☆大学編 夏

 夏、であった。あまりにも主張の激しい夏であった。

 汗をだらだらかきながら、麗美はタイラの部屋へ向かっている。隣には「いや夏だねー」などと当たり前のようなことを言ってコンビニ袋を手に下げた伊達がいた。袋の中には冷えたビールが入っている。


 階段を上ってタイラの部屋につくと、ドアは簡単に開いた。施錠もしていないのかと呆れる。まあ平和一には必要ないのかもしれないが。


「タイラー、入っちゃうぞー」

「ビール持ってきたわよ」


 玄関を上がってすぐに、「あっつ……」と呟いてしまう。タイラはリビングに転がっていた。

「おいタイラ、何だこのバカみたいな室温。冷房は?」

「あるわけねえだろ」

「せめて扇風機とかあるだろ」

「扇風機……? ああ、押し入れにあるぞ。去年壊れた」

「お前死ぬ気かっつうの」

 伊達が缶ビールをタイラに投げる。それをキャッチして、タイラは億劫そうに缶を開けた。


「ちょっと、水分とってからのほうがいいわよ。あんたさっきまで死んでたんだから」

「エネルギーを貯めてただけだ」

「これ以上貯めてどうすんのよ」


 堂々と腰を下ろした伊達が、「つうかお前さ、髪伸びすぎじゃね」と眉をひそめる。

「なんかもう、伸びたっていうか密度を増したというか。この暑いのに鬱陶しいんだけど。最後に床屋行ったのいつ?」

「春だな」

「ざっくりしてんな。髪切って来いよ」

 ため息交じりに立ち上がったタイラが、のろのろと歩いていく。それと入れ違いのように、由良が部屋に入ってきた。


「おい、今タイラが裁ち鋏みたいなの持って風呂場に歩いてったけどなんだ?」

「バリカンもねーんだな、この家は」


 暑くねえ? と言いながら由良もいつもの席に座る。「冷房器具を寄贈してやれ」と伊達が肩をすくめた。

 戻ってきたタイラは確かに髪を切ったようで、数分前よりずっとすっきりしていた。「器用ね、ほんと」と麗美は感心してしまう。

 ついでにシャワーを浴びてきたようで、タイラの髪は少し濡れている。彼は煙草をくわえて、無言で火をつけた。

「また吸ってんのか。1日に何本吸うんだお前は」

「死ぬぞー。マジで死ぬ。タイラくんは肺ガンで死ぬし熱中症で死ぬ」

「やめてよね、私まだ喪服持ってないんだから」

 タイラは椅子に腰かけながら「餓死よりはいいだろうな」と頬杖をつく。どうやら課題タスクを溶かし始めたようだ。真剣な顔で紙をめくっている。


「もうすぐ夏休みじゃないですか、皆さん」と伊達が言い出した。確かにあと2週間ほどで長期の休暇が与えられるはずだった。予定は、と端的に聞かれて麗美は考えてみる。

「……ないわねぇ。実家に帰ろうと思ってるけど」

「瀬戸ちゃんっていまシェアハウスなんだっけ?」

「そう。みんな実家に帰るっていうから、私もそうしようと思ってるだけ」

 由良は? と尋ねれば、「ねえよ、おれはもともと家から通ってんだしな」と返される。毎日毎日あの街から通ってきているのは素直に凄いと思うが、本人はたいして苦と思っていないようだ。

「じゃあさ」と伊達がここぞとばかりに身を乗り出す。


「うち手伝ってくんね? マジ困ってんだわ、いま」


 まず事前情報として、伊達高歩たかゆきの父は海の家を営んでいる。これは、麗美たちも去年訪れているので周知の事実である。もちろん去年の麗美たちは客として行った。なかなか繁盛しているし、ワンシーズンだけとはいえかなり儲かっているのだと伊達は上機嫌に言っていた。

 そして、今回の話を要約するとこうだ。『毎年小遣い稼ぎに手伝いに来ていた近所の高校のバドミントン部が、今年は大きな試合に運よく勝ち上がってしまったらしく来られない。人手が足りないことは明らかなので、知り合いに片っ端から声をかけているがなかなか見つからないので困っている』とのことだった。まあベタな話だこと、と麗美は思う。

「だからさぁ、由良。手伝いに来てくれよ。ちゃんとバイト代出すからさ」

 目を輝かせた由良が、「なんだよその面白そうな話は。行くに決まってんだろ」とこぶしを握った。「よーし、由良とタイラが来てくれればひとまず安心だな」と伊達は胸をなでおろす。

