それでもこの冷えた手が

黒中光

第1話 お昼に再会

 ざわざわとした食堂の中で私はトレーを持ちながら周囲を見渡していた。適当に歩き続けていると「ちゃん——。しーちゃん」と私を呼ぶ声がする。二列先のテーブルで茶髪のウェーブした髪を揺らしながら友人が手を振っていた。


「遅いで。こっちはおなかペコペコなんやから」


 千春が頬を膨らませて拗ねてみせる。別に本気で怒っているわけではなかろう。どうせいつものオーバーアクションだ。


「仕方ないでしょ。なかなかメニューが来ないんだから」


 私が頼んだのはあんかけ卵うどん。味は良いのだが、麵をゆでる分、どうしても待たされる。


「よし、食べよ。食べよ」


 横で早速チキンカツに手を伸ばす千春。その横でわざとらしく、「いただきます」と合掌。照れくさいところがなくもないが、すでに習慣づいているし、悪いものでもない。


 うどんをすすりながら、自然と前を向くと、私の手が止まった。


「ゴホ、ゴホッ」

「大丈夫? 意外とがっつくな~」


 茶化す千春に手をヒラヒラ振って応える。


 別に食い意地が張っているわけではない。目の前にいる男のせいだ。一人でカレーを食べている男。


 私はうどんに視線を落としながらそっと観察してみる。柔らかな線を描く眉。そっとたたえた微笑。それになにより、私が見た中で最も深く、澄み切った瞳。間違いない。


 瀬田優一だ。私の元カレ。どうしてここに?


 あんまりに唐突な出来事に心臓をバクバクさせながら俯く。私の上を喧騒が流れていく……。


「ちょっと、しーちゃん。しーちゃんってばあ」


 肩をガクンガクンと揺すられて我に返った。唇を尖らせた千春だ。食べる手を止めてこっちを見ている。何故か小学校の頃、友達と一輪車の上でじゃれ合っていたことをふと思い出した。


「聞いとんの?」

「ああ、ごめん。何?」

「やからさあ、こないだの新年会、どうやったん? 三宅先輩」

「――別に、どうともなってないよ」


 マズいな。嫌な話題になってしまった。


「あたしはいけへんかったけど。なんか進展あったん?」

「ないよ」


 三宅先輩というのは、私が入っている文芸部の先輩だ。歳は2つ上だから、21だっけ。


「じれったいナ。向こうは絶対好きやで。普段からようしぐれのこと見とるもん」


 ああ、それを今言わないで。なんで、元カレの前でこんな話をしないといけないのか。


 前を盗み見ると、優一は平然としている。でも、右手が。右手で持った皿が小刻みに揺れている。作り物の右腕。


「いいやん。明るくて、引っ張っていってくれはるから、しーちゃんにはうてると思うよ?」

「う~ん、でも」

「嫌いやないんやろ?」


 千春が顔をズイッと近づけてくる。にんまりとした笑みを浮かべながら。言質を取る気だ。どうしよう。大阪人特有のドンドン踏み込んでくるスタイル。体が前のめりになってる。顔が近い。


 私はそっとイスを引いて距離を取る。


 目の前の優一はパリパリ福伸漬けを食べている。全く、こちらを気にしている様子は……ある。目があった。


 だよね。だって、正式に別れ話をしたわけじゃないもんね。


 私たちは高校の時に付き合っていた仲だ。けれど、受験シーズン真っただ中に自然消滅。それ以来、全然連絡を取っていなかった。


 それが、こうして現れたということは、何か考えがあるってことか?


 彼がどこに進学したのかは知らないが、今まで顔も見かけていないのだから、ここに通っているわけではあるまい。


 なら……私を探した? いや、なら電話ぐらいかけるか……。


 自分でも、手のひらが汗ばんできたのを感じる。背中まで。


「ほーら、正直に言いなさいや~」


 お箸の持ち手側でツンツン千春がつついてくる。こら、とたしなめてうどんをすすってみる。しかし、案の定というべきか千春はひかない。


「なんでよ。教えてよ。少なくとも、嫌いやないんやろ。よう部室でも喋っとるやん」


 不機嫌そうな表情。豊かな髪がうねっている。


 それは否定しない。軽く頷く。大体2回に1回くらい部室で遭遇する。その度にたわいもないこととか、先輩が見た劇の感想なんかを話している。


 一番の話題は戯曲だ。私たちの文芸部は正直、真面目に活動している人が少ない。そこで比較的古典も読んでいる私と話すことになる。昨日は『夏の世の夢』について30分語られた。まあ、マニアらしい知識は聞いていて素直に面白い。ギリシャ神話だとか古代ローマにつながっていく話は雄大な川に揺られる感覚に圧倒された。


 がたり、と音がして雄一が席を立った。私が目で追っていると、彼は食堂から出ようとしたところで立ち止まった。よく見れば、取っ手をつかむのにほんの少し。少しだけ時間がかかっている。右手だ。


