☆大学編 秋

 今日も今日とてタイラの部屋で、伊達たちは駄弁っている。

 荒木由良が床に寝転がって駄々をこね始めたのは何分前からだったか、というかどんな話題からだったか、もはや覚えてはいないが。ちなみに全員シラフであった。


「なんでおれはモテないんだよ、納得のいく答えをくれよ」と由良は言う。「そういうところよ」と麗美が肩をすくめた。


「お前らはいいよなぁ、なんかさぁ、それぞれキャラが立っててさぁ」

「お前がそれ言う??? 正直、由良くんほどキャラ濃いやつ知らんよオレ」


 床を殴りながら「おれなんかさぁ、結局さぁ、親の七光りなんだよ。おれにはそれしかないんだよ、どうせ」と由良は嘆く。「よかったわね、答えが出たじゃないの」と麗美は冷ややかに吐き捨てた。


 荒木由良という男は、普段は根拠のない自信をみなぎらせている変人である。しかし父親に対してどうにも消せない劣等感があるらしく、時折はこうして見るものすべてに対して卑屈になったりする。ちょっと、いやかなり面倒くさい。


「アイデンティティ……おれはアイデンティティが欲しくて生きてるんだ……」

「心配すんなよ、アイデンティティの塊だよお前は。顔を上げて鏡を見てごらん、にっこり笑って見せて……ほらプリンセスの出来上がりよ。涙なんか似合わないわ(裏声)」

「伊達ちゃん相当にキモイぜ」

「なんだとゴラ」


 タイラからも何か言ってくれよ、と振り返れば、タイラは椅子に座ってサンドイッチを食べている。思わず伊達は、「サンドイッチ食ってる~~~~他人ごと~~~~」と嘆いてしまった。タイラは顔を上げて眉をひそめる。

「俺が俺の部屋で何を食っていようと、お前らに関係ないだろうが」

「うわ正論」

 すると由良が起き上がって、「そんな属性盛り男に話を振るな! おれの存在がさらに霞むだろうが!」と叫んだ。もうほとんど言いがかりである。伊達はタイラの代わりに激昂し、「タイラくんだって好きで属性盛ってるわけじゃないのに、なんだその言い方は! 謝れ! 息をするように属性開拓していくタイラくんに謝れ!」と怒鳴る。なぜかタイラに背中を蹴られた。

 ようやく近づいてきたタイラが、由良にサンドイッチを半分差し出す。それを受け取って頬張った由良が、飲み込んだ後で首をかしげた。


「この家の冷蔵庫には卵ともやししかないのか? サンドイッチにこの組み合わせは斬新だな」

「お前を具材にしてやってもいいんだよ」


 気になったので伊達も食べてみる。「なんだ美味いじゃん」と言えば、タイラが指をさして「勝手に食うな、金を払え」と言ってきた。なので伊達はその場に千円札を置き、「夜飯よるめしもお願いしまーす」と宣言する。そこに麗美も千円札を置いて「助かるぅー」と便乗した。「おれも、おれも」と由良が慌てて財布を出す。

 差し出された紙幣を回収しながら、「お前ら人のことを家政夫扱いしやがって」とタイラは毒づいた。それから「何が食いたいんだ?」と聞いてくるので、伊達たちは笑いをこらえて「カレーかな」「かつ丼」「カルボナーラ」と料理名を口にする。タイラはため息をついて、「てめーらのママに頼め」と吐き捨てた。


「で、人の部屋で何を騒いでたんだお前らは」

「そうやって軌道修正してくれるからタイラくん大好き」

「おい伊達、気色悪い」

「お前までそうやって……」


 そうよ、と麗美が口を出す。麗美まで罵ってくるのかと伊達は身構えたが、どうやらそういうことではなさそうだ。「なんでまた彼女が欲しいなんて騒ぎ始めたのよ、あんた」と由良を指さす。

「……学祭があんだろ」

「あるわね、去年もあったし」

「今年は最後だろ」

「あんたに限っては最後じゃない可能性もあるわけだけど」

 一瞬動きを止めた由良が、またその場に寝転がって大袈裟に拗ねた。曰く、「お前ら、おれに対する敬意が足りない。おれはお前らよりも年上なんだぞ。兄貴分みたいなもんだ」とのことである。


 ここぞとばかりに麗美が「じゃあお父様を紹介してください、お兄様。お話をしてみたくてよ」と目を輝かせた。タイラも「兄貴なら金貸してくれ。倍にして返すから」と真面目な顔でそんなことを言う。伊達も便乗して、「アニキ! カナエちゃんと付き合ってもいいですか? 穴兄弟になりやしょうぜ」と提案してみた。“カナエちゃん”とは、由良が夏の終わりに2週間ほど付き合っていた彼女だ。

 由良はスンと冷めた表情をして、「やっぱお前らの兄貴なんてやってらんねえ。あとカナエとは1度もヤってないから」と姿勢を正した。


 とにかく、と由良は空咳をする。

「今年がおれたちの、学生として参加する最後の学祭なわけだ」

「卒業できればね」

「そんな一生モノの大事な日に、このままだと彼女もいないままお前たちと過ごすことになるんだぞ」


 待て、と由良以外の3人で一斉にストップをかけた。

「どうしてオレらがお前と過ごすってことは決まってるんだっつーの」

「そうよ、別に去年もその前も一緒にいなかったわよね?」

「学祭の日に何もやることがないのはお前だけだぞ……」

 ぽかんとした由良が、「え? お前らはなんかやることあるの?」と不思議そうに呟く。あるに決まってるだろ、とタイラが呆れた顔をした。


「なんだよ、何するんだよお前ら」

「サークル活動だよ」

「は?????」


 しばらく呆気にとられていた様子の由良だったが、本当に意味が分からないという顔で「何言ってんの、お前ら。だってサークルならもう入ってるじゃん、今、おれたち4人で」と口走る。「いや、これはサークルじゃない」「お前、本気でサークル活動してるつもりだったの?」「何サークルよ、これ」と口々に言われ、由良は口を半開きにした。

