第2話 死の予告

 父の死から丸二年。二十二歳になった海翔は社会人になり、公私共に多忙な日を送っていた。

 普通とは違う感覚の夢見は、その後も幾度もあった。自分には霊能力みたいなものはない、夢は父が見せてくれているものと海翔だけでなく誰もが思い込んでいたが、海翔はもしかするとそれは違うのではという思いを抱き始めていた。

 最初、夢見は身内だけのものと思っていた。それゆえ父が見せているのだと。しかし、そうではない夢も見るようになっていたからだった。

 不思議なことはそればかりではなかった。感覚として何かを感じ取るようになったり、瞼を閉じると訳の分からない影絵のような映像が見えたり、脳裏を何の脈略もなく突然フラッシュ映像が過ったりと、それまで一度も経験したことのない変化が海翔の身に起き始めていた。

 更に不気味なことも起こるようになった。

 夜寝ていると、得体のしれない何かが覆いかぶさってくることが何度かあった。それは足元から徐々に海翔の体を這い上がってきた。上に来れば来るほど、全身が硬直していく。やばい。海翔は身動きできなくなる寸前に訳のわからない大声を発して、それを思い切り振り払った。その勢いで起き上がった海翔はうろたえた。手で額の汗を拭い、何とか自分を落ち着かせた。

 何だ今の? 全身真っ黒にしか見えなかったが、目だけは異様にはっきりとして生々しかった。しかも、顔は死体が腐敗してめちゃめちゃな感じだったし、あれが死霊なのか? まさかゾンビ映画でもあるまいし、そんなものがどこから来るっていうんだ?

 しかし、それもしだいに慣れてくると、たとえ熟睡していても、足元に乗っかってきたとわかると、無意識に大喝一声を食らわせて払い除けるのが当たり前になっていった。もはや驚くことも恐れることもなくなっていた。


 その年の秋も深まった頃、この日は休日ということもあり、海翔は母に言われて菩提寺を訪ねることになった。柿の実が殊の外多く取れたとのことで、美佳子の夫である一輝の実家から過日の礼も兼ねて送られてきたのを、お裾分けにと母が持たせたからだった。

 菩提寺は車で小半時ちょっと走った山の麓にあった。江戸時代から何十代という関係だったが、特に海翔の祖父の代からは家族ぐるみの付き合いをするようになり、こうして菩提寺に足を運ぶことは少なくなかった。

 菩提寺には明慶という一人息子がいた。海翔より二つ年上である。一人っ子だった海翔は子供の頃から兄のように慕っていて、明慶も下は妹ばかりなので遊び相手や話し相手にはちょうどよく、二人は兄弟のように仲が良かった。明慶は海翔の父の葬儀の時は和尚を手伝うだけの身だったが、今は修業を終え、寺の後継ぎとして一年前から和尚と一緒にお務めをしていた。以来、明慶の父を大和尚と呼び、明慶を若和尚と呼ぶのが習わしとなっていたが、海翔はプライベートではアキ兄と呼んでいた。修行から戻った後、二人は何度か顔を合わせていたが、お互い忙しかったこともあり、こうして再び顔を合わせるのは久しぶりだった。

