CHANGE!!

花野咲真

CHANGE!!

 冷えきった空気。笑わぬ客。詰まる言葉。

 火照る身体。苦笑。つまらぬ脚本。

 目の前で行われている演劇を眺めながら、俺は頬を一滴の冷や汗がつたうのを感じた。その一滴は、己の体温を全て吸い取っていって、俺は冷えて死んだ。


 行きつけのラーメン屋のカウンターに座りながら、またあの時のことを思い出してしまった。

 半年前のあの悪夢を。

「はい、ラーメン並、麺固め、味濃いめ」

 隣に座る愛ちゃんにラーメンが出された。茹でる時間の都合上、麺を固めで頼んだ人の方が早く来る。麺の固さを普通で注文した人は、固めで注文した人よりも大体一、二分来るのが遅い。

「じゃあ先に食べちゃうね」

「どうぞ」

 右奥の壁にかかったテレビでは、驚愕チャンジとかいう番組が流れていた。チェンジと言っても、要は太っていた人がダイエットをして何キロ痩せましたって話で、今紹介されている女性は、昔は九十キロ近くあったが、片思いしていた男に「デブすぎ」とこっ酷く振られたのをきっかけにダイエットをしたらしい。現在は普通の体型になり、彼氏もいるとのことだ。痩せて一番変わったことはと聞かれ、彼女は「自分に自信が持てるようになったこと」と語っていた。

 自信。

 俺が以前持っていたもの、それこそ大学に入った頃は人に配って歩きたいほど持っていたものであり、けれど今は無くしてしまったもの。失ってしまったもの。

 ラーメン屋でなに暗いこと考えてんだか。そんな風になんとなく気持ちを切り替えた時、俺にもラーメンが出された

 俺が麺を一口すすると、愛ちゃんが口を開いた。

「昨日さ、サークルの友達と勝くん達の演劇見てきたんだけどさ、結構凄かったよ」

「へー」

「なんか、プロジェクターとか使って映像壁に映してたし、照明とかもめっちゃ綺麗だった」

「そうなんだ」

祐介ゆうすけは、勝くん達の見に行かないの?」

「多分行かない」

「あたし、祐介が行かないって言うから友達と見てきちゃったけど、やっぱり見に行くって言うなら全然行くよ。二回でも三回でも見たいくらい、いい演劇だったし」

「いや、いいよ」

「……祐介はさ、もう演劇は作らないの?」

「あぁ、もうやらない」

 そんなにいい演劇を勝達が作っているという事実が俺の心を沈ませるし、俺の自信を奪っていくんだ。


「そういえばさ、祐介最近ゼミの女の子と仲良いでしょ?」

「はぁ?」

「あの子だよ。いつも髪を後ろで縛ってる」

「あぁ」

 確かにゼミで仲良くなった子はいる。だけど俺には愛ちゃんというれっきとした彼女がいるわけで、よこしまな考えなど持ったりはしていない。

「それがどうかしたの」

「別に。なんでもないんならそれでいいけどさ」

 じゃあ聞くな。

「でも祐介が悪いんだよ。彼女がいるってことちゃんとみんなに言わないから」

「いや、そう言われても」

「祐介があたしのことをみんなに教えないのは、いろんな女に手を出すためじゃないってのは分かってるけど、そのせいで傷付く子もいるんだからね」

「うん、分かってる……」

 俺は、俺が愛ちゃんと付き合っているということを誰にも言っていない。

 学部も違うため大学内でわざわざ会ったりはしないし、デートも大学からある程度離れた場所を選んでいる。

 それは断じて、いろんな女子に手を出すためではない。

 だからといって、中学生みたいに「恥ずかしいから」という理由でもない。

 なんだか、俺と愛ちゃんのことを誰かに教えてしまうと、もうこの関係が俺達だけのものでなくなってしまうような、そして行く末を誰かに期待されているような気分になってしまうのが嫌なのだ。