 彼は本来の右手を失っている。あれは、義手だ。


 しかし、私以外にそのことに気づいた人間はいない。周囲は活気にあふれてうるさいぐらいだというのに。


「ねえ、しーちゃん。あのさ、明日か明後日くらいにみんなでカラオケ行こうって話になってるんやけど、行く?」


 千春がため息を吐きながら話題を変えてくれたので、しぐれは扉から無理やり千春に注意を向けた。良かった。今日の千春はいつも以上に早く話を切り上げてくれた。いつもなら、食べ終わるまでは引きずるのに。まあ、もう少し早かったらなお嬉しかったのだが。


 **********


 大学が借り上げているマンションに戻った私は、唐揚げとごはん、味噌汁、作り置きのきんぴらで夕食を済ませた。揚げたての唐揚げはからりとした衣に、肉汁が詰まっていて、噛んだらサクッ、ジワッと口の中に染み渡る。自分で言うのもなんだが、会心の出来。


 私はけっこう食事には手を抜かない方だ。よく周りの下宿生はカップ麺とかで済ませるというが、私にはもっての外だ。美味しい手料理は、それだけで幸せを運ぶ。


 しかし、まあ、当然というべきか、一人暮らしなので誰かと話しながらの明るい食卓とはいかない。こういう時、無性に寂しくなることがあるが、それは言っても仕方のないことだ。


 洗い物とお風呂を済ませると、私はスマホを片手にベッドに寝転がった。


 短縮ダイアルの1番。瀬田優一が登録されている。


 深呼吸して画面を覗く。ショートカットの自分が魂が抜けかかった表情をしていた。


 元カレの電話番号を一年近くも登録しっぱなしというのは、我ながら呆れる他はない。別に喧嘩別れしたわけでもないから、腹が立って全てを無かった事に、なんて衝動はなかったからかもしれない。


 否、むしろ、忘れないようにしていたかもしれない。自分がどんな人間なのかを、胸に刻みつけなければならないから。


 しかし、手を動かせない。今日のことが気になるから、確認はしないといけない。どういう目的だったのか、今日の話を聞いていてどう思ったのか、今まで何をしていたのか。


 私のことをどう思っているのか。


 受け入れられていない。その覚悟はとっくに着いていたはずなのに、声を聞く勇気が出せない。


 一時間悩んだ挙句、メールにした。


『久しぶり、今日はどうしたの?』


 考えに考えて送ったメールは恐ろしく凡庸だった。もうちょっと劇的にいかないか、とも思うがそんな余裕もない。


 返信はすぐに帰って来た。


『驚かせたかな。実は僕もびっくりした。今日は、下宿先の下見に行ったんだ。あの大学の近くで四月から暮らす』


 やたらと硬い言葉が返ってきた。やはり一年のブランクは大きかったらしい。


『久々だと、メールでも硬くなっちゃった』


 本人も自覚しているらしい。


 メールを続けていくうちにあらましが分かってきた。彼は今日私たちが会った大学、つまりは私の通っているところのとなりに去年合格していたらしい。入学直後に休学したため、これまで一切通わず、必然的に実家暮らしだったとのこと。


『元気そうで良かったよ。本当に。良い人もいるみたいだし』

『そんなんっじゃないよ』


 焦り過ぎて変な文章になった。照れ隠しに痛そうなところをついてやる。


『一年間、何してたの。バイトとかしてた?』

『いや、実は全く。やらないとな、とは思うんだけど。皿洗いとかコンビニとかは無理だと思うし(笑)』


 ……私は帰ってきたメールを見て凍り付いた。


 (笑)なんて表現、使う人じゃないのに。優一はこういうのが苦手だから、いつも私はどんな表情で打っているんだろうと想像して楽しんでいた。


 こんな表現をする理由。それはあの義手のせいだろう。


 実際に見たのは今日が初めてだが、さすがに本物の腕のようにはいかないことは分かった。皿洗いも、コンビニで商品をスキャンするにも、考えてみれば力を細かく制御しないといけないはずだ。あの腕にはそれができない。


 ちょっと考えれば分かることなのに。


 案外とメールで気兼ねなくやり取りできてしまったせいか。ふと、昔の、わだかまりなんかなかったころの気持ちになってしまった。私は一体どこまでバカなんだ。


 髪を掻きむしって枕に突っ伏す。心が燃える炎のようにざわめき、かき乱す。いっそ、本当に燃えてしまいたい。


 遠くからカチカチと音がしている。木が打ち合わせられる軽い音。火の用心、マッチ一本火事の元。


 私は苦しみながら、スマホに視線を送る。いつの間にか握りしめてしまっていた画面にはさっきのメールが表示されたままだ。


 せめて。償いになんかならないのは分かり切っているが、せめて今の彼にできることをしよう。


 と言っても、しょせん大学生の私にできることはバイト先の紹介くらい。私がバイトしているスーパーの並びにあるレンタルDVDショップ。DVDなら、多少力を入れ間違っても壊れはしないだろう。


 送ってみたら、無邪気に『行ってみるよ』と返事が来た。いつもの穏やかな表情が浮かんできてしまった私は、結局彼に訊くことができなかった。


 彼は私をどう思っているのか。

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