言った。「この勢いでデビューしちゃう?」などと夢物語を持ち出している。
「デビューするのはいいけど、バンド名がダサすぎて嫌」と、伊達が難色を示す。なんでだよ、と由良は言いながらペンを出した。
「何か書くものない?」と言いながらうろうろしていたが、やがて「これでいいや」と干してある白いYシャツに書き始める。
『To STARs』
「な、トースターズだぜ?」
「うわだせえ」
タイラは腕を組んで近づいて「“うわだせえ”とかそういう問題じゃないんだよ。誰のシャツに書きやがったんだお前は。弁償しろよ、俺が服を何着持ってると思ってる?」と凄んでみせた。
「案外、こういう遊び心のあるYシャツで行った方が心証いいかもしれねえぜ? これで就活してみろよ」
「お前はいいよな、他人事で」
未だタイラの就職先は決まっていない。正直、まともなところでは採用できないだろうと自分でわかっていた。それはそれで、まあ何とかなるとは思っていたが。
平和一には大して、将来への不安というものがなかった。未来なんてものは、結局
こほんと空咳をした麗美が、「それにしてはアンタ、誰とも付き合ったりしてないじゃない?」と話を戻した。由良は痛いところを突かれた顔をして、「ほら、おれって人見知りだから」と答える。「冗談だろ」と伊達が言う。タイラもそう思った。
「いや脈はあるんだけどさ、『荒木くんっていい人だよね』ってよく言われるし」
「ないじゃん全然」
ないの? と由良は麗美に確認する。「ないわよ、それ」と麗美がうなづいた。
ヘコんだ由良がふて寝をしている横で、今日も伊達が雀卓を出す。
「毎日毎日こんなことをして、お前たちは卒業できるのか?」
「できるできる。マジで卒業怪しいのは由良くんだけだから」
おれも卒業ぐらいできらぁ、と由良はほざいた。
そうか、とタイラは呟く。
実際のところ、卒業が怪しいのはタイラの方だった。母が死んでからというもの、連日報道陣が通いつめ、それも落ち着いたころに畑中の記事が出た。無関係な人間の好奇心で野次馬が出来たりもした。
大学側はタイラに自主退学を促しているつもりなのだろう。仲の良かった教授からよく意向を聞かれた。もし卒業後にでも何か問題を起こしたとき、最終学歴としてこの大学の名前を出されたくないのか。そうでなくとも今の状況で、大学側は大きく損をしていると考えているようだった。
その気持ちは、わかる。タイラだってもっと後ろ盾があれば退学も考えた。
それでも学歴は欲しい。何もない自分がこれから生きていく上で、この手に何か掴んでいきたかった。
(遊びで生きてきたわけじゃなかった。それが、他人の人生の余興として消費されるのか)
それは報いだと人は言うかもしれない。それなら、あの日────幼いタイラの行いの何が悪かったのか、誰かに教えてほしかった。あの日のことを正しいとは思っていないが、間違っていたとも思っていない。殴られたから殴り返しただけで、何をそんなに騒いでいるのかわからない。
おい、と声をかけられてハッとする。眉を八の字にした由良がこちらを見ていた。どうやら麻雀の準備ができたようだ。
由良たちが帰ったあとで、タイラは干してあったYシャツをぼんやり見る。由良が落書きをしたシャツだ。
もし由良たちが本当に歌手にでもなったらこのYシャツは高値で売れるのだろうか、と考えてタイラは笑う。自分で自分がおかしくなった。
母と最後に話したのはいつだったか。秋はそれなりに忙しかった。夏も会いに行ってはいないだろう。そうだ、春だった。帰りに由良のアホ面を拝んだ気がする。
いつものように母は、「そのうち悠くんが迎えに来てくれるから、あなたは来てくれなくて大丈夫」などと妄言を吐いていた。
