★とある義母志望の穴埋め

 かちゃかちゃと小気味よく卵をとく音が聞こえ、章は正座したまま汗を拭う。そっと携帯電話を掴み、『これはどうしたことでしょうか』とメッセージを送った。送り先は平和一だ。

 いま章の住処のキッチンには、母である美雨が立っている。なるほど文字に起こせばそれほど違和感はない。しかし。しかしである。

 彼女は章の母である前にこの街の女王である。料理をしているところなど、誰も見たことがない身分なのである。


 タイラから返信があった。『あいつが料理をするからって何だ。俺の方が上手くできる』とのことである。タイラさん、そういう話じゃありません。


 溶き卵を火にかけたらしく、激しい音といい匂いが漂ってきた。章は静かに喉を鳴らして恐る恐る様子を探る。

 それから、このいたたまれない想いをどうすればいいのかと視線をさ迷わせた。助けてほしかったが、残念ながら章にとって助力を求めるべき人間というのは平和一くらいしかいない。一応、『どうすればいいと思いますか?』と聞いてはみたが、『何を言っているんだ。食えよ』と当然のように返ってきた。それはそうですが。

 そんな章の目の前に、白い大きな皿が置かれた。

「オムライス……でしょうか」

「他にどのような料理に見えまして?」

「……ええ、完璧なオムライスに見えます。さすがです、お母さん」

 そうでしょう、と母は胸を張る。章は苦笑しながらスプーンを握った。


 オムライスにはケチャップで章の名前が書いてある。それを一口すくい、口に運んだ。ああ、と章は目を細める。

「美味しい、ですね」

「ほんとう? 料理も久方ぶりなので、どうかしらと思ったのだけど」

「美味しいです。なるほど、オムライスはケチャップをかけた方が美味しいですね」

 美雨は自分の頬を両手で覆って、「それはよかった」と笑った。オムライスを食べ進めながら、章は「しかし……その、お料理をなさるとは思いませんでした」と呟く。

「料理がでしょう?」

「いえ……その……」

「よいのですよ、事実としてこの国に来るまで私は料理などしたことはありませんでしたからね」

「少し意外でした。お料理などなさらなくても食事に困らなかったかと」

「まあ、困りはしませんでしたわよ。だけど……どうしてもあなたのお父さんに手料理を食べさせたくて友人に習ったのですわ」

 食べ終えた章はスプーンを置いて、「友人とは、タイラさんのことですか」と尋ねてみた。美雨はいやそうな顔をして、「あの男に物を教えてもらおうとすると間違いなく怒鳴り散らされますわ。別の友人ですわよ」と答える。どうやら一度はタイラに何か教わったことがあるようだ。

「マコさん、という方ですか?」

「……彼女はあまり料理が得意ではありませんでしたからね。主にレミさんに教えてもらい、試食をタイラとマコちゃんにお願いしていました」

「それは……」

「お察しの通り、阿鼻叫喚の図でしたわ。そうして何とか人並みに作れるようになった料理第1号がこのオムライスになりましてよ」

 長い髪をかき上げながら、美雨は目を細めた。章は“阿鼻叫喚の図”を想像して少し汗をかく。マコという女性についてはよくわからないが、不思議とその空間は目に浮かぶようだった。


 こほん、と不意に美雨が空咳をする。「時に章」と声をかけられ「はい」と章は背筋を伸ばした。

「あなたが思いを寄せる女性というのは、料理ができるのですか?」

 ぽかんとして、章は美雨を見る。美雨はといえば気まずそうに目をそらした。「……裕司叔父さんですね?」と聞けば「情報源については黙秘いたします」と肩をすくめられる。ため息をつく章をよそに、また空咳をひとつして美雨は言った。

「料理などできなくてもいいのですよ。私は娘に料理を教えてみたいと常々思っておりましたので」

「も、本橋さんとはそのような関係では……」

 顔を明るくした美雨が、「本橋さんとおっしゃるのね。あの狸ジジイ、名前は教えてくれなかったから」と嬉しそうにする。

「察するに、歳上のお嬢さんですね?」

「なぜそんなことが……」

「十以上ですか」

「……おそらく、ちょうど十くらいかと」

 ふんふんと美雨は何度か頷いた。想像通り、とでも言いたげな顔だ。さすがに章も面白くはない。「貴女のあずかり知るところではありませんよ」と頭をかいた。美雨は眉根を寄せ、「それはもちろん。邪魔はしないと約束しますとも」と唇を尖らせる。ただ、と目を細めた。


