第3話 別れを繰り返す女

 夜の闇も色濃くなり、山は静まり返っていた。境内の樹々も枝枝にこんもりと雪を乗せたまま、寺のどこもかしこも森閑として冷たい空気に包まれていた。

 寺の誰もがとうに寝静まっていた。

 大和尚は、なぜかふと目を開けた。

「またか」

 海翔の死の予告の話を聞いてから、起こり始めていたことだった。大和尚は自分の意識とは別の、自分の魂そのものが目を開けさせるのだとわかっていた。何だろう。大和尚は思案した。

 その時、外にただならぬ気配を感じた大和尚は、飛び起きるが早いか広縁の雨戸を勢いよく開けると、さっと庭の中央に跳んだ。張り詰めた空気の中、大和尚は全身を研ぎ澄ました。

 すると、大和尚の右前方数メートル離れた一本の松の木の枝から、粉雪がさらさらと落ちた。大和尚が目を向けると今度は左前方の木の枝が微かに揺れ、今度は左斜め後方から、更に右斜め後方と、庭の樹という樹の枝枝から粉雪が舞い始めた。大和尚は右足を一歩引いた。舞い落ちるかに見えた雪はまるで白い煙のように立ち上り、渦を巻き、大和尚を取り囲んだ。大和尚は両足を踏ん張った。その異変は、庭の樹々ばかりではなかった。寺を囲む杉の大木からも粉雪が舞い上がり、山全体が燃え立つ青白い炎に覆われているかのようだった。

 得体の知れないものの素早い動きを、大和尚の目が上下左右へと追った。そして背後に気配を感じたその瞬間、大和尚は背を向けたまま手指から弾を放った。

 空気の乱れが瞬時にして鎮まった。あれほど舞い上がった雪は幻影だったのか、枝枝の雪はどこもかしこも元のままだった。

 大和尚は振り返り、岩陰に潜む気配に近寄って行った。そして、とどめの一撃を喰らわそうと大きく踏み込んだが、気配は既に消えていた。

「うむ」

 大和尚は残された微かな匂いを嗅いだ。

 物音に気付いた明慶が広縁に駆け付けると、大和尚の後ろ姿に愕然とした。

「父さん、背中!」

「ん?」

 寝巻きの背中が、鋭い刃物で切られたように口を開けていた。

「いつの間に……」

 大和尚は唸った。

 明慶もすぐに庭に出た。

「結界は?」

「破られたのだろう」

「そんな……」

 明慶は焦った。

「そんな馬鹿なだ。しかし、破られた。海翔の父が死んでもうじき三年になる。息を吹き返してきたのだろう。しかも、以前よりも力を増して……」

「海翔は今回の事で何か力を授かったのでしょうか?」

「わからん。だが、気の強さは前とは比べ物にならないくらい増している」

 明慶もそれに同意した。

「一難去ってまた一難。だが、時は来たようだ。海翔に真実を話さねばならないだろう」

 明慶の顔が険しい表情に変わった。


 海翔の夢見は以前よりも遥かに力を増し、海翔もそのことを自覚し始めていた。 死なずに済んだということは、俺にも何か使命があるということなのか? あの日を境に、俺の中に凄まじいエネルギーが際限なく漲ってくるのを感じている。いつか俺の体が爆発するんじゃないかってくらいだ。でも、なぜか妙に落ち着いている自分もいる。肝が据わったのかな。

 それに、普通とは明らかに違う夢を見ているとき、俺の意識は一体どこに存在しているのだろう。この世でもなくあの世でもない。あの時大和尚が言っていた生死を超えた世界、別次元なんだろうか。その世界でも意識、それとも俺の魂がこの世と同じように肉体を持ち、すべてを体験している。そういうことなのか? 幽体離脱、体外離脱とはまた違うのだろうか。海翔は時折あれこれと考えを巡らすようになった。