「えっ……じゃあお前ら何のサークルに入ってんの?」と由良が尋ねる。

「オレ、サーフィン~~~。学祭は普通に屋台出す」と伊達は答えた。「食同。ほぼほぼ顔出してないけど、学祭はさすがに人手ないから行かなきゃいけないの。暇じゃないのよ」「俺は映研」と他の2人もあっさり言う。“食同”とは、恐らく食文化研究同好会のことだろう。かなりマイナーなサークルだが、学祭で輝くサークルでもある。“映研”とは、映画研究部のことか。

「つうか、映研って映画撮ってんの?」

「主にそうだな」

「だからお前、演劇部の大越ちゃんと付き合ってたんだな……」

「まあきっかけはそうだったかもしれない」

「なんで別れたんだよ、勿体ねえ。あの子超可愛いじゃん」

「俺のことを“和一くん”と呼びたがるから別れた」

「なんて呼べばいいんだよ……」

 そわそわしていた麗美が、「あんた映画に出てんの?」と聞く。「いや、俺はカメラ」と当然のようにタイラは言った。


「待て待て待て待て」と由良が割って入る。

「お前ら、おれに無断でサークル入ってたの?」などと言ってくるので、「なんでお前に言わなきゃいけないんだよ」と伊達は肩をすくめた。

「だって……だって、さあ……。え、じゃあちゃんとサークルに入ってないの……おれだけ?」

「由良って、私たち以外友達いないわよね」

 今度こそ由良は打ちひしがれたようで、その場にうずくまる。「瀬戸ちゃんもうちょっとオブラートに」と伊達は小声でたしなめた。


 あまりにも由良が落ち込むもので、伊達たちは由良を無視して話をし始める。

「そういやタイラさ、結局実習行ったん?」

「行ったよ」

「そういうのなんで言わないの? 普通話題としてあがらない?」

「別に、お前らもそういうの言わないだろ」

 ふと、麗美が「この中で合同面接とか企業説明会とか行ったやついないの? 私どうしようかと思ってるんだけど」と全員の顔色をうかがう。

「いないだろ、伊達も由良もすでに決まったようなもんなんだからな」

「ほんと腹立つ~」

 苦笑しながらタイラは掃除機を出し始めた。案の定というか掃除を始めたタイラを尻目に、伊達たちはぼんやり茶を飲む。タイラが「邪魔だなこいつ」と言いながら掃除機で由良をつついていた。


 ようやく顔を上げた由良が、「お前らもしかしておれのこと嫌い?」と呟く。「大好きに決まってんだろ」と伊達は由良の肩を叩いた。


「俺は学祭当日は機材を運ぶだけだから、終わったらお前と回ってやるよ」とタイラが仕方なさそうに言う。

「オレも午前中の当番だからさ、午後からなら由良くんと遊べるぜ」と伊達も由良を慰めた。

「私も適当に抜け出してきてあげるわよ、仕方ないわねおぼっちゃんは」と麗美まで同情の色をにじませる。


 対して由良は、「同情するなら彼女をくれ……」とまだ気落ちしている様子だ。しかしそこは荒木由良という男。いきなり立ち上がって、「おれは学祭までに彼女を作る」と言い出した。

「お前らに可哀想な目で見られながら最後の学祭を楽しめるかっての。おれは彼女を作る。絶対だ」

「あー……そう……」

「そして彼女ができなかった暁には! なんだっけ、今年くる芸人。あの一発屋の。あの芸人のライブを乗っ取ってバンド演奏する」

「なんで?」

「ちなみにおれは楽器はできないから、そうなった時はよろしくな」

「なんで??」

 掃除機の音が聞こえる。どうやらタイラは完全無視をすることに決めたようだ。麗美も聞かなかったことにしている。伊達だけが、「いやお前だけの問題だろ、オレらを巻き込むな」と顔をしかめた。「なんでだよ、友達だろ。おれの悩みはお前たちの悩みだろうが」と由良は驚いたような顔をしている。なんだその逆ジャイアン理論、と伊達は呆れた。

 深く深くため息をついて、「学祭までに由良が女を作るなんて無理ゲーだろ。カナエちゃんだって奇跡だったのに」と呟く。どうせやることになるのだろう、バンド演奏。「それはそれで面白いか」と伊達は無理やり自分を納得させた。

 しかしタイラや麗美はそうもいかなかったようで、「ふざけるな。わざわざ呼ばれて来ている芸人に失礼だと思わないのか」「こっちの就職だって決まるもんも決まらないわよ」とあくまで難色を示す。

「うるせえな、じゃあその芸人には話を通しとくよ。そういうの得意だからうちは」

「お前そのスタンスだと一生親の七光り枠だぞ、大丈夫か」

「ついでにお前らの就職も何とかしてやろうか?」

「あんたが上の立場にいるって考えるとゾッとするからやだ。でもお父さんは紹介して」

 由良は鼻を鳴らして、「どいつもこいつも親父に尻尾振りやがって」と毒づいた。それを無視して、タイラが「バンドとか言ってるが、楽器のできない由良と音取り壊滅的な麗美がいて、なんとかなるものなのか?」と怪訝そうにする。瞬間、麗美が顔を赤くした。

「えっ、瀬戸ちゃんってリズム感ないの? ドレミちゃんが愛称なのに?」

「うるさいんですけど!? は? マジでうるさい。リズム感ぐらいあるわよバーカ」

 きょとんとした顔のタイラが、「メトロノームを横に置いて指揮をしたお前が?」と呟くので、麗美に思い切り蹴られた。面白かったので、「ちょっ、その話詳しく」と伊達は茶々を入れる。