 我ながら痛いやつというか、ちょっとキモいなと思うが、最初は理解してくれなかった彼女も、今はなんとなく分かってくれているため、これでいいんだと思う。

「でもさ、絶対バレてないとも限んないよ。こうやって二人で食事してたり、お互いの家に泊まりに行ったりしてるじゃん。そういうとこ見られてる可能性だってあるわけだし」

「まあそれは、知らぬが仏ってやつだよ」


 ラーメンを食べ終わり、二人で歩いて俺の家に向かった。今日は金曜日で、今日と明日の夜は愛ちゃんが俺の家に泊まる。

 独特の重量感をもつ夏の夜風に吹かれながら、俺は愛ちゃんと手を繋いでいた。

「夏だね」

 俺がピーッと口笛を一つ吹くと、愛ちゃんが言った。

「夏だね」

「来年はさ、大学四年で、就活とか何だかんだで忙しくなるだろうし、遊べるのは今年までかな」

「どうだろうね……。そう言いつつ来年の夏も遊んじゃうんじゃない?」

「そうかもね」

 そう言って彼女はニヒヒッと笑った。

「でもさ、やっぱ今年のうちに遊んどこうよ。二人で旅行するのはどう?」

「旅行かー。例えばどこ?」

「んー、夏だし、京都とか?」

「なんで暑い時に盆地の京都なんだよ」

 俺は繋いだ手をそのままに、彼女の腰にツッコミを入れた。

「じゃあ夏といえばどこなの?」

「夏は暑いんだから、軽井沢とかの避暑地でゆっくりするべきでしょ」

「えーでも、京都の夏、きっと楽しいよ。ほら、送り火とか」

「あー送り火か……」

 そう言いながら、テレビの映像やポケモンの技でしか見たことのない大文字のことを考えた。一度本物を見ておくのも悪くないのかもしれない。

「ね、いいでしょ。はい、じゃあ決まり。今年の夏休みには、京都に送り火を見に行きます」

 大学三年の夏という言葉には、どこか得も言われぬ寂しさがあったが、しかし夏の夜空に浮かぶ大文字は想像するだけで心を熱くさせた。


 自分の興味があることに関しては脅威の行動力を見せる愛ちゃんは、次の週の火曜日には、送り火の日程に合わせた格安夜行バスの手配を済ませていた。

「これで行くからね。他の予定入れないでね」

「はい」

 有無を言わせない勢いだった。

 それから旅行までの日々は、いつも通りであり、いつも通り何かが起きながら、過ぎていった――


 夜十時に新宿駅のバスターミナルから夜行バスに乗り、二時間が過ぎた。バス内は徐々に静かになっていき、愛ちゃんもついさっき眠りについた。

 愛ちゃんとのじゃんけんに勝った俺は窓際の席に座っていて、そこからぼんやりと外を眺めていた。バスの高さから下を走る車を見下ろしていると、何かから取り残された感じがする。

 こんな時に思い出すのは、決まってあの半年前の悪夢だ。俺が自信を失い、自身を見失ったあの出来事。


 簡単に言えば、自分で企画した演劇公演が大失敗したのだ。俺が主宰、脚本、演出を務めた演劇が大失敗したのだ。

 大きな原因の一つは、脚本の遅れ。自分に自信があった俺は、脚本のプロットができた段階で企画を立ち上げた。稽古が始まるまでには書き上がるという自信があったのだ。しかし、予想外に脚本の執筆が捗らず、公演予定日の一ヶ月前になっても脚本が上がらなかった。

 やっと書き上がった頃には、既に本番まで二週間を切っていた。その頃には既に、座組のメンバーのやる気も下がっていて、稽古も思うように進まなかった。

 もう一つの原因としては、俺の自信過剰。全てを俺がコントロールできると思ってしまっていた。そのせいで、仕事を人に振ることができなかった、というかしたくなかった。

 その結果、スタッフさん達の仕事もスムーズにいかず、どんどん作業が遅れていった。

 その惨状を見た先輩達から、公演を中止することも提案されたが、無駄なプライドが邪魔をして、俺は公演を強行した。

 結果は散々。

 三日間で四回公演を打つことになっていたが、一回目である初ステは、あまりにも準備が足りないため中止。

 二回目からは予定通り行うことにしたが、ぐだぐだで、劇場の空気は冷めきっているわ、お客さんはクスリとも笑わないわ、役者は稽古不足なためセリフに詰まるわ。

 それを客席の隅の席で見ていた俺は、ただ固まることしかできなくて、死にたかった。

 お通夜のような打ち上げが終わった時には、俺はもう自分に自信が持てなくなっていた――


 バスがぐんぐんスピードを上げ、脇の乗用車を抜いていくのを見ながら、俺は、大学一年の頃、サークルの先輩がこんなことを言っていたのを思い出した。

「大学三、四年にもなるとさ、自分の目の前には、達成できる目標か、達成できそうな目標しか置かなくなるんだよ。まあ、失敗するのが怖くなるっていうか、自分の限界が分かんだよね。俺はここまでしかできない人間なんだって。ホントはそれじゃダメなのは分かってるんだけどな……。お前はそうなんじゃねぇぞ」

