御神火

淵上さくらは、空が好きだ。晴れていても曇っていても雨が降っていても、必ず自分の上に居てくれるから。何があっても必ず。だから今も、火口内の岩に腰掛けて天を望む。憧れに近い感情であった。

反対に、地面というものはあまり好きではなかった。ちょっとマグマを動かしただけで簡単に揺れてしまうし、何もしていなくても風雨で勝手に崩れていってしまう。数万年かけて山体を綺麗にしても、ほんの100年で傷ついて見栄えが悪くなる。

だから彼女は、今日この日が待ち遠しかった。前回から数えて300年。少しづつ蓄えてきたエネルギーを解放させる日。それも、最も天に近いこの火口から。この場所を、やっと変えられる。もっと高くできる。きっと叶う。そう思いながら空を眺める。すり鉢状の火口は彼女を静かに包み込む。円かなる空を見上げられるこの場所が、世界で最も好きな場所。


「さて、そろそろ始めてもいいかな」


少女は剣を手に、宝冠を揺らしながら立ち上がる。誰にも邪魔されたくないから、地震を起こして人間には退いてもらった。お鉢の最も深い場所に立つ。火口としては千年ほど使っていなかったため、砂礫と岩が上から流れて埋まってきている。それも今日で終わり。人間が大内院と呼んだりお鉢や中央火口と呼んだり、8つの峰に名前を付けたり3776という数字に意味を見出したり。それも、今日でいったん終わり。記憶も記録も、すべて劫火で無に帰す。そしてもう一度、私のものにする。私だけの霊域に戻す。さくらはたまに、そういう事をしたくなるのだった。


「まずは下準備から。よいしょっと」


手にした剣を逆手に持ち替え、地面に突き立てる。そのまま力を加えていくと砂礫の中に金色が飲み込まれていく。数秒で鍔まで埋まった。目を閉じて呪法を小さく唱えると、黄金の法具は赤い光を放ち始めた。空気が揺らぎ、黒色の大地からは蒸気が立ち込める。少女の姿は白の中に消えた。しかしそれも10秒ほど。残雪や凍土が熱で溶け尽くされると同時に白煙は消え、砂礫も赤く輝く。満足げにそれを眺めた山の神は仕上げの呪法を叫ぶ。


「地よ唸れ、空よ鳴け。岩は溶け煙となれ。最も清き世界の欠片よ、原初の姿を現せ」


勢いよく剣を引き抜く。赤と黒が迸った。



「所長、あれを」


登山客の避難が始まってから2時間と少し経った頃。山を下りるさつきが指差した先、霊峰の山頂から白い雲が昇る。しばらく火口付近に止まった後、次第に太くなり灰色へと変わる。


「井鷹くん、これで撮影してくれ。10秒ごとにシャッターを押して」


数時間前まで居た場所を見ながら、所長はデジタルカメラを胸ポケットから取り出して渡す。そのままバックパックを下ろすと、中から三脚が現れた。組み立てられカメラが据えられる頃には、たなびく煙は黒へと変わり、ゆったりと天を目指していた。


「ヒメガミさまは上手くやっておられるようですな」


音もなく進行した事態に安心したのだろう、犬飼は自分のスマートフォンを手にして動画を撮り始める。


「現在地は富士宮ルート8合目、千年ぶりに山頂からの御神火を拝むことになりました。こうして被害無く過ごさせて頂いていること、大神様の御神徳に感謝するばかりです」


言葉に嘘はないのだろう、翁の頬は濡れていた。感涙であった。本来なら祝詞を奏上するべきですが、と前置きしてから山に向かって頭を下げる。二礼、二拍手、一礼。見事なまでに信仰を体現した。


「犬飼さん、そろそろ行きましょう。ここも安全とは言い切れません。この程度の距離なら、風向きによっては数センチはある火山礫が雨のように降り注いできます」


顔を強張らせながら所長が切り出す。経験豊富な観測屋は、冷静に最悪の場合を想定し続けていた。


「それはなりませんな。さ、井鷹のお嬢さんもこちらへ」


3人は転ばないように気をつけながら、急いで下界へと向かう。



ヒメガミは、再び岩に腰を下ろしていた。溶岩は火口の峰と同じくらいの高さまで噴き上がった後、重力に囚われ窪みの底を赤黒く染めていった。さくらが最も好きな光景がそこにあった。

彼女は山の神。地を従え火を操り強大な力を持つとはいえ、結局は地の者。どうあがいても天に届くことはなかった。そんな自分でも、少しは空に近づける。大地もたまには天に向かう、その事実が何よりも嬉しかった。


不意に、さくらの思考に自分のものではない声が混じる。意識をそちらに向けると、声はより鮮明になった。


『あー、聞こえるかしら。本当にこれで良いのかしら……?』

「聞こえてますよ、さつきさん。何かありましたか?」


法具を預けた人間からの連絡だった。まさか、あの人が自分の正体を知っているとは思わなかったが、それはそれで良い。元から仲が良かったということもあって、さくらは偶然の繋がりを受け入れた。


『とりあえず、避難が完了するまで待ってくれたことに感謝するわ。まだ安全とは言い切れないけれど、人的被害はほとんどゼロで済みそうね』

「それは良かったです。私のせいで何かあっては困りますからね」


人間は脆い。目の前を飛ぶ溶岩の欠片1つが当たっただけで致命的だという。なるべく殺生をしたくないのが、彼女の流儀だった。


『本題に入るわ。ここから規模を大きくする予定はあるのかしら?そうなると厄介なのだけれど』


少し考えてみる。この程度の噴出はいわば序の口。前回のように麓の村を火山灰で埋めることくらいは造作もないことではあるが。しかし今は、そういう気分ではなかった。せっかく顔の分かる人間との繋がりがあるのだ。それを絶つようなことはしなくても良いか。


「いえ、今回はこのくらいの規模にしておきます。溶岩で火口を埋めて、もう少し峰を高くして……風向きが合えば、西の『肌荒れ』を化粧してみます」

『大沢崩れのことね……わかったわ。麓に降りたらまた連絡するわ。それじゃあ……待って、もう1つだけ。測候所は残しておいて』


これも少し考える。あの峰は現状では最も高い地点。天に近づくなら、そこを積み上げるのが効率的ではあるが……


「わかりました、さつきさんのお願いなら断りませんよ」

『ありがとう、じゃあ切るわ』


思考が再び自分の声だけになる。空を見上げながら、ぽつり呟く。


「人間って良いな」


たった100年しか生きられなくて、とても脆くて、自分の身体しか持たないけれど。その弱さが、今のさくらにはとても魅力的だった。もし願いが叶うなら……


そんなことを考えていると、また思考に自分のものではない声が混ざった。あの人間が言い忘れたことでもあったのかな。意識を向ける。


「……姐さん?」

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