「高校の合唱コンクールで、あまりにも音を外してくるもんだからこいつ指揮になったんだけどな」

「それ以上やめなさい! 本当にやめろ!」

「リズム感がダメで、ギリギリまで一緒に練習したんだがやっぱりどうしてもダメで、本番もメトロノーム持ち込んで失格になった」

「ダメって2回も言わないでくれない?」

「まあ誰も本気でやってなかったから、失格になってから全員でカラオケ行ったよな。誰よりも盛り上がっていたよ、俺たちが」

 麗美がふて寝し始めたのを尻目に、「合唱コンクールって、お前も参加したの? お前がその他大勢と混ざって大人しく歌っている姿が浮かばないんだが」と由良は失礼なことを言う。これを由良が言うというのが一番失礼なところである。思った通りタイラは気分を害したようで、「俺はお前と違って空気が読めるからそれぐらいできる」と反論した。

「まあ、その時は伴奏だったんだが」

「は? お前、ピアノ弾けんの?」

 なぜかタイラは黙った。由良は嬉々とした表情で、「そんな、『クソ、口が滑った』みたいな顔しても無駄だぞ。ピアノとか弾けるやつがいるならバンドは安泰だな?」と煽る。タイラは苛立って髪をかき上げながら、「何を喜んでいるか知らんが、お前は女を作る気がないのか?」と煽り返した。


 事実、自分で言い出したくせに由良には彼女を作ろうという積極的な姿勢が見られなかった。恐らくそれよりもバンド演奏の方が面白いと判断してしまったのだろう。自分で口にした思い付きに、本人が乗せられてしまうというのは荒木由良にはよくあることだった。


 当時流行っていたロックバンドの、誰も知らないようなデビュー曲を演奏することに決めた。

 タイラも麗美も、なんだかんだ言って由良に甘い。由良が『やる』と言えば由良のためにベストを尽くすことは決定している。由良がそうさせるのか、タイラと麗美の元々の性分なのか。伊達はそこに便乗するだけなのだが。

 ただ、とにかく麗美の扱いが難しかった。由良であれば歌は悪くなかったが、麗美は歌をうたわせても楽器をやらせてもあまりにも不器用で。そんな麗美につきっきりでドラムを教えこんでいるのがタイラだ。リズムを刻むとかそういうことを言っているのではない。『いいところでシンバルでも叩いておけ』と、タイラが言っているのはそれだけだ。その指示を麗美は「曖昧にすぎる。曲の開始から何秒のところで叩けって?」と半ギレで聞き返している。それに対するタイラの返答はこうだ。「2分34秒のところと4分53秒のところだ。わかるか?」である。心底嫌気がさしたようで、麗美はしばらくタイラの家に寄り付かなかった。


 このまま仲違いされても困るからか、珍しく由良がタイラと麗美を昼飯に誘った。もちろん伊達もそれについて行ったのだが。

 由良が、タイラに「お前飯食ってんのか?」と聞きながら定食を頼んでいる。「食ってるよ」とタイラは言うが、確かにちょっと痩せたようにも見えた。

「お前んち、電話止まった?」

「電気もな」

「悲惨だなオイ」

「よくあることだ」

 よくあることか? と由良は怪訝そうな顔をする。まあ、荒木由良には一生縁のない状況だろう。なぜかタイラは笑って、「別にそんなに不便ではないんだけどな」と囁く。そんなことよりも、と麗美のことを見た。

「お前、ドラムの練習してるのか?」

 麗美はといえば不機嫌そうに「私だってそんなに暇じゃないんだから」と膨れ面をする。そうか、とだけタイラは言った。


 しばらく、気まずい空気が流れる。伊達は由良を盗み見て、『なんとかしろよ、言い出しっぺなんだから』と念じた。しかしそれがよくなかったのか。荒木由良という男はこういう時、迷いなく地雷を踏むことに定評がある。

「まあ、多少拙くても大丈夫だよ。雰囲気でごまかせるだろ」と、由良は言った。タイラと麗美が、同時にテーブルをたたく。


「そんな心構えでやっていたのか? 他人の時間を奪っておきながら、雰囲気でごまかせるわけないだろう。馬鹿野郎が」

「あんた、私のこと馬鹿にしてるわけ? やるって言ったらやるっつうの、勝手に妥協しないでくれる? ほんとムカつく」


 呆気にとられた由良が、「ごめんね……」と呟いた。しかしタイラと麗美は止まらない。

「そう言うんならちゃんとやれよ、お前」とタイラは麗美に食って掛かる。やるわよ、と麗美も眉をひそめた。

「やるけど、あんたの指導が気に入らない」

「なんだと? 人がせっかく教えてやってるのに」

「その『教えてやってる』感が嫌なわけ。ちゃんとやれちゃんとやれって、こっちだってちゃんとやってるじゃないの。本当に嫌。あんただってできないことの1つや2つあるでしょう」

「俺にできないことなどないが?」

 麗美は歯ぎしりをする。珍しく由良も頭を抱えていた。苦笑しながらも、伊達は『タイラらしいな』と思う。この男はとにかく、自分にも他人にも厳しすぎる。自分で定めた完成度から一歩も妥協ができないようなところがあった。


「まあまあ」と伊達は麗美をなだめる。「何なら、ギターにすればいいよ。そしたらオレが教えてあげられるからさ」と肩をすくめて見せたが、麗美はなおのこと不機嫌そうに「あんた、私がギター弾けるようになるって本当に思ってる?」と睨んできた。正直、思ってはいない。というかドラムもどうかと思う。


 頭をかきながら、「タイラもさ、もうちょっと手心をさ」と伊達はタイラを見た。タイラはぼんやりとどこかを見たまま「ああ……」と呟く。

「え? 近年まれにみる生返事じゃん。どしたの」

「いや別に……なんでも……」

 どこを見ているんだよ、とタイラの視線をたどれば、そこには定食屋の小さなテレビが置いてあった。いい女でも出ているのかと注視するが、ただのニュースのようだ。キャスターも男である。


