移動
『ご覧下さい、富士山の山頂に溶岩が現れました』
ヘリコプターの翼が風を切る音に混じって、緊張したようなカメラマンの声が流れる。
画面の中央を占める高峯の頂点では皺だらけの黒い物体が陽炎を上げ、そこに走る亀裂から赤い怒りが覗いていた。
「ちゃんと測候所は残っているわね」
かつサンド2人分を手にしながら、さつきは休憩室の端に設置されたテレビ画面を見る。噴火は火口内だけに留まり、今のところは他の場所への影響は無いように見えた。
「当然ですよ、さつきさんのお願いですからね。火口内が埋まったら西側に溶岩を流します。大沢崩れは誕生から数百年で消えることになりますね」
レジ待ちの列に並ぶさくらは、商品棚から緑茶のペットボトルを5本ほど取る。
「ちょっと貴女、そんなに飲むの?」
「お茶は良いんですよ?カロリーを気にせずカテキンを摂取できるので」
得意げになるヒメガミ。この空間に居る人は、まさかこの緑茶マニアが日本有数の大火山だとは思いもしないだろう。富士は画面の向こうで300年ぶりに活動を再開した火山という認識でしかない。
「まぁいいわ。一緒に払うからこっちに頂戴」
出発時刻を気にしながら、さくらからペットボトルの束を受け取る。
「それで、どこまで行くのかしら」
ホームに上がり、南に向かう新幹線を待つ。思えばこの数時間、さつきはヒメガミに振り回されてばかりだった。突然の火山活動で山頂から追い出されたかと思えば、今度は唐突に九州へ行きたいと言われ新幹線は東京方面ではなく逆に乗り。九州に上陸したが、未だ目的地を知らされていない。
「えっとですね……熊本ですね。そこで在来線に乗り換えます」
少女は柱に貼ってある路線図を見る。それを辿る指は、山頂で見た時と同じく流紋岩のように白かった。淡い桃色の唇は火山で形容できないか……見惚れたさつきは一瞬そう思ったが、すぐに我に返る。
「そろそろ目的地を教えてくれても良いんじゃないかしら?宿を予約しないと寝る場所が無くなるわ」
列車を待つ列に並ぶ。平日の昼間だからか乗客はそこまで多くない。まだ夕暮れまでは遠いが、終わりの見えない旅は精神的に疲れることをさつきは知った。しかし、行き先を知っているさくらは、暖かい微笑みで振り向いた。
「実は、今夜の泊まる場所はもう確保してあるんですよ。高草さんって人の家なんですよね。私にとって姉みたいな人です」
とりあえず、マトモな場所で寝られそうと判明したのでさつきは一安心した。火山の神に姉のように思われている人とは何者なのか気にはなるが、天使のような笑顔で「火山で野宿します」と言われなかったことを本当に喜んだ。
「それは良かったわ。その人は」
どこに住んでいるのか、と言おうとした途端にポケットが震える。携帯電話を取り出して画面を見ると岡松の名前があった。
「もしもし、井鷹です。所長、いきなり有給を使うのは流石に不味かったですか?」
『あぁ井鷹くん、それは問題ないんだがね、別の件で上から連絡があった』
上というのは火山センターの事だろうとさつきは思う。富士火山測候所から観測員が撤退したのはまだ数時間前の出来事である。本来は東京に戻って同僚たちに報告をするべきなのだろうが、何しろ外ならぬ富士の女神からのお願いである。それに、実年齢はともかく、さくらの外見は上に見ても高校生ほどの歳にしか見えない。そんな子が九州まで行こうとしているのに1人で行きなさいとは言えなかった。もし良からぬトラブルに巻き込まれた時の事を考えると恐ろしい。街ごと炭化してしまいそうという意味でだ。そういう事情で、消化されていない有給をしばらく使うことにしたのである。それが問題ないとすると何だろうか。
『急なんだがね、井鷹くんの異動が決まったそうだ』
「なるほど、そういうことですか」
観測員の生涯で避けて通れぬものは幾つかあるが、そのうちの1つが転勤・異動である。理由は1つではないが、ある地点だけに留まらぬことで観測屋としての経験を積み、成長を促す……というのが建前であった。ちなみに本音のところは、僻地や極端な離島での勤務という負担を軽減するためであるらしい。
このタイミングでの異動は少し変に思えたが、これから何年続くか分からない活動をしている噴火口のすぐ傍で有人観測を続けることは事実上不可能だろう。そう考えると異動が決まるのも不自然ではないか。そう考えることにした。
「それで、いつからですか?」
『それなんだがな……明日からだそうだ』
「……はい?」
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