刑期の終了を目前として、タイラの方も焦っていたのだろうと思う。
この女を今後どうするべきなのか、本当にこの女と暮らすことは可能なのか、この女を保護するにあたってどれほどの稼ぎが必要なのか。こんなにも頭が痛いのに、目の前の母はあいも変わらず不出来な夢を見て、それを周囲に押し付けている。
「悠くん、悠くん、うるせえな」と、気付けばそう呟いていた。「あんたの旦那は死んだだろうが」と。
母はひどく怯えた顔をして、タイラをじろじろ見た。過呼吸でも起こしたかのように短く息を吐き、小さな小さな声で「こんなに大きくなると思わなかった」とだけ呟く。
笑ってしまったな。呆れた、というより愛おしさすら覚えた。
まるで、子犬を拾って育てたつもりが狼にでもなったような言い草だ。「それは災難だったな」とタイラは優しく目を細める。母は未だ、怯えた目で震えていた。
「また来るよ」と、そう言ってタイラはその場を後にした。それから、だ。それからタイラは母のことなどすっかり忘れていた。そのことに特に罪悪感はない。タイラヒトミという女にとっても、息子は嬉しい客ではなかったのだから。
畑中の記事を読んで、タイラはようやく腑に落ちた。
刑務所の中がそれほど悪辣な環境であったとは思えなかったし、何よりもう出所目前だったのだ。母がなぜ自死を選んだのかはタイラにとっても謎だった。
『息子に殺される』
あの女は生前、仲の良かった受刑者にそうこぼしていたらしい。なるほど、とタイラは思った。なるほど、息子のいる社会には出てきたくなかったようだ。だからといって死んでしまえば本末転倒だろうと、母は思い当たらなかったのか。そう考えることはできなかったのだろう、彼女の原動力はいつだって恐怖だった。
薄い毛布にくるまって眠る。暖房器具などあるはずもない、そんな金は湧いてこない。アルバイトもほとんどクビになった。
恐らく外は雪が降っている。凍り付きそうな夜だ。本当に、凍死しそうだ。
死ぬかもしれないなぁ、とぼんやり思った。寒いし腹が減っている。最悪だ、まるでガキの頃と変わらない。
朝方、名前を呼ばれて起きた。どうやら凍死は免れたようだ。昨夜は、の話だが。
声は外から聞こえてくる。頭をかきながらカーテンを開けると、そこには一面の銀世界が広がっていた。下で由良と伊達が手を振っている。どうやらやつらは雪遊びをしているようだ。
「めんどくせ」と呟いてカーテンを閉める。数秒後、息を切らした麗美が鬼のようにドアを叩いてきた。
「ちょっと! 私だけにあいつらのお守りをさせるわけ!? 勘弁してよ!」
もっともだと思ったので、仕方なく部屋から出ることにした。
寒いが、昨夜ほどではない。太陽も出ていたし、雪に反射して世界はひどく眩しかった。
「よお、タイラ。なんだそんな薄着で」
「コートなら中坊の時に寄付で貰ったきりだな」
「お前死ぬぞそれ」
由良が、着ていたコートを投げてくる。「この前シャツをダメにした詫び」と言ったので、「いやシャツを返せよ」とタイラは眉をひそめた。まあ、コートも貰っておく。正直に言えば昨夜は本当に死ぬかと思ったのだ。
とりあえず持ってきたスコップで、人が歩ける道を確保することにした。「なに真面目に雪かきしてんだよ」と伊達が不満そうに言う。由良などは容赦なく雪をぶつけてきた。麗美はなぜか胸を張って『こいつらの相手を今までしていたんですよ私は』という顔をする。ご苦労なことではある。
由良たちはタイラが寄せた雪を固め始めた。転がして、丸くしていく。
「じゃーん! これはなんでしょーか、タイラくん」と伊達がおどけた。「雪だるまだな」とタイラは冷静に答える。
「それも成人した大の男が一生懸命作った雪だるまだ」
「ちょっ、客観的な説明やめて。悲しくなる」