『昨夜未明、平瞳タイラヒトミ受刑者が独房で倒れているのを発見』『死亡が確認されました』『自殺とみられています』


 うわ、と伊達は声を上げてしまった。事件があったのが、大学に比較的近い刑務所だったからだ。「管理どうなってんだよなー」と笑う。

 しかしすぐに、その場の異様な空気を感じた。由良と麗美が、タイラの方を見ている。タイラはといえば、乏しい表情で瞬きをしていた。

 たいら、ひとみ。そう小さく呟き、伊達は引きつった顔でタイラに「身内か?」と尋ねる。その無神経な言い方を、すぐに後悔することとなった。


「俺を産んだ女だ。俺を産んだ女が、俺に何の断りもなく死んでる」


 そう、タイラは答える。伊達は二の句が継げず、ただその様子を見守った。

 しばらくするとタイラは、何事もなかったかのようにかつ丼をかきこんだ。ため息交じりに、「まあ確かに、電話が止まっていると不便なこともままあるな」と言うのが聞こえた。



 それから1週間ほど、タイラは大学に姿を現さなかった。母親が死んだのだから当たり前ではあるが、気まずくて伊達たちまで会わなくなっていた。そうこうしているうちに噂は大学内に広がっていく。そもそもタイラの母親が夫殺しで刑務所にいることは伊達ですら知らなかったが、このタイミングでタイラが大学を休んだこと、そして記者がうろつくようになったことで噂はほとんど真実となっていた。平和一は本人のいない間にすっかり『自殺した殺人犯の息子』になっていたのである。事実であるからして伊達たちにも噂を止めることができず、悶々とした日々を過ごしていた。


 タイラが大学に戻ってきたとき、伊達はいつものようにさりげなく「よお、久々だな。単位大丈夫か」と声をかけた。するとタイラもごく自然に「俺はお前たちとは違うからな。1週間ぐらいで卒業が危ぶまれたりはしない」と返してきた。その瞬間に伊達は自分でも引くほど感動してしまって、泣きながら「おかえり」と言った。タイラからはエイリアンを見る目で見られた。

「何やってたんだよ、葬式か?」

「殺人犯だぞ。葬式なんかやって、誰が来るんだ。色々、な……手続きがあったんだ。まあ、俺の人生で最も無駄な1週間だったのは間違いない」

 やれやれという風にタイラはそんなことを言った。

「どいつもこいつも、場を和ませようとしているのか俺の名前をいじってくるのが最悪だったな。『平和って感じでいいね』とか。黙ってろと思うだろ」

 伊達は思わず笑って、「何事もTPOってもんがあるよなー」と小首をかしげる。「どんな時どんな場所でも面白いもんじゃないと思うけどな」とタイラが不満そうにした。


「オレはお前の名前、カッケーと思うけどな」

「馬鹿にしてんのか」

「だって和一って、なんかニッポンイチみたいな感じでかっこよくね?」

「馬鹿にしてんだろ。なんだその桃太郎みたいな触れ込みは」


 噴き出して、伊達は「いいじゃん桃太郎」と肩を震わせる。

「お前、桃好きだろ」

「別に好きじゃないんだが?」

「嘘つくなよー」

 ふっとタイラは表情を緩めて「まあ、桃から生まれた方が幾分かマシだったかもしれないな」と呟いた。伊達はそれをじっと見て、「それに平和一って麻雀強そうだろ」とうつむく。

「あっ、さては名前でドーピングしてやがるな?」

「名前で麻雀ドーピングってどういうことだ」

「お前さー、だってあんなに連勝するのおかしいからー」

 言いながら伊達は腕時計を見る。「やべっ、遅刻だ」と言って足を速めた。「じゃあな、タイラ。今度家行く」と手を上げれば、「いや来るなよ」と眉をひそめられる。


 ちょっと歩いたところで、「おい」と呼び止められた。振り向けば、タイラはまだそこに突っ立っている。

高歩タカユキ

「は?」

「俺は、その名前を付けたお前の両親の方が好きだけどな」

「なんだよ、親かよ。オレのことは?」

「お前のことはたいして」

「なんだこの野郎、覚えとけよ」

 くっくっ、とタイラは喉を鳴らして笑った。「冗談だよ」と言った声は柔らかかった。

 今度こそ伊達は肩をすくめて、先を急いだ。



 タイラが大学に来るようになって、記者たちの猛攻は激しさを増していた。渦中の人間にならどこまで厚かましくなってもいいという法律があるのかと疑うほどだった。

 ただ、報道はほとんど刑務所の管理体制を批判するものだ。タイラからは母親への思いなどを引き出したいだけのようで、表面上はかなり同情的な者が多かった。そしてタイラも、それを適当にあしらっていた。しかし中には、17年前の事件を――――タイラの母親が夫を殺した事件を掘り返す記者もいた。

 その一人が、畑中という記者だった。


 畑中はそのしつこさにおいては他の追随を許さなかった。最初は気のいい親父のふりをして、「ちょっと話を聞かせてくれ。忙しいところすまんね、飲み物でも飲みながら」と本当に数分話をして帰るような記者だったので、まあ他の連中と比べればと伊達は思っていたのだが。

 そのうち、かなり頻繁に顔を見るようになった。タイラの肩を抱きよせて、まるで昔からの友人だったかのように話しているのも見たことがある。

 伊達も、畑中とは話したことがあった。「和一くんってさ、」と畑中は言った。「和一くんって、どうなの? なんかさ、君たちのほかに友達とかいないの? ちょっとやばいなーみたいな人と知り合いだったり。気になるでしょ、そういうの」と。

 伊達はその時はっきりと、不快感を持った。あまりにも馴れ馴れしすぎるし、引き出したい言葉が見え見えだったからだ。

「知らないですけど。いないんじゃないですか、あいつ結構マジメだし」

「あ、そうなんだ! どういう感じでマジメなの? 几帳面とか、綺麗好きとか、ちょっと潔癖かなとか」

「はぁ? いや、あの、」

「でもマジメっていうのはちょっと意外だなぁ。彼、高校の時はしょっちゅう喧嘩してたって聞いたからさ。大学に入ってからはそういうのないの? ちょっと短気でキレやすいな、とか」

