第1章

日常

「外気温は3.2℃、気圧は…」


暗く狭い小屋の中で、彼女は呟く。

端整な顔を照らすのは、PCモニタの青白さと石油ストーブの赤熱のみ。

寒さに震える唇から言葉が零れる度、「観測野帳」と記されたノートに数値が刻まれていく。


「所長、全ての記録が完了しました」

「ありがとう、これを頼むよ」


部屋の片隅で珈琲を啜っていた男が、彼女に円筒形の魔法瓶を差し出す。

彼女は無言でそれを受け取り、自分のバックパックに詰め込む。

蛍光グリーンの防寒具を羽織り、扉へと足を向ける。


「あぁ井鷹くん」


不意に名前を呼ばれ、振り向き


「いつも言っているけど、気をつけて」

「……ええ、行ってきます」


優しい微笑みを見せた後、ドアノブをひねる。




希薄な大気の中、寒さと風は容赦なく彼女を襲う。

赤褐色の地面に足跡を残し、わずかな坂を上ると背の高い石碑とそれに群がり記念撮影する登山客たちが見えてくる。


「日本最高峰、富士山剣ヶ峰……」


酸素を求めながら碑文を口に出して読み、それから振り返り、1分前まで自分が居た建物の玄関に視線を向けると、「富士火山測候所」と書かれた真新しい看板が見える。

これが彼女の日課。そして、ここが彼女の、井鷹さつきの職場。

周囲に何も異変が無いことを確かめてから、ご来光を待つ登山客たちをすり抜けて西へと歩く。



富士山は、それそのものが巨大な火山である。その山頂とは、すなわち大きな火口だ。さつきは、その火口を1周する「お鉢巡り」を朝の習慣にしている。登山客たちはこれを1時間半で踏破するのが標準的な時間とされているが、彼女はこれに2時間を使う。体力は人並み……というより平均以上だが、気に入ったスポットで景色を眺めつつ休憩をするのが、彼女の数少ない山頂での趣味なのである。



大火口を時計回りに進みながら、夜明けを歩き、富士が下界に落とす影を楽しみ、8つある峰を登って、降りる。

その間、彼女の心は無である。高山病ということではなく、頭に浮かぶ雑事を意識的に忘却していくのである。これは所長から薦められた歩き方で、一種の精神トレーニングと言えた。


そうこうしていると、お鉢の8割ほどを歩き山頂の南側に出た。ここは2つの登山道とお鉢巡りの道が交わる地点である。必然的に、登山客の数も増える。


「いつも思うけど、ここは混んでいるわね」


標高3700mを超える高所のため、酸素が少なくなり高山病になる登山客も多い。そのため、歩けなくなり座り込んでいる人々が目に付く。そんな光景を後目にしながら、1つの建物へと足を向ける。木製の鳥居と石灯篭が、ここが神域であることを主張する。そして傍らには、「頂上浅間大社奥宮」と大きく書かれた木の柱。その先にある石造りの建物へ、一礼をしてから入っていく。


「おはよう、今日も人が多いわね」

「さつきさん、おはようございます!」


お守りが並ぶ窓口に居た少女に声をかけると、元気の良い返事が返ってくる。


「さくら、犬飼さんを呼んでくれるかしら?」

「呼ばれずとも、ここに居りますよ」


振り向くと、白髪の男性が立っていた。防寒着の下から覗く服装が、彼が神職であることを物語っている。しかし、どこか執事のような柔和なオーラを纏っていた。


「井鷹のお嬢さん、今日も元気ですな」

「あら、さくらには負けるわよ?」


ちらりと、窓口の少女を見る。登山客たちにお守りを渡しているが、その顔から彼女が照れていることが伺える。どうやら犬飼との会話が聞こえているようだ。


「さてと、今日の分よ」


さつきはバックパックを下ろすと、所長から渡された魔法瓶を犬飼に差し出す。犬飼はその蓋を外し、香りを確かめる。


「ほう、今日はキリマンジャロとコナですか。岡松さんによろしくお伝え下さい。明日は私の番ですな」


所長と犬飼は数十年来の「山頂仲間」だと、いつだったか教えてもらったことをさつきは思い出した。お互いの趣味である珈琲好きが高じて、1日おきに自家製の珈琲を交換し合うのだという。所長はこれを「珈琲文通」と呼んでいる。



「それじゃ、また来るわ」


手を振りながら、さつきは神社を後にする。タイマー代わりの時計を見ると、測候所を出てからまもなく2時間になろうとしていた。


「お気をつけて、今日は風が強いのでな」

「さつきさん、また明日!」


犬飼とさくらの見送りを背に、再び日本の最高地点へと向かう。時計回りで火口を歩く場合、3776mに到達する直前に「馬の背」と呼ばれる急斜面を登る必要がある。お鉢巡りでも屈指の難所であるが、さつきは確実に、しっかりと足を進める。運動したことによる酸素不足を身体で感じながらも、彼女は標高を稼いでいった。



「ちょうど2時間ね」


測候所に戻ってくると、ご来光の時間帯を過ぎたためか周りの観光客は少し減っていた。


「戻りました」

「おかえり井鷹くん。いつもありがとうね」


測候所に入り、所長に声をかけながら彼の席へと向かう。珈琲の入ったマグカップを受け取りながら礼を言い、向かいの自分の席に座る。


「今日も何もありませんでした」


外の状況を報告すると、マウスを動かしてPCモニタを確認する。黒い液体を飲みながら、数本の小さな波線が表示されたウィンドウを時間をかけて見つめ、情報を読み取る。


「地震計にも異常はないようです」

「それは良かった。何かあっては困るからね」


これが彼女の、井鷹さつきの日常である。所属は国立火山観測研究センター。業務は富士火山の観測・監視、並びに富士火山測候所の管理。少しばかりの退屈さを感じながらも、納得して仕事を行っていた。

再びマウスを動かし、モニタに富士山周辺の地図を出現させる。全体に散らばっている星マークのうち1つをクリックすると、その地点の地震計が観測した波形が現れる。これを繰り返し、頭の中に残っている先日までのデータと比較する。今日も山は、身じろぎ1つせず泰然とそびえていた。



珈琲を飲み干しながら、午後の予定を考える。暇だから神社に顔を出してみるのも良いか。足を伸ばして山小屋まで行き、何か甘いものでも食べてみるか。その後は昼寝をして夜に備えるか。


考え事をしながら、窓に目をやる。寒い大気を通して下界の様子が見えた。夏ということもあって、駿河湾が燦々と煌めいていた。

海か、さつきは思いを馳せる。久しく行っていない。あと2週間もすれば山は登山シーズンが終わる。それにあわせて、下から交代要員が来るはずである。その後の週末に海へ行こうか。誰か後輩を誘うのも良いな。立ち上がり、空いたマグカップを所長から受け取ると給湯室へと向かい




揺れた。

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