ため息をついて、タイラはその雪だるまを軽くたたいた。思いのほかしっかり出来ている。「見ろ、おれの雪だるまの方がでかい」などと言っている由良を無視して、伊達は少ししょんぼりしていた。
その横で、麗美まで雪を転がし始める。
「お前まで何やってるんだ?」
「あのね、どこかで決着をつけないと終わらないのよ。こいつら、いい思い出ができれば満足できるんだから。あんたも作りなさいよほら」
なるほど一理ある。
タイラは雪をすくって、とりあえず大きめの雪玉を作った。指先から冷えていく。ガキの頃はもっと上手く作れていただろうか。吐いた息が白い。雪に解けて消えていった。
「やっぱ冬はいいよなぁ。生きてるって感じがする。吐いた息だって見えるんだぜ」
そう、由良が笑う。同じ理由で、タイラは冬が嫌いだ。別に波風を立てたいわけじゃない。「そうだな」とだけ呟いた。
部屋に上がるかと聞いたが、「お前の部屋、寒いから」と言って全員帰った。その寒い部屋でこっちは今日も眠るんだ。まったく、何のために来たのかわからない。本気で雪遊びをしに来ただけなのか。否、本当にそれだけなのだろう。あいつらは、主に荒木由良は、そういう風に生きている。
カーテンを開ければ、下に4体の雪だるまが見えた。由良のものは大きいが、形は歪だ。伊達の雪だるまにはちゃんと顔がある。麗美のは一回り小さい。タイラの雪だるまは、自分で見ても何の面白みもない出来だった。
ふっと笑って、そのまま寝転がる。これだけ寒ければ、あの雪だるまの寿命もそこそこには長いだろう。こっちは死にそうだが。
寒さと飢えは、魂に刻まれる。死に方を選べるのなら、絶対にそれだけは避けたいものだ。
インターホンが鳴って、ハッとした。こんな時間にいったい誰だ。あいつらはもうインターホンなど鳴らさなくなって久しい。
玄関のドアを開け、思わずタイラは舌打ちをして「まだ宗教の勧誘の方がマシだった」と口走る。
畑中は、「そんな寂しいことを言うんじゃない」と肩をすくめて笑った。
図々しくも座布団の上に座った畑中が、「どうなんだい、就職先は」などと聞いてくる。おかげさまで、とタイラも立ったまま涼しい顔をして答えた。
「前途洋々ですよ」
「それはよかった」
そんなわけがあるか。タイラは今となっては、家庭内殺人により両親を失った子供ではなく、親殺しの子供なのだ。畑中が、20年近く昔の事件を掘り返して『父を殺したのは当時5歳の息子だった(かもしれない)』と記事を書いたからだ。
そのことについて、タイラは特に気にしていない。事実だからだ。ただ、タイラにだって身を守ろうという意識はある。これ以上畑中に引っ掻き回されれば、タイラはアルバイトもできない状況なのだ。死ぬしかない。
「あんた、今日は何しに来たんだ」と、警戒しながらタイラは尋ねる。いやねえ、と畑中が嫌らしい笑みを浮かべた。
「この前は、ちょっと行き違いがあったようだったから」
「行き違い?」
不意に畑中は、何か小型の機会を出す。ボイスレコーダーのようだ。スイッチを押すと、タイラの声が流れた。『次に姿を現したら殺すぞ』と、確かにそう聞こえた。
やっぱり録ってたか、とタイラは慌てることもなくそれを聞く。『ふうん』という気分だ。
「で?」
「で、ってことないだろう君。私だって君とは今後も仲良くやっていきたい。もう私たちは友達みたいなもんだろう? 私も、悪いところは全部謝るからさ」
「俺は別に謝らないぞ、悪いと思ってないからな」
あはは、と畑中は笑う。それから少し引きつった顔で、「なんだクソガキ、その言い方は。自分の立場が分かっていないのか」と言ってきた。タイラは小首をかしげて、「自分の立場がわかっていないのはあんただろうに」と返す。
