第1章 ⑧舞扇秋那 VS 六原一彦

 六原は、小柄な秋那を見下ろしながら、


「舞扇会長、いいっすよね? 追加でもう一試合やっちまっても」


 背後にいる春希に尋ねた。


『今の僕はあくまで進行役でしかないから、それを決める権限は無いよ。ルールブックには、アンリミテッドでは学生の意思が最も尊重されると書かれてある。この場合の『学生』とは戦う本人と、それを見守る観客のみんなの事だ。六原君、戦う準備はできているかい?』


「当然ッスよ。二月の大会で大河内さんに敗れてから、俺はいつでもリマッチができるように心と身体の準備はできてますから。ふふ、そうだ。どうせなら、この試合を春希会長への挑戦権を手にできる鍵を賭けた勝負にしましょうよ。俺としても、補欠合格では格好がつかないんで」


『ふむ、分かった。秋那は……聞くまでもないか』


 すでに秋那は臨戦態勢だ。


『では、最後の確認をしよう。会場にいるみんなは『ボーナスマッチ』として、六原君と秋那の五つ目の鍵を賭けた戦いを観たいかい?』 


 春希からの問いへの返答は――


「おおおおおおおおおおおッ!」


 大歓声だった。


 先輩達だけでなく、新入生も興奮しながらボーナスマッチを求めている。


 そんな中――


(こんなの無茶だ……)


 彰だけは冷静だった。


 みんなは知らない、秋那が女の子である事を。


 たとえ同性であっても、身長が数センチ、体重が数キロ違うだけでも不利に働く。


 秋那と六原との身長差は約十センチ。


 体重差もかなりあるだろう。


 性別の違いが生むフィジカル面での不利は確実だ。


 おまけに秋那は何キロも海を泳いで舞扇高校に上陸してきた。


 体力のロスもあるだろう。


 あらゆる面で秋那に不利な材料がそろっていた。


(止めた方がいい……!)


 対峙する秋那と六原の横顔を見つつ、彰は思う。


 けれど、この異様な盛り上がりの中ではさすがに声を出す勇気はなかった。


 そうこうしている間に、ボーナスマッチの準備が着々と進んでいく。


 強化ガラスの舞台上には秋那と六原のみが残された。


 二人の手にはスタッフが用意したオープンフィンガー・グローブが填められている。


 秋那が青、六原が赤だ。


 六原は、秋那に奇襲を仕掛けた時の赤いボールも使うようである。


 特殊ゴムで表面を覆う事で人体に与える衝撃を和らげるという、アームズ・グローブ加工。


(でも、打ち所が悪かったら、大怪我に繋がるかも……)


 硬球を身体にぶつけられる痛みを、彰は中学時代に一度、経験している。


 不良にぶつけられたボールの痕と痛みは一週間くらい引かなかった。


 痛々しい痣が目立つ場所に残るかもしれない。


 そういう意味でも女の子である秋那の事が心配なのである。


 しかし、そんな彰の不安をよそに試合は滞りなく始まろうとしていた。




 

 天井から巨大なガラスの立方体が降りてくる。


 六原は天井からのスポットライトに目を細めつつ、その美しい檻を眺めていた。


「おい、六原」


 と、同じ野球部の虎我が場外から声をかける。


「どういうつもりだ? 俺の勝利者インタビューに水を差すような真似をしやがってよ」


「すみません、六原さん。でも、会長へ挑むための五本の鍵を持つ中で、俺だけ黒星があるなんて格好つかないじゃないっスか。直近で負けた大河内の代わりにお情けで鍵を手に入れるんじゃなく、どうせなら気持ち良く勝って五人目の資格者になりたい。俺のワガママ、許してください」


「……ふん、分かったよ。けど、負けたら承知しねえぞ?」


「負けませんよ」


 そこで天井からガラスの壁と天井が降りてくる。


 これで外部の音はほとんど遮断され、虎我の声も聞こえなくなった。


 唯一、例外として春希のマイクの声だけは足元のスピーカーから届くようになっている。


 彼の声は試合開始と終了の合図でもあるからだ。


『これが初戦の秋那に改めてルールを教えておくよ。アンリミテッドでは目への攻撃、下腹部への攻撃は禁止されている。制限はそれだけだ。ガラスの檻が降りてキューブが完成した瞬間から試合が始まる。そうなったら、どちらかが動かなくなるまで外には出られない。いいね?』


 春希の言う通り、一度、戦いが始まってしまえば試合が終わるまで逃げ出す事はできない。


 いくら透明なガラスとはいえ、逃げ場が無い、閉じ込められるという環境はかなりのプレッシャーを与えるものだ。


 勝敗は、この重圧に耐えられるかどうかで決まる。


 そう、六原は確信していた。


(並みの選手は、この時点で心理的負担を感じて萎縮しちまうんだよなぁ)


 閉鎖的で逃げ場が無いという環境と、何万人もの視線……前者は広いフィールドで戦う球技の選手にとっては未知の領域だろうし、後者は千人以上の観客を集める事は難しいアマチュア格闘技ではなかなか経験できない事だ。


 しかし、六原はその二つをすでに体験している。


(俺は逃げ場が無い『マウンド』という特殊な場所で、何万人もの視線を一身に背負ってプレイしてきたんだ。甲子園という大舞台でな!)


 それが六原にとっての自信となり、アンリミテッドでの勝率を高める大きな要因ともなっていた。


(そんな俺でも、初めてキューブの中に入った時はそれなりの緊張感を抱いた。甲子園のマウンドを経験した俺でもこうなんだ。初めてアンリミテッドで戦うお前の緊張はかなりのもののはず!)