 夢を見ることを除けば、海翔は自分の死の予告以前の平穏な生活に戻っていた。


 そんな日々の中、二月も下旬に入った頃、海翔は下の叔母の美佳子から相談を受けた。

 美佳子の娘の友人が離婚の危機にあるとのことだった。その友人は、これまで既に二度の離婚歴があった。海翔は直接従姉の綾音に会って話を聞くことにした。

 約束の日曜日、海翔は行きつけのカフェにいた。約束の時間を少し過ぎて、綾音がやってきた。

「ごめんな、カイちゃん」

「別にいいよ。息荒くして、そんな急がなくてもよかったのに」

 綾音は手をパタパタさせながら向かいの椅子に腰かけた。

「本人連れてこようと思ったのよ。本人もその気だったし……」

「ドタキャン?」

「かなぁ? 昨日の夜確認で電話したら、急に渋りだしちゃって」

「そうなんだ」

 店員が海翔の注文したトーストとコーヒーを運んできた。

「ごめん、小腹が空いてたから先に注文してた」

「いいよ、そんなこと気にしなくて。あたしも注文しよっかなー」

 店員は綾音の注文を受けると、テーブルを後にした。

 海翔は早速本題に入った。

「綾姉と同い年なんだよね?」

「学年は同じだけど、向こうが一つ上かな。小学生の時からずっとだから、親友って言えばそうね」

「三十代前半でバツ二。下手すると今度でバツ三。それもすごいな」

 綾音は海翔より八つ年上だった。

「そんなとこ感心しないでよ」

 綾音の話は続いた。

 親友の名は友香といった。別に移り気でもなければ飽き性というわけでもない。だが、結婚生活も一二年、長くて三四年も経つと、どうも夫との相性に疑問を持つらしいとのことだった。

「『この人じゃない』って思うんだって」

 一旦そういう思いが沸き起こると、なぜか自然と破綻へと向かうらしく、どっちの夫も離婚に異議を唱えたことはないということだった。

「結婚生活自体はうまく行ってたのかい?」

 店員が綾音の注文した品を持ってきた。テーブルの上に並んだ品数を見て、海翔は笑った。

「相変わらず食うよな」

 綾音は大盛りのパスタにフォークを突き刺しながら言った。

「いいのよ、女はね、小太りがちょうどいいの」

「小太り?」

 海翔の視線に綾音は口を尖らせた。

「あのね、既に売れた身だからいいの!」

 綾音の結婚生活は順風満帆だった。幸せ太りは男も女も関係ないらしい。海翔は思った。

 綾音は話に戻った。

「で、何だったっけ? あれ? 何か聞いてたよね。ほら、もう! 何聞かれたか忘れちゃったじゃない!」

 海翔は笑いながら、さっきの質問を繰り返した。

 結婚生活自体は問題なかったとのこと。だから、友香の両親もなぜ離婚に走るのかが全く理解できずにいて、これが三度目ともなって、また同じことを繰り返したら、この子は一生独り身でいるしかないのではとひどく心配しているとのことだった。

「一人って、子供は?」

「最初の旦那の子が一人。男の子」

「そっか、それもまた大変だよな。その子にしてみれば、父親がまた変わるわけだから。でも、最初の旦那の子となると、もういい年かな?」

「今度、中学って言ってたかな。結婚も早かったからね」

「中学生か。ますますやりずらいな」

「えっ? あっ、そうね。確かに」

 海翔は疑問に思ったことは何でも聞き、綾音も知っていることはすべて答えた。二人はコーヒーをおかわりした。綾音の奢りだった。

「でね、嫌じゃなかったらなんだけど……」

 綾音が急にかしこまった。

「友香の親に頼まれちゃってさ、家に来てほしいそうなのよ」

 海翔は口にしたコーヒーを噴き出しそうになった。その反応を見て、綾音は必死に両手を合わせて懇願した。

「てかさ、既にオッケー、しちゃってんだよね?」

 海翔の威圧的な視線に、綾音は平謝りした。

 従姉の友人とはいえ、全く面識のない人間。時に思いもよらぬ人の夢を見ることは何度もあったが、こうした依頼を受けるのは初めてのことで、海翔はしぶしぶ承諾はしたものの、内心もし夢を見られなかったらどうしようと不安だった。


 海翔は、次の週末に綾音の車でその友人の家を訪ねた。家は市の外れにあった。

 綾音は家の前に来ると、車を止めた。

「ちょっと待ってて。車の置き場所聞いてくるから」

 綾音はそう言うと車を降り、小走りに玄関に向かった。海翔は一人車内に残った。海翔は車の窓から何となしにその家を見つめた。玄関先に友人の母親と思われる人物が出てきて、綾音と言葉を交わしていた。時折二人して海翔の方を見たが、海翔は特に気にも留めず家を見つめていた。

 何だろう、この感じは。海翔は不思議に思った。俺を拒んでいるのか?