「おう、よく来たな」

 表門のすぐ中で、作務衣姿の明慶が境内の落ち葉を竹ぼうきで掃いていた。

「あっ、久しぶり。これ持ってきたんだけど……」

 海翔は母のよこした段ボール箱を少しだけ上に上げた。

「おっ、いつも悪いな」

「大和尚さんは?」

「あっ、いるよ。奥の書庫の間かな」

 明慶は竹ぼうきを門柱の近くにある大木に立てかけると、海翔と足並みを揃えた。

「寒そうな格好だね」

 明慶は自分の姿を見た。

「あっ、これか。それが違うんだな。しっかり秋冬物な、ほら」

 明慶が上着の裾をめくって見せると、しっかりと裏起毛がついていた。生地も厚めになっていた。

「最近はダウンでできたのもあるからな」

「へぇー」

「あれ? 背伸びたか?」

 明慶がからかった。海翔はこぶし一つほど背が低かった。

「伸びるかよ」

 海翔は返した。

「そうか? まさか俺が縮んだとか?」

「年だからね、それもあり得るな」

 明慶が海翔の頭を小突いた。

「二つしか違わないだろ」

 二人は笑った。


 二人は本堂の渡り廊下を抜け、住居となっている母屋に向かった。母屋の一階の廊下を奥まで来ると、明慶は足を止めた。

「父さん、海翔が来ました」

 部屋の中から、大和尚の声がした。

「おっ、そうか。中に入りなさい」

 明慶が障子戸を開けると、海翔は先に中に足を入れた。実は海翔がこの部屋に入るのはこれが初めてだった。

 書庫の間って最初何だと思ったけど、なるほど確かに書庫だ。海翔は思った。三方の壁が床から天井までびっしりと本棚になっていた。左から見るからに古そうな本があり、右には新刊と思えるような本がぎっしり詰まっていた。コの字型に並んだ本棚の中央、その前には座机が置かれ、大和尚はそこで古そうな本を手にしていた。

 大和尚は海翔を認めると、にこやかな表情で迎えた。海翔も思わず微笑んだが、瞬間、大和尚の鋭い眼光にはっとしてなぜか怖気づいてしまった。

「よく来たな」

 大和尚の歓迎の言葉に海翔はすぐに平静を取り戻したが、今のは気のせいだったのだろうかと内心思った。

「お裾分けに柿をと母に言われまして……」

 大和尚はにんまりした。柿は好物だった。

「そうか、ありがたい。お母さんによく礼を言っておいておくれ」

「はい」

 海翔は段ボール箱を差し出した。すると、大和尚は海翔の傍で突っ立っている明慶に叱るように言った。

「これ、何ぼうっとしている? これを本堂にお供えして。それから、いくつか母さんに切ってもらいなさい」

 何かに気を取られていたかのように立っていた明慶は、慌てて返事をすると、箱を両手で持って部屋を後にした。


 部屋に残され海翔はなぜか急に緊張してしまった。大和尚を怖いと思ったことなどこれまで一度もなかったのだが、先ほどの眼光が気になったのだった。

 大和尚は海翔にもっと前に来るように促した。言われるままに海翔は大和尚と向かい合って腰を下ろした。

「お父さんの三回忌も無事済んだし、まずは良かった」

「はい」

「だが、もう二年以上になるのか……」

 大和尚と海翔の父もまた海翔と明慶と同じように仲が良かった。ちょうど年の差も二人と同じくらいで、海翔の父の方が上だった。

 海翔の父もまた一人っ子だった。海翔の家系、即ち武神一族はある時を境に代々男子一人だけが受け継ぐ家系となっていた。

「翔も随分早くに逝ってしまった……」

 翔と書いてカケルと読む。海翔の父の名前だった。

 大和尚は感慨深げな面持ちで天を仰いだ。海翔は大和尚を見つめた。

「さて」

 大和尚は何かを吹っ切るように言葉をつないだ。

「お母さんは元気か?」

「はい」

「それは良かった」

 満面の笑顔で大和尚は喜んだ。

「何も変わったことはないかな?」

「はい。おかげさまで」

「そうか」

 大和尚は黙った。何か考えている様子だった。海翔は何か言ったらいいものかどうか迷った。しばらくして大和尚は続けた。

「君にも変わったことはないか?」

 海翔は特に何もと答えようとしたのだが、大和尚と目が合うと全身が強張るのを感じた。大和尚の眼光が鋭く海翔を射抜いたからだった。

 さっきと同じだ。気のせいじゃなかったんだ。でも、なぜだ? どうしてあんな敵を見るような厳しい目で俺のことを見るんだ? 海翔は言葉を継げなかった。

 大和尚は海翔をじっと見つめていた。その視線から逃れようもないまま押し黙る海翔だったが、大和尚の眼力に操られるかのように、閉ざしていた口をゆっくりと開いていった。

「ゆめ、夢をよく見るようになりました」

 海翔の言葉を聞いて、なぜか大和尚の表情が和らいだ。

「そうか、うん」

 大和尚はどんな夢かと更に尋ねると、海翔も肩の荷を下ろすように、これまでの夢のことや不思議な出来事を大和尚に話した。そして、その勢いが手伝ったのか、海翔はついに母にすら黙っていた夢のことを話し始めたのだった。それは、ここ一年の間に何度も見た夢だった。

