第5話 老人と幼子

 新緑も深まり、木々の葉を揺らす風が爽やかだった。

 海翔はこの日、夕飯を会社の同僚と食べる約束をしていたが、ついでとばかりに夏服も買おうと予定より早く街に出ていた。分厚い人混みの中を歩いていると、どこからともなく「助けて」という声が耳に入ってきた。周りを見れば、誰もそのことに気づいた様子はない。海翔は自分だけにしか聞こえないんだと知った。

「お願い! 助けて」

 どう聞いても、それは子供の声だった。だが、その声が一体どこから聞こえてくるのか海翔にはわからなかった。海翔は立ち止まり周囲を見回したが、それらしき子供もいなければ、助けを必要とする人の姿も見えない。気のせいにしては、子供の声が切羽詰まっている。でも、どこだ? 海翔は焦った。

 その時、すれ違いざまに一人の老人が海翔の肩にぶつかった。痛っ! このクソじじいと睨み返してやろうと思ったところへ、その老人が急に倒れこんできたので海翔は慌てた。

「おじいさん、大丈夫ですか? おじいさん!」

 老人はそのまま歩道わきの電柱の下で蹲った。通行人は誰も気にも留めない。海翔は心配だったので、老人に声をかけた。

「おじいさん、大丈夫ですか?」

 老人は苦し気な笑みを浮かべて、海翔を振り返った。青白い顔をしていた。

「救急車でも呼びますか?」

 老人は手を振って答えた。でも、このままじゃと思った海翔は言った。

「立てますか? どこかで休まないと」

「しばらくこうしていればじきに楽になるから……」

 老人はそれだけ言うのがやっとという感じだった。それならいいのだが、と海翔は思ったが、そのままそこを離れるのも薄情な気がして、しばらく老人の傍にいることにした。偶に通行人が目を向けることがあったが、声をかける者は誰もいなかった。

 三十分ほど経っただろうか。老人は膝に手を当てると、重い荷物でも持ち上げるように体を起こした。

「ありがとう。すまんかったな」

 老人の顔色はさっきよりも赤みを帯びていた。海翔は安心した。

「大丈夫ですか? 一人で帰れますか?」

 老人は海翔の顔をまじまじと見つめたが、俄かに悲しそうな表情に変わった。

「すまん」

 老人は小さなか細い声で心の底から詫びた。海翔は心の中で、そんなたいそうなことでもないのにと思いながら、変なじいさんだなと受け流した。

「それじゃ、俺行きます。お気をつけて」

 そう声をかけると、海翔は先を歩き始めた。しかし、どうにも後ろ髪を引かれるようで、先を急ぐことができない。その理由は考えるまでもなく、海翔には既にわかっていた。あのおじいさん、生気が全く感じられない。海翔ははっとして後ろを振り向いた。

「おじいさん!」

 海翔は足取りもおぼつかずにいる老人の姿を認めると、すぐに駆け寄った。老人の体を支えようと上半身に腕を回した瞬間、海翔の脳裏を何かが過ったのだった。海翔は腕を引くと、老人を見つめた。そして、再び老人の腕を取ると自分の肩に回し、そのまま何も言わず老人を支え歩き始めた。

「申し訳ない。駅までで……」

 老人は言った。

 重い足取りは、海翔の胸の内そのものだった。このじいさん、長くない。自ら死を急ごうとしているようにも感じられる。重い。このじいさん、すごく重い。一体何を背負っているんだ? 海翔は自ずと身を引き締めた。さもないと、その重さに圧し潰されそうだったからだ。

 いつもなら十分もかからない距離も、この時ばかりは三十分近くかかってようやく駅にたどり着いた。ホームで電車を待つ間、老人は海翔の住所か電話番号を強く求めたが、礼には及ばないと海翔は丁重に断った。すると、老人は古ぼけた鞄から紙とペンを取り出し、自分の住所と電話番号を書きつけ海翔に手渡した。海翔は仕方なくズボンのポケットに入れた。電車はすぐに来たので、海翔は老人を見送った。