「タイラには先に話してたのか」と由良がちょっとムッとして尋ねれば、伊達は「いや、言ってないけど?」と当然のように答えた。


「いやだってタイラだぜ。あいつがノーと言ったことなんてあったか? あいつの辞書には『はい』か『イエス』か『おう』か『待ってろ』しかないだろ」


 なあタイラ、と伊達は声をかける。タイラは未だ課題と向き合いながら顔をしかめていた。

「勘弁してくれ、俺にはバドミントン経験なんてないぞ」

「何バドミントン部の助っ人に行こうとしてるんだよ、海の家だよ海の家」

 ため息交じりにタイラは、ようやく顔を上げる。


「それも無理だ」

「なん……だと……!」


 なんで無理なんだよ、と由良も驚いたように問う。タイラは面倒そうにノートを閉じて、頭をかいた。

「バイトが入ってる。毎日だ」

「オールデイズ?」

 信じらんねえ、と伊達が憤慨する。

「バイトバイトって、仕事と私どっちが大事なのよ!」

「飯を食わせてくれる方」

「いやマジでお前、バイト入れすぎだから。絶対に陰でバイトリーダーって呼ばれてるわ」

「舐めるな。すでに俺のあだ名は店長だ」

 それは本物の店長の立つ瀬がなさすぎると思う。


 しかしこれで諦める伊達高歩ではない。不敵に笑い、「飯を食わせてくれる方……言ったな、タイラ」と胸を張る。

「どうせ時給千円程度だろ、店長。こっちはバイト代に加えて、泊まりがけなら3食つくぞ」

 一瞬動きを止めたタイラが、伊達をじっと見る。


「俺が由良の分まで働いたらバイト代が倍になったりしないか」

「オレちゃんお前のそういうところ嫌いじゃないけど、時々は自重してくれないかなと思うこともあるよ」


 タイラは舌打ちをしながらも、「シフト組み直すから待ってろ」と言って部屋を出て行った。

「な、『待ってろ』って言っただろ。あいつの辞書には50ページぐらいに渡って解説されてるから『待ってろ』は」と伊達が得意げに言う。

「つうかあいつがシフト組んでんの? もしかしてマジで店長なの?」と由良は訝しんだ。

 しばらくして戻ってきたタイラに由良が「どうだ、行けそうか」と尋ねれば、タイラは「おう」と短く答えた。伊達が「ほら、な?」と嬉しそうにする。


「いやまあ瀬戸ちゃんが来れないのは残念だけどー、まあ実家に帰るんなら仕方ないよなー。実家に帰るんだもんなー」


 そう言って伊達はちらちら麗美を見た。まったく、こいつの思い通りになるのは癪だが――――

「い、行ってあげてもいいわよ。別に親だって私のこと待ってないし。あんたたちがどうしてもって言うなら」

 待ってましたとばかりに伊達が「どうしても! どうしても瀬戸ちゃんに来てほしい! この貴重な夏に男だけで泊まり込みバイトなんて嫌だよぉ!」と身を乗り出す。「麗美も来たら楽しいよな、タイラ」と伊達が話を振れば、タイラはどうでもよさそうに「帰れるときに帰っておいた方がいいんじゃないか、実家は」などと言ったので伊達も由良もそれを黙殺した。




 と、そんな流れで麗美たちは、真夏の海に来ていた。


 真夏の海で麗美たちは揃いのTシャツなど着せられて、汗をだらだらと流している。

 伊達の父親は麗美たちを見たとたんに色めき立って「やっと来たか! これでやっとオレもハワイに行ける。後は頼んだぞ」と言って去っていった。子が子なら親も親である。

「暇を見ておれらも遊んじゃおうぜ」などと言っていた由良が、休憩なしで3時間働いて熱中症になった。気を抜くと死ぬ。

 正直麗美もバテ気味で、客に注文の品を送り届けながら隠れて休憩している。厨房から見えるとタイラがうるさい。


 そうだ、平和一。あの男がうるさい。本当に死ぬほどうるさい。

 厨房を一人で取り仕切っているタイラは、先ほどから『あそこの客の注文を取って来い』『客の前に空の皿があるなら素通りせずに持ってこい、常識だろうが』『由良はまだ寝てるのか? ダメだなあいつは』『何してるんだ、店の前で客が入っていいのか迷ってるだろ。声をかけてこい』と怒鳴り散らしている。この男がバイト先で“店長”と呼ばれている理由を思い知った。

