6
「まぁ冗談はさておき」
絶対半分は本気だったはずの美樹は、腕を組むと私に向き直った。
「その仕事以上の関係? になれない人って今の職場の人だよね。上司とか?」
「…そんなところかな。雇い主だから」
「昨日の人とその上司さんは知り合いなの?」
「うん、二人とも友達。仕事仲間でもあるけど」
秘密を隠したまま相談するのは思った以上に苦労で、勘の鋭い美樹に気付かれないよう慎重に言葉を選ぶ。
「なんかまどろっこしい。ていうか名前くらい教えてよ」
遠回しな説明に焦れる美樹に首を振る。
「最初に言ったでしょ。話せないところは無理に聞かないって」
「だってー。無駄に長くなるじゃない」
「じゃあ、もうこの話は終わり」
私だって話せるものなら話したい。『ニーナの奈央が私の雇い主で、同じバンドの義人に告白されました』と。
今朝、奈央は眠らないまま仕事に行った。
あえて何も聞かなかったけれど大丈夫なのか不安だった。いつも通りに接しようとしてくれる様子に内心ホッとしていたのに、肝心の睡眠薬として役立てないなんて契約してから三ヵ月、こんなことは初めてだ。
それでも傍において欲しい、と奈央に言いかけたけど、強く抱き寄せられて言葉の行先を失ってしまった。その後も何度も謝る奈央に、本当に言いたいことは他にあるんじゃないかと思ったけれど、尋ねられないまま時間だけが過ぎてしまい、結局何も聞けず見送った。
「ねぇ、一つだけ教えて」
改まって尋ねる美樹に言える範囲なら、と答える。
「その上司とはどうして仕事以上の関係にはなれないの? 別に不倫ってわけじゃないんでしょ?」
「ちがっ…、まさか!」
美樹の言葉を慌てて否定する。
「だったらどうして?」
「…あ、ねえ美樹。美味しそうだよ、このケーキ」
「そうやってすぐそらすんだから…ホントだ、美味しそう」
「でしょ? 食べようよ。すみませーん」
なんて答えたらいいのか分からなくて、思わず話をそらしてしまった。
社内恋愛禁止だからとでも言えばいいのかもしれないけれど、そんなのバレなきゃいいだけじゃんと言われるのは目に見えている。
「でもさー、そこまで言うなら答えは分かってるんじゃない?」
「え?」
コーヒーの入ったカップに目を落とし美樹は続けた。
「きっと今の時点では上司の方が好きって気持ちが強いと思うけど、今以上の関係が望めないなら長くは続かない気がする。だって、もう見てるだけで満足出来る歳でも無いし」
「うん…」
もっと近付きたい。もっと傍にいたい。奈央の腕に抱かれる度に心の中で秘かに願った。
「だったら、今の穂花を大事に思ってくれる人に目を向けてみても、悪く無いんじゃないかなぁ。もしかしたら上司より好きになるかもよ?」
コーヒーをかき混ぜながら、美樹は優しく微笑んだ。
「相談料としてケーキは穂花のゴチね」
そうちゃっかり言い残して美樹は会社へと戻って行った。ふざけ半分で答えていたけれど、本当はすごく心配してくれている。
美樹の言うことは正しい。私だって同じ相談されたら、たぶん美樹のように返しただろう。それが分かっているから反論出来なかった。
一人になったテーブルで、手の中のカップは中身を残したまま温度を失っていた。
人の気持ちもこんな風に、いつのまにか冷めてくれたならどんなに楽だろう。叶わないと知りながら認めたくなくて、必死に腕の中に抱え込んで手放せないでいる。
けれどもし義人がそれでもいい、と。
いつの日か私の中で、奈央に対する想いが消化されるのを待っていてくれるというのなら――抱え込んだ腕から、ほんの少し力を抜くことが出来るかもしれない。それは自分に甘いだろうか。
「……」
どうなるかなんて分からない。これが正しいのかさえも。それでもいい。とにかく一歩踏み出してみれば、今とは違った景色が見えてくる。
すっかり冷めたカフェオレを一息に飲み干し、私はスマホを取り出した。
――もしも、この世に神様と呼ばれる人がいて。
過去の過ちを一つだけやり直せると言われたら、私は間違いなくこの時を選ぶだろう。
そして不安に思っていることを素直に打ち明けただろう。私は奈央にとって睡眠薬以上にはなれないのか、と。
私は何も知らなかった。
奈央の心が私へと向かい始めていたことも、その為に奈央が再び眠れなくなることも。
そして奈央もまた知らずにいた。奥底に沈めたはずの彼女への想いは、奈央が思う以上に自身に深く根付いていたことを。
奈央は過去から。私は今から。
それぞれが踏み出した一歩によって歯車は大きく動きだした。
けれどそれが思いもしない方向へと廻り始めていることを、私も奈央もそして義人も、誰一人として気付かずにいた。
あの子が、現われるまでは。
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