 綾音が戻ってきたので海翔は車を降り、綾音と一緒に家に入った。二人は茶の間に案内された。茶の間といってもそこは二間続きで、襖を挟んで奥には床の間のある部屋が続いていた。襖が開いていたので、海翔は奥の部屋も見ることができた。床の間の隣りは、天袋に違い棚、地袋が据えられていた。

 茶の間で待っている間、海翔は終始部屋の中の至るところ、目をきょろきょろさせた。

「何かわかる?」

 綾音が小さな声で聞いたが、海翔は一度唸っただけだった。気のせいか? 何か今一つ居心地が良くないな。海翔は思った。

「お待たせして、ごめんなさい」

 母親がお盆を両手に、奥の部屋から入ってきた。

「おばちゃん、友香は?」

 綾音が尋ねると、今日は夜勤明けとかで家で寝てるということだった。友香は看護師をしていた。家は隣りの市にあった。

「いた方がよかった? いない方が何でも話せると思って……」

 母親は詫びたが、綾音はそれならそれでと話を進めることにした。

 話を進めるといっても、殆ど綾音と母親の話し合いだった。その間も海翔は、ひたすら家の中の気配に注意を払っていた。

 茶の間は道路に面しており、その向こうには小川が流れ、その遥か向こうには山が見えた。海翔は外の景色に目をやった。

 外の景色を見ていると、海翔の中で何かが符合した。これだったのか、車の中で感じたのは……。それは、行き場のない寂しさだった。帰りたくても帰れない。遠い故郷に思いを馳せるしかない無念な思い。海翔は再び部屋の中に目をやった。奥の部屋だ。奥の部屋に誰かいる。そいつが俺が来るのを拒んでいる。一人、いや二人だ。海翔はそれが誰なのか、更に目を凝らした。

 奥の部屋に注意を集中していると、いきなり一人の女性が入ってきた。それに気が付いた母親が言った。

「あっ、とき子さん、お茶お願いしてもいい?」

 彼女は友香の兄嫁だった。とき子は快く返事をし、二人に挨拶すると、冷めたお茶を入れ替えにテーブルの急須と茶碗を引き取って部屋を出ていった。

 おばあさんだ。あの人の傍にいる。母親だろうか。俺を拒んでいるのはこの人じゃない。もう一人は誰だ?

 疑問は相談が終わり、帰路に就いても離れなかった。


 その夜、海翔は夢を見た。

 場所は訪ねたばかりの友香の実家、床の間のある奥の部屋だった。友香が仰向けに横たわっていた。眠ってはいなかった。海翔は彼女のすぐ傍に座っていた。

 突然、大男を思わせる屈強な太い腕が地袋の中から現れ、友香の足を掴んだ。とてつもない力で彼女を中に引きずり込もうとする。それに気づいた海翔は咄嗟に友香の腕を取り、必死に引っ張った。

 翌日、海翔は綾音に電話し、夢の内容と思うところを話した。

「あの家というか、土地だろうか。調べてもらうように伝えてくれないかな」

 綾音は二つ返事で承諾した。そして電話を切ろうとしたとき、海翔は待ったをかけた。

「ごめん。それと先祖のことで何かわかることがあったら、それも」

 海翔は思わず口にした。考えるところがあってのことだった。土地に縛られた物の怪にしても、友香にかかわるだけの何かがあるはずだと思ったからだった。

 綾音はうんと答えると、電話を切った。

 結局、俺が助けることになるんだ。夢を見て、海翔はそう解釈していた。薄緑色をした物の怪のごつい腕。男の腕なのは確かだが、なぜあのようになってしまったのだろう。

 その日の夜に、綾音から電話があった。

 家を建てる時に、実は地元の霊能者に見てもらっているということだった。その霊能者から、あの土地でその昔、落武者か、まだ若い侍が命を落としている。よってお祓いをしてから家を建てるようにと言われたとのことだった。母親は、神主を呼んでお祓いをしてから家を建てたから、問題はないと思っていたそうだ。

 また、実家は古くは刀鍛冶をしていた。母親が嫁いでから聞いた話では、曾祖父かその前の代だったか、一人の立派な兵士がやってきて、これから戦に行くので刀を一振り作ってほしいと頼まれたことがあったという。家業を継ぐ者もいなかったこともあり、主はこれが最後の刀打ちになると精魂込めて仕上げたということだった。依頼した兵士も甚く気に入り、大切に持ち帰ったそうだ。

「で、その兵士は?」

「死んだんじゃないかって言ってた」

「刀は?」

「そこまでは聞かなかった。どうして?」

「うん、何となく。で、その人はちゃんと埋葬されたんだよね」

「そうじゃないの?」

 綾音は、昔の話を思い出した母親が、人の命を絶つような刀を作ることを商売にしていたことで、もしや娘に何か悪い影響でも与えているのだろうかと気になっていることを付け加えた。