 家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。

「あら、早かったのね。外で食べるんじゃなかったの?」

 玄関で靴を脱いでいると、台所から出てきた母が言った。

「うん。ちょっと調子悪くて……」

 海翔は適当に誤魔化したが、母は真に受けて薬箱を取りに行った。

「大したことないからいいよ。ちょっと寝れば治るから」

 そう言うと、海翔は自分の部屋へと階段を上った。

「ご飯は?」

 追いかけてきた母の言葉に、海翔は後でと返事をして部屋に入った。

 実際、体が重かった。老人から何か悪い気でももらってしまったのかな、と海翔は思った。やがて、海翔はそのまま寝入ってしまった。

 真夜中近く、海翔は眠りが浅くなり、意識がはっきりしてくるのを感じた。起きようかと思ったのだが、ふと子供の姿が見えたので、そのまま目を開けずにいた。夢なのだろうか。海翔はそう思いながら、目を凝らしその子を見つめた。

 子供は手に何かを持っていた。男の子だ。半ズボン半袖姿。五歳くらいかな。人形だ。泥にまみれた人形を持っているように見える。もしかしてこの子か? 助けてと俺を呼んだのは。

 映像はなおも続いた。子供は手に人形を持ったまま、じっと立っていた。すると、今度は母親らしき人物が現れ、子供の手を取った。二人並んで立っている。母親はどこかへ行こうと子供の手を取るが、子供は頑としてその場を動かずにいた。映像全体が影絵のようで、二人とも顔がよくわからなかった。

 目を開けると、海翔は胸に残る思いを探った。何でこんな悲しい気持ちになるんだろう。この時、ふと老人のことが思い出された。海翔はベッドを降りると、老人にもらったメモを取り出した。今の親子と関係があるのかな。気になり始めた海翔は、老人を訪ねることに決めたのだった。


 週末、メモを頼りに老人の家を訪ねた。出かける前に電話を入れたのだが、誰も出なかった。それでも海翔は構わず家を出た。

 そこは下町の平屋づくりの一軒家だった。門の表札には、矢田の文字が書かれていた。海翔はメモと照らし合わせた。間違いない。海翔は門をくぐり、玄関の呼び鈴を鳴らした。応答がなかった。やっぱ留守なのかな。海翔はもう一度鳴らしてみたが、やはり応答はなかった。