「あの、大和尚さん……」

「ん?」

「俺、死ぬかもしれないです」

 突然大和尚のまなじりが吊り上がり、鋭い眼光が海翔を捉えた。海翔は一瞬、馬鹿なことを言うんじゃないと怒られるのではないかと怯んだが、間違いなく普通の夢とは違うと確信していたことと夢の内容が内容だけに、大和尚に挑むような覚悟で話を続けた。

「本当です。俺も最初は大した夢ではないと思っていたのですが、ひと月、二月に一度という感じで自分が死ぬことになっている夢を見るんです。それが何度かあって、最近のでは具体的に数字まで出てきて……」

 大和尚は黙って聞いていた。その時、廊下で何か物音がした。

「明慶か? 何してる、入りなさい」

「……俺、もしかしたら来年の二月四日に死ぬかもしれません」

 静かに障子戸が開くと、驚きと不安げな顔で明慶が入ってきた。廊下には一粒の柿の実が落ちていた。

 明慶は切り分けた柿の入った器を座机に置くと、海翔と同じように大和尚の前に座った。

「父さん」

「うーむ」

 大和尚は大きく唸ると口を結んだ。静寂の中、時計の振り子の音だけが聞こえてくる。明慶はいつまでも口を開かないことにじれったさを覚えたが、父の言葉を待つしかなかった。

 大和尚には、このままでは間違いなく海翔は死ぬことになるとわかっていた。なぜならそれは仕向けられたものだったからだ。仕向けたのはこの世の者ではない。

 大和尚は俯いたままの海翔を見つめた。果たしてこの者は、これから先の自分の運命を受け入れられるのだろうか。受け入れた上で、戦いを挑むことができるのだろうか。大和尚は海翔の身を案じた。この者はまだ未熟だ。まだ父のレベルを超えるどころか届いてもいない。この若者に、命にかかわるこれからの大事に耐え得るだけの資質はあるだろうか。

「父さん」

 堪らず明慶が声をかけた。

「うむ」

 大和尚も言葉を継ぐしかなかった。

「海翔くん、今から話すことをお母さんに必ず伝えると約束できるか?」

 神妙な面持ちで言う大和尚の言葉に海翔は戸惑ったが、はいと約束した。

「絶対だぞ」

 傍にいた明慶も念を押した。そんな明慶を海翔は訝ったが、二人のただならぬ雰囲気に大きく頷いた。

 大和尚の話はこうだった。

 人の命というものは天命である。この世において、天から与えられた命というものには誰も権限はない。当の本人さえもだ。おそらく海翔が耳にしたという何人かの話し合いのようなものは、それを司る者達の声かもしれない。この世でもあの世でもない、生死を超えた別次元の世界なのだ。

 この場合、死は免れないと覚悟せねばなるまい。しかし、一命をとりとめることもある。それはその者にまだその世界からの残された使命があるとき、あるいは新たに与えられたとき。その場合は自ずと再びこの世に戻ってくるか、さもなくば術によって蘇生するかである。いずれにしても一旦は死ぬことに変わりはない。自分が知る限り、再びこの世に戻れた者は一人しかいない。

 海翔は想像もつかない恐怖に息を呑んだ。大和尚は更に続けた。

 しかし、そうではない場合もある。それは意図的に行われた呪術によるものだ。これもこの世の者による施術もあるが、先ほどのものとはまた別の世界、つまり魔物や魔霊などの暗黒の世界に住する者による場合もある。もしこれに当たるなら、救えるかもしれん。

 海翔は自分の耳を疑った。あり得ない話だった。しかし、睨みつけるような厳しい眼差しで語る大和尚を見ているうちに、海翔の疑いの心はしだいにほころびていくのだった。

「その救える方法とは?」

 明慶に言われ、大和尚は頷くと机の引き出しから一冊の経本を取り出した。経本は随分古いものらしく、表に見える文字は殆どが擦り切れていたが、かろうじて王という文字と音という文字が読めた。