「あなたがそれほど入れ込む女性です。あなたが男として十分に成長するまでに、彼女にも一人や二人のいいひとはできましょう」

「……はい」

「ここであなたに言っておきたいことがあります」

「なんでしょうか」

「どうしても他人のものが欲しくなった時には、まずその持ち主と懇意になりなさい。それがスマートかつクレバーな強奪というものです」

「お母さん、話が飛躍しすぎです」


 美雨はころころと笑い、「冗談ですわよ」と言う。あまり冗談には聞こえなかった。

「邪魔しませんから、お名前くらい教えてくださらない?」

「本橋……イブさんという方です。今は交番に勤務してらして……その、本当に接触なさらないでくださいね」

「モトハシ、イブ……ふふふ、いいお名前ではありませんの」

 優雅にティーカップを傾けながら、「しかしどこかで聞いたことがある名前ですわね、交番勤務のモトハシイブさん」と呟き、それからいきなり目を見開いた。


「あきら、」

「はい、お母さん」

「その方……いえ、何でもありません。今日のところはこれで失礼いたしますわ」


 何かそそくさと立ち上がり、美雨は服の皴を伸ばして出て行ってしまう。それを章は呆然と見送った。




☮☮☮




 テーブルに手をついて、「ほんっとーに! あの時! 追いかけっこであなたの側についたお巡りさんの名前が本橋イブなのですね!?」と美雨は吠える。ため息交じりに渋い顔をして、「そう言ったろ? いきなり何だよ」とタイラが言った。

 突っ伏した美雨は「やだーっ。未来の嫁を殺す気で追いかけてしまったのですわー!」とわんわん泣く。事ここに至ってタイラは「なるほど」と合点がいったように頷いた。

「章のことか」

「あなたもご存知だったんですの!? 言いなさいよ早く!!」

「未来の嫁とは気が早いな。あいつら確か一度食事をしたくらいじゃないか?」

「詳しく教えてくださる!?」

 緩慢な仕草で煙草を取り出し、タイラはため息をつく。「俺たちの追いかけっこのことなら、どうせ章も知ってるぞ。あいつだってあの頃は、この街を牛耳ってたわけだからな」と言ってやれば、美雨は「うっ」と言葉を詰まらせた。


「それは今更仕方ありませんけど、できれば彼女の方の好感度を上げたい……」

「殺す気で追いかけ回しておいてか?」

「あぁーん、どうして彼女を巻き込んだんです! というかどうして彼女はあそこで乗り込んで来たんです! あんまりにも無鉄砲なのではなくて!?」

「そういう女だぞ」

「なるほどお強い!!!」


 やだやだー、と美雨がテーブルを叩く。「娘と仲良くなりたいーっ」と叫ぶなどした。「お前の娘じゃないけどな」とタイラは涼しい顔だ。

 すん、と無表情になった美雨が姿勢を正す。

「絶対にあのお巡りさんの好感度を上げます」

「ろくなことをしないんだろうなという確信がある」

 見ていなさい、と言って美雨は出ていく。肩をすくめながら煙を吐き出し、タイラはちょっと苦笑した。




☮☮☮




 後日のことである。タイラの元へやってきた本橋が、「あのぅ、タイラ……依頼したいことがあるんですけどぉ」と伏し目がちに言ってきた。

「なんだか最近、本橋を名指しで交番に贈り物が届くんですよぉ。新鮮な野菜とか肉とか魚とか。最初のうちは『どこかで狸でも助けたんじゃないか』とか笑い話にできたんですけど、最近はちょっと怖いかなって。さすがの本橋もストーカーとか……考えるので……。こんなこと、警察として対処するには忍びなく。ちょっと贈り主を見つけてもらえませんか?」

 聞きながらタイラは半目で、「あー……なるほどな」と呟く。「それは狸というよりは狐だな」と。


「依頼料はいらないぞ、見当はついているからな。俺の方からきつく言っておくから、まあその食材で鍋でもやるといい」

「ええっと、どなたからなのかお聞きしても?」

「いや…………」


 珍しく言葉に詰まった様子のタイラが、「今回は勘弁してもらえないか。その贈り主バカの代わりに俺から謝るから。騒がせて悪かったな」と頭をかいた。本橋は目を丸くして、文字通り狐につままれたような顔で帰っていく。

「あの女はどうして学習しないんだ?」とタイラは独り言ちた。

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