 そこで、今度は玄関の引き戸を何度も叩きながら、大声で呼んでみた。

「矢田さん、俺です。路上でおじいさんが倒れた時一緒にいた俺、武神です!」

 海翔はそのまましばらく反応を待った。すると、玄関の奥の方に明かりが点いたのが見え、待っていると老人が玄関に出てきた。

「ああ、よう来たね」

 老人は笑顔で海翔を迎えた。海翔も遠慮なく中に入った。

 六畳の和室の真ん中にちゃぶ台が一つ。襖を隔てて隣りの部屋には布団が敷いてあった。その布団を見て、寝ているところを起こしてしまったのを知った。

「すみません、突然お邪魔して」

 老人は来てくれてありがとうと礼を言った。

「あの、具合はどうですか? 寝てるところを起こしてしまったんじゃ……」

 海翔は隣りの部屋に目をやりながら、老人を気遣った。老人はその気遣いがうれしかったのか、にこやかな顔になった。

「ああ、気にせんでもいいよ。ちょっと心臓にガタが来てるから、普段はよう動かんのだよ」

 心臓と聞いて海翔はちょっと身がすくんだが、老人がお茶の用意を始めたので慌てて言った。

「あっ、どうかお構いなく」

 老人は台所に立つと、お茶の用意を始めた。老人を待つ間、海翔は部屋の中を見回した。

 見回すと言っても小さなテレビと和箪笥が一棹あるだけで、それも昔のブラウン管テレビだった。テレビは見ないのかなと思っていると、老人が盆を手に戻ってきた。

「テレビはもう長いこと見てないな。専らそれだから」

 盆をちゃぶ台に置きながら、老人は箪笥の上にあるラジオに目を向けた。

「ああ」

 老人がお茶を差し出すと、海翔は礼を言った。

「何か若い子が好むような菓子でもあればいいんだが、あいにくこれしかなくて。すまないね」

 そう言いながら、老人は黒砂糖がまぶしてある菓子をちゃぶ台の上に置いた。海翔は恐縮した。

「これ、何ですか?」

 老人は笑った。

「黒棒って言うんだよ。昔は駄菓子屋でよう買って食べたもんだが、時代も変わって駄菓子屋なんてのもとうになくなったしね。スーパーで見かけた時にいつも何袋か買い置きしておくんだよ。息子もこれが大好きでね……」

 老人は沈んだ顔をした。

「息子さんいらっしゃるんですか? でも、おじいさんの年からすると、息子さんも俺よりだいぶ年上になるのかな。俺、初めてなんで、これ頂きますね」

 黒棒に手を伸ばし口に入れようとした時、老人はぽつりと言った。

「息子はもういないんだよ」

 口に含んだ黒棒を、海翔は音を立てないようにゆっくりと噛み砕いた。そして、ごくりと飲み込むと言った。

「いないって……」

 老人はテレビの脇にある写真に目をやった。海翔は部屋を見回した時にあるのは気づいていたが、特に気にも留めなかった。よく見ればそれは古ぼけた写真で、少し色褪せている。海翔は思わず立ち上がり、写真の前にしゃがみ込んだ。

「あれ、これおじいさんですか? ですよね。随分若いなー」

 その場の空気を盛り上げようと、海翔は気持ち大袈裟に言ってみた。老人は少し照れた様子だったが、海翔が言葉を続けると急に押し黙ってしまった。

「奥さんも息子さんも随分幸せそうな顔をしてますね」

 海翔は振り向いた。老人はちゃぶ台の前に正座したまま下を向いていた。両膝に置いた握りこぶしが微かに震えているのが分かった。

「おじいさん?」

「すまん」

 あの時と同じだった。路上で倒れた時に聞いたのと同じ声。小さなか細い声。じいさんは一体何を詫びているんだろう。海翔は思った。そして、同時にここに来た目的を思い出すと、もう一度その写真を見た。

 男の子。もしかしてこの子か? 助けてと俺に言ったのはこの子なのか? 疑問は更に続いた。でも、昔の写真だろ。もうこの子だって随分大きくなってるはず。俺よりもずっと上じゃないのか。それが、なぜ子供の声なんだ? ここまで来て、海翔は胸を突かれる衝撃を感じた。海翔はゆっくりと顔を上げ、老人を振り返った。

「その子はもう死んでいないんだよ」

「あっ」

 海翔は老人を気の毒に思った。だが、その思いは老人の言葉に一瞬にしてかき消されてしまったのだった。

「俺が手にかけたんだ」

 海翔は驚愕のあまり声が出なかった。様々な思いが一気に海翔の頭を錯綜した。手にかけたって、殺したってことか? 嘘だろ? このじいさんは人殺しなのか? 俺は今人殺しと一緒にいるのか? そんな奴を何で助けなきゃいけないんだ。俺に何をしろと言うんだ? いや、待て。手にかけたって言うが、思い違いかもしれないじゃないか。本当は別の事情で死んでいて、それをこのじいさんが自分が殺したと思い込んでいるとか……。

「この手で……」

 えっ?