 タイラに使われている状態の伊達が、「ここオレの親父の店なんだけど」と嘆いている。

 空になった容器を下げに厨房へ向かう。タイラをちらりと見れば、ひたむきに鉄板に向き合っていた。「皿洗う?」と聞けば「置いとけ」とそっけなく言われる。ため息をつけば、タイラはようやく振り向いた。

「……おい、麗美」

「何よ。こっちだって頑張ってんだからそんなに怒鳴らないでよ」

 手を止めたタイラが、不意にクーラーボックスに入った瓶のウーロン茶を差し出してくる。

「お前休憩してろ。顔色が悪い」

 それを受け取って、麗美はぽかんとしてしまった。手の中の涼しげな瓶の形が気持ちいい。

「でも、まだ客足途切れないし」

「由良を起こしてこい」

「き、鬼畜……」


 15時を過ぎたころ、さすがに人はまばらになり、ほっと息がつけるようになった。タイラは大量に作った焼きそばをテーブルに置き、「生きてるか」と全員の生存確認をする。「死ぬっつうの、このままなら」と由良が吠えた。

「ここの焼きそばが美味いって話題になって客が増えてる……タイラお前、もうちょっと手抜いてくれない?」と伊達は首にかけたタオルを絞りながら懇願する。

「手を……抜く、のか……俺が」となぜかタイラが驚愕の表情を見せた。「ごめんね失礼なこと言って!」と伊達は新しいタオルを首に巻く。

「体がもたないわよ、まだ初日なんですけど」

「なるほど。シフト制の重要さを感じるな」

「休憩はとっていこう。マジで死ぬ。20分一人ずつ交代で」

「だがしかし、3人体制で回るのか……? つうか本気でおれら4人しかいねえのかよ」

 ふっ、と自嘲的に笑った伊達は「お袋と別れてはや10年。まさか親父に新しい春が来ていたとはな。オレもショックだよ」と呟いた。「今は夏よ」と麗美は言い、「女とハワイ行ってんのかよ、むかつくぜ」と由良が憤慨する。

「ないもんをいくら言ってもないんだからしょうがないだろ。俺たちにはバドミントン部員よりはいくらか社会経験がある。不幸中の幸いだ」

「幸いか?」

 すでにタイラは話を聞いていない。不気味なほど上機嫌だ。おそらく、面白がっている。忘れていたが、この男は忙しいほど生き生きしてくるタイプの人間なのだった。とりあえずこいつの下では働きたくないな、と麗美は思う。


 午後はそこまでの混雑ではなかった。

 自分たちで削った粗いかき氷にシロップなどかけて、ぼんやりと口に運ぶ。疲れすぎて今は油のにおいを嗅ぎたくない。

 そんな麗美の気持ちなど知る由もない伊達が、隣で牛串を食べていた。さすがに慣れているのか、伊達は「疲れた疲れた」と言いながらもまったくバテている様子はない。タイラも毎日アルバイトを入れていたくらいだ、疲労感を全く見せていなかった。問題は荒木由良で、このお坊ちゃんはアルバイト自体そこまで経験があるわけではなかったようでかなり疲労困憊だ。「くそ、こっちが下手に出れば威張り腐りやがって」と客に対しての不平不満もやまない。


「例年何時に閉めてるんだ?」

「21時。でも何時でもいいぜ。あのクソ親父から全権押し付けられてるからな」


 唐突に、由良がTシャツを脱ぎ捨てて半裸になった。麗美たちはそれを呆然と見つめる。何やら奇声を上げて飛び出していき、そのまま海に飛び込んだ。

「なんだあれ」とタイラが呟く。伊達は腹を抱えて笑っていた。


 しばらくして戻ってきた由良は、「お前らも海に入って来いよ。冷えるぞ」と何事もなかったかのように涼しい顔をしていた。「頭が?」と言ってやると「あのな、タンパク質は加熱されたら元に戻らねえんだよ。恐ろしい話だろ、おれはそれを阻止したいの。わかる?」と説教をされる。だからっていきなり服を脱ぎ捨てて海に飛び込まないと思うが。

