夢想

「それでは、行ってきます」


所長に声をかけ、測候所を後にする。8月だというのに標高3776mの地では気温1桁の大気が吹きすさんでいた。しかし、今日は妙に気温というものを感じない。それを気にかけることもなく、彼女は静かに赤褐色の小石を踏み足を進める。

今日はやけに登山者が少ない。まだ朝早いためだろうか?いや、普通はご来光を拝むために夜明け前には人で埋まる。何かあったのだろうか。そう思いながら視界の端に鳥居を捉える。それを目指してひたすら歩く。

不意に、世界が揺れる。何かが起きた。地震が収まらないうちに火口を見る。その底に音もなく地割れが現れ、白い煙がもうもうと立ち上る。噴火まで時間がないことを直感した。

今すぐ避難するよう呼びかけようとしたのは観測屋の使命からだった。ところが、上手く声が出ない。喉から空気の流れは出るが、それが耳に届くことはない。助けを求める叫びすら音にならない。


「私が助けましょうか」


いつの間にか、目の前には奥宮の少女が居た。確か、名前を淵上さくらという。黒曜石のように艶のある黒髪をなびかせながら近寄ってくる。


「これは噴火契約書です。姐さんから教えてもらいました。さつきさんの名前をここに書くだけで全ては収まります」

「本当に?」


再び火口を見る。地割れからは今や赤熱した溶岩が天まで届く勢いで噴出していた。


「ええ、本当に。さあ早く」


にっこりとした笑みは全てを救わんとする慈愛に満ちていて。そういえば富士には過去の噴火の際に天女が現れたという記録があったはず。あれは貞観噴火の時だったか。そうか、さつきも天女だったのか。


「いいえ、私は富士のヒメガミ。この山を司る存在です。今すぐ私と契約を」

「今すぐ……」


その紙に手を伸ばす。指が触れる寸前で、再び世界が揺れた。ゆらゆらと視界が歪む。2人の間に地割れが生じた。地震とともに白煙が立ち込め、少女の姿が急速に見えなくなる。



「今すぐ……」

「そう!今すぐです!早く起きてください!」


白に染まる視界が揺れる。いや、揺さぶられているということをさつきは自覚した。声の主は相変わらずさくらのようだ。すると……

上半身を起こす。シーツの白が視界から離れる。天井が近いが、少女の顔はすぐ横にあった。どうやら梯子のようなものに足をかけているようだ。ここが2段ベッドの上段であることを認識する。そうか、私は夢を見ていたのか。だからヒメガミが実在するという思いを抱いてしまった。どうしてさくらがここに居るかは分からないが、同じ富士の頂に住んでいるのだからこういうことがあっても良いだろう。枕元に置いてあった携帯電話を手に取り、時間を確かめる。既に午前8時を過ぎていた。かなりの寝坊だった。


「おはよう。起こしてくれたのね、ありがとう」


少女の頭を撫でる。柔らかな髪の感触が心地よい。現実の世界に戻ってきたことを認識した。


「おはようございます。どれだけ揺さぶっても起きなかったので心配したんですよ?」

「それは悪かったわね、なんだか疲れてて……」


欠伸を1つ。そこでふと思う。私はどうしてこんなに疲れているのだろうか?


「まあ無理もないですけどね。1日であれだけ色々とあったんですから」

「そうね、噴火があって、ヒメガミが……」


さくらに続いて梯子を下りながら記憶の糸を辿る。確か富士で噴火があって、下山して新幹線に乗って遠路はるばる九州まで……九州?

足が床に触れる。いま自分たちが居る部屋を見渡す。2段ベッドが1つと机が2つ。そこまで広くはないが2人で住むにはちょうど良い空間だろう。大きな窓はカーテンに覆われている。そちらに歩み寄り、勢いよくカーテンを開ける。


「阿蘇…中岳」

「今日も綺麗に晴れましたね。あ、姐さんが下で朝食を作ってくれてますよ」


姐さん…そう、高草千里のことだ。彼女は阿蘇のヒメガミで、噴火契約書を……

そこまで思い出して、全てが繫がった。噴火もヒメガミも噴火契約も、夢なんかではない。昨日という濃い時間は現実だったのだ。


「分かったわ。行きましょうか」

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