★大人だって愚痴りたい

 ふう、と汗を拭いてカツトシは店内を見る。なかなか息をつく暇もないお昼時だ。

「お昼はランチメニューしかないとしても、やっぱり人手が足りないわね」

 暇そうだったので手伝わせているノゾムをちらりと見れば、涼しそうな顔で客と話をしていた。ノゾム本人は『いやー、人と話す仕事とか向いてないっすわー』などと言っていたが、とにかく物怖じしないところは強みだ。元々開き直りやすい性格なのか、この街の暮らしで鍛えられたのかはわからないが。


 また客が入ってきて、「いらっしゃいませー」と声を出す。客は真っ直ぐカウンター席につき、カツトシを見た。帽子の下の少しくすんだ金髪に、頬のそばかす。眼鏡の奥の目は青かった。

「ぼうや……」と客は呟く。それから、帽子を取った。


「この前見たときは暗くてよく見えなかったけれど、あなた大層美しい顔をしているじゃありませんの。うちにいらっしゃい、働かなくても一生食べさせて差し上げますわよ」


 わかった。その人物が誰なのか、しっかりとわかってしまった。


「め、めいゆ……」

「しっ。いい子だから静かにしてくださいます? せっかく己の美学を曲げてまで変装してきたのだから、もう少し遊ばせてくださいな」


 異変に気づいたらしく、ノゾムが近づいてくる。怪訝そうな顔をして覗き込んでいるが、この客が何者なのかはわかっていないようだ。カツトシはため息をつきながら、ジェスチャーで『表の看板をcloseに変えろ』と指示を出した。『なんで?』という顔をしながらも、ノゾムはその通りにする。


 店内の客があらかた帰った後で、カツトシは盛大なため息とともに「僕、あなたにいい印象がないのだけど??」と嘆いた。

「あら、なぜかしら。不思議ですわ」

「不思議なもんですか! 僕はクスリなんかやったことなかったのよ」

「えー? ドラッグバージン? 奪っちゃいましたわ、ごめんあそばせ」

 その時点で、ようやくノゾムも彼女の正体がわかったらしい。「え……美雨さま? 金髪だったんでしたっけ」と呟く。「美学を曲げたのだと言ったでしょう。被ってみたのですわ、まったく快適とは程遠いですわね」と美雨は鼻息を荒くした。


「さて。ユメノちゃんは?」

「いませんよ、今日は仕事なんで」


 美雨はいささかショックを受けたようで、「私、あの子に会いたかったのに」と訴える。

「ユメノちゃんに何の用よ」

「別に……あの人形のように可愛らしい女の子を一目拝んで、癒しにしようかと思っただけですが。まあいいですわ、顔の綺麗な青年が見られましたので」

 でも残念、と言いながら美雨は目を伏せた。と、不意に階段の方から足音が聞こえてくる。


 2階から降りてきたタイラが、こちらを見て怪訝そうな顔をし――――「お前、こんなところで何をやっているんだ」と美雨を見とがめた。

「この人がだれだかわかるんすか」

「そりゃあ、どこからどう見ても稀代の地雷女じゃねえか」

 カツトシに紅茶を頼みながら、「その男は野生生物なので変装など無意味。たぶん匂いか何かで人を判別している」と美雨はどうでもよさそうに言う。


「ここで何をしているのかと聞いているんだが」

「何でもよくありません? ここはあなたの住処である前に食事処とお聞きしましたので。食事処に客が来て何がおかしいのです」

「何も食ってないだろ」

「マスター、Aランチセットを1つ」


 はいはい、とカツトシは皿を手に取った。

 納得できない様子で、タイラはそれをじっと見る。やがて諦めたように、「大人しく帰れよ」とだけ言って肩をすくめた。それから自分の胸ポケットに手を滑らせ、「ん?」と呟く。

「部屋に忘れたか」

「どうせ煙草でしょう」

「おかしいな、持ってきたと思ったんだが」

 美雨に「お前本当に大人しく帰れよ」と言い残してタイラはまた階段を上がっていく。「あの人最近ボケてんな」とノゾムが腕組みした。


「美雨様って、あの人と友達だったんすよね」

「違います。縄張り争いをしただけの仲ですわ」

「美雨様はあの人のこと倒せます?」

「倒せませんわよ、結局縄張りを奪われたのは私ですし。ただ、」

「ただ?」

「あの男を殺すことは容易い」


 ぴくりと眉根を上げたノゾムが、「それは興味深いっすね」と呟く。「誰でもできますわよ、やってみせましょうか?」と美雨は平然と降りてくるタイラを指さした。


「何の話だ」

「いいえ、別に」


 歩いてくるタイラは煙草のパッケージを手の中で弄んでいる。「そういえばもう入ってないから置いてきたんだった、煙草買ってくるわ」などと頭をかいていた。

 興味のなさそうに見ていた美雨が、ふと立ち上がる。

「タイラ、」

「何だよ」

「この店、ちょっと不衛生じゃなくて? 床に埃が落ちてますわよ」

 ぎょっとしたカツトシを制し、美雨は微笑みながら「ほら、ここ」と下を指さした。タイラはしかめ面をして「どこだよ」と屈む。

 美雨はそんなタイラの頭頂部に、銃の形を模した右手をつきつけた。


「Bang! ほら、簡単でしょう」


 呆気にとられるカツトシとノゾムに、美雨はウインクまでしてみせる。「でもそれは、美雨様のこと信頼してるからでしょ」とノゾムが不機嫌そうな顔をした。あら、と美雨は肩をすくめる。「この男は誰にでもそうですわ。あなたたちだって知っているのでは?」と涼しげに言った。