「19時に閉めようぜ。1日目にしてはよくやったよ、おれたち」

「それだけは賛成だわ。もう寝たい」

「まあ、いいんじゃね。レジも閉じなきゃいけねーし」

「あと1時間だな。焼きそば余るから売り歩くか」


 焼きそばが売り切れた時点で、麗美たちは19時を待たずに店を閉めた。伊達は父親と連絡を取っている。「2週間も!?」という声が聞こえてきたのでそういうことだろう。

 戻ってきた伊達を見て、案の定由良が「2週間もハワイに行ってるのか」と眉をひそめた。

「ハワイだけじゃねぇ。オーストラリアとパリにも行くらしい」

「新婚旅行かよ」

「……新婚旅行なんだよ。親父、オレが知らないうちに籍入れたらしい」

「お前も大変だな」

 新婚旅行にしても豪勢が過ぎるように思う。お父さん騙されてるんじゃないかしら、と麗美は思ったが口にしなかった。


 ひとり無言でレジと向き合っているタイラに、伊達が「店長」と声をかける。もはや今日1日で麗美たちもタイラを店長と呼ぶに至った。

「うちの親父、2週間帰ってこないんだわ」

「いいな、俺もオーストラリア行きてえな」

「お前って割と話聞いてるよな」

 何も問題が見つからない、という顔でタイラは「海の家って儲かるんだな」とひとりごちる。「乗っ取るなよ」と伊達が嫌そうな顔をした。

 さて、と立ち上がったタイラが「お前ら夕飯は?」と声をかける。「寿司がいい」と言ったのは由良だ。全員無視した。

「私、もう油のにおいを嗅ぎたくないんだけど」

「そうなると素麵ぐらいしかないんだよな」

「それでいい、それで」

 ハッとした由良がいきなり立ち上がる。

「夕飯をここで食うってことは、もしかしてここに泊まるつもりか」

 今更気づいたのか、という顔で伊達は肩をすくめた。

「海の家は空き巣が多いんだよ。店番も仕事のうちだって、言わなかったっけ?」

「聞いてねえ~。つうかどこで寝るんだよ、ベッドはどこだよ」

「お前タイラの家でいつも雑魚寝してんじゃん。スペースだけはあるぞ」

 ありえねー、と言いながら由良は客が座る座敷に寝転がる。不貞寝だろうか。追い打ちをかけるように伊達が「シャワー室は一旦外に出て公共トイレの隣にありますのでご利用くださーい」と笑いながら言うので、それには麗美も「ありえないんですけど」と難色を示しておいた。


 しかしどれだけ不満を言おうと状況は何も変わらず、麗美も仕方なくカルキ臭いシャワーで汗を流すことになった。まさか2週間このように過ごさなければならないのかと思うとゾッとする。そう伊達にしつこく訴えると、近くに日帰り温泉があることを教えてくれた。早く言え、と肩のあたりを殴っておいた。

 かび臭い布団を敷くと、初めてタイラが「衛生的に問題ないんだろうな?」と不満そうな顔をする。

「え? うーん……問題ないよ」と伊達が答えた。タイラは激しく嫌そうな顔をした。


 疲れた疲れたと言っている麗美たちを尻目に、なぜだか元気な伊達が布団の中から身を乗り出している。

「なんかドキドキするな。修学旅行みてえ」

「ドキドキしてるわよ、明日も何とか生き残れますようにって」

 暇人どもめ寝ろ、とタイラが遮ってきた。もう完全に寝る気満々である。

 それを黙殺して、伊達がいきなり「恋バナでもしましょうよぉ、お姉さま方ぁ」と舌ったらずに言い出した。隣に絶賛片思い中の相手が寝ている麗美と、彼女いない歴7年の由良は「あ゛ぁ?」と低い声で威嚇する。「ごめんね」と伊達が素早く裏声で謝罪した。

 不意に起きだしてきた由良が、「こういう時は怪談に限る。そうだよなぁ、麗美」と死んだ目で口にする。麗美も目を見開いて、「そうよ怪談よ。馬鹿言ってんじゃないわよ、怪談以外にすることなんてないっつうの」と乗っかった。

「暇人どもめ寝ろ」とタイラの声が聞こえた。


 収まりがつかなくなった由良と麗美が、「怪談だ、こんな夜は怪談しかすることはない」「そうよ、恋だの何だの浮かれてるやつは全員呪われて死んだわ」と興奮気味に話す。昼間の抑圧から解き放たれた高揚感からか、そういえばまったく寝られそうにない。ひえ、と口にした伊達が「やめようよぉ、怖い話なんかしたら何か呼んじゃうよ」と怯える。

 仕方なさそうに起きてきたタイラが、「お前ら元気なら明日の仕込みやれよ」と顔をしかめている。

「いや、それはできない。今からここは本当にあった怖い話大会の会場となった」

「電気消していいか、眩しくて眠れない」

「電気は消すな! 怖いから!」

 伊達の必死な抵抗により、タイラも電気を消すことは諦めたようだ。呆れたように麗美たちを見ている。



 じゃあおれからだな、と由良が重々しく口を開いた。

「あれは……高2の夏だったか。おれは親父に反発して、マンションに一人暮らしをしていた」

 親の援助を受けてか、とタイラが茶々を入れる。心底煩わしそうに由良はタイラをにらんだ。「続けなさいよ」と麗美が近くにあったちゃぶ台をたたいた。

「おれはその日、出かける予定があった。部屋は7階。エレベーターもなかったから、階段をひたすら降りるしかない。そこそこきつかったが、住んで1年も経てば慣れたもんだった」

