第2話 優一の右腕

 校門の柱に背を預けていると、西日が目に染みる。眩しいが二月の空気に押されて温もりは届かない。薄い雲の下はオレンジに染まり、上は紫がかっている。下は夕暮れ、上は夜。まるで違う二つの世界が共存しているようだ。


 「おーい、しぐれ」


 校舎の側から声がかけられる。制服姿の優一が手を振っている。夕陽に照らされて朗らかな笑顔に心が弾む。


 元陸上部ハードル選手のロケットスタートで私の横にやって来た。一瞬だ。


 柔らかい眉の形といつも浮かべている微笑み。そこからイメージする通り、おっとりして優しい彼だが、県大会で三位に入ったスポーツマンでもある。


「じゃあ、行こうか」

「うん」


 横に並んで歩き始める。ちなみに私も制服だ。日曜日だけど。


 これは一応、受験生だから自習室を使いに来たためだ。決して、デートが名目ではない。勘違いされて騒がれても困る。まあ、デートが一番の楽しみで思考の半分以上を占めていたのは否定できないが。


「そろそろ、一年だね」

「あれ、そうだっけ」


 感慨深い私にとぼけた声で優一が答える。照れ隠しではない。これは、素で気づいてないな……。男子はよく記念日を忘れるっていうけど、ホントだったんだ。


「そうだよ。バレンタイン終わってからだったから、覚えてるよ」


 あの告白はなかなか印象的だった。私が初めてされた告白っていうのももちろんあるが、一般的に珍しいんじゃないかな。バレンタイン翌日に告白してくるの。


 しかも、義理チョコすらもらわなかった相手に告白するのは。


「あれって、なんでだったの。一週間早かったら、チョコ渡したよ?」


 今更ながら聞いてみると、優一は恥ずかしそうに俯いた。でも、彼を見上げるアングルにいる私にはばっちり見える。うん、かわいい。


「あれねえ、わざとなんだよ」

「わざと?」

「そう、ほら、バレンタインって、けっこうチョコ目当ての人がいるじゃないか。そのために付き合ったり、女子に声かけたり」


 うーん、チョコ一個のために付き合うはさすがに聞いたことはないが……。でも確かに、チャラい男子は女子からチョコを事前にねだる姿を目撃する。


「そういうのと、間違えてほしくないっていうか。本気だって伝えたくて」

「そっか、それは確かに伝わった。もうビシビシ伝わったよ」


 同じクラスで彼がチョコをもらっているのは何となく聞いていた。それを振ってまで私に来た時の衝撃はかなりのものだった。


 びっくりし過ぎて、告白を二回も聞き直してしまった。


 図書当番で、二人きりの時だった。内容を理解した時は、持っていた本を全部取り落とした。でも、顔を真っ赤にしながら真剣な表情だった彼の顔は今でも忘れられない。忘れたくもない、一生ね。


「ねえ、なんで私だったの」

「それ、前にも言ったじゃないか」

「じゃあ、変えよう。なんで私なの」


 過去形じゃなくて、現在形。


「それ、聞く?」

「聞きたいの」


 いくら相手を信じていようと、愛していようと。やっぱり、言葉にしてほしいじゃない。バカな乙女心。


「フッとした仕草が可愛いこと。気配りが細やかなところ。案外ストイックなとこ。自分でお弁当作ったりしてること。目が輝いてて吸い込まれそうなとこ、笑った顔が綺麗でそのくせちょっと凄みが合って惹きつけられること……」


 そこまで言って、フフッと笑った。


「全部だよ」


 なかなかに気取ったセリフ。自分からふっておいてなんだが、お腹の辺りがムズムズする。照れ隠しにポンと体当たりしてみたら、大げさによろめいた。

 コラコラ、とたしなめた後で私に訊いてきた。


「じゃあ、どうして僕と付き合ってくれてるの?」


 そうきましたか。


「まずは、目がとっても澄んでてずっと見てられるから。声がきつくなくて、はちみつみたいにまろやかだから。聞いてて穏やかな気持ちになれるから。普段はとっても穏やかで柔らかい笑顔なのに、いざ走る時はキュッと真剣な表情になってドキッとするから。手がいつも温かくて、包み込まれる気がするから」