「おい、本当に何の話だ。埃なんて見当たらないんだが」

「見間違いだったかしら」

「老眼か?」

「私、どうして本物の銃を持ってこなかったのでしょう」

 それからタイラはカウンターのいつもの席に座って、カツトシにコーヒーを注文する。ちらりとノゾムを見て、「お前、怒ってねえ?」と尋ねた。「ねえっすよ」とノゾムは顔をしかめたまま答える。

「美雨、お前何をしたんだ」

「濡れ衣ですわ! 私がその青年の気分を害したと?」

「だってお前、無神経だから」

「殺しますわよ、マジで」

 こほんとわざとらしく咳をして、「無神経なのはあなたでしょう」と美雨は片目をつむってみせた。「は?」とタイラが眉根を寄せる。

「マコちゃんがよく『あんな無神経な男と、もう暮らせない』って嘆いていましたわよ」

「マコが? なぜお前に?」

「よく2人で出かけるなどしていましたので」

「えっ」

 初耳でした? と美雨が煽った。タイラはしかめ面のまま押し黙る。美雨は「知らなくても仕方ありませんわ、あなた家に帰りませんでしたものね」とさらに茶化した。

「毎夜遊びまわって散財しまくっていたとか」

「大袈裟だ。俺はそこまで金遣いは荒くなかった。お前の旦那の方がよっぽど」

「『タイラは最近 “どうせ金で解決できることは暴力でも解決できるんだし、金なんかあってもなくても同じ” みたいなことを言ってギャンブルに湯水のように金をつぎ込む。早くあいつを人間に戻したい』とか言ってましたけどね、マコちゃん」

「…………」

 空咳をしてタイラは「そんなことを言った覚えはない」と目をそらす。「ほんとうに?」と美雨はにやにやした。

「何にせよ、マコちゃんに世話してもらってよかったですわね。あの子が管理してなければあなたは今頃もっと大変に炎上なさっていましたわよ」

「あのな。まあ確かに若い頃はもしかしたらちょっとは派手に遊んだかもしれないが、マコに世話をしてもらった覚えだけは本当にないんだが。逆だろ、俺があいつの面倒を見ていたんだ」

「はあ、よくそんなことを言えますわね。あなたが必要以上に恨みを買わないよう、マコちゃんは細心の注意を払って人間関係を築こうとしていたのに」

「それが功を奏したことがあったか?」

「開き直るんじゃありませんわよ」

 やだやだこの男は、と美雨はため息をつく。「由良さんもあなたには手を焼いていました」と追い打ちをかけた。「は?」とタイラが半笑いで応戦する。

「由良? あいつは俺がいなきゃ何もできないただのボンボンなんだが?」

「逆でしたでしょうに」

「いやいや、由良が手を焼いていたのはお前だ美雨。どう考えてもお前のことでずっと頭を抱えていただろうが」

「いやいやいや、マコちゃんも由良さんもあなたの存在で頭を抱えていましたし。私は二人のサポートとしてきちんと役に立っていましたし」

「いやいやいやいや、お前がサポート? 久しぶりに腹筋が引きちぎれるほど面白いんだが。本気でおっしゃっているんですか?」

「は?」

「は?」




☮☮☮




 甘めのカフェオレを一口飲んで、麗美は盛大にため息をついた。頭痛を抑えるように頭を抱えてもいる。さて、と言ったのはノゾムだ。

「そういった経緯でですね、お二人ともまったく引っ込みがつかずこのままだとハルマゲドンって感じだったのでレミさんをお呼びしました」

「呼ぶんじゃないわよその話題で……私だって下手なこと言いたくないのよ」

「でも、この二人が呼べってうるさくて」

 完全にへそを曲げた様子のタイラと美雨がにらみ合っている。『そんなに言うなら麗美を呼ぶぞ。あいつの言うことなら納得するな?』『あら、それで不利になるのは一体どちらでしょうね』と言い出したのは数分前であったが、麗美は呼べばすぐに来てくれた。


「マジでお前いい加減にしろよ、美雨。麗美は俺につくに決まってる」

「いいえ、レミさんは公平な方なので事実をありのまま言ってくださるに決まっています。あなたこそおふざけが過ぎましてよ、謝るなら今のうち」


 そんなタイラと美雨を見て、麗美はまた大きなため息をついた。

「……傍からあんたたちがどう見えていたか、って話でいいわけ?」

「そういうことだ」

「レミさん、このムカつく傲慢な男を黙らせて差し上げてくださいな」

 呆れ果てた顔をしながらも、麗美は少し力を抜いて笑う。「あんたたちホント、変わらないわね」と肩をすくめた。「いいけど私にキレるんじゃないわよ、あんたたちが言えっていったんだからね」と先手を打つ。


