鼓動

足元から突き上げられ、ねじれるような震え。建物が軋む。手にした2つのマグカップが軽くぶつかり合い、金属質な音を立てる。

地震だ。それも大きい。おそらく震源は近い。直観的にさつきは感じた。そう思った瞬間、揺れは消えた。


「震度5強だ」


所長が咄嗟に叫ぶ。彼は、震度が機械計測になる前に観測のトレーニングを受けている。その評価に大きなずれは無いだろう。


「外を見てきます」

「気をつけて」


マグカップを近くの机に置き、足元に転がってきたヘルメットを手にして部屋から飛び出る。



「大丈夫ですか」


記念撮影をしている所を揺れに襲われた登山客たちは、へたり込みながらも無事である旨を口に出す。目立った外傷も無さそうだ。ひとまず安心しながら呼吸を整える。


誰か、と叫ぶ声が聞こえた。「馬の背」の方だ。しばらくは余震に警戒するように登山客へ声をかけると、走らないように意識しながらもそちらへと急ぐ。



10秒ほどで、人だかりが見えてきた。火口を覗き込み、そちらに向かって何かを呼び掛けている。目を向けると、お鉢への急峻な斜面の途中に小学生くらいの男の子がへばりついていた。


「あの子が中に、落ちて下に」

「大丈夫、私が助けます」


母親であろう女性の肩に手を置き、落ち着くように言う。酸素の薄い大気の中では、ちょっとしたパニックで酸素不足になり倒れてしまうかもしれない。そう思いながら、さつきは自分の心拍数が上がっていることを意識した。緊張。呼吸の増加。それを抑えつつ測候所を見る。人影が駆け出してきた。


「ロープをお願いします」


火口への転落は、実はそう珍しいことではない。強風などで煽られて人が落ちた場合のために、測候所には救助用の装備が置いてある。所長はいったん中に戻ると、数秒でまた出てきた。こちらに到着するまでの間に、落ちた子供の場所を確認する。稜線から子供の場所まではおよそ10m。その下にも斜面は続いているが、5mほどで途切れていた。その下は……確か垂直な崖だったはずだ。


所長からロープを受け取り、急いで自分の腰に巻き付ける。少し手が震えるのは余震の可能性が頭にあるためか。火山体の崩れやすさを考え始めた自分の思考を抑える。今考えるべきは、いかにして助けるか。


「皆さんはこのロープの端を持っていて下さい。私が下に降りてあの子を確保したら合図を出します。そしたら引っ張って下さい。それでは」


周囲の登山客に呼び掛け、所長の顔をちらりと見ると、すぐに火口の中へと向かう。子供の横から降りて、少し下まで行ってから確保。これで大丈夫。自分に言い聞かせる。


自分が滑落しないように、赤黒い地面と平行になるように気をつけて降りていく。土の匂い。風。揺れてはいない。どうかこのまま。

数分かけて男の子の隣まで辿り着いた。泣き疲れたのか、ぽかんと口を開けてさつきを見ている。


「もう大丈夫よ、こっちに来なさい」


じわりと距離を詰めて抱きしめる。ロープの端を男の子に結び、上に手を振る。



稜線では、周囲の様子を見に来ていた犬飼が人だかりを見つけていた。


「何があったんですか岡松さん、井鷹のお嬢さんがあんなところに」

「あぁ犬飼さん、ちょっと手伝ってくれませんか」


すかざず、白髪の紳士はさつきと男の子を引き上げる群れに参加する。互いに互いの無事を確認した後、所長は事の経緯を伝える。


「なんとまあ、それでお鉢に飛び込んでいったと……」

「井鷹くんは思い切りの良いところがありますからな。頼もしい部下ですよ」


斜面の端で歓声が上がった。人だかりは大きくなっていたため2人から直接は見えないが、無事に引き上げられたのだろう。

所長はそこに近づこうとしたが、不意に胸ポケットの携帯が震える。


「失礼……はい岡松です。ええ、山頂です。はい……了解しました。確認次第、周知を行います。それでは」

「岡松さん、どうかされましたか」


顔を覗き込まれた所長は、他の人に気取られないように短く伝える。


「犬飼さん、『2』が出ました」


ごくり。唾を飲み込む音が聞こえた。

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