ヒメガミ

「ヒメガミって、あの……?」

「おそらく……」


この国の最高地点で、2人の観測屋は揃って困惑していた。それもそのはず。何世代もの先人たちが積み重ねてきた叡智の結晶が指示したのは、都市伝説に会うことだった。


「太古より存在し、人に似て人ならざる者。業火を纏い地獄を従え、悠久に住まう生きた火山……」


オカルトの1つとして、または民話の1つとして。ある者は神であると信じ、ある者は妖怪変化の類と断じる。実体のない、名を纏うだけの形。それをこの緊急時に出現させた文章を、さつきは訝しむ。測候所の退屈さに飽きたお調子者が悪戯をしたのではないか?もしくは、非常事態の過度な緊張を解くための冗談の一種か?

考えるだけ考えたが、結論は出ない。だが今は非常時だ。そして非常時に行うべきことはこのマニュアルにあった。藁をも掴みたい者は決断する。


「所長、私が確認してきます。すぐに向こうの人たちを連れて戻ってくるので、それまでここで」

「わかった。くれぐれも気をつけて。それとこれを」


所長はメガホンを、さつきは無線機を受け取ってから別れる。奥宮まではそう遠くない。



数時間前の喧騒は消え去り、ただ鳥居だけが立っていた。もう避難した後かもしれないと思いながら石造りの建造物に入る。


「誰か居ませんか、こちらは測候所です。避難指示が出されました。速やかに下山してください。こちらは」

「そう声を上げずとも」


気配は無かったが声はあった。奥から見慣れた防寒着と袴が現れる。幣を手にした犬飼は、いつもと変わらぬ調子で話す。


「もうすぐ山を下りますよ」

「避難の準備は出来ていますか?それと……」


口にしようとして躊躇う。こんな時に何を言っているのだと思われはしないだろうか。神職に対してその存在の名前を呼ぶのは失礼に当たらないだろうか。そちらの方面に詳しくない彼女は1秒ほど考えたが、行動あるのみ。意を決した。


「ヒメガミに、会いに来ました」


瞬間、空気が変わった。翁は目を見開き、しばし閉じ、また開いた。


「何処でそれを?」

「測候所の非常用マニュアルです。避難呼びかけの際に会いに行けと」


白地の赤文字を見せる。わずかに幣が揺れる。重い数秒が流れた。犬飼は無言で手招きをし、建物の奥にさつきを誘う。普段とは違う何かを感じた彼女は、ゆっくりと足を進める。



「井鷹のお嬢さん、そのマニュアルでしたかな。内容を知っているのは他にはどなたでしょうか」

「目を通したのは所長と私だけです。印刷ではなく手書きだったので他には誰も見ていないかと」


神札やお守りが入った段ボールが所狭しと並んだ薄暗い部屋に入ると、犬飼はそれらを移動させて床を見せる。石材として使われている黒い溶岩は、平らに削られて気泡だらけの内面を晒していた。


「それは結構。これから目にするものは決して口外しないようにお願いしますね」


懐から鍵が現れ、溶岩に突き立てられる。よく見てみると、気泡に紛れて鍵穴があった。がちゃり。回されると、バネ仕掛けによって床から溶岩の一部が飛び出る。現れた部分を犬飼が握り持ち上げると、地下へと続く階段が現れた。


「ヒメガミさまは中で御座います。さ、どうぞ」


促されて、さつきは静かに地下へと下っていった。



狭い空間があった。1辺が5mほど、高さ2mほどの正方形の部屋。数本の蝋燭のみが光を与える視界にさつきは戸惑い、暗さに目が慣れるまでその場に留まる。しばらくすると、部屋の中心に何者かが居るのが見えてきた。


「あなたが、ヒメガミ…かしら?」

「この声は、さつきさんですね。驚きました。」


流れる髪は黒曜石のように深く艶やかで。身に纏う装束は流紋岩のような白とマグマのような赤。手にする祭具は月の輝き。そして瞳は……


「貴女、もしかして……」

「はい、淵上さくら。私がヒメガミです」

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