「あの、」

 右手を前に出して、伊達は畑中の言葉を制した。


「別にあいつが起こした事件じゃないっすよね。関係ないことばっか聞いてどうするんすか」

「……えっ? 彼の事件だよ、彼の母親が死んでるんだから。家族なのに関係ないっていうのは薄情だなぁ。ちゃんと血を引いてるわけだからさ」


 殴ってやろうかと思ったが、畑中は「それに」と興奮した面持ちで続ける。

。そもそもが」

 どういう意味か聞こうとしたが、畑中は慌てた様子で「いやぁ、和一くんは友人に恵まれてるねえ。困っちゃったなぁ」と言いながら去っていった。塩を撒きたい気分だった。


 タイラですら、畑中のことは「誰よりも厄介」とこぼしていた。



 由良から声をかけられ、伊達と麗美はタイラの部屋に行くことにした。冷えたビールをいっぱいに抱えながら。

 ドアを開けたタイラは、少し肩をすくめて「どうしたお前ら、そんなに暗い顔して。葬式のあとか?」と尋ねる。「葬式だったのはお前だろ」と由良が言った。「通夜も葬式も執り行ってない、金がないしな」と言ってタイラは伊達たちを部屋に入れる。

 ビールを飲みながら、由良が「どうなんだよ、お前」と尋ねた。「曖昧すぎて答える気にならないんだが」とタイラは笑う。

「無理、すんなよ」と由良は顔を真っ赤にしながら早口で言った。それを見たタイラが腹を抱えて笑う。

「人がせっかく気を遣ってやってるのに、なんだお前笑いやがって」と由良が憤慨した。「慣れないことはするな」とタイラは肩をすくめる。


「気にすんなよ、お前らに関係ないんだから」

「関係ナイってなんだよ……」


 缶ビールを啜って不満そうに由良はうつむく。伊達も麗美も、口を挟めないでいた。

「もう2週間で文化祭だろ」と由良が話を変える。「お前、ろくに練習してないけど大丈夫か?」と真面目な顔をした。タイラは目を丸くして、「さすがにそこは気を遣えよ。俺が今どういう立場だか分ってるか?」と聞き返す。「お前が自分の立場をわきまえるやつだとは思わなかった」と由良は仏頂面を崩さなかった。


 タイラが目を細め、軽やかに笑う。

「そうかぁ? そんなことないだろ。俺はわきまえてきたぞ……ずっとだ」

 その瞳が、光の反射で少し白っぽく見えた。「何が言いたいんだ」と由良が言えば、タイラはすっと目を開けて「お前たちに話すことは何もないな」とそっけなく答える。

「てめえ、さっきから何だよその言い方は」

「お前は本当に、面倒だよなぁ……由良」

「バンド、やらねえのかよ」

「悪かったな」

 由良はムッとした様子だったが、しかし何とか思い直したようで「じゃあ仕方ないな」と咳払いした。

「今回はパス、だな」

「ん? お前たちはやれよ。俺と関係ないだろ」

 今度こそ由良は怒りを滲ませて、タイラをにらんだ。

「関係ない関係ないって、お前何なんだよ。関係ないことないだろ」

「お前たちだけじゃ不安か? それとも同情か」

 かしゅっ、と音を立ててタイラは缶ビールを開け「まるで友達みたいだな」と笑った。


 鈍く重い音がした。由良が、まだ開けてもいない缶ビールを壁に投げつけた音だ。タイラはそれを眺めて、「壁が傷ついたぞ、どうしてくれる」と眉をひそめる。

「友達だろうがよ」と、由良は吠えた。


 とっさに、伊達は由良の肩をつかんで座らせる。「落ち着けって」と言えば由良はすでに後悔気味の顔で腰を下ろした。麗美がタイラに、「じゃあ、あんたにとって私たちはなんだったの」と尋ねる。

「友達じゃないなら、何だと思ってたわけ?」

「冗談だ……そうカッカすんなよ。俺だってお前たちのことはダチだと思ってるよ。だから言ってんだろ、勝手にやってろって。俺に構ってると貴重な時間を無駄にするぞ」

 そう言って、タイラは煙草を1本くわえた。ライターを手元で遊ぶ。そんなタイラを真っ直ぐに見て、由良が口を開いた。


「正直ムカつくよ、お前」


 タイラが煙草に火をつける。


「ムカつく? 『気味が悪い』の間違いだろ」


 歯ぎしりをする由良の腕を、伊達は強引に引っ張った。これ以上タイラと由良のどちらに発言させてもこじれていきそうだった。麗美も、由良の背中を押して部屋から出す。

 外に出た由良は、開口一番「バンドやるぞ」と叫んだ。

「はぁ? 結局やるの?」

「やるんだよ! ぜってーぜってー成功させる」

 

 呆れた顔の麗美も、何か言葉を飲み込んで「わかったわよ、やるってば」とため息をついた。なんだかその気持ちが、伊達にもわかるような気がした。



 

 それからタイラの部屋に行くことはなかったが、キャンパス内では彼をよく見かけた。畑中と共に歩いているところも、よく見た。

 あるときタイラと畑中が並んで歩いているところに行き合ったことがある。とっさに隠れてしまい、話を盗み聞きする立場となってしまった。

 2人は口論をしており、なぜか伊達が隠れている物陰のちょうど裏で立ち止まる。勘弁してくれよ、と思いながら伊達は動けずにいた。


「記事は出した。君にもオーケーをもらっていた」

「オーケーなんか出してないだろ。こっちはあんたとろくに喋ってないんだ」

「いいや、君は私の原稿を読んで『これでいい』と言ったし、記事は出た。もう出たんだ、ごちゃごちゃ言うには遅すぎる」

「そもそも記事の内容が見せてもらったものと違う」

「確かに追加はしたけど、君に関する部分じゃなくて君のご両親に関することだ。そこら辺は好きにしろって君が言ったんだろ」


 それに、と畑中は声を潜める。「全部事実だろう?」と。

「私はねえ、君のお母さんが亡くなる前から君たちのことを知っていたんだよ。追いかけていた。私にしてはしっかり裏取りして書いた記事だ。いやぁ、光栄だなぁ。こうやって、ようやく君たちのことを記事にさせてもらえたなんて」