 一晩経って、海翔は結論付けた。

 家の土地で死んだ武士、そして刀を作らせた兵士、まずはこの者達を供養することが必要だと。特に武士はお祓いなどとんでもないと思った。無念の死を遂げた者なのに、祓ってどうする? 一時的にはそうできても、また戻ってくる可能性が高いだろう。誰彼から教えられたわけでもないのに、海翔にはなぜか自ずと考えが浮かび、同時に理解も及ぶようになっていた。

 海翔は綾音に電話を入れた。週末に再び友香の実家を訪ねることで話をまとめ、電話を切った。


 再び友香の家に上がると、海翔は母親に向かい言った。

「娘さんを連れて、御祈祷をしに行ってください」

「お祓いですか?」

 母の問いに、海翔は首を横に振った。

「いいえ、祈祷です。娘さんを引っ張っている者にお願いをするんです」

「お願い?」

 海翔は頷き、話を続けた。

「その時、刀を一振り持って行ってください」

「刀?」

 母親は驚いた。

「そんなもの家には……」

「大丈夫です。本物じゃなくても」

「おもちゃのでも?」

「はい。娘さんも必ず一緒です。でないと、意味がありませんから」

 母親は半信半疑ながらも承知した。また、祈祷を終えたら、海翔に連絡することも約束した。海翔は携帯の番号を紙に書いて渡した。横にいた綾音も母と同様、終始海翔を見つめるばかりだった。そして、心の中で思った。この子、一体どこでこんな力を身に着けたんだろう。


 その夜、海翔は夢を見た。

 そこはどこかの山の中なのか、大きな岩があちこちにごろごろと転がってた。周囲を見渡せば、草一本生えていない。どんよりとした曇天の下にいるように、辺りは薄暗かった。

 ここはどこだ? 初めて見る場所だな。夢でもだ。

 海翔はしばらく道なき道を歩いてみた。だが、歩いてみたところで、岩山は何一つその様相を変えなかった。海翔は、まるで同じところをぐるぐると歩き回っている錯覚に陥りそうだった。

 本能的に身の危険を感じた海翔は、その場に両足を組んで座ると目を閉じた。そして、寂然とした石仏のように微動だにせずしばしの間気を集中させると、突然エイとばかりに気合を入れた。目を開けば、岩山は影も形もなくなっていた。

 この時、海翔は現実にも声をあげていた。その声に全身がびくんと動き、夢からも抜け出したのだった。

 今の夢は何だろう。でも、あの家に関係する夢とは違うな。見ているときの感覚が全然違うし……。海翔は思った。


 そうとなったら早い方がよいと、海翔に言われたその日のうちに、母親は電話で早速祈祷の予約をした。予約した日は、翌週の日曜だった。

 その日、母親は自分の息子に車の運転を頼み、友香を乗せて神社を訪ねた。神社に着くまでの間、後部座席で母親と娘はいろいろと言い合ったが、まだ娘が離婚について少しの迷いがあることを知ると、なおさら何としても祈祷ですべてが解決してほしいと母親は心の中で願うのだった。

 二時間ほどかけて神社に到着すると、一行は車を降り、社務所に向かって歩き出した。

「何だよ、それ?」

 友香の兄が言った。友香の手には、子供がチャンバラで使うような玩具の刀が握られていた。

「刀よ。これで悪霊をぶった切るのよ」

「嘘だろ?」

 兄は真顔だった。その様子を見た母親がすかさず言った。

「馬鹿言ってんじゃないの。御祈祷に使うのよ。神主さんに渡すんだから、粗末に扱わないでちょうだい」

 母親の言葉を聞いて、更に疑問に思った兄は言った。

「何でそんな刀なんか使うんだ?」

「あたしに聞いても知らないわよ。母さんが決めたことなんだから……」

 口を尖らせて言う娘に、母親はため息をついた。

「みんなあんたの為にやってることなのよ。いいかげん目を覚ましてちょうだい」

「でも、その、誰だっけ?」

「あやちゃんの従弟」

 友香が説明した。

「その従弟とやらは、霊能者かなんかなのか?」

 兄の問いに友香は首をかしげ、母親にその疑問を投げかけた。

「霊能者とは聞いてないわ。何でも身内の夢を何回か見て、それで命が救われたとかって、あやちゃん言ってたわよね?」

 友香が思い出したように頷いた。

「本当に大丈夫なのか? そんなの信じて……」

 息子の言葉に、母親は一瞬目が点になった。疑念が持ち上がるのを感じた。

「大丈夫よ。これでいいの!」

 自分の子供達に言うより、自分に言い聞かせる母親だった。


 祈祷が終わり、途中遅い昼食や買い物やら、その後友香を家に送り、母親と息子が家に戻ったのは、夜の六時を回っていた。それから夕飯の支度や後片付け、風呂の湯を沸かすといった家事をこなしているうちに、母親は今夜はもう遅いから明日の昼にでも電話しようと、この日海翔に報告の電話するのを諦めたのだった。