 そう言っていた先輩は卒業して、そこそこの企業に勤めている。

 俺もあれから二年が経って、大学三年になった。

 そしてあの失敗で、俺は自分の限界を知った。

 限界は自分で決めるものだってよく言うけど、それはそうなのかもしれない。だからホントはこれじゃダメなんだ。

 でも、無視しようにも無視できない自分の限界を俺はもう知ってしまっている。

 愛ちゃんが本当は、俺がもう一度演劇をやるのを期待してるのは知っている。

 でも、あの失敗は、忘れたくても忘れられないのだ。

 

 その時だった――

 

 衝撃。

 刹那。

 再度衝撃。

 お腹にぐっとシートベルトが食い込んできた。

 えっ? と思った時には世界が反時計回りしていた。ゴンゴンという凄い音がバス中に響いていた。人の悲鳴も聞こえたと思う。ガラスが割れたような音がして、右頬がじわっと暖かくなった。でも何が起きているかは分からない。

 衝撃に次ぐ衝撃。回転している。

 そして、あぁ死んだかもしれないな、ただそれだけだった――



 なんだかどっと疲れていて、ひどく身体が重い。そして視界が真っ暗で、自分がどこにいるかも分からない。だけど、なんとなく生きている気がした。ここが死後の世界とは思えなかった。まあ何の根拠も無いのだが。

 ふと何かの音がしているのに気付いた。近くでしているはずなのにぼんやりとしか聞こえず変な感じだ。

 ずーっとその音に耳を澄ませていたら、徐々に鮮明になっていき、それと同時に視界が明るくなってきた。

 瞼という存在があったことを思い出し、目を開けてみようとした。

 そして俺が見て聞いたものは、白い天井と人の話し声だった。


「祐介!」

 俺が目を開いて数秒で、女の人の声がした。

「祐介! 目を覚ましたの。ねぇ、お父さん、お医者さんを早く。早く!」

「そう騒ぐな。祐介もまだ目を覚ましたばかりなんだから。とりあえず落ち着け」

 どこか見覚えのある男女が叫び合っていた。

 首がなぜか動かせないので目を動かして周りを確認すると、自分の左足が包帯で巻かれ、吊るされていた。

 骨折したのだろうか……? でも、いつ?

「祐介、大丈夫? どこか痛い?」

「だから母さん、騒ぐなって。起きてすぐに話せるわけないだろう。とりあえずお医者さんが来るのを待とう」

 母さん……。 あぁ、この女の人は、そういえば俺のお母さんだった。脇にいる男の人は……、そうだ、お父さんだ。

 なんですぐに分からなかったのだろう。

 そして、なぜ俺は今、病院にいるのだろう――


 両親をすぐに認識できなかったこと、そして、なぜ病院にいるのかが分からないことの理由は、案外単純だった。

 俺は記憶喪失になっていたのだ。

 自分の名前や、家族のこと、生きていく上で最低限必要な知識、例えば、物を手に入れるためにはお金を払う、といったことは忘れていないらしいが、それ以外のことはかなりの範囲を忘れてしまっているらしい。

 俺が「らしい」と言うのは、そもそも何を忘れているのかを忘れてしまっているからだ。

 そして、俺がどうして記憶喪失になったのかだが、原因はバス事故らしい。

 なんでも俺は、京都行きの夜行バスに乗っていたらしく、そのバスが高速道路を走っている時に事故を起こしたらしいのだ。

 両親は、なぜ京都に行こうとしていたのかと聞いてきたが、俺は全く思い出せなかった。何かとても大切なことのような気もするのだが、本当に分からない。

 逆に俺は、バス事故の詳細を両親に聞いたが、彼らは初めに与えた情報以外俺に与えてはくれなかった。

 待合室で売っているテレビカードというものを買えば、病室のテレビが見られるのだが、記憶を失っている今現在、唯一思い出せた信頼できる人物の両親が、教えないほうがいいと判断したものを自分から知る必要はないと思った。


 入院してから一ヶ月が経ち、父親は仕事に戻り、週に一回見舞いに来る程度になり、母親も週に三、四回来るぐらいで、あとはバス会社との訴訟手続きや押しかけてくるマスコミの対応をしてくれているらしい。