 私は話にかこつけて腕を絡ませ、手をつなぐ。指同士をからませるいわゆる恋人つなぎ。彼はちょっとだけピクリとしたが、黙って握り返してきた。温かくて、大きな手。


 優一の顔を見上げる。


「いつも誠実で優しいから。愛してくれてるなって分かるから。こっちも返したくなるの」


 ストレートに言ってみた。口元をもごもごさせている。手をそっと伸ばして、私の頭をそっと撫でた。


 私たちの前では、黒くて長い影が寄り添いあっている。小さい方の影が、ポニーテールをピョコピョコ揺らしている。ご機嫌なワンコみたいだ。


「受験が終わったら、二人でどこかに行かないか」

「デート?」

「うん。どこが良い?」


 受験終わりということは、だいたい三月中旬かな。その時期に行けるスポットは……。


「べたにお花見とか?」


 桜舞い散る道を二人で歩く。それだけで十分だ。小川を花びらが流れるのも個人的にはグッド。


「そっか、じゃあ、探してみるよ」


 事も無げに言うので、茶化してみる。


「優一。それで落ちたりしないでよ」

「そうなったら、しぐれに責任取ってもらうよ」


 ハハハハと気持ちよさそうに笑った。


 そこからは、二人とも無言で歩いた。今更ながら、受験生らしく『落ちる』というワードにナーバスになったから——ではしない。


 ただ、言葉を交わす必要がないだけだ。世の中には、ただ同じものを見て、聞いて、同じ空気を吸う、それだけで伝わるものが確かに存在する。音楽を聴きながら機嫌よく歩く人。どこかの家で子供がはしゃぐ声。


 五分程歩いていくと、公園が見えてきた。ブランコやら砂場があるが、さすがに寒いせいか、子供は見あたらない。ここで、私たちの帰路は別れる。


 二人で公園脇でたたずむ。信号が青になるまで粘る。


 カッコー、カッコーという無機質な音流れる。


 手のひらが離れる。指が一本、一本と。


「じゃあ、また明日」

「うん、またね」


 小走りで走った後、横断歩道の真ん中で振り返る。彼はまだこっちを見ていた。なんだか、嬉しくなって手を振る。


「バイバイ」


 彼も右手を上げて応えてくれた。


 広い世界、静まる世界に二人きり。何でもない道が幻想的に彩られる。このシーンを胸に残しておきたい、そう思った時。


 フッと彼が動いた。ロケットスタート。校門で見せた物より早い。一瞬で目の前までやって来た。


 しかし、彼は止まらなかった。そのままの勢いで体当たりされ、不意をつかれた私は歩道際まで飛ばされた。目の前を銀の物が通り過ぎる。


 ガシャァン!


 目の前で爆発でも起きたような轟音が響いた。


 背中の痛みに耐えながら身を起こすと、目の前でトラックが分離帯に乗り上げていた。側面には宅急便のマークがついていて、前面は街灯に押しつけられて凹んでいる。


 だが、彼はどこだ? トラックが来る直前、駆け寄ってきた彼は?


「優一? どこ?」


 私はおそるおそるトラックに近づいた。ツンとする嫌なにおい鼻に着く。酸っぱいような、鉄さびのにおい。


「……優一」


 彼はうつ伏せになって倒れていた。トラックの脇で大の字になっている。その右腕はトラックの下敷きになっている。そこから流れ出る、血。


「ねえ、優一。しっかりしてよぉ。優一ぃ」


 どうしていいのか分からずに、彼の頭に手をやる。ピクリとも動かない、無反応。


 だが。だが、かすかに空気の流れを感じる。息はあるのだ。まだ、生きている!


