蟻の葬列

マフユフミ

第1話

月の美しい夜だ。

うっすらかかる雲さえも、計算し尽くされた芸術のように見る者を虜にする。

青白い光に照らされる闇はその影をより一層引き立てて、深まる夜をどんどん静かなものにする。


私はそんな夜の中、人気のない寂れた公園にいた。

錆びたベンチは、今後座る者が現れるなんて想像もしていなかったかのように、ひどく鈍い音を立て軋む。

何もない夜の空間に響くその音が広がる静寂をを切り裂くみたいで、ほんの少し笑った。


別になんてことない夜のはずだった。

いつも通り仕事して、失敗したりフォローしたり、なんだかんだで一日のノルマを終えて。

さあ帰ろう、と乗り込んだ満員電車。

窓からふと見上げた月が青白く揺らめいていて、その揺らぎを美しいと思ってしまえばもうダメだった。


ああ、今たぶん泣きたいんだ。


やっとのことで辿り着いた自宅の最寄り駅のちょうど裏に、人気のない公園があるのは知っていた。

ふらふらと、導かれるようにそこに入る。


このぶれぶれの気持ちのまま家には帰れなかった。そんなことしてしまえば、きっと、自分を嫌いになる。

最も私が私でいられる空間を、そんなもので汚したくはない。

八つ当たりとか、甘えとか、意味の分からない涙とか、そんな無様な姿はすぐさま殺してしまいたかったのだ。

寂れた公園が、今の私にはお似合いだ。


何をするでもなくベンチに身を委ねている。

相変わらず、月は美しい青い光に揺らめいているし、ここには私以外誰もいない。


それなのに、なんで泣けないんだろう?


あんなに泣きたくて苦しくて、逃げるようにここに来たのに。

謎の焦燥感が私を包む。

せめて一滴でも涙を流せたら、この胸のモヤモヤも洗い流せる気がするのに。


焦れば焦るほど、気持ちは空回りする。

ただ苦しくて苦しくてたまらない。

私はなぜここにいるのか、なぜ泣きたかったのか、何もかもが分からない。


もう帰れない。本当は帰りたくてどうしようもないのに。

哀しみの理由も、帰り方も、何もかもが分からなくなっていた。


ふと顔に影が差す。

見上げると、美しく揺らめいていた月は重い雲に隠されていて、跡形もなく空から消えていた。

「なんで?」

思わずこぼれ落ちた声は情けなく震えている。

月にさえ見放されたなら、私はこれからどうしたらいいんだろう。


気持ちの持って行き場がなくて、仕方なく俯いた。

妙な喪失感でいっぱいで息苦しいほどなのに、いまだ泣けそうになくて。

重い溜息がこぼれる。

そのとき、目の端に何かが蠢くのが見えた。

「…何?」


足下には、いつの間にか黒い列が延びている。それは不安定にゆらゆら揺れているのにも関わらず、同じ場所に向けて進んでいる。

「…蟻?」

目を凝らして見てみると、それはまさしく蟻だった。

蟻が、長い長い行列を作っているのだ。


行列はどんどん進んでいく。

次から次へと現れる蟻は、無数に沸いてくるかのようだった。


蟻の行列の先には一体何があるのだろう。

酷く沈んでいた気持ちの中で、一つの興味が生まれる。

こんな夜に、蟻を引き寄せる何か。

どうしてもそれを知りたくなって、私は蟻の行列を辿っていくことにした。


こんなところで何をしているんだろう。

冷静な自分がそんなことを思うけれど、今さら何を取り繕うことがあるだろう。

思いに任せて、私は歩みを進める。


行列の先頭は、何か大きな白いものを運んでいるようだった。

薄くて広い白いもの。

どうせビスケットとか飴とか、甘いものを運んでいるのだろうと思っていたのに、それには食べ物感が全くなくて不思議に思う。


一心に運んでいる蟻の邪魔にならないように、先頭に追いつく。

よくよく見ると、運ばれているのは花びらだった。


木から落ちたのだろう白い花びらは、公園の至る所に散らばっていた。

生命力を失ったその白は、夜の闇によく映える。

蟻たちはそのうちの一つを運んでいるのだろう。


甘い香りがしたのかもしれない。

散りたての花には少しの命の匂いが残っているだろうし、それにつられたとしてもおかしくない。


そう一人納得する私の目の前で、その行列はふいに止まった。

目的地に着いたのだろう。

長い距離花びらを運んでいた先頭集団が、そっとそれを下ろすのが見えた。


「…えっ?」

巣穴でもあるのかと思っていたその場に見えるのは、黒く光る羽。

そこには大きなアゲハチョウが横たわっていた。

アゲハチョウには動く気配が感じられない。

すでに息絶えているようだ。


蟻たちは、アゲハチョウに花びらを捧げる。

失われた命を悼むかのように。

そして、次々にアゲハチョウのもとへと向かってくる蟻の行列は、まるで葬列のようだった。

その死を哀しむ。

その命を愛おしむ。

一心不乱にアゲハチョウへと進んでくる蟻の思いが、胸に痛い。


気が付けば、私の目から幾筋もの涙が溢れていた。

さっきまで、あんなに泣けなかったのに。

別にアゲハチョウの死が哀しいわけではない。

一匹の虫の命に入れ込むほど、私は優しい人間ではないのだ。

なのに、どうしても止まらない。


気が付けば、灰色の雲の切れ間から、再び月が顔を覗かせていた。

青白い光は、横たわるアゲハチョウと蟻たちを照らす。

ぼんやり浮かび上がる葬列は、いつまでも途絶える様子はない。


そして私は、いつまでも葬列を眺めている。

バカみたいに泣き続ける私を、月だけが見ていた。


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