 7階!? 1年!? といちいち伊達がうるさい。まだ何も怖くはない。

「階段を下りていると、ちょうど5階の踊り場に子どもが見えた。うちのマンションは、階段の踊り場に出窓があってな。よく雨が降ると吹き込んでた。で、その出窓から子どもが身を乗り出してる。『おいおいおいおい危ないだろ』とおれはその子どもに近づいたわけだ。子どもは『木に紙飛行機が引っかかった』と言って降りようとしない。ついに子どもは腰まで身を乗り出し始めた。おれは急いで子どもの足をつかもうとしたが、間に合わなかった……」

「落ちたわけ!?」

 思わず叫んで、麗美は自分の口を押える。「それが」と由良が続けた。


「おれだって大慌てだ。その出窓から下を見た。身を乗り出して見た。そりゃもう、子どもと同じぐらい乗り出して。だが、どこにも子どもはいねえ。どこかに引っかかった様子もねえ。子どもは紙飛行機が木にと言ったが、そんな木も見当たらねえ。『これは何かまずいな』と思いながら戻ろうとすると、背中を……厳密にいえば腰のあたり? を押されたんだよ。マジであの時のことを思い出すと今でも動悸がやばい。あとちょっと、押す力が強ければ落ちてた。。何とか出窓から離れて辺りを探したが、やっぱりあの子どもはいなかった。いやぁ、さすがにビビっちゃってさ、それからすぐ実家に戻ったんだけどな」


 何とも言えない空気の中、麗美は「ガチの話じゃないの」と呟く。「ガチだよ、今でも震えるっつうの」と由良が顔をしかめた。

 ここで唯一冷静なタイラが「それはお前を暗殺しようとした人間の罠なんじゃないか」と腕を組む。「まあその可能性もあって実家に帰ったんだけどな」と由良は肩をすくめた。

 一番冷静でない伊達が、「まだ子どもならいける! まだ子どもなら!」と叫んでいる。この分なら普通の子供にも負けるだろう。


 次は麗美だろ、と別に順番を決めたわけでもないのに由良に促された。麗美は「はいはい」と返事をして話し出す。「伊達くんが可哀想だから、幽霊とかの話はしないどいてあげる。私、そういうの信じてないし」と言ってやった。

「ちょっと記憶が曖昧なんだけど、中学生のころだったかしら。まあ、忘れちゃうくらいのことよ、そんなに怖くないかも」

 麗美がそうハードルを下げようと話せば、「前振りはいいから早くしろ」と由良は面白がってガヤを入れた。

「私その時、陸上部だったのね。ハードルやってて、結構成績よかったんだから。だけど練習中にケガしちゃって、まあよくある話。ちょっと靱帯やっちゃったの。で、それ以降陸上はね……やらなくなっちゃったんだけど」

「それは……大変だったな」

「いいのよそんなの、私の辛酸をなめた話をしたいわけじゃないんだから。で、その頃通ってた病院がね、家から遠くて。いつも診察の後は真っ暗だった。怪我をして1年ぐらい? もう歩く分には人と変わりなくなって、まあ異常はないってことを確認するぐらいの定期受診をしていて。その日も病院を出るころには外は真っ暗だったわけ」

 お化けは出ないんだよね、と伊達が確認する。「出ないわよ」と麗美は眉を八の字にした。

「なんかね、声をかけられたの。男よ。そんな時間に声をかけてくるなんてろくな人間じゃないでしょ? 警戒したんだけど、医者からはあんまり走らないように言われてたし、周りに民家もない田んぼ道だったし、私ガラにもなく怖くなっちゃって。

 そいつ、言うのよ。『綺麗な足だね』って。いよいよやばいと思って、後ずさりしながら『そんなことないですよ』って言ったの。男は『綺麗な足だよ、部活何やってるの』って言ってきた。『陸上部だったけどもうやめたんです』って私は言った。『なんでやめたの』って聞かれたから、私、なんでこいつにそんなことまで言わなくちゃいけないんだと思ってちょっと腹が立ったんだけど、『怪我したんです』って言ったの。そしたらね、男が、それはもうすごい剣幕で『どこに?』って聞いてきて。