 瞬きをして、タイラが髪をかき上げた。あれは苛立った時の癖だ。本人は知らなくとも、伊達たちは知っている。まずいな、と思いながらも伊達はその場で様子を見ていた。

「本当に、俺が父親を殺したと? まだ5つくらいの子供が?」

「そういうことになる、君が真実を話さない限り。なんせ今では、君しかそれを知る人はいないし。君のお母さんが生きているときに話を聞きに行ったけど……なんだか彼女の話って聞いてると頭おかしくなりそうじゃない?」

 なぜだかタイラは目を丸くして、「やっぱりそうか? 俺がおかしいのかと思ってた」と肩を震わせて笑う。畑中も予想外の反応だったようで、「う、うん。そうだね」と同調した。

 ひとしきり笑った後で、タイラは目を細めたまま畑中を見る。「なかなかご慧眼でいらっしゃる。こちらこそ光栄だよ、そんなに俺たちのことを追いかけていてくれたなんてな」と肩をすくめた。

「であれば俺も、それらしいことを言っておこうか」

「なんだい……?」

姿。どうだ、嬉しいか。いいファンサービスだろ?」

 畑中が、思わずという風に「あはっ」と引きつった顔で笑う。「いいジョークだね、最高」と声を震わせた。伊達もすっかり油断していた。そこまで悪い雰囲気ではなかったからだ。

 しかしここまで聞いてしまったからには黙っていられない。ええい、と勢いをつけて踏み出す。


 2人の姿を視界に収め、タイラの手に雑誌のようなものが見えた。「伊達?」とタイラは訝しげな顔だ。伊達はそのままの勢いでタイラの手から雑誌を奪った。

「うわっ、なんか面白そうなもん落ちてんな」

「? いや。落ちてはいないんだが」

 ペラペラと適当にページをめくり、「わあなんだこれ」と大袈裟に声を上げる。

「つまんねー、つまんねー。マジでつまんねーなコレ。こんなつまんねー文章書けるやつ、逆に尊敬しますね。会ってみたいなぁ、こんなつまんねー記事書くやつ。オレのダチなんか生きてるだけでくそ面白いから。見習ってほしいわホント」

 言いながら雑誌を投げ捨てた。しかし思い直して、「こんなもん道に捨てたら道が可哀想でしょうが、バーカ!」と叫び拾う。「いやお前が捨てたんだろ、今。情緒不安定か?」とタイラに言われた。

「おら行くぞ、タイラ」

 ガッとタイラの腕をつかんで、伊達は歩き出す。「どこにだよ」とタイラは辟易としていた。


 お前、と伊達は振り向いてタイラを睨む。

「ああいうのやめろよ。声、録られてたらどうすんだっつうの。立派な脅迫だぞ」

脅迫そのつもりだったんだが?」

「お前さぁ~~~」

 もどかしい思いでタイラの肩を殴った。タイラは「いてえ」と素直に痛がる。「どんなデマ書かれたか知らねーけどよぉ」と顔をしかめてやった。タイラはといえば、「別にデマじゃない」と呟いている。

「別にデマじゃないんだ。あの男は本当によく調べているよ」

「は? お前のその『敵ながらあっぱれ』みたいな精神マジで何? ハートが強すぎない?」

 気を使っている自分たちが馬鹿みたいだ。


 頭をかきながら、伊達はため息をつく。「来週、」と話を変えることにした。

「学祭だろ」

「そうだったか」

「とぼけてんなよ。来るのは来るんだよな?」

「そうだなぁ」

「来いよ、絶対」

 まあな、とぼんやり言うタイラに「絶対だぞ」と念を押して伊達は踵を返す。タイラは追いかけてこなかった。そりゃあそうだ、あいつが自分から追いかけてきたことなど伊達の記憶にはない。

 だからこそ、絶対に来てもらわなければ困るのだ。意地の張り合いでなら、まだ勝機はある。少なくとも荒木由良は、そう思っているようだった。


 持ち帰った雑誌を、今度こそちゃんと読むためにめくる。畑中が書いた記事はすぐに見つかった。

 17年前に起きた事件のことのようだ。家庭内の殺人。夫殺しの妻。その事件について、不可解な点をいくつも述べている。当時事件に携わっていた刑事や、獄中の妻と仲が良かった受刑者から話を聞いているらしく、それなりにもっともらしい記事になっていた。ハッキリとは断言していないが、当時5歳であった彼らの息子に焦点を当てているようだ。

 5歳の子供が父親を殺したのではないかという話は、確かに衝撃的で面白いものだと思う。それが、自分の友人の話でなければ。


 歯軋りをしながら雑誌を閉じた。「……つまんねー。もっとボロクソに言ってやればよかった」と呟く。しかし心のどこかで『デマじゃない』というタイラの言葉が引っかかった。デマじゃないならなんなのか。

 悩んだが、瀬戸麗美には話した。麗美はすでにその記事を知っており、「低俗よね、あの雑誌」と眉をひそめたが記事の真偽については触れなかった。



 学園祭の当日、出店で客をさばきながらも伊達は緊張していた。サークルメンバーには申し訳ないが、午後の方が伊達にとっては本番だった。

 麗美も由良も同じだったようで、ずっと伊達の後ろで焼きそばを食べていた。由良はともかく、麗美はやることがあるだろうに。『適当に抜け出して』とは言っていたが、抜け出しすぎじゃなかろうか。「もう私だって普通の目じゃ見られないもの、いいのよ」と本人は言っていたけれど。