「出るとこ出りゃあ、お前の人生はもっとめちゃくちゃになるんだぞ」
「ビビッて3か月も音沙汰なかったくせに強気だなぁ、畑中さんあんたそっちのキャラの方がいいぜ」
畑中は一瞬言葉に詰まったようだが、すぐに勢いを取り戻し「お前みたいなチンケな学生の人生がどうなろうと、私はどうでもいいんだ。それでもこうして話をしに来てやっているのは善意からだ」と言い出した。心底どうでもいい話だったので、タイラはそれを聞き流す。
そんなことよりもタイラは、この目の前の男のことを自分でどう思っているか確認しなければならなかった。しばらく考え込んで、『別に自分は、この男のことが嫌いではない』と結論を出す。嫌悪を示すほどのものはこの男にはない。
「ここで私が怪我でもすれば、和一くん、君は殺人未遂罪で捕まるかもしれないんだぞ」
「どうして怪我で済むと思ったんだ?」
嫌いではない。しかしこの男の生きる姿は、別に愛する価値もないように思う。
呆れて笑いながら畑中がタイラを見る。しかしタイラの手を見て、言葉を失ったようだった。
「そ、れは?」
「ああ、俺も別に用意してたわけじゃなかったんだが。ちょうどよく押し入れに、故障した扇風機が入っててな。コードだけ何かに使えないかと、そこの引き出しにしまっておいたんだ。よかった、ようやく使えそうだ」
畑中が腰を浮かせながら「冗談だろう、録音してるぞ」とわめく。タイラはきょとんとして、「不思議だなあ」と呟いた。
「あんな記事まで書いたくせに、あんたは俺のことを『なんだかんだ言って一線は越えられないただの苦学生』としか見ない。なぜ、俺が気狂いの殺人鬼だと思わなかったんだ? 俺はそんなに、人がよさそうな顔をしてるか。そうか……昔からそうなんだ。よくナメられる性分でな」
一歩近づけば逃げようとするので、その頭を鷲掴み、壁に強か打ちつける。頭は水風船のようにやわらかく、血が飛び散った。
「でも、ちゃんと警告はしたんだよな。次に姿を見せたら殺すって。どうして、俺の言うことが聞けないんだ?」
恐怖で目を見開いている畑中に笑いかけながら、その懐に手を入れた。ライターや煙草が出てくる。それから小さめのナイフと、スタンガンらしきものも。
「なるほど。脅して、激昂し襲ってきた相手を返り討ちにしてさらに脅す。いやあ、楽な仕事だな。俺もおたくの会社で働こうか」
持ち物をすべて投げ捨てて、タイラは畑中の髪をつかんだまま引きずる。
「人の首を絞めるのは初めてだが、ひどい有様らしいよな。部屋で糞尿をまき散らされても困るし、風呂場に行こうな」
畑中はひどく暴れたが、タイラの手を振りほどくほどではなかった。
畑中を浴槽に無理やり押し込む。そこに水を張れば楽に溺死させられるだろうかとも思ったが、そんな悠長なことをして隙を突かれたくもなかった。
狭い浴槽の中で馬乗りになり、畑中の首に白いコードを回す。「おいやめろ、やめろ、クソ」と畑中は騒いだ。
身体の自由はあるので、畑中も力いっぱい暴れる。抵抗されても構わなかった。どうせ力でタイラには勝てない。
畑中の爪が、タイラの頬にかすった。右頬が熱い。血がポタポタと落ちる。
どうしてこうなったかな、とタイラはごく自然に独り言ちていた。
「どこで間違えたんだろうな、俺もあんたも」
自分がため息をついていることに驚く。どうやら相当に参っているようだった。一体どの事柄にだかわからないが。
気を取り直すように、タイラは「だが喜べよ」と畑中を励ます。
「あんたは最後に、本物を掘り当てたんだ。あんたが記事に書いたように、あの男を殺したのは俺だよ。誰が何と言おうと、俺が殺した。自殺なんかにしてやるものか。何回殺してやっても足りない」
皮膚の色が変わってきた。赤紫色だ。畑中が必死になればなるほど、顔色は人のものとかけ離れていく。
