手鏡に跨る(二)

 男──寺町迭夜がはじめてかのくさむらうかがい知ったのはいつのことだったか。おなじ叢でも、目下に生い茂る叢が生え初めし頃は、よく憶えている。第六学年に進級したばかりの暖かい季節だった。学校のソフトボール大会から自宅に帰り着いたあと、母子家庭のか鍵っ子だった迭夜てつやは汗を流すためにシャワーを使おうと思って白地のブリーフを脱いだとき──目下の肌色をした崖下に見慣れぬものがいくつか頭を出していたのである。

 カッと顔を赤らめた迭夜は、ただちに刈り取らなければならぬ、恥を覆い隠さねばならぬと早合点して、使ったことはないのになぜか用途を知っていた母のムダ毛処理用のカミソリを探り出して、おのれの性徴の証を血がにじむのも構わずに取り繕った。刈り取ることの是非はともかく、いま思えば我がことながらシェイブクリームを塗るくらいの知恵はあって欲しかったと思う。

 白昼にようやく刈り取ったはずのものが一昼夜をすぎるとまた生えてきた。二度か三度のいたちごっごを経て、迭夜はおのれの性徴というか成長を受け入れるに至った。いまだ転校生気分が抜けなかった迭夜には心を許せる友人がおらず、年季が入った母子家庭すなわち父親の長きにわたる不在のせいでセンシティブな相談を望めるような相手もなく、性徴にまつわる心の前準備もできていなかったのは我がことながらすこし不憫である。

 迭夜は、我が血肉の元となった男の貌をいまだに知らない。迭夜の母はかつての伴侶のことをけっして語ろうとしなかったからだ。母方の祖母が保管している写真アルバムにはいくつも飛び地の空白があった。

 母の姉は迭夜の父を「いい男だった」とよく讃えて語り聞かせてくれたが、そのあとに決まって「おまえは…ひいじいちゃんの血を受け継いだみたいだねえ」と皮肉まじりの笑みを浮かべる。それが不細工な貌のことを揶揄からかわれているのだとわかって以来、いつも迭夜は傷ついていた。それなのに母方の祖母がきまって迭夜の父の思い出語りをしたがるものだから、遺伝的表出の評論がはじまるのを察知するやいなや、迭夜はどうにかして話頭を父に関するものから遠ざける習性のようなものが身についてしまった。やがて親族たちは迭夜のそぶりから「迭夜は自分を捨てて去っていった父を忌まわしく思って恨んでいるのだ」と解釈してしまい、迭夜も迭夜のまわりの者たちも思い出がたりを控えるようになってしまた。

 望んだのか望まなかったのかよくわからないうちに迭夜は実父を恋しく思うことを自分に許さずに父親代わりの存在を求めることもないまま第二次性徴期をやり過ごした──そのせいで目下の崖下をよく考えもせずに削るような考えなしの間抜け野郎に育ってしまったのかもしれぬ。

 二十余年の時をてて、迭夜はふたたび同じことを繰り返そうとしていた。危急存亡でないにもかかわらず、なぜか秘門まわりを手ずからに磨かずにはいられない気運に囚われてしまっていた。ただひとつ成長があるとすれば弱酸性の肌荒れしにくいシェーブクリームを用意したことだった。

 迭夜はもういちど視線を落とした。もっぱら風呂場でひげを剃るときに使っているその手鏡にはが声を発することもなく蠢いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る