 もうほんとやばいでしょ。私、どうやって逃げようと思いながら『靱帯が。手術の痕残ったから、全然きれいじゃないんです』って言ったの。そしたら男は、『残念だね、お大事にね』って言って、去っていったの」

 気づいたら、タイラと由良が厳しい顔をして話を聞いていた。麗美はあえて軽やかな調子で「で、3日後よ」と続ける。

「そいつが新聞に載ってたの。ノコギリ持って女子高生を襲ったんですって。『綺麗な足だったから、切り取って部屋に飾ろうと思った』って。私さすがに背筋が寒くなって。あの時怪我してなかったらどうなってただろうって、今も時々考えるわけ。てなわけで、やっぱり一番怖いのは変態よねって話。おしまい」

 一瞬の沈黙の末に、由良が麗美の腕をとんとんと軽くたたいて「よかったなぁ、麗美。マジ無事でよかった」としんみり言った。まあね、と言いながら麗美は自分の足をなでる。もうハードルを飛び越えることのない足でも、やはり自分のものであれば愛おしい。

「瀬戸ちゃんをそんな怖い目に合わせた奴なんてぶち殺したいね」と伊達が膝を抱える。「そうだな」とタイラも珍しく同調した。


「じゃあ、次はタイラかしら?」

「俺はエントリーしてない」

「空気読めよタイラ。創作でもいいからなんか話せって」


 しばらく黙って考えていた様子のタイラだったが、「じゃあ、まあ、怖い話っていうより今でも不思議に思っている話なんだが」と話し出す。

「お前ら、死体としばらく暮らしてみたことある?」

「はいパス」

「パス。聞きたくない」

「パス……逆にお前はあるのかと聞くことすら怖い」

 全員にスキップ宣告をされたタイラは、どうやら虚を突かれたようで目を丸くした。それからひどく不機嫌そうな顔で「お前らはいつもそうだ。こっちが“やらない”といえば空気が読めないだの、ノリが悪いだの言うくせに。いざ乗っかってやったら『それは話が違う』とか言いやがる。もう金輪際俺に声をかけるなよ」と毒づく。


「タイラくんは存在がホラーってことで、次は伊達ちゃんな」

「オレもやんのかよー、やだよ呪われそうだもん」

「その口ぶりだと何かネタがあるな? 大丈夫だ、お前が呪われてもずっと友達でいてやるよ」


 苦々しい顔をした伊達だったが、しかし何か話さなければこの場が収まらないとわかったのかため息をついた。

「……やっぱ、海っていろいろあんじゃん。昔からさ、水場ってそういうの集まりやすいっていうし、事故も多いし。で、これは親父から聞いた話なんだけど」

 ロケーション最高だな、と由良が口笛を吹く。「やめろ、口笛はやめろ」となぜか伊達は必死の形相をした。

「もう40年ぐらい前? 親父がまだガキの頃。その頃からこの海の家って、形は違ってもここにあったのな。その頃は遠い親戚が所有者だったらしいんだけど。

 で、当時ここらで『口笛を吹く女の子の霊』ていうのが噂になったんだ。『夜中に口笛が聞こえる。遠くから見た限り女の子のようだった』ぐらいの話だったんだけど、結構信憑性あってさ。それがここの海で、溺れた女の子がいたのよ。飼い犬を探して、口笛を吹いて犬を呼びながら、防波堤から落っこっちゃったのね。

 で、この話にはちゃんとオチがあって、ある日ガキの頃の親父が深夜に外に出ると、確かに口笛が聞こえる。だけど砂浜を見ると、そこにいたのは全然少女じゃないわけ。その溺れた女の子の母親なのよ。憔悴しきって、鬼気迫る表情で犬と自分の娘の名前呼びながらさ、口笛吹いてんの。親父はぶるぶる震えて、次の日大人たちに伝えたんだと。そしたら大人たちは、みんなそれを知っていたみたいに『言うな』って親父を叱りつけたんだ」

 何とも言いづらい話ね、と麗美はつぶやく。「ただ」と伊達が顔を青くしながら「この話には続きがあるわけよ」とこぶしを握った。

「しばらくして、そのお母さんも死んじゃったわけだ。まあ随分弱ってたらしいからな。

 だけど口笛は止まない。これはいよいよやばいってことになって、一回ここの海も立ち入り禁止になったんだよ。連日お巡りさんが見回りをしたりしたわけ。でも誰の口笛だかわからなかった。もうみんなすっかりビビっちゃってさ。