「来年の二月というと、まだ数か月はあるな。これを少なくとも千巻読みなさい」

「センカン?」

 海翔にはその意味が分からなかった。すると、明慶が千回だよと教えてくれた。それを聞いた海翔は何だ千回かと思ったが、中を開くと慌てて言った。

「これを千回?」

「さよう。でないと、おまえは呪術によって死ぬ」

 きっぱりと断言されては、海翔も従うしかなかった。

「でも、これは最初の方には通じないのですか?」

 大和尚は考え込んだ。

「わからん。もしかしたらということもあるかもしれない。何にしても千巻必ずあげるんだぞ」

 海翔は約束した。

「そして、ここからお母さんに重々わかってもらわないといけないのだが、術によって蘇生することになったときのことだ」

 大和尚の言葉を受けて海翔が言った。

「俺が死んでもその後のことは何もするなということですか?」

 大和尚は頷き続けた。

「そうだ。間違っても荼毘に付すことがあってはならんし、救急車や医者を呼ぶのもならん。それと、術には様々な祭具が必要になる。それはこちらで揃えるが、術を施しに行くまで、蝋燭の火を決して絶やさないこと、それも四十七本灯し続けなくてはならない」

「そんなに?」

 海翔は驚いた。

「この蘇生術には非常に力がいる」

 明慶が頷いた。

「ともすれば、こちらが命取りになるかもしれん」

 明慶は真剣な眼差しで父の顔を見つめた。

 海翔は言葉が出なかった。

「我が子が死んだとなれば、気が動転するのが当たり前。まさか生き返るなど夢にも思えないだろう。そこをしっかりと理解させておかなければいけない」

 海翔は大きく頷いた。傍にいた明慶も海翔を見つめた。

 単なるお裾分けという軽い気持ちで訪れた海翔だったが、菩提寺を後にする頃には既に外は夜のとばりが下りていた。風が頬に冷たかった。海翔は二人に別れを告げると、暗い夜道の中、車を懸命に走らせた。

 海翔を送り出した大和尚と明慶は、しばし山門に立っていた。

「父さん」

「うん、アキヨシも気が付いていたか」

「はい、書庫の間に入った時にはっきりと」

「うん、どう見る?」

「海翔の気は明らかに変わってました。本人は気づいているのでしょうか?」

「いや、あの様子ではまだだろ。それにまだまだ父のレベルにもない」

 明慶は頷いた。

「だが、時が来たのだろう。事を急がねばならないようだ。いずれ父親のことも語らねばならない時が来るだろう」

 明慶は顔を上げると、父を見つめた。


「ただいま」

「随分遅かったじゃない。こんなに長居してご迷惑なんかかけてないでしょうね」

「アキ兄と久しぶりに会ったから、つい話し込んじゃって」

 出迎えた母に海翔は言った。

「大和尚さんにちゃんと渡してくれたの?」

「うん。喜んでたよ。早速切って食べてたし」

「好物なのよ。昔っから」

 そんな他愛ない親子の会話をしながら、二人は夕食のテーブルに着いた。

「今夜は鍋よ。帰るの待ってたんだから」

 母はそう言うと、鍋のコンロに火を点けた。

 母と子の団欒は、この夜の寒さを温めるのに十分だった。しかし、やがて秋は終わりを告げ冬がやって来る。いや、冬が既にそこまで来ていることを、海翔は肌で感じていた。

「母さん……」

「ん?」

 鍋をつついている母に、海翔は意を決して言った。

「話があるんだけど……、大事な話なんだ」

 母は顔を上げると、海翔の顔を覗き込むように見つめた。

「明日でいいよ。今日はもう遅いし……」

 海翔は躊躇った。

「そう?」

「うん」

「さぁ、食べましょ」

 海翔は、心の中に得体のしれない不安が湧いてくるのを感じていた。抑えようのない不安は恐怖へと変わる。本能的にそれがわかっていた海翔は、母の前でつとめて明るく振る舞った。


 翌朝、海翔は来客の声で目が覚めた。

 眠い目をこすりながら、海翔は時計を見た。既に十時を回っていた。下の階から母の呼ぶ声が聞こえてくる。海翔は重い体を起こしてベッドから出た。昨夜はなかなか眠ることができなかった。大和尚の言葉が気にかかり、あれこれ考えずにはいられなかったからだ。ようやく眠りに就いたとき、時計の針は三時を回っていた。