「可哀想な母さん」と気づけばタイラは口走っていた。「俺を愛してなんかいなかったのに、俺が怖かっただけなのに、17年も刑務所に閉じこもってあげく死ぬなんて。俺はあの人を恨んだことは一度もなかったんだけどな」と続ける。自分の声音があまりにも無機質で、何を言っているかわからない。
「化け、物め……」
現実に連れ戻されて、思わずタイラは首をかしげてしまう。「今、あんたが喋ったのか?」と目の前の畑中に確認した。
「あんた最期の言葉がそれで、本当に大丈夫か? 助けてくれと言うなら助けてやろうと思ってた。俺はあんたのことが嫌いじゃないんだぜ。ああ、でも見上げたジャーナリズムだ。最後まで俺を断じるんだな」
妙に感動してしまって、タイラは一瞬だけコードを持つ手を緩める。畑中は真っ赤な顔で苦しそうに咳き込んだ。
「化け物とあんたらは言うが、そう断じることに何の意味があるんだ。確かにあんたらにとっちゃ俺は異質だろうが、俺の何があんたらにとって迷惑だったんだ? 人を取って食うわけでもあるまいし、ただあんたらと同じ社会にいるというだけで我慢ならないとでも?」
嗚咽交じりに、畑中はタイラを睨む。
「自分が……人を取って食う化け物でないと、証明できるのか?」
目から鱗が落ちたような衝撃だった。なるほど、とタイラはつぶやく。「ごもっともだ、さすがはご慧眼でいらっしゃる」と言いながらまたコードを掴み直した。
「そうだ俺は腹が減っていたんだった。あんたが死んでいくのを見てたらすっかり忘れてた。俺は今、あんたを食ってるのかな? 胃もたれするほど満足だよ」
笑い声が聞こえる。自分の喉からだ。
「……それでも、放っておいてくれればよかったんだ。化け物として飼うつもりも、駆除するつもりもないのなら」
畑中はもう、息をしていなかった。
不意に顔を上げると、そこに人が立っていると気づいた。こちらを見て、笑っている。その顔は。その男は。そうだ何度殺しても足りない、男の顔だ。
そちらに一歩進む。「何を笑ってる」
もう一歩進む。男は怯えたような顔をした。
立ち止まる。愕然として、目を疑った。そこには、ただの鏡しかなかった。
階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。チャイムなしでドアが開く。
「なあタイラ、お前の車貸してくんねえ?」と由良が手を合わせていた。「俺の車を?」とタイラは怪訝そうに眉をひそめる。
「そうそう、ちょっとビビらせたいやつがいてさ。お前の車って人をビビらせるのにうってつけだろ」
「人の愛車を何だと思ってるんだ」
まあ、と言いながら車のキーを探した。「ちょうどいいかもな。俺の車にはちょうどいま死体が乗ってるし、誰が相手でもビビらせることができるぞ」と笑う。由良も笑って、「それは更にうってつけだな」と言った。タイラは散々探したが結局自分のポケットに入っていた車のカギを、由良に投げる。
「サンキュ、ちょっと行ってくるわ」
その3分後、由良はまた階段を駆け上がってきた。
「お、おま、車……ひとが、ひっ、しんでる」
「どうしてお前はそう、人の話を聞かないんだ?」
タイラの車には今、浴室から運んだ畑中の死体が乗っている。冗談でもなんでもなく、ただそれだけの事実だ。
浴室に置いたままだと掃除ができないし、そもそもシャワーが使えない。車も使えなくなったら困るが、まあ大学は徒歩圏内だし、しばらくは使わなくても生活できるだろう。そう思って車に運んだが、まさか由良が車を借りに来るとは。この場合、タイラの運が悪いのか由良の引きが強いのか。
そう考えて、ふとタイラは自分の思考を疑う。この期に及んで、生活のことを考えている――――?
