観測
「井鷹くん、素晴らしいことをしてくれたね」
「いえ、当然の事をしたまでです」
軽い微笑を浮かべながらロープを巻き取るさつきの手を、所長は包み込むように握る。
観衆の視線が一点に集まった瞬間。歓声と称賛の狭間。僅かに開いた所長の口が告げる。
「『2』だ」
それだけで、彼女にとっては充分だった。この数字が意味するのは「噴火警戒レベル」である。ある活火山が今どれくらいの危険を人間に与えようとしているか。それを表す数字が静穏時の1から上がった。先ほどの地震を受けて、この国の火山観測機関は「これは危険かもしれない」と判断したのだ。
体内でアドレナリンの量が跳ね上がるのを感じる。目だけで所長に返事をした。
業務のため、と周囲の登山客に説明しながら2人は早足で測候所に戻る。
「確認を行おう。マグニチュードは1.9、震源は山頂直下で中央気象台のネットワークでは無感。山腹の山小屋では有感だったそうだ」
飛びつくように自分の机へ向かった所長は、鍵付きの引き出しから1つのファイルを取り出す。白地に「緊急時」と赤で大書されたそれは、さつきがこの職場に着任した日にしか見た事のない物。一生使わないかもしれないと思っていた非常時マニュアルであった。事実、数多くの観測屋がこの測候所を守ってきたが、使われたことはこれまで一度も無い。
「波形を見ると……かなり浅いですね。規模と合わせて考えると、おそらく山体内での発震かと」
さつきが睨んだPCモニタには、富士山周辺に設置された地震計が捉えた、10を超える地震波形が所狭しと並んでいる。その波がどこでいつ観測されたのかを把握しながら揺れを比較することで、地震波がどの地点からやってきたのかを特定することが出来る。本来ならばコンピュータで計算することによって厳密に震源を推定するが、今の測候所には大体の位置を求める……より正確に表現するならば、富士山直下で起きたことが理解できれば問題はなかった。
「もう山体内部か……確かに、この規模であの揺れはかなり震源に近い。時間は無いな……」
2人が警戒しているのは、地震の揺れそのものではなかった。
地震というものは、地下にある岩盤が破壊されることによって発生する。破壊の理由は、その多くが岩盤に加わる圧力が変化したこと。地上で暮らす人間には想像もつかないような莫大なエネルギーが、地下には常に存在している。そのバランスが歪むと、代償として破壊が生じる。
歪みをもたらす原因はいくつか存在するが、そのうちの1つに岩盤へと「何か」が無理やり入ってくるというものがある。地下を蠢くエネルギーの塊が岩石を押し割り、亀裂が出来る際の衝撃が地中を伝わることで揺れが襲ってくるのだ。観測屋として訓練された2人の意識は、刹那のうちに「それ」が何なのかという所に辿り着いた。
「熱水やガスが移動した可能性もありますが、ここは最悪を想定するべきです」
部下の意見に上司は頷く。方針は定まった。マニュアルの扉が開かれる。文章が声となって響く。
「パターン1だ。マグマ貫入の場合。7ページに移動」
マグマ。高温の岩漿。火山という存在を創る地の怒り。それが近づいているというのだ。その先に見える現象は……
さつきの身体を地震ではない震えが貫く。これは恐れではない、武者震いだ。自分に言い聞かせる。所長の机に近づき、足で地を捉えることで自らを制しようとする。しかし思考という叡智は、その地が確固たるものではないことをも伝えてくる。
「第一に野帳と日誌の回収。非常用持ち出しバッグに入れる」
「私が行きます」
全て聞き終わる前に動いていた。部外者には数値と所感の羅列にしか見えない2冊の価値は、1世紀近く続いてきた測候所の観測の末裔というところにある。戦時中の観測屋は、これを防空壕に入れてまで守ろうとまでした。それほど大切なものなのである。何世代もの先達の末弟になる彼女は、そんなことを思い出しながら職務を果たす。
「次、登山者に下山を促す」
「やりますか?」
当然とも思えるマニュアルの指示と、2回目の意見具申の間で所長は一瞬戸惑った。というのも、この先人たちの遺した意志は「ある束縛」を無視しているからだ。公僕であれば順守せねばならない規範、法令である。
この国の法律によれば、避難勧告や避難指示を行う権限は基本的に地方自治体の長にある。要するに市町村長だ。観測屋たちは、あくまでその決定のためにアドバイスをすることしか出来ない。これが公選された者とそうでない者の差である。マニュアルが指示した簡潔な内容はそれに触れていない。いや、これを作った先人たちがそれを知らないはずがない。承知の上で無視せよと命令したのだ。
「これは……」
測候所の長は迷う。言いたいことは理解できる。最悪を想定するなら、1秒でも早く危険地帯から去れと。人命を尊重するならそれが最善手だろう。
しかし一方で、最悪でなかった場合も考えてしまう。もし何事もなかったら?自分の行動が露呈するのは時間の問題だ。違法行為。登山者にデマを流したとして責めを問われるだろう。果たしてどちらを選ぶべきか?
悩む者と待つ者に救いが届いた。静寂を切り裂く電子音。卓上の電話が鳴る。
「私が出よう。こちら測候所です。……市ですか、はい、レベル2です。想定火口域の避難相当です……わかりました、避難指示ですね」
視線が交差する。地元が判断したことで何の躊躇いもなく動ける。持ち出しバッグ、メガホン、「測候所」と書かれた腕章……為すべきことを為すための装備を身に付け、被っていたヘルメットを確かめるように指で弾く。
短い電話が終わった。それを合図に2人は外へと向かう。
「こちらは測候所です。先程の地震により、避難指示が出されました。山頂の皆さんは、あわてず今すぐ下山して下さい。繰り返します……」
馬の背から登山道との合流地点に移動しながら、さつきは声を張り上げる。先人たちはあまり想定していなかっただろうが、今の登山客はほとんどが携帯電話を持っていた。そのため、情報伝達に関しては想像以上にすんなりといった。しかし、問題はここからである。事態が進展する前に大勢の登山客を下山させられるか…いや、下山させたところで、確実に安全と言えるかは不明であった。
「井鷹くん、まだ時間はかかりそうだね」
「そうですね、山頂から完全に避難するにはあと1時間は必要かと。せめて、どこからマグマが出てくるか分かれば……」
遠くから見ると単純な円錐形に見える富士山であるが、実はその広大な山肌には数百を超える火口が存在している。その1つ1つが、過去の業火の痕跡である。山頂から離れれば危険から逃れられるという単純なものではないのだ。さつきの呟きは、富士を知る者にとっては共通の望みとも言えた。しかしそれは人間が知りうる範囲を超えていた。
はずであった。
「それなんだがな、これを見てくれ」
所長が差し出してきたマニュアルを覗き込む。避難について指示しているページの余白に、後から付け加えられたであろう墨書があった。
「避難を呼びかけつつ、奥宮へ行き……」
その先の内容を視線がなぞる。しかし彼女の脳はそれを受け付けることを拒否した。この場所に書かれて良い単語ではない。空想の域を脱しない存在。それがあった。
「ヒメガミに会え」
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