「まず、その男をゴリラだとするでしょう」

「前提が失礼すぎてさすがの俺もびっくりした」


 ノゾムとカツトシが思わず吹き出している中、タイラは目を丸くして麗美を見ていた。「で、」と麗美は気にせず続ける。

「美雨はお育ちのいいゴリラ」

「お育ちのいいゴリラ!?」

 自分のことを棚に上げてゲラゲラ笑うタイラに、「ちょっと黙ってくださいます? つまりあなたはお育ちのよろしくないゴリラってことですわよ」と美雨は抗議する。そんなタイラと美雨を尻目に、麗美がまた口を開いた。

「由良は……あいつは、ゴリラの着ぐるみをきて群れに近づいてきた人間。『お前らの言ってることよくわかんねえや。でもおれ、お前らのこと大好きだぜ』みたいなことをよく言ってた。残念ながらあんたたちは全く意思疎通ができてなかった」

 スッとタイラも美雨も真顔になる。『え? 何を仰っているんですか?』という顔だ。「それでマコは」と麗美が続けた。

「マコは、ゴリラに育てられたことでゴリラの言うことを理解できるようになった人間の少女よ。ゴリラと人間が共生できる世界を作ろうと努力していた。あんたたちが理解しがたい行動をとっても、一般人にその正当性を必死に説明しようとしてたのはマコだったしね」

 腕組みしながら麗美は深く息を吐く。どうやら当時のことを思い出しているようで、その視線も遠くを見ていた。


「誰が誰の世話をしていたかって言ったらそれは難しいけど。由良はあれで兄貴ぶってたからあんたたちの世話を焼きたがったし、でも由良だってあんたたちがいなかったら何もできないってのはみんな知ってたからね」

 あんたら上手くやってたわよ、と麗美は言う。タイラと美雨が何やらひそひそと話し始めていた。『そんなんじゃないよな』『なんか期待していた話と違いましたわね』というようなことを言っているようだった。

 すかさず麗美が「そこ!」と指をさす。

「結局あんたたちのサポートをしていたのはマコなのよ! あんたたちだってマコのことは悪かったと思ってんでしょ? そのことをゆめ忘れず、ちゃーんと反省して、くだらない喧嘩をやめろ!」

 すっかり大人しくなったタイラと美雨を見て、「青菜に塩みたい」とカツトシが呟いた。「これ定期的に見てえな」とノゾムはうなづく。


 なし崩し的に仲直りさせられた(割と早い段階で喧嘩など忘れていた)タイラと美雨は何もなかったかのように話を始めた。

「今日は別に……あなたと言い争いをしに来たわけじゃありませんのよ」

「飯を食いに来たんだろ」

「そうですわ。でも、まだまだ足りませんの」

「は?」

 ふう、と息を吐いた美雨が思い切り伸びをする。「毎日毎日、食事をとる時間もなく簡易食品ばかり。たまにちゃんとした食事をと言えば用意されるのはシェフの高級フルコース。胃がびっくりして食事が進みませんわよ」と嘆いた。


「タイラ、私を大衆居酒屋に連れていきなさい」

「嫌だが」


 きょとんとした様子のカツトシが、「それならウチでよくない? 夜は酒場なんだし」と言う。「違うのですわ!」と美雨は叫んだ。

「私は! 何の罪悪感もなく大盛りの唐揚げやらフライドポテトやらと一緒に安いハイボールを流し込みたいのです! ここは大衆居酒屋ではないでしょう?」

「それはそれで胃がびっくりしないか。大人しく粥でも食ってろ、いい歳だろうが」

「あなたの方がおじいちゃまではなくて?」

 タイラが舌打ちをしたので、すぐに麗美は空咳をする。そうだ、と美雨が身を乗り出した。

「レミさんも行きましょ。大衆居酒屋! 二次会でカラオケに行きましょ」

「……私は用事があるのよ。いきなり言われたって」

「えぇ~~~~」

 不貞腐れる美雨を鬱陶しげに見たタイラが、「俺の出席は決まっているのか? カラオケも行くのか?」と眉根を寄せている。落ち着き払った麗美は美雨の肩をぽんぽんと叩いて「あんたも大変なんだろうけど頑張ってよ」と励ました。


「喧嘩すんじゃないわよ。で、また私のこと誘いなさいよね。今度は予定空けるから」


 タイラと美雨は顔を見合わせて、「レミさんが言うなら仕方ありません、こんな男でも仲良くすると約束いたしましょう」「ああ、こいつの面倒は俺に任せておけ」と胸を張る。そのままお互いを肘で小突いた。

 呆れながらも「マジで喧嘩すんなよ馬鹿ども」と麗美は去って行く。

 再度顔を見合わせたあとで、美雨がタイラを引きずって歩いた。「じゃあこの男はお借りしますわね」と手をひらひらさせる。仏頂面のままタイラは引きづられていった。


「行ってらっしゃい、ノーマルゴリラ先輩」

「お育ちが悪いゴリラだからって朝帰りしてくんじゃないわよ」

「クソガキどもめ」


 そんな言葉を残し、タイラは連れていかれてしまったのであった。




☮☮☮




「もうやってられませんわよ! なんで私があんな人たちと仕事なんかしなければならないんです?」

 ハイボールを3杯飲んでテーブルに突っ伏した美雨が管を巻いている。タイラはといえば、ポテトサラダをもさもさと食べながらそれを聞いていた。

「聞いてますの!?」

「大変だな」

「腹が立ちましてよ~~~~」

 ムカつきますわ! ムカつきますわ! と美雨は騒ぐ。「ポテトサラダ食うか?」と言うタイラに、「ソースをかけてちょうだい」と答えた。「唐揚げにレモンは?」とまたタイラが尋ね、「いえ、マヨネーズとソースで」と美雨は真顔で言う。「じゃあ皿に取り分けるわ」とやんわり否定された。