「和人を私のこの手で殺してしまったんだ」

 老人は膝を力いっぱい握りしめていた。海翔はとてつもない恐怖を覚えたが、老人の打ち震える姿に、海翔は生まれて初めて底知れぬ悲しみを見たのだった。海翔は胸が詰まった。

 海翔は気持ちを落ち着けると、老人の方に体を向け静かに言った。

「おじいさん、嫌じゃなかったら、俺に話してくれませんか? 変に思われても仕方ないけど、俺、その為にここに来たんです」

 老人は顔を上げ、不思議そうに海翔を見つめた。


 老人の名は矢田順三といった。広島県出身で年は六十八。妻の名は咲代といい、息子は和人といった。

 順三は三十五年前に殺人罪で捕まり、懲役十余年の実刑判決を受け服役。出所後は広島を離れ、職を転々としながら居住先を変え、今のところに落ち着いたのは今から七八年ほど前のことだった。

「この写真はいつのですか?」

 老人は言った。

「息子が幼稚園に入る年だから五歳の時かな。入園式を終えて、そのまま写真館で撮ってもらったものだよ」

 この時、順三は三十三歳。息子の成長はそこで止まってしまった、と順三は呟いた。二十代半ばで結婚したのだが、なかなか子供が出来ず、結婚三年目にしてようやくできた一人息子だった。

 ところが、妻はその写真を最後にまもなく行方知れずになった。順三は八方手を尽くして妻の行方を捜した。捜索願も出した。

 しかし、結果は順三が激しい怒りを覚えるものだった。咲代は姿を消す二年前から不倫をしていた。順三は家庭を顧みないような夫ではなかったのだが、妻の不倫に気づくことはなかった。順三にとっても大恋愛の末に結ばれた相手ということもあり、それだけに妻を疑うなどとは夢にも思わなかったのである。不倫相手は、咲代の高校時代の同級生だった。二人は当時付き合っていたことも明らかになった。

 妻の居所がわかるまで一年近くかかったが、その間の順三と和人の生活は荒んでいく一方だった。そのつもりがなくても、順三は和人につらくあたることが増えていった。一度は実家に預けようとも思ったが、生来の生真面目さと責任感の強さがそれを拒絶したのだった。

 しかし、妻の消息がわかると、順三は自分でも気が狂ったのではないかと思うほど荒れた。ちょっとしたことにも怒りを抑えられなくなっていったのである。それでもまだ時折冷静さを取り戻すこともあったが、妻の裏切りが順三の胸を痛めつけ離さないようになると、怒りへの抵抗ももはや消え失せたのだった。

 そんなある日、順三が仕事から帰ると、家の中が散らかっていた。和人が幼稚園の友達と遊んだのだとすぐにわかったが、片付けができていないことに順三はカッと来たのだった。順三は和人の襟首をつかむと、床に叩きつけた。

「何だこれは!」

 和人には父の怒りの恐怖がわかっていた。だから、普段は恐怖に震え泣きじゃくりながらも、すぐに言われた通りのことをやった。それが自分を守る唯一の方法なのだと知っていたからだった。

 だが、この時ばかりは違っていた。和人は父に反抗したのだった。それも敵意をむき出しにしたような怒りの目で。和人は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも何度も父に飛びかかった。その都度跳ね返されては何度も床に叩きつけられた。それでも必死に父に飛びかかったのだった。父にかなうはずもないのに、父の太ももを何度も何度も拳骨で殴った。その泣き声は隣り近所にまで聞こえるほどだった。

「うるせぇんだよ、このクソガキが!」

 順三は和人のあまりのしつこさにますます頭に血が上り、思い切り和人をぶん投げた。和人の体はふわりと宙を舞い、部屋の壁に鈍い音を立ててぶつかると、そのまま滑るように落下した。和人は壁に寄りかかるように座った。

 順三は最初息子の異変に気づかなかった。普段と違う様子を変に思いながらも、仕方なく部屋を片付けた。片付けも終わり、夕飯の弁当をテーブルの上に置いた。

「ほら、食え」

 息子の応答がなかった。順三はムッとしたが、腹ごしらえが先だった。冷めた弁当をガツガツ食べていると、やけに部屋の中がシーンとしているのがふと気になった。何してんだ、寝てんのか? 順三は口を動かしながら席を立ち、隣りの部屋に入った。