 医者の話では、頭の怪我と足の骨折で済んだのは奇跡的であるらしく、二ヶ月ちょっとで退院できるそうだ。

 しかし、記憶喪失に関しては、医者にもいつ完治するか、そもそも治るのかすらが分からず、また病院で治せるものでもないため、自分で記憶にいろいろな刺激を与え、呼び起こすしかないと言われた。

 しかし、呼び起こすと言っても、記憶を刺激してくれそうなのは今のところ両親のみで、友達を呼ぼうにも、アドレスが入っていたスマホは事故の時に壊れ、パソコンにバックアップはとっておらず、クラウドデータのアカウントとパスワードは思い出せない。

 だが、幸運なことに、俺のことを覚えてくれていた友人たちが、まあ向こうは覚えていて当然というか、むしろ忘れられていたらば悲しいのだが、お見舞いに来てくれた。

 ただそれも最近は不定期になって、病室に一人でいることが多くなっていた。


 そんなある日の昼過ぎ。俺がただボーっと天井を眺めていると、この病室のドアが開く音がした。

 この部屋は四人部屋で、俺とおじいさんと、男の人とおばさん。よくおじいさんのお見舞いに来るおばあさんが来る時間にしては少し早いため、男の人かおばさんどちらかのお見舞いかな、と考えていたら、俺のベッドのカーテンがシャッと開いた。

 そこに立っていたのは、知らない女子だった。

 年は俺と同じくらいで、とても綺麗だった。水色のシャツに白色のスカートが夏っぽくて爽やかだ。半袖の隙間からチラリと見えた二の腕には包帯が巻かれていた。

 しかし、初対面の相手。今、俺がもっとも苦手な人間である。

 記憶を失った後の俺と会う場合には、両親か、俺と既に一度会ったことがある友達と来てくれるとありがたい。

 でないと、その人を信用していいかが分からないからだ。

「ねぇ、わたしのこと、覚えてる?」

 はい、ごめんなさい、覚えてません。悪いけど友達のことは全部忘れてしまって、次いでに大学で学んだ経済学の知識もほとんど吹っ飛んでしまって俺は絶望してるんです。

 なんて言うわけにもいかないので、丁寧に返事をする。

「いえ、すみません。覚えてません」

 彼女は俺をじっと見つめてくる。

「君って、彼女いるの?」

「いえ、いな……」

 いないと思います、と言おうとして、なぜか言葉が詰まった。なんだ、なぜ止まった。

 脳の中心から何かが湧き上がってくるのを感じた。

 もうこれは脳科学や理屈じゃなかった。

「あ、あ……、あいちゃん…愛ちゃんという彼女が僕にはいました……」

 そう言い終えた時、一滴の涙が零れた。なに知らない人の前で泣いてんだろ。

 しかし、彼女の目の端も光っていた。

「これ、見て」

 彼女は財布から一枚のカードを出して俺に渡してきた。

 それは俺の通う大学の学生証で、そこにはこう書かれていた。

「経済学部  北沢 愛梨」

 名前が口をついて出た。

「きたざわ あいり」

 愛梨……。

 愛。

 愛ちゃん――

 言葉が出なかった。ただ泣くことしかできなかった。忘れていた大切なものをやっと見つけることができたんだ。

 愛ちゃんが俺にギュッと抱きついてきた。

「愛ちゃん、忘れててごめん」

「ううん、いいよ。だって、今思い出してくれたもん」

「愛ちゃんとの思い出もきっとたくさんあったはずなのに、全部忘れちゃって、ごめん」

「大丈夫。これからまた作っていけばいいんだもん」

 彼女の両手が俺の顔を包み込んだ。

「じゃあ、まずはこれ」

 そうして、変な言い方になるけれど、俺は二度目のファーストキスをした――


 入院して二ヶ月が過ぎ、ようやく退院することができた。大学は一年間休学することにして、その間に忘れてしまったことを勉強し直すことにした。その期間を地元福岡で暮らすことを両親は勧めてきたが、友達がいて刺激も多い東京に残ることにした。