「ほんと、全ての老害を解雇して本格的に乗っ取りたい」

「でもお前の実家も実家じゃない?」

「それは残念ながら言えてるのですわ」

 ハァァ、とあからさまなため息をついて美雨はポテトサラダを口にする。タイラが熱燗と刺身の盛り合わせを頼んだ。


「というか、ちょっと1回だけでもあなたが代わってみませんこと? きっと上手くやれると思いますのよ」

「で? お前は何をするんだ」

「あなたの代わりにあの子たちと暮らします」


 頬杖をついたタイラが、店に来る途中で買ってきた新品の煙草のパッケージを開ける。「ちょっと。誰が吸っていいと言ったんです?」と美雨は眉をひそめた。

「美雨、」

「なんです」

「…………それはダメ」

「それくらい即答なさいよ」

「俺が死ぬまでダメ」

「いりませんわよ、別に」

 マグロは私が食べます、という美雨にタイラは「なんで?」と真顔で尋ねる。美雨は肩をすくめながら「愛しているのでしょう」と言った。

「マグロを?」

「彼らを」

 ゆっくりと煙を吐いて、タイラは「愛してるよ」と答える。瞬きをして、ふと目を伏せた。「どうなさったんです」と言いながら美雨がちゃっかりマグロの刺身を食べる。


「愛して、いるよ」

「ええ。そうでしょうね」

「当然だ。あいつらだけを、愛していないはずがない。大抵のものにそうであるように、俺はあいつらを愛しているよ」

「なるほど」

「なのに妙だ。最近はそんなことにすら違和感がある」


 チゲ食べます? と美雨が聞きながら店員を呼ぶ。「チゲじゃなくて湯豆腐食わない?」と言うタイラのことは無視した。


「違和感があるのも当たり前でしょう」

「何でだよ」

 言葉に詰まった様子の美雨が、タイラをまじまじと見る。それから空咳をして、ハイボールを飲み干した。ちょうど卓に来た店員に、チゲ鍋とレモンサワーを頼む。

「私は幼い時分から大変愛されて育ちました」

「何の話だ? お育ちのいいゴリラとして格の違いを見せつける気か? 言っておくがお育ちもそこまでいいわけじゃないからね、お前」

「父から毎日愛を囁かれたものです。私も同じだけ父にそれを返しましたわ」

「無視か? あ?」

「何の疑いもなく……私は父から愛されており、自分も父を愛しているのだと信じていました」

 美雨は届けられたレモンサワーをそっとタイラの前に差し出した。「お前が頼んだんだろ」とタイラが言えば、「私にレモンを絞れと言うんですの?」と美雨は憤慨する。タイラは呆れた様子ながら、仕方なさそうにレモンを絞ってやった。「ねえ種を入れないで」と美雨が文句を言う。


「だけれどこの国に来て由良さんに出会い、愛を囁き合ったときに、見過ごせないほどの違和感があったのです」

「政略結婚だったからじゃない?」

「それは、タイラ……羞恥ですわよ。この私が。『愛している』という一言を心底恥ずかしく思ったのです。こんなに恥ずかしい言葉が存在していたとは。こんなに恥ずかしい言葉を今まで何とも思わず言いまくっていたとは。大変な衝撃でした。私は今まで、とはっきりわかってしまったのですから」


 熱燗を煽りながら「何が言いたいかわからない」とタイラは呟いた。美雨が箸をおき、身を乗り出してタイラと目線を合わせる。

「“愛している”と口にすることは本来とても恥ずかしいことで、あなたのその違和感を私は知っていると言ったのです」

「わからない」

「あなたは今まで他人を愛してきたのだと言いますが、その愛した人たちのことをどれほど考えましたか?」

 タイラは閉口し、「どうして俺が考えてやらなくちゃいけないんだ」と小首をかしげた。ジョッキの中で氷の解ける音がする。美雨が短く息を吐いた。

のことはどれくらい考えています?」

「……なあ、本当に何が言いたいんだ」

「私はこの国に来て、初めて自分ではなく他人のことを考えたのです。

 相手が目の前にいれば、調子はどうだ機嫌はどうだ、なぜ泣いているなぜ怒っている、どうすれば笑うどうすれば楽しい、と考えずにいられなくなる。目の前にいなければ尚更に相手のことが気になり、どこにいるのか嫌な思いをしていないかと不安になる。その人が害を被ればいてもたってもいられなくなるし、自分ではどうしようもないような怒りもわく。