「伊達くんはすごいわよね、誰とつるんでいようと周りからドン引きされたりしないものね。元々の人望? 私、伊達くんのこと結構尊敬してるのよ」

「じゃあ付き合う?」

「そういうところも嫌いじゃないけど、オバケで腰抜かす男はちょっと」

「なんでだよぉ、頑張るってぇ」


 勝手に煙草を吸いながら、「お前らのそのやり取りも飽きたな」と由良がため息交じりに呟く。「タイラがいないと、こんな突っ込みすらおれがやる羽目になる」と嘆いたりもした。

「つーかお前、こっちが必死にお客様の相手してるときに煙草吸うなよ。人が来なくなるだろ」

「あ? マジで? ごめん消す」

「由良くんって常識を知らないだけでめちゃくちゃ素直だよな」

「それかなりヘコむ評価だぜ」

 ぷっ、と麗美が小さく噴き出す。「マジか、おれそんな感じか」と本気で由良は落ち込んでいた。


「というか、芸人に話を通すどころか芸人のライブ自体がなくなってるんだけど。荒木家こわくない?」

「他の舞台を斡旋したんだよ、良心的だろ」

「で、うちの大学では素人たちのロックフェスティバルなんて開催させるわけ?」

「いい案だろ。お前たち、あんまり浮きたくないっていうからさ」

「やっぱ荒木家こわ」

「言っておくが、今回はおれがちょっと教授らの小耳に挟ませただけで、家からの圧力なんて」

「それだけでここまでの影響力があるから怖いって言ってるんですけど」


 うんざりした顔をして、「なんかもう何もかも嫌になってきたな」と言い出した由良に、「あんたの人望もあるわよ、もちろん」と麗美が慌ててフォローする。いや人望ではないだろ、と伊達は思ったが黙っていた。

 こんな時タイラであれば『自分で言い出したことに責任を取らないやつはクソ。ここまで大事おおごとにしたのはお前なんだから、冗談でもそんなことを言いやがるな』と冷静に言うだろう。そうわかっていても伊達には言えない。言葉の価値というのは、発信者の生き方に大きく依存する。


「まあ、もう今更キャンセルなんてできねえし。楽しんでやればいいんじゃね?」と、これが精一杯だ。



 体育館には据え置きのグランドピアノがあるだけ。もちろんそんなもの使うバンドはない。楽器は各自持参することになっている。

 正直、他のバンドの演奏なんて聞いちゃあいない。次だぞ、と由良が言う。麗美なんかほとんどパニックになっていた。

「ねえほんと嫌。もう絶対に嫌。二度とこんなことやりませんからね」

「安心しろよ、やるチャンスもない」

 思わず伊達は笑って「確かに~~~」と軽い調子でうなづく。

 確かに、もうこのような機会はないだろう。こんな馬鹿をするのは、後にも先にも今年だけだということだけはわかる。なんだかんだいって貴重な体験だ。なんせ伊達たちはほとんど音楽経験がなく、音楽に対する思い入れもそれほどなく、ただ自分たちの思い出作りのためだけに大学を巻き込んでこんなことをしているのだから。


 伊達たちの前の組が終わった。ちょっと小走りでステージに上がる。由良はにやにやしていたし、麗美もどこか仕方なさそうに笑っていた。

 司会らしき学生が、「バンド名は」と尋ねてくる。面食らった様子の由良は、「バンド名?」と聞き返していた。さっぱり考えていなかった。

「えーっと、バンド名か……そうだな……」

 いきなりこちらを振り向いた由良が、「おれたち結成のきっかけはなんだったんだっけ」と聞いてくる。「あんたが彼女に振られたからじゃなかったっけ?」と麗美は顔をしかめた。少し考えて伊達は、「確か最初は、トーストに何載せたら美味いかみたいな話だっただろ」と答える。なぜか嬉しそうな顔をして、由良が「じゃあ、トースターズでお願いします」と言った。


 うわ、だせえ。


 麗美がドラムスティックを4回鳴らす。そうしたら伊達はギターの弦を弾いて、音楽が始まる。何十回と練習した。それを伊達たちは不自然なほどまごついて、ワンテンポ遅れる。由良が歯を見せて笑った。

 演奏は最悪。ドラムはリズムを刻まないし、ギターも弦を掠ってるだけで音が鳴ってない。ボーカルだって見事に音を外しているし、もはや何の曲だかわからない。


 ブーイングが聞こえる。でも由良は笑ってる。だから伊達も笑ってしまったし、麗美だって案外気持ちよさそうに笑ってた。わかるよ。何かぶっ壊すときって楽しいもんな。


 我ながら本当にひどい演奏だ。「時間の無駄」と罵られても仕方ない。それでも伊達たちは、この一生に一度の馬鹿を自分たちのためだけに楽しむと決めていた。


 だから、早く────


 まともに楽器を鳴らしていれば聞こえないはずの足音が聞こえた。走ってきている。体育館にその全力の足音は、少なくとも伊達のギターよりは響いていた。

 足音はステージにのぼり、伊達たちの後ろで止まる。


「やめちまえ、聞けたもんじゃない」


 その声が聞こえて、由良は悪戯が成功した少年のような顔で振り向いた。「……な、言ったろ?」と唇だけ動かす。

 平和一が、息を切らし汗を流しながらそこに立っていた。


『おれらがあんまりにも酷い演奏してたら、あいつは絶対来るぞ』『見てらんなくなってさ、ブチ切れて来るぞ』『あいつのことはな、イライラさせたもん勝ちなんだよ』


 最初に作戦を聞いた時にはあんまりだと思ったが、まあこんなタイラの顔が見られるんなら乗っかった意味はあったな。そうほくそ笑んで、伊達は「おせーぞ!」と声をかける。「早く準備しなさいよ、次に遅刻なんてしたら許さないわよ」と麗美も怒鳴った。