 ある意味、東京での新生活が始まるわけで、俺は何かが自分の中で変わり始めているのを感じていた。


「ただいまー」

 俺がそう言うと、奥のリビングでテレビを見ていた彼女が「おかえり」と言ってくれる。

「今日も遅かったね。稽古?」

「そう。まだ本番は先だけど、今から気合入れてかないと」

 今は八月。俺達は、今年の三月からほぼ同棲と言っていい生活をしている。退院した後、愛ちゃんは自分の大学生活を送りながら、俺のことを全力でサポートしてくれた。おかげで勉強の方も順調で、その合間を縫って、俺は以前やっていたという演劇に再挑戦している。

 何かが変わったのだ。

 それは多分、記憶喪失という大きな問題を抱え、そしてそれを愛ちゃんが支えてくれたからだと思っている。

 俺は記憶を無くす前、初めの一歩を踏み出せない壁を作ってしまっていたのだと思う。

 でもそれが、幸か不幸か、外からの力で壊され、俺は前に進めた。

 でも、人間は本当は強いのだ。外からの力に頼らなくたって、内からの力だけで十分に壁を壊せるんだ。

 今はそう、思える――

「ねぇ、今日の夕食当番、祐介だけど、作れそう?」

「あー……ごめん。材料買ってくるの忘れちゃったし、今日はちょっと疲れてる……かも」

「だと思った。じゃあ、今日は近くのラーメン屋にしよっか」


 懐かしい匂いだった。だけど、このラーメン屋には初めて来る。いやまあ、記憶を無くす前に来たことがあるのかもしれないが、記憶にはない。

 右奥の壁にテレビがかかっていて、ニュースをやっていた。

 

「はい、ラーメン並、普通」

 俺の前にラーメンが出された。

「はい、ラーメン並、普通」

 愛ちゃんの前にもラーメンが出された。

 愛ちゃんが割り箸をとって、俺に渡してくれた。二人が同時に箸を割り、小さくいただきますを言った瞬間、俺はなにか違和感を抱いた。

「あれ、えりちゃん?」

 愛ちゃんにラーメンを出した店員がそう愛ちゃんに聞いた。

「え?……」

「えりちゃんだよね? ほら、一年の頃入っていたサークルで一緒だった松岡だよ」

「いや、その……」

「え、北沢”えり”だよね?」

 彼は人違いをしているのだろうか。それともナンパか? だか、苗字は合っている。北沢なんて苗字、偶然に言って当たるものだろうか。

 その時、テレビのニュースが耳に入った。

「乗客乗員40人を乗せた夜行バスの事故から、今日でちょうど一年が経ちます。39人が死亡し、一人が重症を負ったこの事故は……」

 この事故って、俺が巻き込まれた事故のことだよな……。でも今、40人中39人が死んだって言わなかったか……。

 愛ちゃんを見ると、彼女は笑っていた。

 なんだ、ただの聞き間違いか。

「祐介はさ、わたしのこといつも、愛ちゃんって呼ぶよね」

「うん」

「それはさ、私の名前がアイリだからでしょ?」

「そうだよ」

「でもさ、わたし、本名、北沢きたざわ 愛梨えりっていうんだよね。愛に梨って書くからみんなアイリだと思うんだけど、正しくはエリ」

 え…………?

「わたし、君と同じゼミで、君が彼女いないって言うから結構狙ってたんだよね。でも、ある日、後を付けてみたら彼女とデートしてるから、ふざけんなよって思って。でも、そいつが死んでさ、君が記憶を失くしたでしょ。君があの人のこと愛ちゃんって呼んでるのは知ってたから、ちょうど私も名前に愛って入ってるし、もしかしたら騙せるかなって思ったら、案外簡単だったよ」

 え? なに、どういうこと……?

「あのバス事故で生き残ったのは君だけ。だから、ご両親は、息子に一人生き残ったという重圧を掛けさせないため、事故の詳細を黙っていたし、山のように押し掛けるマスコミに苦労してたんだよ」

「あ、愛ちゃん、そんな悪い冗談はナシだよ」

 冷え切った空気。笑わぬ客。詰まる言葉。

「冗談なんかじゃないよ。わたしは前から君のことが好きだった。だから記憶喪失を利用して、君を峯岸みねぎし 愛香あいかから奪ったの」

 俺はこの瞬間、何が変わったのかを知った。

 俺の何が変わっていたのかを知った。

 変わって欲しいことが変わっていなくて、変わって欲しくないことが変わっていた。

 変化は望んだ形で現れるとは限らない。

 今のこの現実を変えて欲しかった。

 まさに、知らぬが仏だ。


 そしてこれだけの大きな刺激は、俺の記憶を呼び起こした――

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