 そんな面倒極まりない感情の集合体こそが愛であり、以前のあなたにこのようなことを話すのは無駄だと思っていましたが。

 友よ……実は人を愛するということは、本当に面倒なものなのです」

 ひと息ついて美雨はジョッキを手に取る。サワーを口に含んで、ゆっくり飲み込んだ。


「あなたが個々に興味もないまま、ただ自分よりも弱いという理由だけで庇護下に置いた人たちのことを、果たして本当に愛していたのかしら」


 美雨がジョッキを置く。それと入れ違いのようにタイラが熱燗を空にした。

「愛じゃなければ、何だ?」

「愛であってほしかった理由は何です?」

 騒がしいはずの居酒屋で、2人の周囲だけ完全な沈黙が訪れる。試すような時間の中で、不意に店員が「チゲ鍋です」とテーブルに器を置いた。すかさずタイラが「もつ煮ひとつ。あと、熱燗2合」と注文する。


「タイラ、」

「ああ」

「薄々そうかと思っていましたが、私たち、とても酔っているようですわね」

「……そうかもしれないな」

「こうまで酔ったら何を言っても、お互い明日には忘れているでしょうね」


 タイラはふっと笑って、「そうだな」と言った。目を細めた美雨が靴を脱いで椅子の上で膝を抱える。「行儀が悪い」と言われ、「あなたの言う通り。私はそれほどいい育ちでもないのです」と肩をすくめた。

「歳を取るというのは、本当に厄介だと思いませんこと?」

「お前は変わらないよ」

「そんなこともありませんわよ。臆病になりましたわ」

「そうか? 前にも増して小憎たらしくなったと思っていたが」

「臆病になればなるほど面の皮を厚くして自分を守るのです。あなたにはわからないかしら」

「…………どうかな」

 ジョッキを握りしめ、美雨は「タイラ」と呼ぶ。何だよ、とタイラが返事をした。

「カラオケ、行きますわよね?」

「行かねえよ」

 ケチ、と美雨が膨れ面をする。「じゃあラーメンは?」と尋ねればタイラは仕方なさそうに「行くけど、もっとマシな変装してくれねえかな。俺が金髪の女連れてたら目立つんだよ」と言った。


 ふう、と息をついてタイラは頬杖をつく。「なあ、美雨。お前の言っていることはよくわからんよ」と目を閉じた。

「ただ……そうだな。愛していたい、と思っているよ」

「ラーメンを?」

「あいつらを。俺はあいつらのことを、今後何があっても愛していたいと思っているよ。それでこの話は、もう終わりだ」

「あくまで、他と区別することなく?」

「する必要がない」

 押し黙った美雨が、何か言いたげな顔で言葉を飲み込む。「頑固ですわね、まったく」と言いながらレモンサワーを飲み切った。


「じゃあ、行きますわよラーメン。ここでのお会計は」

「割り勘か」

「あら、寝ぼけていらして? 私の辞書に割り勘などという貧乏くさい言葉は載っていませんわ。奢るか奢られるかでしてよ」

「本気で言っているのか。俺とお前の総資産額を考えろ。お前の奢り一択だろうが」

「いいえ、ここは男気じゃんけんで勝負ですわ」

「お前そういう文化をどこで学んでくるの?」


 早速美雨はじゃんけんのポーズを取る。「あっ、あなた手元を見ながらやってはいけませんわよ。どうせ後出しするんですから」とたしなめた。タイラは軽く舌打ちをする。

「最初はグー」

「じゃんけん……」

 ぽん、と手を出す。五度のあいこを経て、ようやく勝負はついた。タイラはグー。美雨がチョキ。タイラのだ。タイラは思わずというように「よっ、」とガッツポーズをしかけてすぐにこめかみを押さえながら「しゃあ………………」とうなだれる。『買った方が支払い』というルールを思い出したようだった。