 ところが、その日の夜、海翔は夢を見ていた。

 場所はどこかの荒れ野だった。戦の後の光景であろう、と海翔は夢を見ながら感じた。

「これで行けます」

 見れば、海翔の視界の左側に夫婦と思われる人物が並んで立っていた。向かって左側に立っているのは兵士のようだった。その横には妻が立ち、二人の背後には部下と思われる十数名の男達が戦の成りをして立っていた。

 海翔は妻に言った。

「他に何かすべきことはありますか?」

 妻はいいえと答えると、少し間を置き、これで十分ですと言った。

 この不思議な夢は、海翔にある意味恐怖を与えたのだった。自分で事を運んだとはいえ、このようなことが実際にあるなんて……。それは、幽霊を見て覚えるような怖さではなかった。海翔は人が遺す念や思いというものの強さ、それがこうして実際に出来事として起こること、誰にも知られることもなく何らかの影響をこの世の者に与えることを初めて目の当たりにし、怖さを覚えたのだった。この世とは別の世界が確かに存在すること、そして自分達はその世界と深く関わっていることを知ったのである。


 翌日、仕事の休憩時間に海翔の携帯が鳴った。

 友香の母親から昨日祈祷を終えたことを告げられると、海翔はすぐに昨夜の夢の話をした。

「おそらくもう大丈夫ですよ」

 海翔はそう言うと、その理由を説明した。この日の朝、通勤電車の中で、海翔は綾音にメールを送っていた。返事によると、元々友香の家系は出羽だそうだ。

 友香の母親の先々代、あるいはもうひとつ前の代、刀を作ってくれと訪れた兵士は死後、果たして懇ろに弔われたのだろうか。いや、弔われたにしても、この世を離れられない思いというものがあったのだろう。それは、我が身を離れてしまった一振りの刀だったのではないだろうか。海翔は刀に寄せる兵士の胸の内に思いを馳せた。

 友香の実家、その昔侍がその地で命を落としたというのも、故郷に帰りたくとも帰れない理由があったのでは。もしかすると、それも武士の命とも言える刀だったのではないだろうか。

 共に我が命とも言える刀を置き去りにして、この世を去ることはできなかったに違いない。若き侍は無念の死を遂げ、そこから身動き一つできずにその土地に縛られてしまった。方や兵士は刀を失ったことで、その魂は刀を探し続け彷徨った。そんな夫を追い求めて、妻もまた生前死後と彷徨った。おそらくその兵士には何かしら階級が与えられていたと思われるが、人望も厚く、夫婦共々部下に慕われていたのだろう。部下達も、また主を捨てて行くことはできなかったのだ。

 刀を捧げ祈祷することで、二人とも刀を取り戻したことになったのだろう。妻は先に礼を述べ、「これで行けます」と言った。晴れて夫婦は再会できたのである。再会できたなら、もはや夫を探す必要はない。つまり、友香は妻に動かされていたのである。それを憑依というのかは、海翔にはどうでもよいことだった。

「だから、『この人じゃない』と思って、離婚を繰り返したのでしょう」

 海翔は続けた。

「土地の方ももう大丈夫だと思いますが、ご心配なら信頼できる僧侶に供養をお願いしたらいいでしょう」

 母親は海翔の説明を聞きながら余計頭が混乱したが、とにかくこれで安心できると心から礼を言って電話を終えた。

 母親から綾音にもお礼の電話が行き、綾音は海翔にその旨をメールした。綾音はついでに気になっていたことを尋ねた。

『戦って、日本はどこと戦ったの?』

 海翔は、戊辰戦争だろうねと返信した。綾音の返事ははてなマークが三つ並んでいたが、最後にこう書かれていた。

『人助けできたんだからすごいよ。えらいわ!』

 人助け? 俺がか? 海翔は笑ったが、その時はっとしたのだった。オヤジがしてたことは、もしかしてこういうことだったのか、と。

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