 六原は、秋那の顔を見る。


「………」


 その表情は、ガラスの檻に入ってくる前とほとんど変化が無いように見えた。


 ただ獣のように鋭い視線を向け、今にも唸り声を上げそうな表情を浮かべている。


 そこに緊張感は感じられない。


 六原としては、当てが外れて、あまり面白くなかった。


(……まあ、それならそれでいい。その石仮面は、これからじっくり暴力で剥がしてやるよ)


 六原は、右手の赤い硬球を握る指に力を込める。


 戦いの準備は整った。


『では……アンリミテッド、始め!』


 春希のマイクで試合が始まるのだが、六原は少しフライングして投球フォームに入る。


 実戦を想定しているアンリミテッドでは、ルールの方もかなり大まかだ。


 春希の掛け声で試合が始まるというのは『暗黙のルール』程度の拘束力しかなく、キューブが閉じられた時点でいつでも攻撃を仕掛けて良い事になっている。


 だが、そのタイミングでは奇襲はせず、六原はあえて春希のマイクを待った。


 そうする事で、この試合は『マイクの声』をきっかけに始まる……と相手は勝手に思い込む。


 だから、マイクの声が終わるまでは安全だと勘違いして無防備になるのだ。


 そこを突く。


 まだ構えてすらいない秋那に向けて、六原の剛速球が投げられた。


 それを――間一髪、秋那は頭を右に傾ける事で回避する。


(へえ、デビュー戦にしてはなかなかの反射神経だな)


 初球を避けられた六原だが、その顔に焦りや失望は微塵もない。


 この奇襲攻撃は、格闘家に対してはあまり効果がない事は想定済みだからだ。


 予備動作、という言葉がある。


 ある行動を起こす際に必要な動きの事で、格闘技においてはディフェンスの際に重要な要素となる。


 いかに勘付かれる事なく、少ない予備動作でパンチやキックを放てるか……


 そういう攻防を経験している格闘家にとって、威力の高い球を投げるために必要な投球フォームは、大振りの『テレフォンパンチ』以上に予想がつきやすい。


 だから、ある程度の反射神経があれば奇襲にも対応できるのだ。


 回避のために頭を右に傾けていた秋那が、それを正常な位置に戻す。


(あーあ)


 それを確認した六原は心の中でほくそ笑んだ。


(俺の初球を避けた奴らも、すぐに顔を苦痛に歪ませる事になるんだ。背後から戻ってくる跳弾でなぁ!)


 六原は敵の背後に目を向ける。


 投げたボールは強化ガラスに接触し――真っすぐ、跳ね返ってきた。


 敵の放った攻撃が跳ね返ってくるなど、格闘技ではありえない概念である。


 だから、格闘家には回避が難しい。


 跳弾は、銃撃戦などでも非常に有効な戦法だ。


(飛び道具を前にしたら、素手の格闘家など赤子同前になる。それは、拳銃でもボールでも同じ事だ!)


 強化ガラスにぶつかって跳ね返ってきた硬球が、秋那の後頭部に迫る。


 それを悟らせないよう、六原は右拳を握って秋那へと接近を始めていた。


 六原の持っている格闘技の技術は、たった一つ――


 ロシアンフックだけ。 


 それで充分である。


 野球の投球フォームに近い動きから放たれるロシアンフックこそ、ピッチャーに最も適合した技だ。


 その拳と、跳弾した硬球でサンドイッチにする。


 これこそが六原の必勝パターンだった。


 前門のロシアンフック、後門のボール――タイミングも申し分ない。


 どちらかが当たれば勝利できる。


 そうやって六原は格闘家相手に秒殺を積み上げてきた。


 そして、それは今回の試合でも変わらない。


 勝利を確信した――その直後、


「!?」


 六原が目を見開く。


 なんと、ボールが相手の後頭部に接触するかしないかのタイミングで秋那の姿が消えたのだ。


「なっ!?」


 眼球だけを下に向ける。


 足元では、秋那が四つん這いになるほどの勢いで低く腰を落としていた。


(まさか、背後から迫る硬球に気づいていたのか……はっ!?)


 そこで六原も気づく。


 真っすぐと壁に当たって跳ね返ったボールは、持ち主のもとへ戻ってくる事に。


「おわっ!」


 前を向くと、すぐ鼻先まで赤い硬球が迫っていた。


 ギリギリのところでパンチを出そうとしていた右手を開いてボールをキャッチし、顔面直撃を回避する。


 ピッチャー返しなどを経験する投手でなければ、硬球を顔面に受けて大ダメージを食らっていた事だろう。


(さ、さすがは俺……!)


 ホッとしつつも、少し悦に入る六原の腹部に……トン、と微かな衝撃が走った。


 その直後、身体の中を熱い熱源体が通過していく奇妙な感覚を抱く。


 痛みとは違う、不可思議なものだった。


「あっ」


 それを受けて、ここがマウンド上ではなくキューブの中だという事を六原は思い出す。


(そ、そうだ、これは野球じゃない、アンリミテッド……!)


 反射的に六原は腹に力を入れるようにして防御態勢をとった。


 続けて視線を下に向けるが、そこにはもう秋那の姿はない。


「どこだ!?」


 慌てて叫んだ時――ドンッ、と今度は背中に何かが当たる。


「!?」


 その直後、とてつもない衝撃で六原は前方に吹き飛ばされていた。


 まるで、背後からトラックで激突されたような――


「………」


 覚えているのはそこまでである。


 六原の意識はそこでプッツリと途絶えた。

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