『プークスクス』という風に美雨が笑う。


不愧是你さすがですわ、哥哥。胸襟开阔的太っ腹ですわね!」

「何言ってるかわからんが腹立つな」


 ムッとした様子でタイラは「どうして俺が」とぶつくさ言った。「あら往生際が悪いですわよ」と美雨は伸びをする。

「“金なんてあってもなくても同じ”では?」

「…………金はあればあるだけいいよ。

「あら! あらあら! 大人になりまちたわね〜」

「まあ金か暴力か、安上がりな方で解決させてえな。ケースバイケースってところだ」

「とっても素敵ですわ。倫理観がない」

 言いながら会計を済ませ、2人は外へ出た。



 馴染みのラーメン屋で味噌チャーシュー麺まで食べ切って、美雨が自分の腹を撫でる。「食べましたわー。久しぶりにこんなに」と満足そうに言った。

「これで帰る気になったか?」

「そうですわね。今日のところはここまでにしてさしあげますわ」

 苦笑したタイラが、「まだ食えんのかよ」と呟く。


「じゃあ、今日はこの辺で」

「迎えが来るのか?」

「何を仰っているんです。私が護衛もつけず飲みに行ったとバレたら普通に怒られますわ」

「……送る」

「いいですわよそんなの。一人で帰れますわ」

「送らせろ」


 ふっと笑った美雨が「お馬鹿さん」と言った。

「正直、あなたの方が危なっかしいのですわ。隙が多すぎる」

「俺はいいんだよ。別にやることもねえし」

「あなたの“俺はいいんだよ構文”も聞き飽きましたわね」

 そんな構文は使った覚えがない、とタイラは不満そうにする。「だってあなた、しょっちゅう言うんですもの」と美雨が肩を竦めた。

「よろしくてよ。今日は送らせて差し上げますわ。でもあなたも夜道気をつけなさいね」

「大丈夫だ、信号は守るよ」

「それは夜だけじゃなくいつも守りなさい」

 冷えますわね、と美雨が手をこする。タイラは目を細めて「ああ」と呟いた。


 風が吹けば痛みを伴うような寒さがある。夏を諦めきれない未練たらしい秋が過ぎ、冬を目前としていた。

「7年前は、まさかこんな風に飲み歩いたりなどするとは思いませんでしたわね」

「まあ、そうだな」

「何だかんだと言いましたけれど、今は幸せだと思えるのですわ」

「どうした。やけに素直だな」

「求める程ではないにせよ、きっとこれ以上の幸せはないのだとやっとわかりましたの。もう、いい大人ですからね。少なくとも7年前に諦めたものはほとんど戻ってきましたし」

 そうか、とタイラは言う。そうですわよ、と美雨が言い切った。「7年前には考えもしなかった」とまたしみじみと呟く。

「そのうえ、また次の7年後には孫の顔を見れるかもしれないのですわ。こんな幸せがあるかしら」

「気が早いなぁ」


 くつくつと喉を鳴らすタイラに、美雨が「あなたのところはどうなんです」と首をかしげた。

「俺の……何?」

「あなたのところの愉快なお仲間たちは、7年後一体どうなっているのでしょうねと言ったのです」

 タイラはぽかんとして美雨を見る。「その顔、やめてくださいます?」と美雨が眉間にしわを寄せた。


「あなたは“やることもない”と言うけれど、では“やりたいこと”もないのですか?」

「やりたいこと、」

「7年後の彼らを見てみたくはありませんの?」

「それは……」


 黒い癖毛の隙間から見えた目が笑っている。タイラは美雨を真っ直ぐに見て、「夢みたいな話だな」と言った。




☮☮☮




 夜更けと言うほどでもないがほとんどのメンバーが寝入ったころ、タイラは帰ってきた。ちょうど水を飲もうと下に降りて来ていた都は、「おかえりなさい」と声をかける。店を閉めたばかりのカツトシも、「あんた帰ってきたの。楽しかった?」と尋ねた。まあな、とタイラが肩をすくめる。

「どこへ行っていたの?」

「美雨と飯を食ってた」

 そう、と言いながらも都は途方に暮れた。いまいち、美雨という女性との親密度が計れないでいる。


「君はどうした。今日は実家に行ってみたんじゃなかったか」

「ええ、そうね……。何も問題なかったわ。ここで報告をしても?」


 君は、と言ってタイラは怪訝そうな顔をした。それから頭をかいて、「ちょっと外を歩いてこないか」と誘う。

「でも、上で実結が寝ているから」

 僕が見てるわよ、とカツトシが皿を拭きながら言った。「そんな。悪いわ」と言えば、「いいのよ、あの子の寝顔は癒されるから」と何でもなさそうに返事がある。


「ダメか?」とタイラが首を傾げた。言葉に詰まって、「ダメなことはないです」と都は負ける。

 カツトシに実結のことを頼み、都はタイラと外へ出た。


 外は少し肌寒く、都は吐いた息で手を温めようとする。そんな都を見て、タイラは『どうしてこの女は、こんな薄着で外へ出てきたのだろう』という顔をした。しかしすぐに『俺が呼んだからか』というようにハッとして、彼自身が着ていたジャケットを都の肩にかけてくれる。

 ありがとう、と言いながら都は笑ってしまった。注意深く見ていると、彼は結構わかりやすい表情を見せる。


「それで、どうだったんだ?」

「ええ。実家には叔母夫婦が住んでいたわ。やっぱり父と母は事故だったみたい。叔母夫婦には、本当にお世話になりましたとお礼を言えた」

「遺産とかの話にならなかったのか。君、結構お嬢様だろう」

「……相続は放棄することにしたわ。代わりに、住民票をね、置かせてもらえることになったの。これで実結を学校に通わせることができる」

「どうして相続放棄なんかするんだ。君に受け取る権利があるものなんだろ。きっと助けになるぞ」


 都はにっこり笑って、「だって父と母をちゃんと見送ったのは私ではなく叔母さんたちだもの」と答える。そのままにこにこと笑って、不意にうつむいた。「私は両親からたくさんのものを受け取ってきたわ。もう十分」と呟く。

 それ以上深くは聞かずに、タイラは「じゃあ引っ越すのか」と尋ねてきた。都は言葉を詰まらせ、「まだそこまで考えてない。実結とも話をしなければならないし」と首を横に振る。

「そうは言ってもあと2年ほどしかないだろう。ユメノとノゾムの受験のタイミングで考えてみたらどうだ」

 都は立ち止まって、ぼんやり彼の背中を見た。タイラも立ち止まり、「どうした?」と振り返る。


「ないの、居場所が。どこにも、ないの」


 ああ、嫌だわ。そんなことを言いたかったわけではないのに。

 だけど胸のずっと奥の方で、溢れる程たくさんの贈り物を抱えた少女が叫ぶのだ。『こんなものいらないから、私はここにいていいのだと言って』『私にはしかいないのに、私じゃなくてもいいのだと気づかせないで』と。