 眠気はまだ十分に残っていたが、階段を降りると、海翔は明慶の姿に一気に目が覚めてしまった。

「あっ」

 明慶は頷いた。

 母は既に台所でお茶の用意をしていた。

「邪魔するぞ」

 明慶は茶の間に向かった。海翔はしまったと思った。急いで部屋に戻り身支度を整えると、同じように茶の間に向かった。

 襖を開けると、母と明慶が向かい合って座っていた。母の表情から、明慶が昨日の件に触れたことは明らかだった。

「母さん」

 母はゆっくりと顔を上げ、海翔に言った。物悲しい目をしていた。

「話って、このことだったの?」

 海翔は頷くと、明慶の隣りに腰を下ろした。

 母に言葉はなかった。海翔は事の一部始終をゆっくりと諭すように話したが、終始俯くばかりだった。我が子がそんな訳の分からない者に殺されるなど、どうして信じられようか。これが冗談なら、あまりにひどすぎる。母は二人を恨めしいとさえ思ったが、二人の様子から、決して冗談などではないことを嫌でも認めるしかなかった。母は二人の話を聞きながら、心は我が子に襲い来る恐怖に震えていた。それでも、この子だけは失いたくないと強く思うのだった。

 長い沈黙だった。やがて、母は顔を上げた。海翔を沈痛な面持ちで見つめると、今度は明慶の顔をしっかりと見つめた。明慶は母の覚悟を悟った。

「すべて言われた通りにします。どうかこの子だけは助けてください。どうかこの子だけは守ってください」

 それは母としての必死な祈りだった。代われるものならと願っても、それはできない話だった。我が子ながら一体この子に何が背負わされているのだろうと、母はやり場のない気持ちをどうすることもできなかった。


 普段と変わりない生活の中で、海翔は大和尚から渡された経を必死に読誦した。不思議なことに、海翔にはそれが初めて触れるものだったのだが、最初からつかえることなくすらすらと読めたのだった。しかも、回を重ねていくうちに、自ずと空で言えるようになっていった。

 海翔はその経を通勤電車の中、会社の休憩中、仕事帰りの電車の中など、時と場所が許せばいつでもどこでも唱えた。家に帰ってからも経本を開き、就寝前に一、二時間、日によってはそれ以上の時間を割いて読誦に専念した。

 運命の日は刻一刻と迫っていた。

 母は、普段より仏壇に向かう時間が長くなった。海翔の出生地である氏神様にも足を運んだ。菩提寺に出向き、大和尚に直に話を聞くことも一度や二度ではなかった。明慶は頻繁に電話で母とのやり取りを行っていた。仏壇前にはロウソクの山ができていた。

 しかし、そんな皆の必死な思いを無視するかのように、海翔はまたしても自分の死の夢を見たのだった。

 その夜、海翔はまたしても話し声で目が覚めた。目が覚めればその声は一瞬にして消えた。複数の男の声が何か話し合っている。そんな中で、海翔の命はあとどれくらいなのか、言ってみれば夢の中で余命宣告を受けるのである。その数は、初めて見た時から回を重ねるごとに着実に減ってきていた。

 三か月足らずで千巻。たいそうな数であると最初は弱気な海翔だったが、二月を前に何とか九百巻までこぎつけていた。あと三日で百巻。幸い週末を挟んでいたことから、海翔は何とか千巻を読誦することができたのだった。二月四日午前零時、時計の針はその十分前を打っていた。

 外がやけに静かだった。海翔はいつもと違う気配に、窓のカーテンを開けた。外は雪だった。深々と降り積もる雪は、夜のしじまを更に厚くしていた。

 海翔は外の景色を見ながら思った。やるだけのことはやった。後は今から寝て何かあるのか、それとも朝を迎えて次の夜までに何かあるのか。いくら考えても無駄だった。海翔は覚悟を決めて寝ることにした。

 下に降りていくと、茶の間の明かりが廊下に漏れていた。海翔は襖を開けた。

「母さん」

 母は仏壇に向かっていた。憔悴しきった顔で、海翔を振り返った。母は我が子の名を呼ぶのが精一杯だった。これ以上、何が出来ただろう。母もまた精根を使い果たしたのだった。

