第4話 冷たい義手
バイト先に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。はちみつみたいにまろやかな声は、懐かしい。
「しぐれ。久しぶり」
万感の思いがこもった声の主は優一だった。細いチャックのジャケットに、グレーのトレンチコートを羽織っている。足元は黒のスラックス。私の記憶とは違い、ずいぶんとカジュアルな装いになっている。
「——久しぶり」
ほぼ一年ぶりに聞いた声というのと、やはり気まずさがあって応え方がぎこちなくなってしまった。太陽の光は明るく、肌寒い。
「前に見かけた時は、話しかけられなくて。どう、元気にしてた?」
「うん。まあね」
どういう意味の質問なのか測りかねて、恐る恐るの返答になってしまった。そんな、私を見て優一は微笑んでみている。自然な笑み。力が入っている様子はない。
「……どうしたの。そんなに顔をジッと見て」
「いや、懐かしくて」
慌てて、顔を背けると自分の言葉にジンと来た。そうだ。優一と話すのは、懐かしいんだ。心の中を覗きこむと、驚いている自分。ビクついている自分。その中に確かに、嬉しく思っている自分がいる。そんな事実に体が震える。
「今日は、どうしたの。そんな服着て」
その言葉を契機に歩き出す。手を伸ばせば触れられそうな距離。植え込みの中では鳩が集まって休んでいる。
「今日は面接なんだよ。ほら、この前教えてくれたDVDの」
「ああ、もう面接。早いね」
私が教えたのが、一昨日の晩だ。バイトはそんなに合格が難しいとは思わないけど、それにしたってトントン拍子に進み過ぎだ。
「今年度中で辞める人が多いらしくてさ。けっこう多く募集してたんだって。でも、みんなある程度学校の方に慣れてからバイトを探すから全然来てくれないって嘆いてたよ」
「面接中にそんな話を……」
「ううん。連絡した時の電話で」
まだ、採用していない人に愚痴ったのか。ずいぶん追い込まれてたんだなあ。私は顔も知らない店長に同情した。
「でも、そのせいかな。僕でも全然大丈夫だって」
優一は一瞬、右腕に視線を落とした。前に見たとはいえ、胸がズキッとする。心臓の辺りを掴まれて揺さぶられる感じがする。
「しぐれは、どうしたの。まだ昼過ぎだけど」
「バイトだよ。前に行ってたスーパー。先にお昼食べとこうかと思って。……優一は、もう食べた?」
訊いてみると、まだ彼の方も昼は済ませていないらしい。二人で連れ立って近くのハンバーガーショップへ。込み合う時間帯なので、彼にカウンター席を取ってもらって、私が買いに行った。
品物が来るまで壁際に寄って待っていると、優一がコートを脱いでいるのが見えた。ボタンをゆっくりと外してる。
「……」
無料スマイルをもらって、席に向かう。彼はメールを確認しているようだった。
「あんまり、人前でケータイはいじらない方が良いよ」
がたんと、トレーを置いてジト目を向けてやる。優一は一瞬だけシュンとしたが、言い訳を始めた。
「ごめん。でも、面接の時間が気になったから。なにせ、初めてだから」
「もっともらしいこと言ってても、癖づいたらアウトだよ。気をつけてても、そういうのってでちゃうんだから」
「いや、けど……」
「文句言わないの。バイトに関しては私が先輩なんだから。文句言うなら、こうだ!」
こっそり包装紙を向いていたチキンカツバーガーを優一の口に押し込んでやった。油断してたのか、思ったよりも奥に入って、優一がのどを詰まらせた。
「ごほ、ごほっ。急に何を……あ」
苦しんでいた表情がサッと変わり、問いかける物へと変わる。ばれたみたいだ。義手では包装紙を剥くのは大変だろうと思って気をまわしたのだが……。余計な気遣いだったろうか。そっと顔をのぞいてみるが、優一の表情からはその内心をうかがうことはできない。聞いてみたいけど、少し怖い。口に出される前に別の話題を振る。
「そう言えば、マリンちゃん。元気にしてる?」
マリンは彼の飼っている犬のことだ。犬種はミニチュアダックスフンド。
「元気だよ。この前散歩に連れていったら、全力で走りだしちゃって——」
ペット自慢は誰でも楽しい。優一も例外ではなく、お互いにハンバーガーを食べ終わるまで続いた。でも、おかげでずいぶんと気が晴れた。昔と同じ、何気ない会話。
彼は澄んだ目をキラキラ輝かせている。真っ白できれいな歯並び。私はいつしか、話よりもそれらを見るのに夢中になっていた。
問いかけられて、我に返る。
「そうだ、この前見かけた時に一緒にいた人って友達?」
千春のことか。ポテトをくわえながら、頷く。
「そうだよ。どうしたの、タイプだった?」