別に捕まってもいい。どちらでも構わない。どこで生きようが、死のうが、現状とほとんど変わらない。
それなのにまだ生活を続けようとしている。そうだ、明日の食事の心配すらしている。
息を切らした由良が、じっとタイラを見ていた。
「あれ、記者のおっさんだな」
「そうだ」
「……お前が、やったのか?」
「ああ。そういうことになるな」
由良は絶望をその顔にありありと浮かべて、「なぜ。なぜだ、タイラ」と聞いてくる。
なぜ。
考えたこともなかった。タイラが畑中を殺したことは、まあ客観的に見れば動機は十分だろう。では、自分に不都合な記事を書かれたから殺したのか。つきまとわれて辟易としていたからか。脅迫されそうになったからか。どれもそれらしい理由だったが、なぜだかどれもピンとこない。
強いて言えば、煩わしかったのだ。今後、畑中という男の生きる姿を容認と諦観の目で見守ることが。特に害がなくとも羽虫につきまとわれればげんなりするもので。それが進路を妨害するほどであれば何か対策を講じるべきだろう。疲れた、だから殺した。恨みも憎しみもなく、高尚な考えがあったわけでもなく、それだけだ。
由良は先ほどから頭を抱ええている。何を悩んでいるのかわからない。これは荒木由良の問題ではないはずだ。
「お前は、そんなやつじゃないだろ。確かにすぐ手は出るし時々シャレにならんことも言うが……、一線は越えないやつだ」
まだその段階か? 現実を疑ってどうする。死体が俺の車にあるんだぞ。
しかし、“お前はそんなやつじゃない”か。よく聞いた台詞だ。先ほど電話で話した最上のことを思い出す。ひどく取り乱して、『お前はそんな子じゃない』と繰り返していた。不思議だな、とぼんやり思う。
昔からそうだった。誰に疑われようと、自分がやったのだと申告しようと、庇い立てする人間が大抵何人かいた。『タイラくんはそんなことする人じゃない』『確かに時々ケンカしたりもするけど、悪い人じゃないんです。理由があるはずです』『なあ、タイラ。お前からも何か言えよ』
ああ、なんて生きづらい世界だ。あれもこれも全て俺がやったんだ。理由なんてない。腹が立てば人を殴ったし、それが悪いことだとも知らなかった。ただ、“あなたはそんな人ではない”と言われるたび空気が重くなるような気がした。
その信頼は、あまりにも甘やかな枷だった。
タイラだって、その信頼に応えようと考えることもあった。周囲の人間が言うようなモノになろうと努力もした。今更『化け物』と指さされなければ、あるいは。
めまいを覚える。自分の根幹が揺らいでいくのを感じた。本当に自分は、人を取って食う化け物なのか。今まで人に躾けられて、人間であるかのように振る舞っていただけに過ぎないのか。であれば、自分に寄せられていた信頼は? それに応えようとした自分の努力は? 化け物はどんなに自制しても人間にはなれまい。
おい、と声が聞こえた。腕を強く掴まれる。由良の存在などすっかり忘れていたので、タイラは喉から声が漏れるほど驚いた。
「お前、平和一ともあろう男が、なに自分なんかにビビってんだよ」
タイラは呼吸を整える。自分はひどく汗をかいていることに気が付いた。
苦い顔をしたままの由良が、「ちょっと外に出ようぜ、この部屋にいると息が詰まりそうだ」と言った。
ブランコに積もった雪をはらって、タイラたちは座る。手にはコンビニで買った缶ビールが握られていた。
2人とも無言で、ビールをちびちび啜る。冬のビールは冷たくて、喉から凍っていくような気がした。こんな季節でも公園で遊ぶ子供らはいるのか、白かった雪が踏み荒らされて黒くなっている。踏まれるほど雪は固くなり、朝日が昇っても汚いままで残り続けるのだろう。何とはなしに、タイラは息を吐いてみる。まだ白かった。黒くなっているかと思った。