 台所の明かりで、隣りの部屋は薄明かりに照らされていた。その明かりの先に、和人は眠っていた。壁に寄りかかったまま、息をすることもなかった。

 順三は和人の前に座り、そのまま夜を過ごした。もう動くことのない息子を見つめながら、涙を流すこともなければ、息子の死に完全に打ちのめされている自分に気づくことすらなく、ただ抜け殻同然に座っているだけだった。

 夜が白み始め、順三は自首した。


 長い沈黙が二人を包んだ。海翔は疲れ切っていた。子供の思いが海翔にどっと押し寄せたのである。言わなきゃ。俺はこの人を助けなければいけない。海翔は重い口を開いた。

「妻の咲代さんも、もうこの世にはいないですよね?」

 順三は驚いて海翔を見つめた。二人はお互いの中の何かを探るように見つめ合った。やがて順三はこくりと頷いた。

「なぜ、そんなことを……」

 知っているのかと順三が問いたいことはわかっていたが、海翔は自分の能力を言う気にはなれなかった。今はただ淡々と事実を伝えるだけだと心に決めていた。

 妻の咲代は結局不倫相手にも裏切られ、自ら命を絶った。順三がそのことを知ったのは、刑務所の中だった。最愛の妻の死だったはずなのに、順三には何の痛みも感じなかった。

「私は一生息子に、和人に詫び続けなければいけないんだ」

 感情が高ぶったのか、順三は左胸を押さえた。海翔はそんな順三を心配したが、順三が海翔の手を払い除けたので、黙って見ているしかなかった。海翔は先を続けた。

「あの日は?」

 順三は、倒れたあの日、息子の墓参りの帰りだったと答えた。

 和人の遺骨は順三の実家の菩提寺に預けられていた。刑期を終えた順三はそれを引き取り、自分の傍に置いた。毎朝晩息子の遺骨に向かい心から手を合わせることが、一日の始まりであり終わりであった。そして、この下町に移り住んでからは、ここが自分の死に場所だとそれとなく感じた順三は、そう遠くない地に和人の眠る墓を建てたのだった。

 順三が街中で倒れたその日は、ちょうど和人の命日だった。だが、順三が息子の眠る墓苑に足を運ぶことは、何も命日に限ったことではなかった。墓前で手を合わす順三の心には、ひたすら悔恨と詫びしかなかった。服役中も出所後も、息子を自らの手で死なせてしまった罪の意識は、片時も順三の心から消えることはなかったのである。そして三十余年抱え続けた息子の死は、着実に順三の肉体を心臓を蝕んでいったのだった。

「心臓にもガタが来てるし、バチが当たったんだろう。当然だ。自分の子供を殺す親なんて、この世にいちゃいけないんだ。それなのにこんなに無駄に長く生きてしまった……」

 海翔は言葉に詰まったが、このままでは埒が明かないと半ば自棄になって順三に言った。

「おじいさん、よく聞いてください。今から俺が言うことを、おじいさんは信じてくれないかもしれないけど、俺はそれを言う為にここに来たんです。おじいさんから今こうして話を聞いてすべてがわかった。すべてが俺の中でつながりました。俺が今から言うことは、和人くんの気持ちだと思ってください」

 いきなり何を言い出すのかと、順三は海翔を訝しそうな目つきで見つめた。しかし、海翔の真剣な眼差しを見ているうちに話だけでもという気になり、順三は心開いた。海翔はちゃぶ台の上に写真を置くと、老人と向き合い話し始めた。老人は俯き黙って聞いていた。それでも時折海翔が話す内容に驚き、顔を上げた。

「息子さんは悔しかったんです。そう、とても悔しかった。お父さんが、お父さんが……、大好きだったお父さんがどこかに行ってしまったのが腹の底から悔しかったんです。悔しかったし、悲しかった。それだけではありません。子供ながらに事情はわかっていたんです。わかってはいても、何もしてあげられないことも。だから、お父さん頑張ってと言い続けていたんです」