「終わったよ」

「えっ?」

「千巻読誦した」

 母は手で顔を押さえた。

「でも、わからない。それでも、やるだけのことはやったよ」

 母は何か思い出したかのように急に立ち上がると、部屋の隅にある電話を手を伸ばした。

「こんな真夜中に……」

 ここまで言って、海翔は電話の相手が誰なのかわかった。

「武神ですが、無事千巻終えたそうです」

 その後は、母は終始頷くだけだった。電話を終えた母は、幾分心が落ち着いたように見えた。

「大和尚さんも準備は万端だそうよ。事が起きたらすぐに駆け付けるって」

「うん、ありがと」

 海翔は礼を言った。

「それじゃ、もう寝るから」

「うん、そうね。もうこんな時間だったのね」

「それじゃ、また明日」

「海翔!」

 部屋を出ようとした海翔を、母は呼び止めた。母は海翔をじっと見つめた。もしもこれが我が子を見る最後だとしたら……。俄かに胸が熱くなった。今にも涙がこぼれそうだった。この手でもう一度昔のように抱きしめてあげたい。母は思った。

「何?」

「そ、そうよね。また明日、また明日よね」

 海翔は部屋を出た。ベッドに入っても、心はどこか落ち着いていた。後はどうとでもなれという気持ちだったが、母のことを思うと、死んでなどいられないと強く思うのだった。


 翌朝は何もなく海翔は目を覚ました。

 普段と変わらぬ我が子の姿に母はほっとしたが、まだ終わってはいないと気を緩めることはなかった。

 その夜も海翔はいつものようにベッドに入った。やはり、ただの夢だったのだろうか。それとも経本が効いたのか。だとしたら、一体誰が俺なんかに呪いをかけるんだろ。何にしてももうすぐ日が変わる。これで終わりならいいけど……。そう思いながら、海翔は眠りに就いた。

 明け方近くだろうか。海翔は再び例の話し声で目を覚ました。目は閉じたまま、その声に意識を向けると、どうも自分の胸の数十センチ上から聞こえてくるのがわかった。こんな近くに感じたことは一度もなかった。だが、なぜなのか。男達は日本語を話していると思われたが、まるっきりその意味がわからないのである。それでも海翔は男達の声を聞きながら、話し合いもまとまりつつあることを感じた。とうとう来てしまったか。海翔は覚悟を決めた。そして、目を閉じたまま身を任せた。

 その時だった。

「この子を死なせてはいけない!」

 男達の声がぴたりと止んだ。

 海翔は静かに目を開けた。

 今のは……。誰だ? オヤジの声でもない。じいちゃん? いや、そもそも俺はじいちゃんの声も知らない。海翔は不思議に思った。たったひと声ですべてが消えてしまった。

 海翔は、昔テレビで見た悪魔祓いを思い出した。神父が悪魔祓いをやるにも決着がつかず、少年だったか少女だったかは忘れたが、彼の命が今にも尽きようとしていたその時、天使の声が彼の口から発せられたのだった。

「ここから出ていけ!」

 その声と共に悪魔は退散し、彼の命が救われたのだった。

 男達よりも上の存在なのだろうか。たったひと声ですべてが変わるなんて。テレビて言ってた大天使ミカエル様か? まさか。でも、一体誰だったんだろう。考えながらも海翔は心安らかに再び眠りに就いた。

 その日の朝、母は海翔の変わらぬ様子に心から安堵した。

「何だか助かったみたい」

 その言葉に母は全身の力が抜けそうだったが、けろりとした海翔の顔に笑顔を取り戻すと、慌てて仕事に出かける海翔を見送った。

「寺には俺から電話しとくから」

 途中で振り返り言う海翔に、母は元気よく手を振って答えた。


 週末、海翔は母を連れ立って菩提寺を訪れていた。母は大和尚の奥さんと談笑に花を咲かせ、夕刻になると二人で台所に立ち、夕食の準備を始めた。

 その間、海翔は書庫の間で大和尚と明慶と向かい合っていた。

 大和尚はただ首をひねるだけだった。こんなことは全くもって初めてのことだった。

「これ、ありがとうございました。お返しします」

 海翔は座机に経本を置いた。大和尚は受け取ると、すぐに引き出しの奥にしまい込んだ。

「でも、誰だったんでしょう?」

 明慶の問いは皆が思うことだったが、さすがの大和尚も答えを出せずにいた。

「だが、それほどの威厳を持っているなら、よほど位の高い者だろう。海翔くんはとんでもないものに守られているのかもしれないな」

 海翔は照れた。

 その日の夕食は、大和尚の家族との賑やかなものとなった。明日は日曜なんだから泊っていけばいいという大和尚の言葉を丁重に断り、海翔は母を車に乗せ帰路に就いた。

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