手鏡に跨る(三)

 菊門まわりの汚ないくさむら。どのように呼びならわすのが適当か。

 たとえば鼻毛は鼻腔に生い茂るものだ。耳毛も同様のていをあらわす。

 眉毛はその漢字があらわすごとく目のすこし上に生えている毛である。

 いまから除こうとしている汚叢は眉毛寄りとなる。迭夜てつやのことを肛毛と呼ぶことにした。

 糞が付着く。毎回それを避けられるだけでも、迭夜にとって労苦をはかる値があった。

 たとえば肛毛に付着いた糞が下着につけば洗濯機が汚染される。迭夜は下着と手ぬぐいを分けて洗ったりはしない。ともすれば汚れを洗い去るつもりのはずが逆に糞汁がしみた布きれの生産に勤しむことなる。すなわち糞汁まみれの手ぬぐいで顔をふき、糞汁まみれのシャツをまとって、外で糞をしたあとには糞汁まみれの手巾ハンカチで水気をぬぐいとる。枕カバーを洗濯したこともある。糞汁を枕にしていることに気づきもせず鼾をかいていたわけだ。

 ふりかえれば産道からまろび出たのち、やがて陰毛が生えそろった頃合いには肛門まわりも同様のありさまであったはず。素裸ですごした日など無いから、つまり迭夜は少なくとも二十余年にわたっておのれの糞汁がしみこんだ布きれに触れなかった日が無きことにおののいた。

 迭夜は三度瞬くあいだにすくと立ち上がり、いつも在宅時にまとっているよれたシャツや股引を捨てるように脱いだ。それから迭夜は髭をあてるときにしか使わない手鏡を持ち出した。まずは糞汁を撒き散らしている元凶を確かめたい。

 浴槽部分をのぞけば半畳足らずの洗い場。人並みの背丈がある迭夜が蹲るには窮屈だった。苦しい体勢そのままで直下の鏡面を覗きこまねばならない。風呂場の白熱灯の明るさなどたかが知れている。いくら鏡面の奥に向かって目を凝らしたところで薄暗がりしか視えなかった。

 おのれの肛門とは──世界の裏側である。寺町迭夜は、魔境に魅入られつつあった。

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