「おじいさん、人形ありますよね?」

 順三は何のことかとわからなかったが、ようやく思い出したのか、隣りの部屋の押入れから段ボール箱を両手で抱えて持ってきた。箱を開けると、中からクマのぬいぐるみを取り出した。海翔はこの時、夢の中で見た人形は泥にまみれていたのではなく、薄汚れていたのだと知った。肌身離さず大切にしていたことは誰が見ても明らかだった。

「これは、妻が出て行ってまもなく和人に買ってあげたものです」

 順三は当時のことを思い出していた。子供の胸の痛みを気遣うだけのゆとりが、まだ自分の心の中にあった時のことだった。

「一生詫び続けると仰ってましたが……」

 ぬいぐるみを手にしたまま、順三は海翔を見つめた。

「それは違います」

「えっ?」

「息子さんは、ずっとあなたの変わらぬ愛情を求めているんですよ」

 老人は滂沱の涙を流した。

「息子さんが私に見せた夢です。息子さんはこのぬいぐるみを手に握って、決して離さなかった。お母さんが現れて、さあ行きましょうと息子さんの手を取っても、息子さんは決してその場を離れなかったんです。なぜだかわかりますか? おじいさん、あなたが一緒じゃないからです。あなたと昔のように手をつないで行きたいからです。お父さんのことが大好きで、大好きだった時のお父さんが恋しくて仕方がないんです。何もあなたを恨んだりなんかしていません。息子さんにはすべてわかっていたし、今もそうです。和人さんは、ずっとあなたの愛情が欲しかったんです」

 もはや順三に声を押し殺す必要はなかった。順三は天を仰ぎ、男泣きに泣いた。「だから、自分をもう責めるのは止めましょう。息子さんはあなたが苦しむことを求めてはいない。償いも求めているんじゃない。お父さんの愛情しか求めていないんです。もう遅いなんてことはありません。今からでも昔のように愛情を注いでください。ありったけの愛情で、和人さんを愛してあげてください」

 外は日が陰り始めていた。海翔は胸の苦しみがすっかり取れたのを感じた。子供の思いを全部吐き出したからだと悟った。


 帰り道、海翔は考えていた。人は死んでも、本当のところは死んでなどいないのではないか。肉体が消えてなくなるだけで、本当は何も変わらない。思いだけが残るなんてあり得ないじゃないか。あの時宙を飛べたのだって……。

 魂だとかエネルギー体だとか、そんな呼び名はどうでもいい。でも、肉体が消えても確かに残るものがあって、おそらくそれが本当の自分の正体であって、そこに何もかもが刻まれているのではないか。そもそもこの肉体を自分だと思い込んでることが間違いじゃないのか。海翔は思った。


 ひと月ほど経って、海翔は近くに用事があったついでに再び順三の家を訪ねてみた。しかし、何度呼び鈴を鳴らしても順三が出てくることはなく、人の気配すら感じなかった。おかしいなと思っていると、たまたま通りかかった老婦人が海翔に声をかけた。

「矢田さんかい? 矢田さんならもういないよ」

「どこか移られたんですか?」

 老婦人は首を横に振った。

「死んだんだよ」

「えっ? いつのことですか?」

 順三が亡くなったのは、海翔が来た翌週のことらしかった。心臓発作で倒れ、救急搬送されたとのことだった。

「穏やかないい死に顔だったよ。今にもにっこり微笑みそうな感じでね。あの人のあんな顔初めて見たよ」

 老婦人は何度も頷きながら言った。

 海翔は思った。俺の言ったことを信じてくれたんだな。きっと和人くんに三十五年分の愛情を注いだんだろう。父と子が手をつないで笑顔で行く後ろ姿が、海翔の心の中に見えた。良かった。海翔は心底そう思った。順三に会えなかったのは寂しかったが、親子がまた幸せで一緒になれたならそれでいいと、目に溢れた涙を拭った。

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仮題:海翔(カイト) Season 1 @tachibana_y

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