 でもそんなとき、小学生たちがな……立ち入り禁止の浜辺に忍び込んで、花火をやったんだと。マジで絶対そんなんダメだからね、心霊スポットってマジでやばいから。

 ……ひとりの小学生がいなくなったらしい。無事だった子の言うことには、『よかった、こんなところにいたのね』って声が聞こえたもんだから、そいつだけ親が迎えに来たと思ったんだってさ。

 その日から口笛はピタッと止んだ。で、まあ喉元過ぎればってやつで、10年も経てば『あれはただの事故だったんだろ』ってことでこの海も開放されたんだわ。冗談じゃねえ話だよな」


 麗美と由良で顔を見合わせる。それから、勢いよくちゃぶ台を叩いた。

「冗談じゃないはこっちの台詞よ。あんた、そんないわくつきの場所に私たちを連れてきたわけ?」

「何が『心霊スポットってマジでやばいから』だよ。現在進行形でここが心霊スポットじゃねえか」

 まくしたてると、伊達はきょとんとし----「ほんとだ」と呟く。「バッカでーい!」と由良が頭を抱えた。


「いやいやいや、でもオレここで育ってきてっから。そんな心霊現象なんて一度も」


 そう慌てて伊達が言い出した瞬間である。

 電気が、消えた。


 もちろん誰も電気を消していないし、立ち上がってすらいない。「停電か?」とタイラの声がするが姿は見えない。

 さすがに実家と同じようなものだからか、すぐに伊達が懐中電灯を持ってくる。「っかしいなぁ、うちだけ電気が消えてら。ブレーカー落ちてんのかな」と不安そうに言った。


 その時、店の裏口の方から物音がした。いよいよ麗美たちは恐慌状態に陥り、その場で立ちすくむ。

「お、おい……何か動いた音が……した、よな?」

「何よ。音がしたからって大したことじゃないわよ。野生のウミウシとかかも」

「瀬戸ちゃん、ウミウシってたぶん瀬戸ちゃんが想像してるような生き物じゃないよ……」

 様子を見てくるか、と言うタイラの腕を由良が掴んだ。


「行くな、タイラ」

「じゃあ寝ようぜ。電気もつかないんなら寝るしかない」

「いや! いやお前絶対に寝るな。わかってんのか、急に電気が消えて物音がしてんだぞ。寝てる場合じゃねえだろうが」

「やっぱ様子見てくるわ」

「わかった! わかったわかったわかった。みんなで見に行こう。絶対に一人になるな。一人にするな」


 そう言って、由良はタイラの腕を掴んだまま歩こうとする。伊達も慌ててタイラの背中にしがみついた。置いていかれるのはごめんだったので、麗美もタイラの腕を掴む。

「歩きづらいんだが」

「歩きづらいってよ。おい麗美、お前こういうの信じないタチなんだろうが。離れて歩けよ」

「信じないわよ、うるっさいわね。信じないけどこんな真っ暗な中率先して歩き始めるわけないでしょ。あんたらこそいい歳した男が恥を知りなさいよね」

「お、おばけかな!? チビりそうなんだけど」


 はたと動きをとめたタイラが、「霊、だと……? まさかお前ら、それでそんなにビビってるのか」と驚愕の表情を浮かべる。「違う!」と麗美は由良とともに叫び、「そうだよ、そういう流れだろ。話聞いてなかったのかよ」と伊達が半狂乱になって言った。

 なぜか目から鱗という顔をして、タイラは物音がする方をじっと見る。やがてぽつりと呟いた。

「霊って、殴れるのか」

「は?」

 たぶん麗美たち3人とも思わず『は?』と声に出した。

「世間一般的に、霊って殴れるもんなのか」

 世間一般的に、そんな質問をするやつはいない。


 ほとんどパニックになった伊達が「タイラくん……まさかテンパってません?」と尋ねる。長く平和一という男を見てきた麗美にはわかる。タイラはこの時、かなり動揺していた。

 タイラの背中を押しながら、由良が「しっかりしろよ」と喝を入れる。

「お前がダメならおれたちは終わりだ。全滅なの。わかるか? 殴れる殴れる。お前なら絶対にイケる」

 背中を押されながらタイラは、「そうか、そうだな。お前たちがダメなら俺がやるしかあるまい」とぶつぶつ言いながら進み始めた。


 警戒しながら歩いていく。「ブレーカーはどこ?」と尋ねれば、伊達は声を潜めて「裏口のとこ」と答えた。先ほど物音がした方向だ。しかし兎にも角にも電気がつかなければ現状を把握できない。