「そういうわけじゃないよ。髪が長い方がタイプっていうのは当たってるけど。だから、うん。しぐれも、気を悪くしないでほしいんだけど。ショートも似合ってるんだけど、僕としてはポニテの方が良かったかな」
それは、私だってそう思う。けど、これはあの時の想いの象徴だ。もちろん、そんなことを言っても何にもならない。ただ、自分の罪悪感を和らげるだけにしかならないのだから。
「ただ、どういう関係かなと思っただけ」
「同じ部活なんだよ。文芸部」
「あ、そうなんだ。やっぱり、本は読んでるんだね。しぐれは時間があったらすぐ何か読んでたもんね。僕も今は家でずっと暇してたから結構読んでるんだよ。最近は何読んだの?」
「『グレート・ギャツビー』」
「ああ、僕も読んだよ。パーティーをやる富豪の」
「そう! 私思わず二度読みしちゃったよ。あの、ギャツビーのひたむきな愛情がたまらないよ。あらゆるものを投げ打って、でも気弱なところもあるんだよ。そこが人間らしくて好き」
思わず、語ってしまった。三宅先輩とやっていることは同じなのだが、実は先輩と語り合ったことはない。先輩は古典の戯曲が主だが、私が好きなのは準古典。言ってしまえば、時代が私の方が後になる。そのせいで、微妙にかみ合わない。
「あれって、恋愛小説だと思ってたけど、読んでみたら違うな。何ていうか、そう。みんなの運命が揺れ動くとこを切り取ったっていうか」
優一とは、これがかみ合う。このことは付き合ってから知ったことなのだが、このおかげで距離がグッと詰まった。それまで、あまり親密な付き合いではなかった私たちがぎこちなくならなかったのは、この趣味の一致が大きい。
今でも、そうだ。私たちは完全に当時の距離感を取り戻していた。制服を着せれば、見分けがつかなかったろう。
特に、大きな転換点があったわけでもない。ただ、何気ないやり取りで醸し出される雰囲気。
「そろそろ、行かないと」
「あ、じゃあ」
彼が腕時計を見たので私たちは同時にトレーに手を伸ばした。手が触れ合う。温かな左手、そして……冷たい右手。
「あ……」
二人の声が重なる。沈んだ声で。ゲームで歓声を上げている若者の声が私たちの上っ面を撫でていく。扉が開いて冷たい空気が店内に吹き込む。
「ごめん……」
私はトレーを持ってサッサと返却口に持っていく。優一は悲しそうな目で見ていた。
「あんまり、気にしないでよ」
「そんな訳には……」
彼の右手は今まで見たことだけだったが、いざ触れてみると改めて実感が湧いてくる。異様に硬くて冷たい手。心を直接冷やされる。
「ほら、元気出してよ」
「だから、そんな訳にいかないよ!」
思わず、怒鳴ってしまった。店内に声が響いてしまった。優一に腕をつかまれて店外に連れ出される。
「落ち着いてよ。ね」
「……!」
苛立った目で優一を見てしまう。視線をあちこちに動かしながら、彼はうろたえている。
そんなことをさせてしまう資格は私にはない。その自覚はあるけど。彼に対して、申し訳ないという思いは常に持っている。持つべきだ。それでも、自分に腹が立ってどうしようもない。
優一自身は、どう思っているだろう。
私は、彼のことを思っていた身を抱え続けようと思っている。でも、優一がこの義手のことで辛いという感情を見せたことは今までにない。今だって、怒り悶える私に困っているだけに過ぎない。
曖昧な笑みでとりなそうとしている。その笑顔の裏には、どんな感情があるんだ。腕を失い、日常生活にもハンデを背負い、ハードル走からも遠ざかるしかなくなった。けして、良い感情があるとは思えない。
「しぐれ、大丈夫?」
彼がそっと、私の肩に左手を置き、そっと右手の腕時計に視線をやる。世界がグルグル回っている感覚の中、それは何故か見逃さなかった。
今から、彼はバイトだったんだっけ。初めての面接なんだ。彼にはストレスフリーで臨んでもらわないと。私は表情が抜け落ちたまま、そんなことを考えた。
「ごめん、ごめん! ちょっとびっくりするかなーって思っただけ。そんなに深刻そうな顔しないでよ」
弾ける笑顔を描きだし、明るい声を作って髪をなでる。伸ばした指の先を、彼の髪がサラリと流れる。
態度が豹変した私に彼は唖然としていた。その背を強引に押しやっていく。
「ちゃんと、合格するんだよ。これからは親の脛ばっかりかじってられないんだから。もし受かったら、教えてよ。ご馳走してあげるから」
暗い気持ちを置き去りにしたくて、優一の背を押しながら無理やりに加速する。けれど、以前にも抱いた疑問は、胸の中で気味悪く膨れ上がる。
彼は私をどう思っているのか。
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