契約
「噴火、契約……ですか?聞き慣れない言葉ですね」
A4用紙の一番上に大書された文字を見て、さくらから率直な感想が零れる。口には出してみたが、今ひとつ理解できない様子でさつきに視線を送る。
「私も初耳だけれど……内容としては、人間と火山が噴火について取り決めを結ぶって感じのようね」
題名の下に記された細々とした文字列に素早く目を通していく。一通り読み終えると、机に紙を置き内容を頭の中でまとめる。こういった作業は日頃の仕事で慣れている。
「噴火契約とは、人間と火山の共生に向けた具体的な行動規範のこと。この文書の場合は……阿蘇火山、つまり千里の噴火活動についての規定ということね。だいたいは理解したけれど、いくつか質問があるわ」
軽く手を挙げる。それを見て、大火山は静かに頷いた。
「うむ、大切な約束となる。誤解のないようにしておきたいからな。それで、質問とは」
「まず最初に、こんなもの必要なの?」
部屋の時間が止まった。空気が凍るとはこういう事を言うのだろう。静寂と沈黙が重なる。
いち早く硬直から脱したのは千里だった。口元が僅かに歪み、低い笑い声が漏れる。
さくらの口も動く。しかし音は無い。上顎と下顎が離れ、ぽかんとした表情になる。空気が外界へと流れるが声にはならない。次第に唇が震え、わなわなとし始めたところで言葉が紡がれた。
「さ、さつきさん!?何言っているんですか!これは、えっと、私たちと人間の関係について決めるものなんですよね?」
「えぇ、そういう内容よ。具体的には、今後1年間の阿蘇がどんな規模で、どのような噴火を起こすか。そして、これを必ず守ると書かれているわ。人間にとって、これほど有難いことは無いわね。だから、」
顔をさくらから千里に向ける。静かに笑う大火山を、睨まず媚びず、ただ対等な目線で見つめる。
「だからこそ疑問なのよ。何故そこまで優しくするのかしら?いったい何を求めているの?その対価は?」
人間から問いかけられ、少し俯きながらなおも微かに笑い続ける。何がおかしいのか、さつきには理解できなかったがひとまず答えを待つことにした。
暫く声は続き、不意に止まる。そして2人に見せた顔も、やはり笑っていた。
「面白い!流石は私が求めた人間だな。しかし答える前に、その疑問にどうやって辿り着いたのか聞かせてもらおう」
「簡単なことよ、あなた達火山は強い。それは人間のどんな力も及ばないほどに。権力、威厳、信頼、金銭、暴力……人間は様々な力と関係を使って、誰かに何かをしてもらって生きているわ。それが約束というものよ。ところが」
未だに混乱している様子のさくらを見つめる。いや、正確には混乱と焦りだった。せっかく言われた通りの条件に合う人間を連れてきたのに、あろうことか人間にとって救いとなる契約に疑問を抱き必要性を問うた。このままでは契約どころか対決になってしまうのではないか。そんな思いから来る焦りが続く話の理解を妨げ、混乱を引き起こしたのだった。さつきはそれには気づいていない。もっとも、もし気づいていたとしても話を続けただろうが。
「あなた達は、火山は強すぎるのよ。どんな力も関係も、噴火という純粋な破壊には勝てない。だから人間の慣習や文化に縛られる必要が無いのよ。もちろん約束や契約といったモノは意味が無い。火の前の塵に等しいのだから。結んでおいても、面倒なら全て滅ぼしてしまえばいいのよ。だから訊いたのよ、『こんなもの必要なの?』」
ようやく、さくらは理解した。確かにそうだ。人間は弱い。あまりにも脆いから、何かに頼らないと生きていけない。そんな、弱く儚い人間がとても好きだ。だけれど自分たちとは違う。強ければ約束を守らなくていい?そんなことは考えたくなかったが、もしその気さえあれば……自分の存在そのものが少し怖くなり、寒気がした。
では、この契約書は何なのか。人間を油断させておく罠だろうか?いや、違う。千里がそんな卑怯な存在ではないことは、よく知っていた。それに、人間くらいならわざわざ策を練る必要は無い。であればこれは真意でやっていることか。何のために?どうしてそこまでするのか?ようやく、ヒメガミの思考は人間に追いついた。
「さつきさんの言った通りですね……だとしたら姐さん、この契約書の意図は何なのですか?」
「そうだ、本来なら私にこのようなモノは必要無い。噴火など、したい時にすればいい。人間に配慮することなどない。そう思ってきた」
「その結果として、私たちがどれだけ被害を受けることになろうと、ね」
再びさくらは驚いた。この人間はいったい何なのだ?これまでも、ヒメガミの秘密を知った人間は居なかったわけではない。そして必ず、その力を恐れて怒りを買うまいとしてきた。それがどうだ、恐れないどころの話ではない。明らかに喧嘩を売っている。どうしてこんなことができるのだろうか。つい数分前に火山には勝てないと言って絶望しておきながら、怖くないというのか?いや、そんなことを考えている場合ではない。今は千里を宥めるのが先か。なんとか庇おうと口を開こうとして姐の表情を伺うと、
「その通りだ。これまで、どれほどの人間を傷つけ殺してきたか。なんとでも思ってくれ。しかし、それをなんとか変えたいと思っている。だから、この契約が必要なのだ」
顔に怒りはなかった。代わりにあるのは悲しさか、それとも寂しさか?数万年に渡る千里との付き合いで見た事のない色が、そこにはあった。
「……まぁ、いいわ。そういう事ね。私としては納得できたわ。人間の文化を使ってくれるのなら色々とやりやすいわ」
さつきも、それ以上は強く出れなかった。何故か、ここには立ち入ってはいけないと直感したのだった。
「えっと、それじゃ契約の必要性はこれで問題ないとして……もう1つ、重要な疑問があります。この契約に対価はあるのですか?」
「そうね、そこなのよね。この文書だと一方的に噴火活動の内容が書かれているだけで、いわば制限というか誓約なのよね。もちろん、交換条件なしでも問題はないのだけれど」
2人が考えていることは今や同じであった。契約とは、言い換えれば何かと何かを交換する約束ということ。この言葉の含意を知らずに使う大火山ではあるまい。果たして。真意が伝えられる。
「対価、か……確かにそうとも言えるな。私が求めるものはある。人間にしか出来ない尊い行いだ」
それを聞いて、さつきは眉をひそめる。
「あら、てっきり何かの予算かと思っていたのだけれども。行為……あなたのために働くこととか?」
「それも尊い行いではあるが……もっと、高潔で清らかなものさ」
首をかしげる。金銭でも労働でもない何かの行い?それも、尊いとまで形容するような……
「思い浮かばないわね……さくら、あなたは?同じ火山なら何か分かるんじゃないかしら」
問いかけられたもう1人のヒメガミであったが、しばらく額に手を当てて考え込んでから答える。
「まったく想像できないですね……姐さん、いったい何なんですか」
「それはだな、噴火の代わりに求めたい事は、」
火山が人間に、穏やかに語る。確かに伝える。
「信じること、さ」
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