「あいた~。おー、嬢ちゃん大丈夫か?」


 宅配業者の制服を着た、無精ひげの男が能天気な顔で声をかけていた。怒鳴りつける。


「大丈夫なわけないでしょ!! 早く、トラック退けて、救急車呼んで! サッサとしてよぉ!」


 運転手が血相を変えて走り去っていった。残された私は膝をつき、優一の耳元で声をかけ続ける。


「優一。もうちょっとだから。もうちょっとだからねえ。しっかりしてよ。頑張ってよぉ。うぅ。優一。絶対、うぐ、助かるから、ねぇ。うぅ——あぁ。だから、あと、少しだけ、ね。少しだけ、頑張ってよぉ、優一ぃ……。」


 涙で見る見るうちに視界が揺らぎ、声が、言葉にならなくなってくる。自分でも、何を言っていたのか、分からない、覚えていない。それでも、私はひたすらに声をかけ続けた。


 優一は、大量出血のために一時昏睡状態になったが、幸いにも翌日の夜、意識が回復した。しかし、トラックに轢きつぶされてしまった右腕の再建は不可能だった。彼が意識を取り戻した時、彼の右腕はひじから先が失われていた。


 彼が意識を取り戻すと、週末はいつも病院に通った。受験が終わると毎日。お饅頭やらプリンやらを手土産に持っていくと、毎回喜んでくれた。


「病院のご飯って、バランスは整ってるんだろうけど、味が薄くって。ガッツリハンバーグとか食べたいよ。好きなんだ」


 とか言って。二人でパンフレットを見ながら、桜を見るにはどこが良いかとか、能天気なことを話した。体力を落とさないように、病院内を一緒に散歩したりもした。


 彼は一見すると、今まで通りだった。普段通りに笑みを浮かべて、まるでちょっと走ってこけた時みたいな表情だった。


 彼の友人なんかは、一緒になってバカ笑いしていた。それでも、私は気づいた。だって、いつも一緒にいたから。


 彼が散歩中、常に手すりを離さないこと。階段なんかで急によろめくこと。彼は、リハビリって大事だねと笑っていたけど、スポーツマンの彼がよろめく。それは腕を失いバランスが取れないせいだ。


 あと、時々、私のことを哀しそうに見ていることを。彼は私を庇ったせいで腕を失った。ならば、当然、その責任は私にある。いつも必死に口で笑って目が辛そうなこともよくあった。


 私のせいでこうなった。だから、支えないと。そう、思えば思うほどにないはずの彼の右腕がどんどん存在感を増していった。


 私は、全力で笑いながら彼と、たわいもない会話をした。もちろん、全力で臨めばできないことではない。


 それでも、全力を出し続けるのは無理だ。全力疾走のまま、長距離を走れる人間なんて、いない。胸が毎日少しずつ緩やかに決して止まらず、押しつぶされていく。一息するのも苦しい日々。


 だましだまし頑張った。けれど、1日空き、2日空き、次第に彼と顔を合わせることができなくなっていった。どうしても、彼に会うことができなかった。また、私の罪を目の前につきつけられることに耐えられなかった。 


 受験が終わり、ほとんど学校に来ない3年生の間でもどこからともなくうわさは広がっていた。


 面と向かって言われこそしないものの「彼氏が大けがしたら、捨てるってサイテー」「瀬田君、可哀想だよね~」「こういうときこそ、支えてやってほしいもんだけどな」とか、こんな言葉が飛び交っていたのは知っている。


 でも、私にどうしろというんだ。私は、精いっぱいやった。もう、これ以上は抱え込めない。あの、あの右腕が迫ってくる恐怖は誰にも分からない。酷い女だと自分でも、思う。優一が可哀想だと、思う。けど、明日優一の隣で、笑うことができない。


 私は沈んだまま、卒業した。帰り道に咲き誇った満開の桜の下を、一人で歩いた。そして、帰ってすぐ、ポニーテールの尻尾をハサミでバッサリ斬り落とした。

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