「おれたちはお前がいなきゃ、こんなザマだ。どうだ、わかったか?」と、妙に胸を張って由良が言う。まったく胸を張るようなことではない。

 ようやくおびき出されたのだと気づいたらしいタイラが、『クソ』という顔をしながらグランドピアノの前に座った。


 ざわつく観客の前、堂々と麗美がドラムスティックを鳴らす。仕切り直しだ。また違う意味でブーイングが起きたが、気にしない。人生、大抵のことは仕切り直しで何とかなる。

 ギターとピアノが同時。今度は完璧なタイミング。前奏の長い曲ではない。すぐに由良の声が乗る。

 ブーイングが止んだ。由良は、歌だけは上手いのだ。またざわつく。今日はずっとざわつかせている。優越感。

 麗美のドラムも力強く、リズムも完璧だった。当たり前だ、死ぬほど練習してた。


 1曲が終了する頃には、会場はかなりあたたまっていた。「最初の茶番はなんだったんだ」と怒るやつもいたし、面白がって「もう1曲」と煽るやつもいる。

 調子に乗った由良が、何か曲名をほざいた。2曲目に入ろうとしている。それは候補曲だったがボツにした曲だ。練習など、1度や2度くらいしかしていない。

 まったくあの馬鹿、場の雰囲気に流されやがって。伊達は小さく舌打ちする。何より麗美へのフォローが追いつかない。

 するとタイラがピアノから離れ、小柄な麗美を抱え込むようにしてドラム台の前に座った。タイラが麗美の耳元で何か言う。麗美は顔を真っ赤にしながらうなづく。タイラは、一瞬目を閉じて微笑み────唇を動かした。それは信じられないことに、伊達の位置からは『ありがとう』と言っているように見えた。


 麗美の代わりにタイラがドラムスティックを握っている。バスドラムだけ、麗美が耳元で囁かれながら叩いているようだ。「よかったね、瀬戸ちゃん……」と伊達は妙に感動してしまって、ギターを弾く手に熱がこもった。

 由良はもうすっかり興奮してしまっているようで、右手を高く掲げている。


「お前ら、ステージに上がってこい。今日は一生に一度だ、二度とねえぞ。こんな茶番でぐらい、全員主役になろうぜ」


 ああ、もう、めちゃくちゃ。


 面白がった調子のいいやつらが、本当に壇上にあがってくる。比較的有名な曲だったからか、大合唱が始まった。ペースが乱れていく。それでもタイラのドラムは、生真面目なほどに正確にリズムを刻んでいた。笑ってしまうくらい、完璧だ。

 教授陣の呆れた顔が見える。成人したが伊達たちは未だ学生であり子供だった。一体いつから自分たちは大人になるのか、さっぱりわからない。


 中学の時にやったキャンプファイヤーを思い出した。それと同じ熱狂だった。


 拍手なのかなんなのか、最後には大きな声と音が聞こえた。ふと、由良が気まずそうにタイラを見る。

「仲直りしようぜ…………タイラ」

 そう言って由良は拳を突き出した。

 いつものタイラであれば、『喧嘩をしていた覚えもないが?』なんて飄々と言うだろう。しかしタイラは、非常に珍しい表情────バツが悪そうな、照れくさそうな顔をして────拳を合わせた。


「楽しかったよ、久しぶりに」

「だろ? お前もおれたちがいなきゃダメだな」


 タイラは呆れた顔をしたが、しかし諦めたように肩を竦めた。



 学園祭も終わり、秋は深まっていく。麗美は就職先が見つかりそうだと言っていた。

「なあ、タイラ」

 そう呼びかけると、タイラは目を細めて伊達を見る。タイラの部屋のベランダだ。

「オレっち、親父の海の家を貰ったんだけどさ」

「そんなこと言ってたな」

「でさー、あの店をさー、夏以外はフィッシングとサーフィンの用具専門店にしようと思ってさー」

 そうか、と煙草を吸いながらタイラは呟く。「お前サーフィン好き?」と聞いたが、タイラの反応は思わしくなかった。概ね『やったこともないしやりたいと思ったこともない』というようなことを言う。

「じゃあ釣りは?」

「釣り、か。よくやるよ」

「え? ガチ釣り? サバイバルフィッシング?」

 それ以外に何か? という顔をするタイラに、伊達は苦笑した。


「釣りはいいぜ、釣りは。落ち着くしさ」

「釣れたら食えるしな」

「お前はそればっかり」


 くすくす笑いながら、伊達は煙草を潰す。ふっと軽く煙が消えていった。

「お前はさぁ、お前たちはさぁ、オレの知らない街から来て、オレの知らない街に帰っていくんだろ」

「まあ、そうなるな。何だかんだいって、あいつらも街に帰るらしいからな」

「オレはさぁ、ちょっと遠くにいるわけだ」

「どうした、寂しくなったのか?」

 まあねー、と伊達はおどけて見せる。卒業後には少なくとも、伊達だけは由良たちから離れることになるわけだ。寂しいというより、お前らばっかりずるいなという思いはあった。

 それでも。


「オレはちょっと遠くにいるわけだからさ、もしそっちが嫌になったら来いよ。なんかどういう事情だか知らねーけど、お前らには避暑地の1つや2つ必要なんじゃねーかなってオレっちは思うわけだ」


 ふう、っとタイラが煙を吐き出す。それからくつくつと喉を鳴らした。

 伊達、と呼びかけられる。「あいよ」とわざと軽い調子で答えた。

「行ったら、いつでも遊ばせてくれるのか?」

 ふふ、と伊達は思わず声を出してしまう。おかしな質問だ。「そうじゃなきゃ言わねーだろこういうことはー」と言ってやる。

 うん、とタイラはうなづいた。そうだな、とも言った。


「覚えておくよ。俺にそんなことを言った馬鹿のことは、ずっと」


 いわし雲が赤く染まっていく。「夕飯は焼き魚がいいです店長」と言えば、タイラは「待ってろ」と煙草を潰した。

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