 わかっている。わかっているのだ。それを彼らに求めるのは筋違いだと。彼に────縋るのは、間違っていると。


 ごめんなさい、と言いかけた都の手をタイラが掴んだ。「座ろうか」と、ベンチを指さす。都は小さくうなづいた。

 遠くに橋が見える。赤い橋を、こんな時間だというのに多くの車がスピードを出して渡ってゆく。


「俺は別に、出ていけと言ったわけじゃない」

「はい」

「ただ君が、俺やあいつらに気を使ってどこへも行けないでいるなら、それは気にしなくていいと思ってる」

「……はい」

「その上で、これからどうするかは……そうだな。実結ちゃんと一緒に決めればいい」


 風が吹いて身を縮ませる。「私、そんなにひどい顔をしていたかしら」と呟けば、「いや……まあ、そうだな」と歯切れの悪い答えがあった。


「実家に帰って叔母さんたちに挨拶をして、お墓参りもしたのだけど、両親が本当に亡くなったとは思えなくて。自分から家を出て連絡もしなかったのだから、実感がないのは当然ね。だけど『幸枝ちゃんの部屋は片付けてしまったのよ』と何もない部屋を見せてもらったとき、なんだかとっても……虚しくなったの」


 ベンチの上で膝を抱えて、都はぼうっと遠くを見る。海が見えはしないかと建物の先を眺めたけれど、それが海なのか空の延長なのかはわからなかった。

「両親は私自身にほとんど興味がなかったけれど、それでも彼らに愛されていた証拠としてたくさんの贈り物があった。それが綺麗さっぱりなくなった今、私と両親の間には何もなくなった。私は2人にとって何だったのかしら。いつか和解できた時には聞こうと思っていたのに」

 いつか和解できた時には。我ながら、なんて寒々しい言葉だろうと思う。そんな気が自分にあったのか。本当に自分は、両親と和解したかったのか。


「いい娘になりたかった」

 だからいい両親であってほしかった。

「ちゃんと2人の言うことを聞いて」

 だけどそれが当たり前だとは思ってほしくなかった。

「2人とも忙しい人だったから、少し寂しかったけれど」

 寂しいなんてものじゃなかった。そこに存在していい理由すらくれなかった。

「私は父と母を愛していたから」

 だから、愛した分だけ愛されたかったのかもしれない。


 頬を伝う涙は温かいのに、握りしめた手の甲に落ちる時には冷たくなっている。言葉と同じ。散々温めてから出した言葉が、相手に届くころには冷たくなったりしている。

 本当は、


「私は父と母を恨んでいたのかしら。ずっと会いたいとは思っていたし、和解したいと思っていたのも本当だけど、その前にあの2人を言い負かしてやりたいってずっと思っていたの」


 悔しかったのだ。あの2人にとって自分が、不出来な人形のままで終わってしまったことが。悔しくてたまらなかったのだ。


 涙を拭ってふとタイラを見れば、彼はなぜか目を細めて笑っていた。都はぽかんとして、「どうして笑っているの?」と尋ねる。「案外色んなこと考えてるんだなと思って」と返答があり、都は少しムッとした。


「君は自分から家を出たんだろ」

「……ええ、そうね。実結を身ごもった時、堕ろして帰ってこいと言う両親と喧嘩してそのまま」

「じゃあきっと、その時から君と両親の間には


 なにも、と都は呟く。タイラは瞬きをして、「そうだ」と言った。

「君は、両親から貰ったものが消え失せて、自分と両親との間の絆もなくなってしまったのだと言うが。そんなものは元からなかったんだ。君が家に帰らないと決めたその時から」

 タイラは都の瞳の縁をそっと拭って、「捨てられた猫みたいに泣くな。逆だろ。間違いなく、君が親を捨てたんだ」と穏やかに笑う。

「私が……両親を捨てた……?」

「ああ。君を泣かすようなクソ親は、捨ててしまって正解だ」

 目を白黒させて、都は「私が……?」とまた呟いた。ショックを受けたのだと思うけれど、自分でも何がショックだったのかわからない。

 タイラは目を細めて、「そんな顔するなよ」と諭す。


「君は逃げたのではなく選択をし、君のことを見ない親なんかに見切りをつけたんだ」

「私は……」

「誇れよ」


 結局俺にはできなかったことだ、とタイラが言った。あまりにも驚きすぎて、都は彼の顔をまじまじと見てしまう。タイラは穏やかに息を吐いて、「悪い、何でもない」と肩を竦めた。