「お前、死ぬつもりなのか」と、由良が尋ねてくる。何を言っているかよくわからなかった。話が飛躍しすぎている。そんなことは考えてもなかった。なぜだ、と聞き返せば由良はバツが悪そうな顔をする。「だってお前、」と口ごもった。それから意を決したように「おれには兄貴がいてさ。あれ、弟だったんだっけな」と言葉を紡ぐ。
「双子だったんだ。で、最初に生まれたのがおれだった。でもおれらが生まれた病院ってすげえ田舎でさ、双子の、先に生まれた方は兄貴を守るために露払いで生まれた弟だってことにする習慣があったみたいで、親父とお袋におれの方を弟ってことで説明したんだ。戸籍上は知らんけどな。
そんなさ、数秒どっちが先に取り上げられたかで、しかもド田舎の習慣とかも絡んで、何となく兄貴にされた方はさ、たまったもんじゃねえだろ。もうその瞬間から、跡継ぎの扱いなんだよ。兄貴、まあ普通につらかったんだろうな。おれは割と自由にされてたからわかんねえけど。死んじゃってさ。
よく考えればそんな習慣なんか関係なく、おれが先に生まれたんだからおれが兄貴だろ? 守ってやらなきゃいけなかったのにさ、もう遅いよな。死人のためにできることなんて何もねえからな」
そしてぽつりと、「お前が同じ顔してたからさ、兄貴と」なんて小難しい顔で呟いた。「ヤケになんなよ」と続ける。
この男は人殺しに向かって何を言っているのかと、タイラは由良をまじまじと見た。最上などは当然のように『化け物』とタイラを罵った。当然だろう。それを、『ヤケになるな』とは。
「お前は人殺しの肩を持つのか?」と思わず言ってしまう。由良は一度だけ瞬きをして、「じゃあどうすりゃいいんだよ」と嘆いた。
「タイラ、おれはな……お前の生き方が結構好きなんだよ。憧れていたと言ってもいい。だからこそ、お前がこういう手段を選んだことは残念だ。誰を殺そうと排除しようと、それだけで解決する問題なんてないんだぜ」
ため息交じりに由良がブランコを揺らす。タイラは少しかがんで、「そうか」と呟く。
憧れ、と由良は言った。それに近い感情をタイラも持っていたと思う。自分にないものをすべて持っているように見える男。荒木由良への憧憬と羨望を、しかしタイラが口に出すことはなかった。
「なあ、タイラ」
「なんだ」
「お前は悪いやつなのかな」
「俺に聞くなよ」
「おれさ、やっぱ“
何かポケットの中を探しながら、由良は「お前これからどうするつもりだ」と聞いてくる。そうだな、と呟いてタイラは思案した。「あの車に乗って警察署に特攻かけてくるかな。隠すのも、そのために頭を使うのも面倒だ。逃げてまでやりたいこともない」と笑う。自首してどうなるというわけでもないが、とにかくもう煩わしいのは御免だった。その点からいえば、確かに自死というのも一つの選択であるように思えた。
由良はようやくポケットから、何かを出してみせる。「賭けをしないか」と持ち掛けた。その手に握られていたのは、どこか外国製のコインのようだった。
「裏か表か。お前はどっちに賭ける?」
顎に手を当てて、タイラは首をかしげる。いいから、という由良にとりあえず「裏だ」と答えた。よし、と由良はうなづく。「じゃあ、おれは表だ。絵が描いてある方だぞ」と確かめるように言った。一体どういうつもりなのか聞こうとすれば、それより早く由良が口を開く。
「お前が勝ったら、もう好きにしろ。出頭でもなんでも、生きるも死ぬも、全部お前の好きにしろ。おれも今日のことは忘れるし、何も口出ししない。でも、」
「でも?」
「おれが勝ったら、あの車はおれが貰う」
「お前が、あの車を? 車検も通らないボロ車だぞ。荒木家にはもっといい車があるだろ」
やっぱ車検通ってないのかよ、と由良は顔をしかめた。しかし気を取り直してこほんと空咳を一つする。「そしてお前は」と言いながらコインを空中にはじいた。
「おれたちと一緒に卒業しよう、このコインが表なら」
きらきらと光を放ちながら空を舞うコインを見ながら、タイラはビールを一口煽る。いつまでも冷たい。