 裏口に辿り着き、辺りを懐中電灯で照らす。ブレーカーは見つかったが、他に不審なものなど何もない。

「なんだ、何もいないじゃねえか」と由良が胸をなでおろした、その時である。


 大きな黒い物体が、懐中電灯を持っている伊達に突進してきた。心臓が止まるかと思うくらい驚いたが、何より衝撃的だったのはタイラが「ほぁあ!?」と口走ったことである。

 腰を抜かせた伊達を庇うように前に立ち、タイラは踏み込む。


 それはそれは綺麗な回し蹴りだった。


 隣で由良が「殴れなきゃ蹴るのかよ」と呟いている。麗美も同じ気持ちだった。

 惨劇を避けながら、麗美はブレーカーを上げる。電気がついた。そこにいたのは、なんてことはない----小汚い格好の男だった。年齢は40過ぎくらいだろうか。タイラに蹴られて気を失っているようだ。


「押し入り強盗か?」

「あっ、鍵かけ忘れてた」

「伊達ちゃん〜〜〜!」


 ちょっと声を潜めて、麗美は「あんたさっき『ほぁあッ』つったわよね」とタイラに言ってみる。タイラは耳まで赤くして、「伊達だろ」とごまかそうとした。非常に珍しい姿なので後世まで語り継いでいこうと思った。

 まだ少し怯えている様子の伊達が、恐る恐る男に近づいて「そんなことよりこのおっさんは大丈夫なの? 死んでない?」と覗き込む。


「ねえタイラくん、もうちょっと手心ってやつを」

「俺はな、『過剰防衛』という言葉が世界で一番嫌いだ。身を守ることにやりすぎなんてことはない」

「ああ、うん……そっか……」


 男の頬を軽く叩いていた由良が、「まあ死んではいないな」と言いながらタイラを手招きした。

「随分生活に困ってんだろうな……警察に突き出すのも可哀想だし、外に捨ててくるか。タイラお前担げよ」

「由良のそういうとこ、私嫌いじゃないわよ」と、麗美は腕組みしながら肯定する。「お前ら人の心がなさすぎる」と伊達が目を丸くした。


 その後男がどうなったかは知らないが、知りたいとも思わない。どちらにせよ価値のある情報ではなさそうだ。

 次の日からはシフト制が功を奏し、初日ほど地獄を見ることはなくなった。強盗も空き巣も現れず、大繁盛のまま伊達の父を迎えることができた。壮絶な親子喧嘩の末に、伊達はこの海の家を正式に譲り受けることになったようだ。これはちょっとは価値のある情報なので、麗美の心に留めておく。来年は客として来よう。少しはサービスしてくれるのだろうから。


 帰り道、タイラのボロボロの中古車に揺られている。

「これ車検通ったの?」と伊達が尋ねた。「うるせえ殺すぞ」とタイラが答える。あまりにも唐突な殺意に伊達は心底怯えていた。

「結局、遊べなかったな」と由良が呟いた。「ナンパも連敗だったしね」と言ってやる。途端に車内は由良をいじる流れになり、「口説き文句が平安時代」「このご時世に『綺麗な髪だね』は変質者にも劣る」と散々な言われようだ。

「クソ……なんでおれだけがモテないんだ? 伊達はわかる。腕のいいナンパ野郎なのは認めてる。でもタイラは焼きそば作ってるだけで女が寄ってくるんだぞ。納得いかないね」

「由良もなぁ、顔は悪くないのになぁ」

「そうだよ。顔だけでいったらおれはお前らよりも上」

 由良と伊達が喧嘩を始めた。タイラは呆れ果てた様子で、「暴れるな。バランスが崩れるとタイヤが取れるかもしれん」といなす。一瞬で車内は静けさを取り戻した。


 肩をすぼめて笑いながら、麗美は車窓の外を眺める。海が遠ざかっていった。

「楽しかったわね、案外」

 一瞬の沈黙の後で、「麗美が楽しかったんならいいか」と由良が呟く。「そだね、瀬戸ちゃんが楽しかったんならそれが一番だよね」と伊達も便乗する。「まあ、麗美が楽しかったんならな。プラマイプラスだな」とタイラすら笑いながら言った。

「何よあんたら、その反応」

「いいやぁ? 別にぃ? 楽しかったんなら何よりですぅー」

「結構グチってたからちょっと心配だったんだよねー」

「ドレミちゃんは昔からチョロいところがあるからな」


 なんかムカつく、と言って麗美は腰を浮かせて主に由良を殴ろうとする。ハンドルを切りながらタイラが、「あーばーれーるーな」と嘆いた。

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