 沈黙の中で都は、ぎゅっと目を閉じる。こんなに、肌寒いくらいなのに、なぜだか汗をかいていた。

 あなたは、と何とか声を出す。


「あなたは、そう言ってくれるけれど」


 勇気を。もっとたくさんの勇気を。こんなに汚い自分を、それでも取り繕わずに見せる勇気を。だって彼はこんなにも身を乗り出して手を差し出してくれた。

「私はただ、両親を見返してやりたかったの。

 本当は色んなものを貰って、たくさん愛してもらって、それでも上手に“いい子”ができなかった自分に嫌気がさしただけなのに。それを両親のせいにして逆恨みしたんだわ。

 何も返せていないくせに持ち逃げして、自分さえよければそれでよかったの。自分だけ幸せになれればそれでよかったの。

 人に優しくしたのも自分のため。人を愛したのも自分のため。

 だってわたし、自分のためなら人を不幸にできる。人を殺すことだってできるんだから」

 どうして。自分はこんなに怯えているのだろう。怯えている分だけ攻撃的になる。語調は強まり、握りしめた手のひらに爪が食いこんだ。

 あなた、と言った声がヒステリックなほど上擦っていて都は思わず自分の口を両手で塞ぐ。

「あなただって、知っているでしょう……?」そう吐き出した言葉が、彼に縋っているようだった。

 ああ、と彼は吐息混じりに笑う。「知っているよ」と。息が止まるような気がして、都は俯いた。


「それが君の強さだろ」


 信じられない思いで、都はゆっくり顔を上げる。「今さら何を言っているんだ?」とタイラが言う。自分の心臓の音がやけにうるさく響いて、世界はなぜだか鮮明に色を主張し始めた。

 ようやく追いついてきた思考が、視界をぼやけさせる。自分の中の何か大きなものが溶けていくような気がした。


 見えない。彼の目をもっと見たいと思ったのに、何も見えない。

 いいのだろうか。こんな風に言ってくれた人がいたということを、いつまでも覚えていていいのだろうか。彼の言葉を後生大事に持ち続けていいのだろうか。


「そんな風に私を肯定してしまったら、ねえあなたはどうなるの……? 私の身勝手さの一番の被害者が、どうしてそんな風に私を優しい目で見てくれるの。もっとちゃんと責めてくれないと、私はこんなに身勝手な女だから、勘違いし続けるだけなのよ」


 だけど、もうそんなの遅いのだ。


 誰になんと責められようと、もう何度だってどんな時だって、私は────彼の今の言葉に救われてしまうに違いないのだから。


 苦笑しながらタイラが「まあ確かに俺たちはもっと上手く出会えなかったものかと思うがな」と肩をすくめる。「別に今さらどうでもいいだろ、そんなこと」なんて言い捨てた。都は一気に肩の力が抜けてしまい、ただぽろぽろと涙をこぼしながら彼を見ていることしかできなくなる。

 

 それから彼は都から目を離して遠くを見ながら、「みんな君の強さを知ってる」と囁いた。

「今の君が両親と会っていたら、それはもう完璧に論破できただろう。だけどそんなことはする必要がない。なぜなら君の強さを、誰よりも実結ちゃんが。そして俺たちが、ちゃんと知ってる」

 タイラは不意に振り向いて笑う。「それで満足できないか?」と言った。

「死んだ人間を憎めば際限がない。君の人生はそんなことのためにはないはずだから」

 蛇口の壊れた水道のように涙が止まらない涙腺は放っておいて、都はぼんやり遠くの橋を見た。赤がひどくぼやけていて形がわからなかった。


「あなたはいつも、私の欲しい言葉をくれるのね。私ばかりが救われてる」

「そうでもない」

「あなたは優しい人だから。今まで出会った誰よりも、優しい人だから」

「……そうでも、ない」


 そう言ってタイラは何か言いたげな顔をする。こういう時に何を言っても誤魔化されてしまうので、都はあえて何も言わずに待ってみた。するとタイラは目を伏せて、「俺が優しい人間なんかに見えているのなら、それは俺にそうさせる誰かが近くにいるからだ」と呟く。

「それに、今日は君を救ってやろうなんて微塵も考えてはいなかった。いつもの仕返しだ」

「仕返し?」

「いつも君は、俺が言おうと思っていたことを先に言ってしまうからな。その仕返しに、今日はちょっとからかってやっただけだ」

 都はぽかんとして、首を傾げる。それから少し笑って、涙を拭いた。

「そうなの? そういうときは……あなたも同じことを考えていたって教えてくれれば、私が嬉しいのに」

 怪訝そうな顔をしてタイラも首を傾げる。ふふ、と都が笑えば「鼻垂れてるぞ」とタイラはポケットティッシュを差し出してきた。都は顔を赤らめながら静かに鼻をかむ。


 ティッシュを近くのゴミ箱に捨てるために立ち上がると、タイラも立って伸びをしていた。

 何だか名残惜しくなって、都は空咳をし口を開く。

「よ、よろしければコーヒでも飲んで帰りませんか?」

 そう言って、深夜もやっているチェーンの喫茶店を指さした。タイラは目を丸くして、頭をかく。それから少し考えて、言った。


「俺も今、同じことを考えてた」


 長く感じた沈黙の数秒。涼しい顔をしているはずのタイラの耳が、そこはかとなく赤い。それに気づいた時、都は先程の比ではないくらい頬が熱くなった。

「あっ………………ありがと、う……ございます………………」

「なんで敬語なんだよ」


 ぎこちなく2人で歩き始める。こんな顔でコーヒーなど飲めるだろうか。

 夜道は他に歩いている人もいなくて、もう会話なんかもなくて、それでも『やっぱり帰ろう』とはお互いに言い出さなかった。ただ秋も終わりかけのこんな夜が、とびきり長くてよかったと、ぼんやり思った。

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