コンマ数秒。由良はコインを捕まえ、恐る恐る手をどかした。
まるで遥か昔から決まっていたかのように、コインはすました顔で表の絵柄を見せていた。
誰よりも安堵した表情で、「どうだ、初めてお前に勝ってやったぞ。ざまあみろ」と由良は言う。ブランコから飛び降りて、もう一度「ざまあみろ」と叫んだ。
思わずタイラは呆れてしまって、「何泣いてんだよ」と肩をすくめる。「うるせえよ」と由良は雑に自分の目のあたりを拭った。
「おれはお前と違って、無能で何の取り柄もなくて、親の七光りでここまで来たんだ。今だって自分の決めたことに押しつぶされそうで、本当にこれでいいのかって死ぬほど迷ってる。死んだあのおっさんにだって家族はいたかもしれないし、そうじゃなくても惜しむやつの1人ぐらいはいただろう。お前がどうしてそんなに涼しい顔をしていられるのかさっぱりわからない」
何か声をかけようと口を開いたタイラを遮るように、「それでも」と由良は言い放った。
「何もないおれが、初めて自分の手で掴んだのが
由良、と声をかける。少し落ち着いたようで、由良は持っていたビールを一気に飲み干しタイラを真っ直ぐに見た。
「決めた。もう決めたんだ。黙っておれについて来い、タイラ。一蓮托生だ」
それから新しい缶を1本、タイラに差し出してくる。
「おれのダチは誰にも負けねえ。
空が白んでくる。今は何時だろうか。どうやら今日も凍死は免れたようだ。
迷いなく、タイラは由良からビールを受け取った。「当たり前だ」と呟きながら。
この信頼だけは。生涯裏切ることはないだろう。
☮☮☮
瀬戸麗美は空を見上げていた。春を目前として、たとえば桜の木は蕾を日に日に大きくしている。にもかかわらず、あまりにいつも通りの日常だった。今日もタイラの部屋で麻雀をして、ボロ負けした由良はふて寝をし、小腹が減ったなどと言って伊達がコンビニに向かった。
麗美の向かいで、タイラも窓から空を見ている。何とはなしに、「綺麗ね、月」と麗美は呟いた。口に出してから焦る。これではまるで、愛の告白のようではないか。恐る恐るタイラを伺うと、にやにやしながら「なんだそれは。俺を誘ってるのか?」と言ってきた。案外、この男はこういう話に詳しいのだ。
大学4年の春。もう、卒業も間近。冗談でも『そうよ』と言ってしまえばという気持ちはあった。
「……お前さ、俺のこと」
そう、タイラは言いかける。思わず、麗美は「わあ」とも「ぎゃあ」ともとれない奇声を上げた。
「別に? 月が綺麗って言ったんだけど。それ以上でもそれ以下でもないんだけど。自惚れんのも大概にしなさいよね」
瞬きをして、「そうか」とタイラは笑う。
「俺は、月より星の方が好きだけどな」
そう言ってタイラはわざわざ麗美の隣に座り、「月は自分から光らないだろ? 小さくても自分から光ってる星の方が強くて可愛い」などと言いながら指をさした。「ほら、あれなんかは恒星で」と説明されても何ら頭に入らない。
この時、正直に『好き』と伝えていたらどうなったのだろう。それでも言えなかった。断られるのが怖かったからではない、関係性が変わることを恐れたのでもない。たぶん、心のどこかでこの男を、本気で手に負えないと感じていたのだ。そんなことでは、一生手に届くはずがなかった。自分で遠ざけておいて、そんな虫のいい話はない。
やがて帰ってきた伊達が、麗美たちに酒を投げてきた。由良も麗美の奇声で起きていたようで、苦笑いしながら「またダメだったかー」と言ってくる。そういうの、本当にやめてほしい。結構傷つくから。
もうすでに赤ら顔の伊達が、「もう僕たちも卒業ですよ、皆さん。どう大将、単位足りてる?」と言いながら缶酎ハイを開けた。
「では、ここにタイラくんの就職を祈願しまして。カンパイ!」
呆れた顔のタイラが、「余計なお世話だ」と言って酒を煽った。
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